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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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43/46

今、生きている子ども

 リナの家は。


 村の中央から。


 少し外れた場所にあった。


 小さな家だった。


 土壁には。


 何度も補修した跡がある。


 窓は一つ。


 寝台も一つ。


 そこへ。


 熱に浮かされたリナが。


 横になっていた。


「お母さん……」


「ここにいるよ」


 母親が。


 小さな手を。


 両手で握っている。


「喉……」


「水ね」


 母親が。


 水差しへ手を伸ばした。


「待ってください」


 オスカー先生が止める。


「一度に飲ませないで」


「少しずつです」


「吐いてしまうと」


「余計に水分を失います」


「はい……」


 母親の手が。


 震えていた。


 アンナが。


 小さなさじを渡す。


 母親は。


 水をすくって。


 リナの唇へ運んだ。


 一口。


 少し待つ。


 もう一口。


 リナが。


 ゆっくり飲み込む。


「飲めています」


 オスカー先生が言った。


「それは良い兆候です」


「助かるんですか」


 母親が。


 すぐに聞いた。


 先生は。


 答えを急がなかった。


「今の段階で」


「助かるとも」


「危険だとも」


「断言しません」


「でも」


「できることはあります」


 母親は。


 泣きそうな顔で。


 頷いた。


          ◇


「リーゼロッテさん」


「はい」


「その椅子に座ってください」


「……私ですか」


「あなたです」


「私は元気ですが」


「患者が一人増えると」


「私が困ります」


「分かりました」


 素直に。


 椅子へ座る。


 右腕には。


 まだ包帯がある。


 ルゥに噛まれた傷は。


 順調に治っている。


 だからこそ。


 無理をして。


 また悪くする理由はない。


「何をすれば?」


「まず」


「何もしないでください」


「それは」


「難しい注文ですね」


「知っています」


 先生は。


 リナの額へ。


 濡らした布を置いた。


「では」


「記録を」


「アンナ」


「はい」


 私が呼ぶと。


 アンナが。


 すでに紙と筆を持っていた。


「準備が早いですね」


「お嬢様が」


「右手で書こうとする前に」


「止める必要がありますので」


「信用がありません」


「積み重ねの結果です」


 何も言い返せなかった。


「体温」


「高い」


 オスカー先生が言う。


「意識」


「呼びかけには反応」


「水は少量なら飲める」


「咳あり」


「吐き気あり」


「皮膚は?」


 先生が。


 リナの腕を見る。


 マルタさんも。


 息を止める。


 テオには。


 腕に薄い変色が出たと。


 彼女は話していた。


 先生が。


 袖をまくる。


 細い腕。


 汗。


 けれど。


「今のところ」


「目立つ変色はありません」


 マルタさんの肩から。


 少しだけ。


 力が抜けた。


 ほんの少しだけ。


「同じ病気じゃない?」


「分かりません」


 先生は答える。


「症状の一部は似ています」


「ですが」


「似ていることと」


「同じであることは別です」


「……」


「今は」


「この子を診ます」


 マルタさんが。


 口を閉じる。


 私は。


 その横顔を見た。


 数年前。


 同じように。


 熱を出した息子を。


 見ていたのだ。


 きっと。


 今ここにある。


 水差しも。


 濡れた布も。


 苦しそうな呼吸も。


 全部。


 あの日へ。


 彼女を連れ戻してしまう。


 それでも。


 マルタさんは。


 帰らなかった。


「布」


 彼女が言う。


「もう温くなってる」


「替える」


「お願いします」


 先生が答える。


 マルタさんは。


 桶へ手を伸ばした。


 そこで。


 止まる。


 水は。


 少ない。


 家へ運び込めたのは。


 大きな桶一杯と。


 マルタさんが持ってきた。


 パン屋の貯め水。


 それだけだった。


「……これ」


「何回替えられる」


 マルタさんが呟く。


 誰も。


 すぐには答えなかった。


 王都なら。


 蛇口を捻れば。


 とはいかなくても。


