少年の木剣
昼を過ぎても。
マルタさんのパン屋の窯には。
火が入らなかった。
昨日までなら。
水がないからだと思っただろう。
けれど。
今は。
それだけではないと知っている。
テオさんが亡くなってから。
この窯は。
以前ほど使われていない。
少なくとも。
マルタさん自身が。
パンを焼くことを避けている。
「お嬢様」
アンナの声に。
私は窓から視線を戻した。
「はい」
「薬です」
「……またですか」
「またです」
村長宅の小さな客間。
机の上には。
オスカー先生が置いていった苦い薬がある。
ノクスの鞍へ触れた後から。
頭痛はほとんど治まっている。
耳鳴りもない。
味覚も。
少しずつ戻ってきた。
だからこそ。
薬の苦さも。
きちんと分かる。
「回復した証拠ですね」
「嬉しくありません」
「ですが飲んでください」
「はい」
一息に飲む。
「苦いです」
「良かったですね」
「アンナ」
「味覚があります」
「そういう意味ではなく」
扉が。
二度。
叩かれた。
「入っていいかい」
聞き覚えのある声。
私は。
アンナを見る。
彼女が扉を開ける。
そこに。
マルタさんが立っていた。
両腕に。
古い布包みを抱えている。
「マルタさん」
「……邪魔だった?」
「いいえ」
私は立ち上がる。
「どうぞ」
「長居はしない」
そう言いながら。
彼女は。
部屋へ入った。
昨日。
棚の奥で見た。
細長い布包み。
何かは。
もう知っている。
テオさんの木剣だ。
マルタさんは。
椅子には座らなかった。
「これ」
布包みを見る。
「見てほしい」
「分かりました」
私が手を伸ばしかけると。
アンナが。
すっと横から。
私の右手首を掴んだ。
「手袋」
「あ」
「外してはいませんね」
「はい」
「確認です」
「ありがとうございます」
マルタさんが。
怪訝そうに。
私たちを見る。
「そんなに気をつけるものなの」
「はい」
私は。
両手を見せる。
革の手袋は。
きちんとはめたままだ。
「素手で触れなければ」
「何も聞こえません」
「布の上からでも?」
「聞こえません」
「手袋でも?」
「同じです」
「……そう」
マルタさんは。
ほんの少し。
安心したように見えた。
けれど。
そう決めつけてはいけない。
私は。
机の上を空ける。
「ここへ置いていただけますか」
「うん」
布包みが。
机へ置かれる。
マルタさんが。
紐をほどく。
布が。
一枚ずつ開かれていく。
現れたのは。
一本の。
小さな木剣だった。
◇
子ども用だ。
私の腕より。
少し長いくらい。
刃にあたる部分は。
ずいぶん傷ついている。
先端には。
何度も地面を突いたらしい。
細かな欠けがあった。
柄には。
茶色い布が。
ぐるぐると巻かれている。
「この布は?」
「古い前掛け」
「私の?」
「テオのだよ」
「店を手伝う時に使ってた」
マルタさんが。
指先で。
柄の布を撫でる。
「最初は」
「ただ木を削っただけだった」
「村の大工に」
「余った木をもらってさ」
「自分で剣にした」
「テオさんが?」
「そう」
「七つの頃」
「全然まっすぐじゃなくて」
確かに。
剣身は。
少し曲がっている。
左右の幅も。
揃っていない。
「直そうとすると」
「怒った」
「これは俺の剣だからって」
マルタさんの口元が。
ほんの少し。
緩んだ。
「竜騎士になるって」
「毎日振ってた」
「パンを取りに来た客にまで」
「見せて回って」
「迷惑な子でしたか」
「迷惑だったよ」
即答だった。
けれど。
その声は。
昨日より。
柔らかい。
「パン買いに来た婆さんを」
「魔王扱いして」
「怒られてた」
「それは」
「怒られますね」
「だろ」
マルタさんが。
小さく笑う。
笑ってから。
すぐ。
顔を伏せた。
「……こんなの」
「久しぶりに思い出した」
私は。
何も言わない。
机の上の木剣を。
手袋越しに。
そっと持ち上げる。
軽い。
でも。
使い込まれている。
「こちらの傷は?」
