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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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聞かないという選択

 翌朝。


 マルタさんは。


 来なかった。


 私は。


 少しだけ。


 安心した。


「意外ですね」


 朝食の席で。


 アンナが言った。


「何がですか」


「てっきり」


「朝一番でパン屋へ向かうものかと」


「私が?」


「はい」


「どうしてですか」


「昨日から」


「扉を見る回数が多いので」


 私は。


 手にしていたカップへ。


 視線を落とした。


「……気のせいです」


「三十二回でした」


「数えたのですか」


「途中から」


「暇だったので」


「アンナ」


「はい」


「そういうことは」


「数えなくていいのです」


「承知しました」


 たぶん。


 承知していない。


 窓の外へ。


 目を向ける。


 村の朝は。


 王都よりも早い。


 井戸の前には。


 すでに水桶を持った人たちが並んでいる。


 水は。


 相変わらず少ない。


 けれど。


 昨日より。


 村全体が静かだった。


 熱を出していた子どもの容体が。


 少し落ち着いたからだ。


「リナさんは?」


「夜中に一度熱が上がりましたが」


「今朝は下がっています」


 オスカー先生が。


 薬草茶を飲みながら言った。


「水も飲めています」


「そうですか」


 胸の奥が。


 緩む。


「良かった」


「ただし」


「はい」


「あなたが見に行く必要はありません」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてあります」


「そんなに分かりやすいですか」


「最近は」


 先生は。


 淡々と答える。


「以前より」


 私は。


 少しだけ。


 言葉に詰まった。


 以前なら。


 行けるなら行く。


 手伝えるなら手伝う。


 その方が。


 正しいと思っていた。


 でも。


 今は。


 必要な人が。


 すでにそばにいる。


 治療を受けて。


 休んで。


 回復する。


 それを。


 私が見張る必要はない。


「では」


「午前中は休みます」


 そう言うと。


 オスカー先生が。


 眉を上げた。


「雪でも降りますかね」


「以前も言われました」


「そうでしたか」


「忘れないでください」


「患者の珍しい成長を全部覚えていたら」


「頭が持ちません」


 アンナが。


 口元を押さえた。


 笑っている。


          ◇


 午前が。


 半分ほど過ぎた頃。


 村長宅の庭へ出た。


 能力を使う予定はない。


 手袋も。


 きちんとはめている。


 ルゥは。


 塀の向こう側。


 枯れた木の下で。


 丸くなっていた。


 私が外へ出ても。


 顔を上げただけだった。


「おはようございます」


 返事はない。


 もちろん。


 それでいい。


 少し離れた場所では。


 アルフォンス様が。


 村長と話している。


 水の配分。


 上流の見回り。


 枯れた畑への補助。


 辺境伯として。


 やることは多い。


 それでも。


 以前より。


 誰かへ仕事を渡す姿が。


 少し増えた気がする。


 気がするだけで。


 本人の心までは。


 分からない。


 そう考えていると。


 アルフォンス様が。


 こちらを見た。


「どうした」


「何も」


「なら」


「こちらを見る必要はないはずですが」


「見ていただけだ」


「そうですか」


 少し間がある。


「マルタは?」


「来ていません」


「待っているのか」


「待ってはいません」


 即答した。


 アルフォンス様が。


 無言になる。


「……何ですか」


「いや」


「アンナと同じ顔をされた気がします」


「気のせいだ」


「最近」


「皆さんそう言いますね」


 アルフォンス様の口元が。


 ほんの少し。


 動いた。


 笑ったのかどうか。


 そこまでは。


 分からない。


「聞かないと」


 彼が言う。


「決めるかもしれない」


「はい」


「それでも」


「いいのか」


「はい」


 今度は。


 迷わなかった。


