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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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42/46

竜を憎むパン職人

 朝。


 目を覚ますと。


 窓の外から。


 パンを焼く匂いがした。


 昨日と同じ。


 小麦と。


 薪の煙と。


 少しだけ焦げた香り。


 村長宅の客間で。


 私は。


 しばらく。


 その匂いを嗅いでいた。


 水の足りない村でも。


 朝は来る。


 井戸には列ができ。


 畑へ行く人がいて。


 パンを焼く人もいる。


 困っているからといって。


 暮らしそのものが。


 止まるわけではない。


「お嬢様」


 扉の向こうから。


 アンナの声がした。


「起きていますか」


「はい」


「でしたら朝食です」


 少し間があって。


「それと」


「オスカー先生が」


「右腕を見せろと」


「……先に朝食では」


「私もそう申し上げました」


「先生は」


「診察が先だと」


「強情ですね」


「お嬢様に言われたくないと思います」


 反論できなかった。


          ◇


「痛みは?」


「二です」


「昨日と同じ?」


「はい」


「熱は?」


「ありません」


しびれは?」


「ありません」


 オスカー先生は。


 私の包帯を解きながら。


 満足そうに頷いた。


「結構です」


「今日は歩けますか」


「聞き方が雑ですね」


「歩けるかではなく」


「どれくらい歩いてよいかを」


「聞いてください」


「……では」


 私は言い直す。


「どれくらいなら」


「歩いてもよいでしょうか」


「午前中に一時間」


「午後に一時間」


「間に休憩」


「右腕を使う作業は禁止」


「能力も?」


「当然です」


「分かりました」


「素直ですね」


「私はいつも素直です」


 先生が。


 無言で私を見る。


「……少なくとも」


「以前よりは」


 言い直すと。


「その程度の自覚があれば」


「よろしいです」


 包帯が。


 新しく巻かれる。


「それから」


 先生が言った。


「この村の水不足を調べるなら」


「病人の話も聞いてください」


「病人?」


「昨日」


「村長から聞きました」


 先生は。


 包帯を結ぶ。


「ここ数年」


「高い熱を出す者が」


「増えているそうです」


「水と関係が?」


「分かりません」


 私は。


 思わず。


 オスカー先生を見る。


「先生も」


「分からないと言うんですね」


「医者でも治療師でも」


「分からないものは分かりません」


「良い言葉です」


「あなたが」


「妙な教育をした相手の影響を」


「私にまで広げないでください」


 アルフォンス様のことだ。


 私は。


 少し笑った。


「ただ」


 先生は続けた。


「一つ」


「気になる話があります」


「何ですか」


「数年前」


「この村で亡くなった子どもがいるそうです」


 笑みが。


 消える。


「子ども」


「はい」


「高熱が続いた」


「村に残っていた診療記録では」


「竜脈の乱れによる熱病を」


「疑っていたようです」


 竜脈。


「名前は?」


 先生は。


 一瞬。


 答えるのを迷った。


「テオ」


 その名を。


 私は。


 知らなかった。


 けれど。


 なぜか。


 昨日見た。


 パン屋の壁を思い出した。


 小さな木剣。


「母親は?」


「マルタさんです」


 やはり。


 私は。


 手袋をした手を。


 膝の上で重ねた。


          ◇


 朝食のパンは。


 硬かった。


 悪い意味ではない。


 水を少なくし。


 長く保存できるよう。


 よく焼いたものだ。


 噛むほど。


 小麦の香りが出る。


「これ」


「マルタさんのパンですか」


 村長のベルトさんへ尋ねる。


「ええ」


「村でパンを焼ける窯は」


「今はあそこだけです」


「毎日?」


「毎日です」


「水が少なくても?」


「だからこそです」


 村長は。