剣身の中央。
三本ほど。
深い傷がある。
「樫の木」
「相手に?」
「木に斬りかかって」
「負けた」
「木に」
「うん」
「三日くらい」
『腕が痛い』
「って騒いでた」
「それでも」
「また振ったんですか」
「次の日には」
「反対の腕で振ってた」
思わず。
木剣を見る。
「強いですね」
「馬鹿だったんだよ」
「少しだけ」
「似ています」
「誰に」
アンナが。
私を見る。
私は。
口を閉じた。
「お嬢様」
「何でもありません」
「今」
「自分のことだと思いました?」
「何でもありません」
マルタさんが。
こちらを見て。
初めて。
少しだけ。
声を出して笑った。
「似てるかもね」
「似ていません」
「似てる」
「アンナまで」
◇
木剣を。
机へ戻す。
私は。
細部を見る。
柄の布は。
何度か巻き直されている。
木そのものも。
手の脂で。
滑らかになっていた。
一度や二度。
遊んだだけの道具ではない。
「かなり長く」
「使っていたのですね」
「毎日」
「ほとんど」
「寝る時も?」
マルタさんが。
少し驚いた顔をした。
「なんで分かったの」
「柄の布が」
「かなり擦れています」
「振るだけなら」
「ここまで均一には」
「減りにくいので」
「……そう」
マルタさんが。
木剣を見る。
「持って寝てた」
「怒って取り上げたこともある」
「朝」
「顔の横に剣があって」
「危ないからって」
私は。
次の問いを。
すぐには出さなかった。
それでも。
確認しなければならない。
「マルタさん」
「何」
「テオさんが」
「亡くなった時」
「この木剣は」
「どこにありましたか」
彼女の指が。
止まる。
「……聞かなきゃ駄目?」
「無理にとは言いません」
「ただ」
「声が残っている可能性を考えるには」
「大切なことです」
しばらく。
返事はなかった。
やがて。
マルタさんは。
椅子を引いた。
今度は。
座った。
「寝台の横」
「でしたか」
「最初は」
「でも」
そこで。
言葉が止まる。
「最後の日」
「テオが」
「自分で取った」
私は。
黙って待つ。
「熱で」
「もう立てなかった」
「なのに」
「剣」
「取ってって」
「私に言った」
「私は」
「そんな物より水飲みなって」
「怒った」
木剣の柄へ。
マルタさんの指が。
触れる。
「そしたら」
「自分で」
「寝台から手を伸ばした」
「落ちそうになったから」
「仕方なく」
「渡した」
私の胸が。
少しだけ。
詰まる。
「ずっと」
「握っていたのですか」
「……うん」
「最後まで?」
マルタさんは。
答えない。
でも。
頷いた。
「死んだ後」
「手から」
「私が外した」
その一言で。
木剣の見え方が。
変わった。
長く使われ。
強く大切にされ。
そして。
最期まで握られていた。
死者の思いが。
残りやすい条件が。
いくつも重なっている。
それでも。
断定はできない。
「マルタさん」
「……ある?」
「声」
「残ってそう?」
私は。
正直に答える。
「可能性は」
「かなり高いと思います」
息を呑む音。
「聞こえるってこと?」
「まだ」
「分かりません」
「実際に素手で触れるまで」
「私は判断できません」
「でも」
「長く使っていて」
「大切にしていて」
「最期まで握っていた」
「私がこれまで触れてきた遺品では」
「思いが残っていることの多い条件です」
「……多い」
「はい」
「絶対ではありません」
マルタさんが。
木剣を見る。
「もし」
「残ってたら」
「何が聞こえる」
「分かりません」
「苦しかったとか」
「痛いとか?」
「その可能性もあります」
「……」
「ですが」
「違うことかもしれません」
「何」
「分かりません」
「質問できないの?」
「できません」
「『お母さんに何か言いたいですか』って」
「聞いてから触るのは?」
「私が聞いても」
「死者の声は」
「それに答えるものではありません」
マルタさんの目が。