「テオさんの木剣には」


「強い思いが残っている可能性があります」


「最期まで握っていたものですから」


「ですが」


「聞けるからといって」


「聞かなければならないわけではありません」


「……そうだな」


 アルフォンス様の。


 右手が。


 わずかに震えている。


 ノクスの声を聞いても。


 震えは消えていない。


 それでも。


 その手で。


 彼は今。


 書類を持っている。


「俺は」


 アルフォンス様が。


 静かに言った。


「六年間」


「聞けなかった」


 ノクスの鞍。


 触れられなかった相棒の遺品。


「はい」


「聞かなかったことを」


「無駄だったとは思わない」


 私は。


 彼を見る。


「もし」


「あの時の俺に」


「今すぐ触れろと言われていたら」


「たぶん」


「逃げていた」


「それか」


「都合のいい意味だけを」


「探していた」


 ノクスが残した言葉は。


 アルフォンス様を。


 許すためのものではなかった。


 六年間を。


 正しくしてくれるものでもない。


 ただ。


 ノクスが。


 最期に残した証言だった。


「待ったから」


「聞けたのかもしれません」


 私が言うと。


 アルフォンス様は。


 少し考えた。


「そうかもしれない」


 断定しない。


 それが。


 今は。


 少し嬉しかった。


          ◇


 昼前。


 村長宅の門が。


 開いた。


 けれど。


 入ってきたのは。


 マルタさんではなかった。


「リーゼロッテさーん!」


 少女の声。


 私は。


 椅子から立ち上がりかけ。


 止まった。


「走らないで!」


 後ろから。


 女性の声が飛ぶ。


 リナだった。


 昨日まで。


 高熱で寝込んでいた少女が。


 母親に肩を支えられながら。


 こちらへ来る。


「リナさん」


「こんにちは!」


「こんにちは」


「でも」


「走ってはいけません」


「走ってないよ」


「走ろうとしていました」


「ちょっとだけ」


「それも駄目です」


 母親が。


 深く頭を下げる。


「本当に」


「ありがとうございました」


「私は」


「できることをしただけです」


「それでもです」


 少女の頬には。


 まだ赤みがある。


 でも。


 昨日のような。


 苦しそうな熱ではない。


「これ」


 リナが。


 小さなものを差し出す。


 乾いた草を。


 細く編んだ。


 腕輪だった。


「私に?」


「うん」


「お礼」


「私」


「そんな大したことは」


「しました」


 アンナが。


 後ろから言う。


「アンナ」


「少なくとも」


「夜まで水を運んで」


「布を替えていました」


「それは」


「必要だったからです」


「だから」


「したのです」


 リナが。


 首を傾げる。


「いらない?」


「……」


 私は。


 草の腕輪を見る。


「いただきます」


「やった」


 受け取る。


 乾いた草は。


 軽い。


 粗い。


 生きている子どもが。


 自分の手で作ったものだ。


 何の声も。


 聞こえない。


 それで。


 十分だった。


「ありがとうございます」


「うん!」


「でも」


「もう戻って休んでください」


「えー」


「駄目です」


「オスカー先生からも言ってください」


 先生が。


 少し離れた場所から。


 こちらを見る。


「走ったら」


「明日も薬を増やします」


「帰る」


「即決ですね」


 リナは。


 母親の手を引くようにして。


 帰っていった。


 私は。


 手袋の上から。


 草の腕輪を見る。


「嬉しそうだな」


 いつの間にか。


 アルフォンス様が。


 横にいた。


「そう見えますか」


「ああ」


「では」


「たぶん嬉しいのだと思います」


「自分では分からないのか」


「分かります」


「ではなぜ」


「少し」


「確認したくなっただけです」


 アルフォンス様は。


 何も言わなかった。


 私は。


 腕輪を。


 丁寧に。


 鞄へしまった。


          ◇


 マルタさんが来たのは。


 昼を過ぎてからだった。


 昨日と同じ。


 細長い布包みを。


 抱えている。


「マルタさん」


「……うん」


 表情を見ても。


 答えは分からない。


 だから。


 聞かない。


「中へどうぞ」