 硬いパンを。


 スープへ浸した。


「麦そのものは」


「まだ少し取れます」


「そのままでは食べづらい」


「パンにすれば」


「子どもや老人も食べられる」


「マルタは」


「自分の店が儲からなくても」


「窯を止めません」


 昨日。


 竜なんかより。


 生きてる人間を助けろ。


 そう言った。


 あの言葉を。


 思い出す。


「優しい方なんですね」


「本人の前では」


「言わない方がいいですよ」


「なぜです?」


「怒ります」


「どうして」


「知りません」


 村長は。


 少し笑った。


 それから。


 笑みを消す。


「昔は」


「もっと違うパンを焼いていました」


「違う?」


「柔らかいパンです」


「蜂蜜を入れたり」


「干した果物を混ぜたり」


「子どもたちが」


「窯の前に集まるような」


 今朝のパンを見る。


 硬く。


 小さく。


 必要な分だけ。


「今は」


「焼かないのですか」


「……焼きません」


 村長は。


 それ以上。


 話さなかった。


 私も。


 聞かなかった。


 本人から聞く。


 昨日。


 そう決めた。


          ◇


 午前中は。


 古い水路を見た。


 村の西。


 マルタさんの店の裏を通り。


 さらに山側へ続く。


 石を積んだ。


 浅い溝。


 今は。


 土と枯れ葉で埋まっている。


「ここに」


「水が?」


「昔は」


 村長が答える。


「子どもなら」


「足首まで浸かるくらいは」


「一年中」


「流れていました」


 アルフォンス様が。


 しゃがみ込む。


 土へ触れ。


 指先で崩す。


「乾いているな」


「表面だけではありません」


 同行した村人が言った。


「掘っても同じです」


「去年」


「水路を戻せないかと思って」


「皆で掘りました」


「どこまで?」


「山のふもとまで」


「その先は?」


 男が。


 少し黙った。


「入れません」


「なぜ?」


「崩れているんです」


「いつから」


「ずっと前からです」


「詳しくは」


「村長の方が」


 視線が。


 村長へ集まる。


 村長は。


 少しだけ。


 顔を強張らせた。


「古い作業道があります」


「何の?」


「……昔の」


「採掘用です」


 採掘。


 私は。


 手帳へ書く。


「何を採っていたのですか」


「今は」


「それを調べています」


 アルフォンス様が。


 先に答えた。


 村長を見る。


「記録を確認する」


「憶測で話す必要はない」


「……はい」


 村長が。


 頷く。


 私は。


 そのやり取りも。


 記録した。


 古い作業道。


 崩落。


 旧水路。


 けれど。


 今は。


 それ以上ではない。


「この辺り」


 背後から。


 女性の声がした。


「昔は」


「子どもが水遊びしてた」


 振り返る。


 マルタさんだった。


 籠を持っている。


 中には。


 朝食と同じ。


 硬いパン。


「マルタ」


 村長が言う。


「何を」


「畑の連中に持っていく」


「昼まで戻らないから」


 私を見る。


 昨日ほど。


 露骨に睨んではいない。


 けれど。


 歓迎もしていない。


「ここ」


 私は。


 水路を指す。


「昔は」


「流れていたんですね」


「聞いたんだろ」


「はい」


「なら」


「私に聞く必要ないだろ」


「同じ出来事でも」


「見ていた人によって」


「覚えていることが違うので」


「……死んだ奴だけじゃなく」


「生きてる奴にも」


「同じことするのか」


「はい」


 マルタさんは。


 変なものを見るように。


 私を見た。


「面倒な女だな」


「最近」


「よく言われます」


「最近だけか?」


 アンナが。


 後ろで。


 口元を押さえた。


 笑った。


 絶対に笑った。


「子どもの頃からも」


「言われていたかもしれません」


「そうだろうな」


 初めて。


 マルタさんの口元が。


 ほんの少しだけ。


 動いた。


 でも。


 すぐ消えた。


 彼女は。


 枯れた水路を見る。


「昔は」


「ここまで来ると」


「濡れて帰ってきた」


