助けられなかった子
翌朝。
リナの熱は。
まだ残っていた。
けれど。
昨夜より。
呼吸は穏やかだった。
「おはようございます」
私が声をかけると。
寝台の中で。
リナが。
薄く目を開けた。
「……おはよう」
声は。
まだ弱い。
でも。
返事がある。
「水は飲めますか」
「うん」
母親が。
すぐに匙を取る。
オスカー先生は。
その様子を確認してから。
私を見る。
「今日は」
「見ているだけです」
「分かっています」
「本当に?」
「……たぶん」
「信用できませんね」
アンナが。
小さく息を吐いた。
「先生」
「お嬢様は昨日よりは進歩しております」
「昨日よりは?」
「はい」
「基準が低いですね」
ひどい。
でも。
言い返せない。
私は。
手袋をしたまま。
寝台から少し離れた椅子へ座った。
リナの母親が。
何度も。
娘の額へ手を当てる。
「まだ熱い……」
「昨日よりは下がっています」
先生が言う。
「水も飲めている」
「食べた物も」
「吐いていません」
「では」
「もう大丈夫ですか」
「まだです」
母親の顔が。
曇る。
「ですが」
先生は続けた。
「昨日より」
「良くなっています」
今度は。
その言葉を。
母親も。
ちゃんと受け取った。
「……はい」
小さく。
笑った。
◇
家を出ると。
朝の広場に。
水桶が並んでいた。
昨日届いた水だ。
村人たちが。
順番に。
桶へ移している。
多くはない。
でも。
昨日より。
少しだけ。
顔つきが違う。
「今日も」
「荷車を出した」
隣に来たアルフォンス様が言う。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「領主の仕事だ」
「では」
「領主のお仕事に」
「感謝します」
「……そうか」
アルフォンス様は。
少しだけ。
困った顔をした。
私は。
広場を見る。
「水路の調査は」
「今日から始める」
「村の古い記録も見る」
「採掘場についても?」
「ああ」
村へ来るまでにも。
枯れた川を見た。
土地の魔力が弱り。
水脈そのものが。
細くなっている場所もあった。
でも。
ハルンの水不足が。
それだけとは限らない。
「リーゼロッテ」
「はい」
「今日は」
「水路へは行くな」
「……なぜでしょう」
「顔色が悪い」
「そうですか?」
「そうだ」
アンナを見る。
「悪いです」
即答だった。
「寝不足です」
「眠りました」
「何時間ですか」
「……」
「お嬢様」
「四時間ほど」
「少ないです」
オスカー先生にも。
同じことを言われそうだ。
「では」
「午前中は休みます」
自分から言うと。
アルフォンス様が。
少しだけ目を見開いた。
「何ですか」
「いや」
「成長したと思って」
「子ども扱いされていますか?」
「していない」
「今の間は」
「何ですか」
「何でもない」
少し。
腹が立った。
でも。
昨日より。
心は軽かった。
◇
村長宅へ戻る途中。
パン屋の前で。
足が止まった。
店は。
閉まっていた。
昨日。
リナのために。
水を使ったから。
焼けるパンは。
少なくなっている。
それでも。
中から。
小さな音がした。
ごと。
ごと。
何かを。
動かす音。
「マルタさん?」
返事はない。
少し迷ってから。
扉を叩く。
「マルタさん」
「……開いてる」
中へ入る。
暗かった。
窯には。
火が入っていない。
その前で。
マルタさんが。
粉袋を整理していた。
「何」
「お邪魔でしたか」
「もう入ってるだろ」
「そうですね」
私は。
入口の近くで止まる。
昨日の夜。
彼女は。
私へ問いかけた。
どうして。
テオは助けてもらえなかったのか。
私は。
答えなかった。
答えられなかった。
「リナさん」
「昨夜より良くなっています」
「知ってる」
「先ほど見てきました」
「……そう」
マルタさんは。
粉袋を持ち上げる。
少し。
手が滑る。
「持ちます」
「いい」
「ですが」
「いいって言ってる」
「分かりました」
私は。
手を引っ込める。
マルタさんは。
袋を棚へ置いた。
そして。
背中を向けたまま。
「昨日」
言った。
「はい」
「変なこと」
「言った」
「変なことでは」
「変だよ」
強く。
遮られる。
「あんたは」
「テオが死んだ時」
「ここにいなかった」
「はい」
「この村のことも」
「知らなかった」
「はい」
「なのに」
「なんで助けなかったって」
「あんたに言った」
マルタさんが。
振り返る。
「筋違いだ」
私は。
少し考える。
「そうかもしれません」
眉が。
動いた。
「……怒らないの」