 共同水場へ行けば。


 もっと簡単に。


 水を手に入れられる。


 でも。


 この村では。


 桶一杯にも。


 順番がある。


「井戸へ行ってきます」


 リナの母親が。


 立ち上がろうとする。


「駄目です」


 マルタさんが。


 強く言った。


 母親が。


 驚く。


「あんたは」


「ここにいろ」


「でも」


「リナが起きた時」


「母親がいなかったら」


「不安になる」


「水なら」


「私が取ってくる」


「でも」


「マルタさんの店だって」


「パン焼くんでしょう」


「一日くらい」


「焼かなくても」


「死なない」


 マルタさんの声が。


 少しだけ。


 かすれた。


「でも」


「この子は」


「今」


「水がいる」


 母親の目から。


 涙が落ちた。


「ありがとう」


「礼は」


「治ってからにしろ」


 マルタさんは。


 逃げるように。


 家を出た。


          ◇


「アルフォンス様」


「何だ」


「村の外から」


「水を運ぶことはできますか」


「手配している」


 壁際にいた。


 アルフォンス様が答える。


「近隣の集落から」


「荷車を二台」


「こちらへ向かわせた」


「いつ頃?」


「早くても夕方だ」


 夕方。


 それまで。


 今ある水で。


 持たせなければならない。


「もっと早くは」


 言いかけて。


 やめる。


 馬を急がせれば。


 事故が起こる。


 水桶を載せた荷車は。


 急げない。


「分かりました」


 私は言った。


「ありがとうござます」


 アルフォンス様が。


 少し。


 こちらを見る。


「足りないか」


「今ある分を」


「先生が使います」


「私は」


「他にできることを探します」


「……そうか」


 止めない。


 代わりに。


「一人でやるな」


「はい」


 短い。


 その言葉に。


 私は頷いた。


          ◇


 水を。


 どう使うか。


 村の女たちが集まった。


「濡れ布なら」


「井戸水じゃなくてもいいんじゃないか?」


「川は」


「ほとんど流れてないよ」


「残ってる水溜まりなんか」


「子どもに使えるか」


「洗濯用に取ってある水は?」


「昨日のだ」


「汚れてる」


 声が。


 重なる。


 私は。


 口を挟まなかった。


 この村で。


 何にどれだけ水が必要か。


 私より。


 彼女たちの方が知っている。


「パン屋の水を」


「全部使うしかない」


 誰かが言った。


「でも」


「そうしたら」


「明日のパンがない」


「一日なら我慢できる」


「老人は?」


「硬い麦を」


「そのまま食わせるのか」


「じゃあどうするんだ」


 正しいことが。


 一つではない。


 リナへ使えば。


 誰かの食事が減る。


 パンへ使えば。


 病気の子へ回せない。


「半分」


 入口から。


 声がした。


 マルタさんだった。


 桶を持って戻ってきている。


「うちに残ってる水」


「全部持ってきた」


「半分はこの子に使う」


「残り半分で」


「明日のパンを焼く」


「そんな量で?」


「いつもの半分しか焼けない」


「なら」


 マルタさんは。


 村の人々を見る。


「元気な奴は」


「一日くらい」


「硬い麦を食え」


 誰かが。


 苦笑した。


「お前も元気な奴だろ」


「私は」


「余った耳を食う」


「パン屋が」


「パンを食わないのか」


「うるさい」


 少し。


 空気が緩む。


 けれど。


 マルタさんは。


 すぐに。


 リナを見る。


「これで足りるか」


 オスカー先生が。


 桶を確認する。


「助かります」


「それだけ?」


「何を期待しているんです」


「知らないよ」


「なら結構」


「本当に」


「嫌な治療師だな」


「褒め言葉として」


「受け取っておきます」


 マルタさんは。


 鼻を鳴らした。


          ◇


 昼を過ぎる。


 リナの熱は。


 下がらなかった。


 でも。


 急激にも。


 上がらなかった。


 少量の水。


 薬草をせんじた。


 苦い薬。


 汗を拭き。


 衣服を替える。


 部屋の空気を。


 時々入れ替える。


 できることは。


 驚くほど。


 地味だった。


「もっと」


「何かないんですか」


 リナの母親が聞いた。


「特別な薬とか」


「魔石とか」


 先生は。


 薬草を潰す手を止めない。


「魔石治療器具があれば」