「誰が?」


 聞いてから。


 分かった。


 マルタさんの指が。


 無意識に。


 首元の革紐へ触れていたから。


「テオですか」


 彼女の顔から。


 何かが消えた。


 私は。


「すみません」


 すぐに言った。


「オスカー先生から」


「名前だけ」


「聞きました」


「何を」


「どこまで聞いた」


「高い熱で亡くなったこと」


「竜脈の乱れによる熱病が」


「疑われていたことだけです」


「……そう」


「それ以上は」


「聞いていません」


 マルタさんは。


 籠の持ち手を。


 強く握った。


「聞きたいんだろ」


「はい」


 嘘は。


 つきたくなかった。


「ただ」


「話したくないなら」


「聞きません」


「そうやって」


 声が。


 少し。


 低くなる。


「何でも」


「こっちに選ばせるんだな」


「できる限りは」


「ずるいね」


 私は。


 答えられなかった。


「嫌だって言えば」


「お前は引く」


「話せば」


「聞いてやったって顔をする」


「私は」


「そのつもりは」


「じゃあ」


「どういうつもりだ」


 マルタさんが。


 私を見る。


「竜の死に方を調べて」


「竜を弔って」


「今度は」


「人間の悲しい話まで聞いて」


「それで何になる」


 風が。


 枯れた水路を。


 抜けていった。


「死んだ奴の声を聞けば」


「何か変わるのか」


「息子が帰ってくるのか」


「いいえ」


 私は答えた。


「帰ってきません」


「なら」


「何のためだ」


「……私にも」


「まだ」


「全部は分かりません」


「は?」


 マルタさんの眉が。


 寄る。


「竜葬師だろ」


「はい」


「最後の竜葬師なんだろ」


「そう呼ばれています」


「なのに分からないのか」


「分からないことは」


「あります」


 私は。


 枯れた水路を見る。


「声を聞いても」


「死者を生き返らせることはできません」


「死んだ理由が分かっても」


「失った時間は戻りません」


「謝罪を受けても」


「許せないこともあります」


 ノクス。


 アルフォンス様。


 ギルベルトさん。


 私たちは。


 それを。


 見たばかりだ。


「それでも」


「知らないまま」


「誰かが勝手に意味を決めるよりは」


「本人が残したものを」


「残したまま伝える方がいいと」


「私は思っています」


「綺麗事だ」


「そうかもしれません」


「否定しないのか」


「あなたが」


「そう思う理由を」


「私はまだ知らないので」


 マルタさんは。


 しばらく。


 何も言わなかった。


 そして。


 突然。


 籠を。


 地面へ置いた。


「テオは」


 小さな声だった。


「竜が好きだった」


          ◇


 誰も。


 話を挟まなかった。


「馬鹿みたいにな」


 マルタさんは。


 枯れた水路を見ながら。


 言った。


「黒でも」


「赤でも」


「青でも」


「何でも好きだった」


「竜騎士の話を聞けば」


「一日中」


「木の棒を振り回してた」


 昨日見た。


 あの木剣。


「辺境伯様にも」


 マルタさんが。


 アルフォンス様を見る。


「会いたがってた」


 アルフォンス様の表情が。


 僅かに動く。


「俺に?」


「あんたじゃない」


 マルタさんが。


 冷たく言った。


「ノクスにだ」


「……そうか」


「黒竜は」


「夜でも飛べるんだって」


「本当かって」


「何度も聞かれたよ」


「私は知らないって言った」


「ノクスは」


 アルフォンス様が。


 ゆっくり言う。


「夜目が利いた」


「月がなくても」


「山の形が見えていた」


 マルタさんの顔が。


 歪んだ。


「今さら」


 声が。


 震えた。


「そんなこと」


「教えてくれなくていい」


「……すまない」


「謝るな」


「何でも謝るなよ」


「腹が立つ」


「分かった」


 本当に。


 それ以上。


 アルフォンス様は言わなかった。


 マルタさんが。


 息を吐く。


「テオは」


「いつか竜に選ばれるって」


「本気で思ってた」


「竜騎士になるんだって」


「馬鹿だろ」


「村の子どもが」