「怒ってほしいですか」
「そうじゃない」
「では」
「怒りません」
「気持ち悪い女」
「よく言われます」
「それ」
「本当に言われてるの?」
「最近は」
「少し」
マルタさんが。
一瞬だけ。
呆れた顔をした。
でも。
すぐに。
消えた。
「筋違いだって」
「言ってるだろ」
「はい」
「だったら」
「否定しろよ」
声が。
少し大きくなる。
「あんたは悪くないって」
「言えばいいだろ」
「私は」
言葉を選ぶ。
「テオさんを」
「助けることができませんでした」
「……だから」
「あんたはいなかっただろ」
「はい」
「だから」
「私が助けなかった」
「とは言いません」
マルタさんが。
黙る。
「でも」
「あなたが」
「誰かに」
『どうして助けてくれなかったの』
「と」
「言いたかったことは」
「分かります」
「……分かる?」
「いいえ」
私は。
首を振る。
「全部は」
「分かりません」
「私は」
「テオさんのお母様ではありませんから」
マルタさんの顔が。
歪む。
「だったら」
「分かるなんて言うなよ」
「はい」
「言いません」
沈黙。
店の外から。
風の音がした。
「……腹立つ」
「すみません」
「謝るな」
「難しいですね」
「本当に」
マルタさんが。
椅子へ座る。
私は。
少し離れた場所へ。
立ったまま。
待った。
◇
「テオは」
やがて。
マルタさんが。
口を開いた。
「最初」
「ただの風邪だと思った」
私は。
黙って聞く。
「咳が出て」
「少し熱があって」
「でも」
「朝は普通にパン食ってた」
「昼には」
「もう起きられなかった」
指が。
膝を掴む。
「治療師を呼ぼうにも」
「この村にはいなかった」
「隣町へ行く馬も」
「その日は出払ってた」
「村長が」
「人を走らせてくれた」
「でも」
「来たのは」
「次の日だった」
次の日。
たった。
一日。
でも。
熱のある子どもには。
長すぎる。
「水を欲しがった」
「昨日言った通り」
「村の井戸は」
「もう弱ってた」
「私が」
「飲ませる量を減らした」
昨日。
聞いた言葉。
でも。
今は。
その先があった。
「夜中に」
「テオが言ったんだ」
マルタさんの唇が。
震える。
「母さん」
「大丈夫だよって」
私は。
息を止める。
「私が」
「大丈夫かって」
「何度も聞いたから」
「八つの子に」
「慰められた」
笑う。
笑えていない。
「馬鹿だろ」
「母親が」
「子どもに」
「大丈夫だって言わせて」
私は。
返さない。
「朝には」
「熱がもっと上がって」
「治療師が来た頃には」
「もう」
声が。
止まる。
しばらく。
何も聞こえなかった。
それでも。
私は。
待った。
「その日の夕方に」
やっと。
言葉が続く。
「死んだ」
窯の中は。
冷たい。
パンの匂いも。
しない。
「治療師は」
「熱病だって言った」
「土地の魔力が汚れてる場所で」
「増えてる病気だって」
「でも」
「はっきりしたことは」
「分からないって」
「水があれば助かったかも」
「もっと早く治療師が来れば」
「助かったかも」
「違う薬なら」
「助かったかも」
マルタさんが。
一つずつ。
並べる。
「全部」
『かもしれない』
「だった」
「誰も」
「答えてくれなかった」
その声が。
少しずつ。
強くなる。
「だから」
「竜が悪いって」
「思った」
「竜脈が汚れたから」
「竜がいなくなったから」
「王都が竜の骨を持っていったから」
「聖竜院が悪い」
「辺境伯が悪い」
「竜葬師が悪い」
「誰でもよかった」
拳が。
震える。
「誰かのせいにしないと」
「やってられなかった」
私は。
その言葉を。
否定しなかった。
「昨日」
マルタさんが。
私を見る。
「リナが」
「同じように熱を出して」
「怖くなった」
「また死ぬって」
「思った」
「でも」
「水を飲ませて」
「薬を飲ませて」
「みんなで」
「何とかしようとして」
「それでも」
目から。
涙が落ちる。
「思ったんだよ」
「なんで」
「テオの時は」
「こうじゃなかったんだって」
声が。
掠れる。
「なんで」
「あの子の時だけ」
「間に合わなかったんだって」
答えは。
ない。
少なくとも。
私には。
ない。
「マルタさん」
「何」
「私は」
一度。
息を吸う。
「テオさんが」
「なぜ亡くならなければならなかったのか」
「答えられません」
彼女の眉が。
寄る。
「水が足りなかったからなのか」
「治療が遅れたからなのか」
「病が重かったからなのか」
「今の私には」
「分かりません」
「……」
「そして」
「たとえ調べても」
「一つの理由には」