「ここでいい」


 庭の端。


 枯れた果樹の下。


 ルゥは。


 反対側の塀のそばにいる。


 マルタさんを見て。


 少しだけ頭を上げた。


 マルタさんの肩が。


 固くなる。


「竜は」


「いるんだね」


「はい」


「追い払わないの」


「今のところ」


「追い払う理由はありません」


「……私にはある」


 低い声だった。


 けれど。


 ルゥへ石を投げることも。


 怒鳴ることもない。


 私は。


 それ以上。


 何も言わなかった。


「これ」


 マルタさんが。


 木剣の包みを見る。


「昨日」


「ずっと」


「家に置いてた」


「はい」


「夜も」


「寝台の横に」


「置いた」


 風が。


 乾いた葉を。


 一枚だけ転がす。


「眠れなかった」


 彼女は。


 笑わなかった。


「テオが死んだ日も」


「あんな感じだった」


「剣が」


「そこにあるのに」


「本人がいない」


「……」


「何度も」


「触ろうとした」


「それで」


「あなたの言ったこと」


「思い出した」


 聞くことも。


 聞かないことも。


 マルタさんが決める。


「朝になったら」


「絶対」


「聞いてもらうって」


「思ってた」


「はい」


「でも」


 彼女が。


 布包みを。


 強く抱く。


「今は」


「聞きたくない」


 私は。


 頷いた。


「分かりました」


 それだけ。


 マルタさんの眉が。


 動く。


「……それだけ?」


「はい」


「なんで」


「何がですか」


「もっと」


「説得するかと思った」


「どうしてですか」


「だって」


「あなたは」


「死者の声を聞くんだろ」


「はい」


「それが」


「仕事なんだろ」


「竜葬師ですから」


「だったら」


「聞いた方がいいって」


「言うんじゃないの」


 私は。


 少し考える。


「言いません」


「どうして」


「聞くことが」


「私の仕事だからです」


「……分からない」


「遺品に残った声は」


「使うものではありません」


「聞く相手が」


「受け取る準備をしていないなら」


「待ちます」


「ずっと?」


「必要なら」


「ずっとです」


 マルタさんが。


 こちらを見つめる。


「もし」


「私が死ぬまで」


「聞かないって言ったら」


「聞きません」


「テオの声が」


「消えなくても?」


「はい」


「もったいないって」


「思わない?」


 その言葉に。


 少しだけ。


 胸が痛んだ。


「以前なら」


 私は。


 自分の手袋を見る。


「思ったかもしれません」


 マルタさんが。


 瞬きをする。


「聞ける声を」


「聞かないのは」


「死者を置き去りにすることだと」


「思っていました」


「今は違うの」


「少し」


「違います」


 ノクスの牙へ触れ。


 立てなくなった。


 それでも。


 次の遺品へ。


 手を伸ばそうとした。


 あの頃の私は。


 死者の声を聞くことを。


 優先しすぎていた。


「死者の声には」


「価値があります」


「でも」


「聞くために」


「生きている人を壊していいとは」


「思いません」


 マルタさんの。


 指が。


 布包みの端を撫でる。


「私が」


「壊れると思う?」


「分かりません」


「心も読めない?」


「読めません」


「生きている人のものは」


「全く」


「不便だね」


「かなり」


 少し。


 間があった。


「だから」


 私は続ける。


「あなたが」


「自分で決めてください」


「私は」


「その結果を」


「受け取ります」


          ◇


「聞かないのも」


「弔いなの?」


 マルタさんが。


 ぽつりと訊いた。


「私は」


「そう思います」


「何もしないのに?」


「何もしないこととは」


「少し違います」


 私は。


 木剣を見る。


「亡くなった方の遺品を」


「残しておく」


「しまっておく」


「毎日見る」


「見ない場所へ置く」


「捨てない」


「手放す」


「どれも」


「生きている人が」


「その人との距離を決めることです」


「正解は」


「一つではありません」


「……捨てても?」


「はい」


 マルタさんが。


 驚いたように。


 顔を上げる。


「弔いになるの?」


「なることもあります」


「そんなの」