「簡単になれるもんじゃない」


 でも。


 その声には。


 馬鹿にする響きがなかった。


「それで」


「水が減り始めた頃」


「熱を出した」


 私は。


 黙って聞く。


「最初は」


「ただの風邪だと思った」


「子どもなんて」


「熱くらい出すから」


「一晩寝れば治るって」


「そう思った」


 マルタさんの手が。


 震える。


「治らなかった」


「二日」


「三日」


「どんどん熱が上がった」


「水を飲ませても吐いた」


「汗も出なくなった」


 オスカー先生が。


 視線を下げた。


「町から治療師を呼んだ」


「薬も使った」


「でも」


「駄目だった」


 マルタさんが。


 首元の革紐を掴む。


「最後まで」


「あの子」


「寝言で」


「竜って言ってた」


 そこで。


 声が止まった。


 誰も。


 続きを急かさない。


「死んだ後」


「治療師に言われた」


「土地の竜脈が」


「濁っている可能性があるって」


「その影響を」


「強く受けたのかもしれないって」


「かもしれない?」


 私は。


 確認する。


「断定は」


「されなかったのですね」


「そんなの」


「どうでもいい」


 マルタさんが。


 睨む。


「死んだんだよ」


「テオは」


「竜だの」


「竜脈だの」


「竜骨だの」


「そんなものに」


「一生懸命だった連中がいる間に」


「うちの子は」


「死んだんだ」


 違うものが。


 一つの言葉の中で。


 混ざっている。


 竜。


 竜脈。


 竜骨。


 竜騎士。


 竜葬師。


 たぶん。


 マルタさんにとって。


 それらを。


 切り分ける意味は。


 今までなかった。


「それから」


 彼女が言う。


「竜が嫌いだ」


「……」


「竜騎士も」


「竜葬師も」


「竜をありがたがる奴も」


「全部」


「嫌いだ」


「テオが」


「好きだったもの全部」


「見ると腹が立つ」


 私は。


 胸の奥が。


 痛くなるのを感じた。


 けれど。


 何も言わなかった。


「変だろ」


「息子が好きだったものなら」


「大事にしてやるのが」


「母親なんだろ」


「でも無理なんだよ」


 マルタさんが。


 笑った。


 乾いた。


 ひどく疲れた笑いだった。


「あの子が」


「竜の話をして笑ってたのを」


「思い出すから」


「嫌なんだ」


「竜がいなくなれば」


「思い出さなくて済む」


「そう思った」


「でも」


「忘れられない」


 私は。


 昨日見た。


 木剣を思い出す。


 捨てていない。


 壁に。


 掛けたまま。


「マルタさん」


「何」


「私は」


 言葉を選ぶ。


「竜を許してくださいとは」


「言いません」


「……」


「竜を好きだったテオさんを」


「誇りに思ってくださいとも」


「言いません」


「……何だよ、それ」


「好きだったものまで」


「大切にしなければならないとは」


「私は思わないからです」


 マルタさんの目が。


 私を見る。


「嫌いでいいと思います」


「怒っていても」


「いいと思います」


「ただ」


「もし」


 そこで。


 一度。


 言葉を止める。


「いつか」


「テオさんのことを」


「竜への怒りとは別に」


「話したくなったら」


「私は」


「その話を聞きたいです」


「死者の声じゃなく?」


「はい」


「あなたの声を」


 マルタさんは。


 何も言わなかった。


 私は。


 それ以上。


 続けなかった。


          ◇


「一つだけ」


 しばらくして。


 マルタさんが言った。


「聞いていいか」


「はい」


「人間の遺品からも」


「聞こえるって」


「昨日言ったな」


「はい」


「子どもでも?」


「亡くなった方なら」


「年齢は関係ありません」


 表情が。


 固くなる。


「何でも?」


「いいえ」


「本人が長く使っていた物や」


「最期まで持っていた物」


「強い思いを向けていた物だけです」


「そこに」


「素手で直接触れた時だけ」


「……」


「しかも」


「必ず聞こえるとは限りません」


「残っているのは」


「死の直前の言葉や」


「感情や」