細くなる。
「じゃあ」
「何が出てくるか」
「分からないんだ」
「はい」
「私が聞きたい言葉が」
「聞こえるとも限りません」
「……そう」
それは。
大切なことだ。
死者の声は。
生者を慰めるために。
都合よく残されているものではない。
◇
「一回」
マルタさんが。
呟く。
「一回なら」
「ちゃんと聞ける?」
「最初の接触が」
「最も鮮明です」
「言葉や」
「映像や」
「感情が」
「残っていれば」
「比較的はっきり届きます」
「二回目は?」
「薄くなります」
「三回目は」
「言葉が残らないこともあります」
「その後は?」
「いずれ」
「何も聞こえなくなります」
マルタさんが。
木剣を。
両手で包む。
「聞いたら」
「減る」
「はい」
「テオが」
「いなくなる?」
「いいえ」
今度は。
すぐに答えた。
マルタさんが。
顔を上げる。
「遺品に残った思いが」
「薄くなるだけです」
「テオさんがいたことも」
「あなたが覚えていることも」
「消えません」
「でも」
「この剣から」
「声は消えるんだろ」
「……はい」
「だったら」
「同じじゃないか」
「同じではありません」
言ってから。
私は。
少しだけ。
迷う。
「でも」
「同じに感じることは」
「あると思います」
マルタさんが。
何も言わない。
「ノクスの鞍へ触れた時も」
私は。
ゆっくり続ける。
「そこに残った思いは」
「一度分」
「薄くなりました」
「声を聞けたから」
「良かったとだけは」
「私は思っていません」
「……竜の?」
「はい」
「アルフォンス様の」
「相棒だった黒竜です」
言葉を届けたことで。
動き出したものはあった。
けれど。
代わりに。
失われたものもある。
ノクスの鞍から。
最も鮮明に聞ける一度は。
もう戻らない。
「だから」
「私から」
「触れましょうとは」
「言いません」
「……」
「聞きたいと」
「あなたが決めた場合にだけ」
「触れます」
マルタさんは。
長い間。
木剣を見ていた。
◇
「もし」
声が落ちる。
「ひどいこと」
「言ってたら?」
「ひどいこと?」
「私を」
「恨んでたら」
指が。
柄を強く握る。
「水を」
「もっと飲ませてくれればよかったとか」
「もっと早く」
「治療師を呼べとか」
「母さんのせいだとか」
「そういうの」
「聞こえたら」
私は。
簡単に否定できなかった。
死者は。
意図的な嘘はつかない。
けれど。
死の間際の恐怖や。
誤解や。
痛みは。
そのまま残る。
「その可能性も」
「ゼロとは言えません」
マルタさんの顔が。
強張った。
「……そう」
「でも」
「もしそう聞こえたとしても」
「それだけで」
「何が起きたのか」
「すべて決まるわけではありません」
「どういう意味」
「熱に苦しんでいた子どもが」
「『母に見捨てられた』と感じていたとしても」
「本当に母親が見捨てた証拠にはなりません」
「死者の声は」
「その人が最期に見ていた世界です」
「世界そのものではありません」
マルタさんが。
ゆっくり。
息を吐く。
「……ややこしい」
「はい」
「もっと」
「何でも分かる力かと思ってた」
「残念ながら」
「かなり不便です」
「死者の声を聞けるくせに?」
「死者の声しか」
「聞けないからです」
言って。
私は。
自分でも。
少し驚いた。
以前なら。
そんなふうには。
言わなかったかもしれない。
聞けることばかり。
大切だと思っていた。
でも。
聞けないことの方が。
ずっと多い。
だから。
生きている人の言葉を。
先に聞かなければならない。
◇
「触って」
不意に。
マルタさんが言った。
私は。
動かなかった。
「今?」
「……」
彼女の手が。
木剣から離れる。
「触って」
「テオが」
「何を言ってるか」
「聞いて」
私は。
右手を見る。
手袋の留め具へ。
指をかけることは。
しなかった。
「マルタさん」
「何」
「本当に」
「今」
「聞きたいですか」
「だから」