「使える症状もあります」


「ですが」


「ここにはない」


「それに」


「この症状に効くとも限らない」


「じゃあ」


「私たちは」


「何もできないんですか」


「違います」


 私は。


 思わず。


 答えていた。


 先生が。


 こちらを見る。


 母親も。


 私を見る。


「水を飲ませています」


「薬も飲ませています」


「汗を拭いて」


「呼吸を見て」


「先生が」


「ずっと状態を確かめています」


「それは」


「何もしていないことではありません」


 自分で言いながら。


 少し。


 不思議だった。


 以前の私なら。


 もっと。


 特別な何かを。


 探していたかもしれない。


 遺品。


 死者の声。


 そこに。


 答えがあるのではないかと。


 でも。


 今。


 目の前にいるのは。


 死者ではない。


「今」


 私は言った。


「リナさんは」


「生きています」


「だから」


「生きている人にできることを」


「続けましょう」


 母親が。


 唇を噛む。


 それから。


「はい」


 小さく。


 答えた。


          ◇


「お水……」


 午後。


 リナが。


 少しだけ。


 目を開けた。


「リナ」


 母親が。


 すぐに顔を寄せる。


「お母さんいるよ」


「……パン」


「え?」


「お腹……すいた」


 その言葉に。


 部屋にいた全員が。


 止まった。


 オスカー先生だけが。


 冷静だった。


「食欲が戻ってきたなら」


「悪い兆候ではありません」


「食べていいんですか」


「まだ少しだけ」


「柔らかいものを」


 マルタさんが。


 立ち上がる。


「待ってろ」


 家を出ようとする。


「マルタさん」


「何」


「どちらへ」


「パン屋」


「でも」


「硬いパンしか」


「あるよ」


 マルタさんが。


 短く言った。


「昨日焼いたやつの中に」


「少し柔らかいのが」


「残ってる」


「子ども用に」


 その言葉の最後が。


 少し。


 弱くなった。


 子ども用。


 昔。


 窯の前に。


 子どもが集まった。


 そんな話を。


 村長から聞いた。


 私は。


 何も言わなかった。


「持ってくる」


「お願いします」


 マルタさんは。


 今度は。


 走らなかった。


 早足で。


 出ていった。


          ◇


 戻ってきたパンは。


 朝のものとは。


 違っていた。


 小さな丸パン。


 表面も。


 少し柔らかい。


「こんなの」


「まだ焼いてたんですね」


 村の女性が言う。


「余計なこと言うな」


 マルタさんが。


 睨む。


「売り物じゃない」


「端の生地で作っただけだ」


「誰に?」


「……」


「誰に作ってたの?」


「うるさい」


 マルタさんが。


 答えない。


 リナが。


 薄く目を開ける。


「パン……」


「ほら」


 マルタさんが。


 寝台の横へ座る。


「食えるか」


 リナが。


 小さく頷く。


 母親が。


 パンをちぎろうとする。


「待て」


 マルタさんが止める。


「そのままだと」


「まだ硬い」


 少量の湯へ。


 パンを浸す。


 柔らかくする。


 匙で。


 小さく崩す。


「ほら」


 母親へ渡した。


「少しずつ」


 リナが。


 一口。


 食べる。


 ゆっくり。


 飲み込む。


「おいしい?」


 母親が聞く。


 リナは。


 目を閉じたまま。


 小さく。


 頷いた。


「……おいしい」


 その瞬間。


 マルタさんの手から。


 器が落ちかけた。


 私が。


 反射的に。


 左手で支える。


「大丈夫ですか」


「触るな」


 強い声。


 私は。


 すぐに手を離した。


 マルタさんは。


 器を持ち直す。


 顔を伏せた。


「……違う」


「え?」


「お前じゃない」


「……」


「今のは」


「お前に言ったんじゃない」


 私は。


 黙る。


 マルタさんの目は。


 リナではなく。


 パンを見ていた。


 おいしい。


 ただ。


 それだけの言葉。


 でも。


 きっと。


 マルタさんには。


 違う誰かの声と。


 重なったのだ。


「テオも」


 マルタさんが。


 呟いた。


「パンが好きだった」


 初めて。


 怒りのない声で。


 息子の名前を呼んだ。


「焼けば」


「何でも食った」


「焦げても」