「ならないかもしれません」
「そんなこと」
「分かってるよ」
「はい」
「分かってるから」
「余計に腹が立つんだよ」
「はい」
「分かった顔するな!」
怒鳴り声が。
店に響いた。
私は。
肩を揺らした。
でも。
逃げなかった。
「……すみません」
「だから」
「謝るなって」
マルタさんが。
顔を覆う。
「私が」
「勝手に怒ってるだけだ」
「怒っていいと思います」
「簡単に言うな」
「では」
「怒ってはいけないとは」
「言いません」
「……」
「テオさんが亡くなったことを」
「仕方なかったことに」
「しなくていいと思います」
マルタさんが。
手を下ろす。
「仕方なかったって」
「思わなくていい?」
「はい」
「誰かを許す必要も」
「ありません」
「でも」
私は。
続ける。
「分からないことを」
「分かったことにしなくても」
「いいと思います」
「……」
「分からないまま」
「腹が立って」
「悲しくて」
「それでも」
「テオさんがいたことは」
「なくなりません」
マルタさんは。
長く。
何も言わなかった。
◇
「竜葬師って」
やがて。
低い声がした。
「何するんだ」
「え?」
「死者を弔うんだろ」
「はい」
「それって」
「死んだ奴の」
「何をするんだよ」
私は。
少し考えた。
「私が教わったことでは」
「死者が残したものを」
「生きている人が」
「抱え続けなくてもいい形に」
「整えることです」
「忘れるってこと?」
「いいえ」
「忘れなくてもいいです」
「許さなくても」
「いい」
「……」
「ただ」
「死者の言葉に」
「生きている人の人生を」
「全部決めさせないために」
「区切りを作ります」
マルタさんが。
鼻で笑った。
「立派なこと言うね」
「母の受け売りです」
「自分の言葉じゃないの?」
「まだ」
「半分くらいは」
嘘は。
つきたくなかった。
「じゃあ」
マルタさんが。
立ち上がる。
「死んだ奴の声って」
「本当に聞こえるの」
「強い思いが残った遺品に」
「素手で触れた場合だけです」
「何でも?」
「いいえ」
「長く使った物や」
「最期まで持っていた物」
「強い感情を向けていた物です」
「触れば」
「何でも聞こえるわけではありません」
「話せる?」
「できません」
「質問しても?」
「答えは返りません」
「聞こえるのは」
「亡くなった時までに」
「残された思いだけです」
「その後のことは」
「死者には分かりません」
マルタさんが。
黙って聞いている。
「それに」
「一度聞けば」
「遺品に残った思いは」
「薄くなります」
「二度目は」
「もっと弱く」
「三度目には」
「言葉すら残らないことがあります」
「……消えるの」
「はい」
その一言で。
マルタさんの顔が。
変わった。
「聞いたら」
「消える?」
「少しずつ」
「はい」
「全部?」
「何度も使えば」
「最終的には」
「何も聞こえなくなります」
マルタさんは。
視線を落とした。
「……そう」
それ以上。
聞かなかった。
◇
帰ろうと。
私が扉へ向かう。
「待って」
背中へ。
声がかかった。
振り返る。
マルタさんは。
窯の横にある。
古い棚を見ていた。
「何でしょう」
「……いや」
言いかけて。
止まる。
「やっぱり」
「何でもない」
「分かりました」
私は。
追及しなかった。
扉へ手をかける。
「リーゼロッテ」
初めて。
名前で。
呼ばれた。
振り返る。
「はい」
「もし」
マルタさんの手が。
棚の一番下へ伸びる。
そこには。
古い布に包まれた。
細長い物があった。
「もし」
「死んだ奴が」
「長く使ってた物なら」
「声が」
「残ってることがあるんだな」
「あります」
「必ずではありません」
「……そう」
布の端から。
木が見える。
削られた。
小さな柄。
子どもの手に。
ちょうど合いそうな。
「それは?」
尋ねると。
マルタさんの手が。
止まった。
「テオの」
声が。
小さくなる。
「木剣」
私は。
近づかなかった。
手袋も。
外さなかった。
マルタさんは。
木剣を。
棚から出さない。
ただ。
布の上から。
そっと。
触れた。
「竜騎士に」
「なりたかったんだ」
その顔に。
怒りはなかった。
代わりに。
怖さがあった。
死んだ息子の声を。
もう一度。
聞きたいという怖さと。
聞いてしまえば。
今度こそ。
何かが消えてしまうかもしれないという。
怖さ。
私は。
何も言わなかった。
聞くかどうかを。
決めるのは。
私ではない。
死者でもない。
今。
その遺品を抱えて。
生きている人なのだから。