「聞きたいって」
「違います」
彼女が。
眉を寄せる。
「今」
「聞かなければ」
「いけないと思っていますか」
「……」
「それとも」
「聞きたいですか」
沈黙。
「同じだろ」
「私は」
「違うと思います」
「なんで」
「今のマルタさんは」
「怖がっています」
「当たり前だろ!」
声が。
大きくなる。
「死んだ息子が」
「何を言ってたか」
「聞けるかもしれないんだ!」
「はい」
「怖いに決まってるだろ!」
「はい」
「だったら!」
「だからです」
私は。
声を強めなかった。
「怖いまま」
「今すぐ決めなくても」
「いいと思います」
マルタさんが。
息を止めた。
「木剣は」
「逃げません」
「私も」
「今日ここを出る予定はありません」
「明日でも」
「数日後でも」
「もっと後でもいい」
「……でも」
「聞かなかったら」
マルタさんの声が。
小さくなる。
「また」
「間に合わなくなる気がする」
胸が。
少し痛んだ。
テオさんの時。
治療師は。
間に合わなかった。
水も。
足りなかった。
その記憶が。
今度は。
死者の声にまで。
『間に合わなければ』
と。
彼女を急がせている。
「これは」
「治療ではありません」
私は言う。
「早くしなければ」
「命が失われるものではありません」
「……」
「待つことが」
「手遅れになることでは」
「ありません」
マルタさんの指が。
木剣へ戻る。
強く。
抱きしめる。
「じゃあ」
「どうしたらいい」
「私には」
「決められません」
「役に立たないね」
「はい」
マルタさんが。
私を見る。
「そこは否定しなよ」
「でも」
「一つだけ」
私は続ける。
「聞かなければならない」
「とは」
「思わないでください」
「……え」
「声が残っているかもしれなくても」
「聞かないという選択もできます」
マルタさんが。
木剣を見る。
「聞かない?」
「はい」
「せっかく」
「聞けるのに?」
「はい」
窓の外から。
子どもの声がする。
リナだろうか。
まだ外へ出られるほどではないはずだ。
別の子かもしれない。
「聞くことだけが」
「弔いではありません」
私は。
手袋をした右手を。
膝の上へ置く。
「私は」
「そう思っています」
マルタさんは。
答えなかった。
◇
やがて。
木剣が。
また布に包まれた。
一枚。
もう一枚。
マルタさんの手つきは。
来た時より。
ずっと慎重だった。
「今日は」
彼女が言う。
「持って帰る」
「はい」
「触らないの?」
「あなたが決めていませんから」
「私が」
「今触ってって言ったのに」
「その後」
「迷いました」
「……見てたの」
「見ていました」
「気持ち悪い」
「すみません」
「だから謝るなって」
布包みを。
両腕で抱く。
扉の前まで行き。
マルタさんは。
止まった。
「一晩」
「考えてもいい?」
「もちろんです」
「明日になって」
「やっぱり聞かないって」
「言っても?」
「はい」
「その後」
「また聞きたいって」
「言ったら?」
「その時」
「もう一度」
「考えましょう」
「……面倒だね」
「人の気持ちは」
「そういうものだと思います」
マルタさんは。
しばらく。
私を見た。
「十九のくせに」
「偉そう」
「よく言われます」
「それも?」
「……これは」
「初めてです」
鼻で。
少し笑う。
「じゃあ」
「また明日」
「はい」
扉が閉まる。
足音が。
少しずつ。
遠ざかる。
アンナが。
隣で。
息を吐いた。
「触れませんでしたね」
「はい」
「よろしかったのですか」
私は。
閉じた扉を見る。
「はい」
木剣に。
テオさんの声が。
残っているかもしれない。
最も鮮明に聞こえるのは。
最初の一度だけ。
だからこそ。
その一度を使う時を。
私が決めてはいけない。
死者の声を聞く力があるからといって。
聞かなければならないわけではない。
そのことを。
私自身も。
少しずつ。
覚え始めていた。