「映像の一部だけです」


「質問しても」


「答えは返ってきません」


 私は。


 先に。


 全部伝えた。


「そして」


「一度聞くと」


「残った思いは」


「薄くなります」


 マルタさんの顔が。


 変わった。


「薄くなる?」


「はい」


「最初が」


「最も鮮明です」


「二度目は短い言葉や感情」


「三度目は」


「温度や感情だけになることが多いです」


「その後は」


「何も残らないことがあります」


「じゃあ」


 マルタさんが。


 一歩。


 私へ近づいた。


「聞いたら」


「消えるのか」


「少しずつ」


「はい」


「お前が」


「聞くたびに?」


「はい」


 マルタさんの顔に。


 初めて。


 怒りではないものが浮かんだ。


 恐怖だった。


 彼女は。


 何かを。


 かばうように。


 胸元を押さえた。


 そして。


 気づく。


 首元の革紐ではない。


 視線が。


 家の方へ向いた。


 木剣。


「触るな」


「触りません」


 すぐに答えた。


「絶対に」


「はい」


「勝手に」


「あれに触るな」


「あなたの許可なしでは」


「触りません」


「誰にも」


「触らせるな」


「私から」


「他の方へ触るよう頼むこともありません」


 マルタさんの呼吸が。


 少しずつ。


 戻っていく。


「……そうか」


「はい」


「ならいい」


 けれど。


 良くはなかった。


 彼女の手は。


 まだ震えていた。


「聞きたいのですか」


 私は。


 静かに聞いた。


 マルタさんが。


 私を見る。


「テオさんの声を」


「……分からない」


 それが。


 彼女の答えだった。


「分からないんだよ」


「聞きたい」


「聞きたくない」


「もし」


「何も残ってなかったら」


「嫌だ」


「残ってても」


「嫌だ」


「何か」


「私を恨んでたら」


「もっと嫌だ」


「でも」


「何を思ってたのか」


「知りたい」


 声が。


 細くなる。


「でも」


「聞いて」


「あの子の残したものが」


「消えるのも」


「嫌なんだ」


「……はい」


「だから」


「分からない」


「分からないなら」


「今は」


「聞かなくていいです」


 マルタさんが。


 私を見る。


「お前」


「それでも竜葬師か」


「はい」


「声を聞くのが」


「仕事なんだろ」


「聞かないことも」


「選べるようにするのが」


「私の仕事だと思っています」


「……変な仕事だな」


「私も」


「最近そう思います」


 今度は。


 ほんの一瞬だけ。


 マルタさんが。


 鼻で笑った。


          ◇


「一つ」


 オスカー先生が。


 初めて口を挟んだ。


「テオ君の診療について」


「確認しても?」


 マルタさんの目が。


 警戒へ戻る。


「何だ」


「熱が出る前」


「咳は?」


「少し」


「吐き気は?」


「あった」


「皮膚に」


「黒い斑点や」


「青白い筋は?」


「……腕に」


「薄いのが出た」


 先生の顔が。


 僅かに険しくなる。


「他に」


「同じ症状の人は?」


「何人かいた」


「大人も?」


「ああ」


「でも」


「死んだのは」


「テオだけだった」


 マルタさんの声が。


 再び固くなる。


「竜脈熱だったのか」


「断定はできません」


「またそれか」


「断定できないものを」


「断定する治療師よりは」


「信用してください」


 マルタさんが。


 オスカー先生を見る。


「嫌な奴だな」


「よく言われます」


 私は。


 思わず。


 先生を見る。


「先生もですか」


「あなたにだけは」


「言われたくありません」


 マルタさんが。


 小さく。


 息を吐いた。


 今度は。


 笑いに近かった。


 すぐ消えたけれど。


「ただ」


 オスカー先生は。


 真面目な顔へ戻る。


「症状は」


「竜脈の異常がある土地で見られる熱病と」


「一致する部分があります」


「じゃあ」


「やっぱり」


「一致する部分がある」


「です」


「原因が確定した」


「ではありません」


 先生は。


 はっきり言った。


「水か」