「形が悪くても」


「母さんのが一番だって」


 笑おうとした。


 でも。


 笑えなかった。


「……馬鹿な子だった」


 私は。


 何も言わない。


 慰めない。


 ただ。


 聞いた。


 生きている。


 マルタさんの声を。


          ◇


 夕方。


 荷車が。


 村へ入ってきた。


「水だ!」


 外から。


 声が上がる。


 アルフォンス様が手配した。


 近隣からの水だった。


 大きなたるが。


 二つ。


 三つ。


 続いて入ってくる。


 村人たちの間から。


 安堵の声が漏れる。


 でも。


 誰も。


 水を奪い合わなかった。


 村長が。


 すぐに。


 配分を決める。


「病人の家を先に」


「次に老人」


「子どものいる家」


「残りは」


「共同で分ける」


「畑は?」


「今日は待ってもらう」


「家畜は」


「最低限」


 不満の声も。


 少し出た。


 当然だ。


 水が来たからといって。


 足りない事実まで。


 消えたわけではない。


 アルフォンス様は。


 その声を。


 止めなかった。


「明日も運ぶ」


 ただ。


 そう言った。


「だが」


「これは応急処置だ」


「水路そのものを」


「調べる必要がある」


 誰かが。


 枯れた山を見る。


 古い採掘道。


 崩れた水路。


 水が消えた理由は。


 まだ分からない。


 でも。


 今夜。


 飲む水はある。


 それだけでも。


 今は。


 大きかった。


          ◇


 夜。


 リナの熱が。


 ほんの少し。


 下がった。


「もう大丈夫ですか」


 母親が。


 また聞く。


 オスカー先生は。


 首を振る。


「まだです」


「今夜は」


「何度か熱を確認します」


「急に呼吸が苦しくなったり」


「水を飲めなくなったら」


「すぐに起こしてください」


「はい」


「ただ」


 先生は。


 少しだけ。


 声を和らげた。


「昼よりは」


「状態がいい」


 母親が。


 両手で。


 顔を覆った。


「よかった……」


 泣き声が。


 漏れる。


 リナは。


 眠っている。


 静かな呼吸。


 生きている。


 私は。


 その胸が。


 上下するのを。


 しばらく見ていた。


「帰りますよ」


 オスカー先生が言う。


「私は」


「もう少し」


「駄目です」


「でも」


「あなたが残っても」


「熱は下がりません」


 何も。


 言えない。


「母親がいます」


「村の人もいます」


「私も」


「今夜はここに残ります」


「先生は?」


「治療師ですので」


「あなたは?」


「……竜葬師です」


「では」


「今日は休んでください」


 以前なら。


 たぶん。


 残った。


 役に立つかどうかではなく。


 自分だけ休むことに。


 耐えられなかった。


 でも。


「分かりました」


 私は言った。


「お願いします」


 先生が。


 少しだけ。


 目を細める。


「ええ」


          ◇


 外へ出る。


 夜の村は。


 暗かった。


 王都のような。


 竜骨灯はない。


 家々の窓から。


 小さな灯りが。


 漏れているだけ。


 その中を。


 アルフォンス様と。


 アンナと歩く。


「怖かったです」


 私は。


 突然。


 言った。


 アルフォンス様が。


 こちらを見る。


「リナさんが?」


「はい」


「テオさんと同じ症状だと」


「マルタさんが言った時」


「……怖かったです」


 もし。


 同じように。


 死んだら。


 また。


 誰かが。


 助けられなかった子になる。


 そして。


 私は。


 何も聞くことができない。


 生きている人の心も。


 未来も。


「何か」


「しなければと思いました」


「でも」


「何をすればいいか」


「分からなかった」


「それで」


 アルフォンス様が。


 静かに聞く。


「どうした」


「先生に聞きました」


「アンナに頼みました」


「マルタさんにも」


「村の方にも」


「あなたにも」


 口にしてから。


 気づく。


「……たくさん」


「頼みましたね」


「ああ」


「迷惑でしたか」


「いや」


 即答だった。


「もっと頼め」


「それは」


「調子に乗りそうなので」


「少し考えます」


「そうか」


 アルフォンス様の口元が。


 ほんの少し。