「ひどくない?」


「ひどいと」


「思う人もいるでしょう」


「でも」


「遺品を持ち続けることで」


「生きられなくなる人もいます」


 母の弔い帳を。


 思い出す。


 私は。


 まだ。


 素手で触れられていない。


 それでも。


 今は。


 触れられない自分を。


 以前ほど。


 責めなくなった。


「残すことが愛情で」


「手放すことが薄情だとは」


「私は思いません」


「じゃあ」


「聞かないって決めたら」


「テオを」


「見捨てることにはならない?」


「なりません」


 今度は。


 迷わず。


 言った。


「少なくとも」


「私は」


「そうは思いません」


 マルタさんが。


 顔を伏せる。


 長い。


 沈黙。


 やがて。


「……じゃあ」


 彼女は。


 小さく息を吐いた。


「今日は」


「聞かない」


「はい」


「触らないで」


「触りません」


「素手では」


「絶対」


「はい」


 私は。


 両手を。


 見せた。


 手袋は。


 きちんとはまっている。


「それと」


 マルタさんが。


 続ける。


「持って帰る」


「はい」


「明日も」


「聞かないかもしれない」


「構いません」


「一週間後も」


「一か月後も」


「はい」


「……十年後は」


「その頃」


「私がどこにいるかは」


「分かりませんが」


「探していただければ」


「できる限り対応します」


「そこまで言う?」


「聞きたい時が来たなら」


「その時でいいと思います」


 マルタさんが。


 初めて。


 少しだけ笑った。


「変な竜葬師」


「よく」


「言われません」


「そこは言われないんだ」


「はい」


          ◇


 マルタさんは。


 帰る前に。


 ルゥを見た。


 黒い幼竜は。


 こちらへ来ない。


 ただ。


 遠くから。


 見ている。


「ねえ」


 マルタさんが。


 私へ言う。


「竜も」


「死んだ奴のものを」


「残したりするの」


「分かりません」


「本当に何も分からないんだね」


「知らないことを」


「知っているふりはできません」


「……そう」


 マルタさんの視線が。


 ルゥへ戻る。


「こいつの親も」


「死んでるんだっけ」


「はい」


 ノクスとミラ。


 父と母を。


 人間によって奪われた。


 けれど。


 今。


 マルタさんへ。


 それ以上を説明する必要はない。


「ふうん」


 それだけ言って。


 マルタさんは。


 歩き出す。


 数歩。


 進んでから。


 止まった。


「リーゼロッテ」


「はい」


「聞かないって」


「今日決めたけど」


「はい」


「明日」


「変えてもいい?」


 私は。


 少しだけ。


 笑った。


「もちろんです」


「一度決めたことを」


「守り続ける義務はありません」


「弔いは」


誓約せいやくではありませんから」


「……そう」


 マルタさんが。


 布包みを。


 抱き直す。


「じゃあ」


「今日は」


「連れて帰る」


「はい」


「おかえりなさい」


 思わず。


 そう言った。


 マルタさんが。


 足を止める。


「何が?」


「木剣です」


「……変なの」


 今度は。


 少しだけ。


 はっきり笑った。


 そして。


 今度こそ。


 帰っていった。


          ◇


 夕方。


 私は。


 村長宅の庭で。


 一人。


 草の腕輪を見ていた。


 死者の声は。


 聞こえれば。


 消えていく。


 だから。


 聞けるうちに。


 聞かなければならない。


 ずっと。


 そう思っていた。


 でも。


 聞かないことで。


 守れるものもある。


 まだ。


 触れられない時間。


 まだ。


 決めなくていい時間。


 まだ。


 死者ではなく。


 生きている自分の気持ちを。


 考える時間。


 それも。


 きっと。


 弔いの中にある。


 遠くで。


 パン屋の扉が。


 開く音がした。


 窯に。


 火は入らない。


 けれど。


 その家には。


 今夜も。


 一本の木剣が帰っている。


 それでいい。


 少なくとも。


 今日は。


 それでいいのだ。

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