 緩む。


          ◇


 村長宅へ戻る前。


 パン屋の前を通った。


 窯の火は。


 消えていた。


 マルタさんが。


 店の前に。


 一人で座っている。


「マルタさん」


 声をかける。


「……何だ」


「今日は」


 ありがとうございます。


 そう言おうとして。


 止める。


 彼女は。


 礼を嫌がる。


「リナさん」


「少し熱が下がりました」


「聞いた」


「そうですか」


「ああ」


 それだけ。


 マルタさんは。


 暗い道を見る。


「死なない?」


 突然。


 聞かれた。


「分かりません」


 私は答えた。


 嘘は。


 言わない。


「でも」


「昼よりは」


「状態が良いそうです」


「……そう」


 長い。


 沈黙。


「私」


 マルタさんが言った。


「あの子が」


「熱出したって聞いた時」


「テオだと思った」


「……」


「顔も」


「年も」


「全然違うのに」


「また」


「テオが死ぬって」


「思った」


 私は。


 隣へ座らなかった。


 少し離れた場所に。


 立ったまま。


 聞く。


「馬鹿だろ」


「いいえ」


「お前は」


「すぐそう言うな」


「では」


「分かりません」


「それも腹立つ」


「難しいですね」


「……本当に」


 マルタさんが。


 小さく笑った。


 その後。


「でも」


 と続ける。


「今日」


「あの子に水を使った」


「パン屋の分まで」


「はい」


「もし」


「明日」


「パンが足りなくなったら」


「文句言われるかもしれない」


「はい」


「それでも」


「使ってよかったって」


「今は思ってる」


 私は。


 黙って頷いた。


「テオの時」


 マルタさんの声が。


 低くなる。


「水が足りなかった」


「今より」


「もっとひどかった」


 初めて聞く話だった。


「熱が上がって」


「水を欲しがって」


「でも」


「村全部が足りなかった」


「私」


「飲ませる量を」


「減らした」


 指が。


 膝の上で。


 強く握られる。


「治療師には」


「私のせいじゃないって」


「言われた」


「水があったから」


「助かったとも」


「なかったから死んだとも」


「言えないって」


「でも」


 声が。


 震えた。


「母親って」


「そういうの」


「忘れられないんだよ」


 私は。


 何も。


 否定しなかった。


「今日」


 マルタさんが言う。


「リナに水をやってるの見て」


「思った」


「もし」


「あの時」


「もっと水があったら」


「もっと早く」


「誰かが来てくれてたら」


「もし」


「この村の水が」


「枯れてなかったら」


 そして。


 マルタさんが。


 私を見る。


「なあ」


 声に。


 怒りが戻る。


 でも。


 昨日とは。


 違った。


 竜へ向けた。


 曖昧な怒りではない。


「竜葬師」


「はい」


「あんた」


「死んだ奴の声を」


「聞けるんだろ」


「はい」


「だったら」


 マルタさんが。


 立ち上がる。


「教えてよ」


 目に。


 涙が溜まっていた。


「どうして」


「うちの子だったんだ」


「どうして」


「テオは」


「助けてもらえなかったんだ」


 私は。


 答えられない。


 死者の声を聞いても。


 その問いに。


 答えられるとは限らない。


 それでも。


 マルタさんは。


 六年間。


 誰にもぶつけられなかった言葉を。


 今。


 私へ向けていた。


「竜は」


「弔ってもらえるんだろ」


「辺境伯様まで泣いて」


「立派に送ってもらえて」


「死んだ後まで」


「声を聞いてもらえる」


 胸が。


 痛む。


「じゃあ」


「テオは?」


「うちの子は」


「何だったんだよ」


 私は。


 逃げなかった。


「なぜ」


 マルタさんの声が。


 夜道へ落ちる。


「誰も」


「テオを」


「助けてくれなかったんだよ」


 その問いに。


 私が。


 簡単な答えを返してはいけないと。


 それだけは。


 分かった。


 だから。


 私は。


 手袋を外さなかった。


 死者へ。


 答えを求める前に。


 まず。


 この人の声を。


 聞かなければならない。


 今。


 私の前で。


 生きている。


 一人の母親の声を。

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