「土か」


「別の病か」


「複数が重なったのか」


「記録を見なければ」


「分かりません」


「ですが」


「同じ症状が」


「今も出る可能性があるなら」


「調べる価値はあります」


 マルタさんが。


 黙る。


「診療記録は」


「残っていますか」


「……ある」


「見せていただけますか」


「テオの分も?」


「可能なら」


「嫌なら」


「他の患者の分だけでも構いません」


 マルタさんは。


 長く。


 迷った。


「後で」


「持っていく」


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「まだ」


「お前らを信用したわけじゃない」


「はい」


 私は頷いた。


「それで大丈夫です」


「だから」


「そういうところが」


「腹立つんだよ」


 なぜだろう。


 少しだけ。


 昨日より。


 怖くなかった。


          ◇


 マルタさんは。


 再び籠を持った。


「パン」


 私は。


 思わず言った。


「何だ」


「朝」


「いただきました」


「そう」


「美味しかったです」


 マルタさんの顔が。


 露骨に嫌そうになる。


「硬かっただろ」


「はい」


「なら美味くない」


「噛むと」


「小麦の味がしました」


「それは」


「小麦だからだ」


「なるほど」


「何がなるほどだ」


 アンナが。


 とうとう。


 顔を背けた。


 肩が揺れている。


 アルフォンス様も。


 少し。


 口元を緩めた。


「昔は」


 私は。


 言いかけて。


 止めた。


 柔らかいパンを焼いていた。


 村長から。


 そう聞いた。


 でも。


 それは。


 マルタさん自身が。


 話したことではない。


「何だ」


「いえ」


「何でもありません」


「気持ち悪いな」


「よく」


「それはもういい」


 先に止められた。


 私は。


 少し残念だった。


          ◇


 昼。


 村の中央へ戻ると。


 井戸には。


 また列ができていた。


 昨日見た。


 小さな女の子もいる。


 母親の隣で。


 桶を持っていた。


 マルタさんは。


 畑の人たちへパンを配った後。


 その列へ並ぶ。


 自分の順番が来る。


 引き上げた水は。


 桶に半分ほど。


 彼女は。


 その水を。


 自分の壺へ入れなかった。


 前にいた。


 腰の曲がった老婆の壺へ。


 半分を注いだ。


「マルタ」


「いいのかい」


「うちは」


「朝に取った」


「でも」


「パン屋は水を使うだろ」


「足りる」


「嘘だね」


「うるさい」


 老婆が。


 笑う。


 マルタさんは。


 嫌そうな顔をする。


 それを。


 少し離れたところから。


 私は見ていた。


「優しい方ですね」


 小声で言う。


 隣のアンナが。


「本人に言ってみますか」


「怒られそうなので」


「やめておきます」


「学習しましたね」


「はい」


 少し。


 得意だった。


          ◇


 午後。


 村長の家へ戻る途中だった。


 あの女の子が。


 道の脇へ座り込んでいた。


 昨日。


 井戸の前で。


「喉かわいた」


 と言っていた子だ。


 母親が。


 背中を撫でている。


「どうしました?」


 私は。


 近づく。


 母親が。


 一瞬。


 私を警戒した。


 でも。


 すぐ。


 それどころではない顔になる。


「少し」


「疲れただけです」


「朝から」


「元気がなくて」


 オスカー先生が。


 前へ出る。


「診ても?」


 母親が。


 迷いながら。


 頷いた。


 先生が。


 女の子の額へ。


 手を当てる。


 表情が変わった。


「熱があります」


 母親の顔から。


 血の気が引く。


「そんな」


「今朝は」


「少しだるいって」


「言ってただけで」


「家へ運びましょう」


 先生が言う。


「水と」


「清潔な布を」


 私は。


 反射的に。


 女の子へ手を伸ばしかける。


 右腕。


 傷。


 先生との約束。


 止める。


「アンナ」


「はい」


「水を」


「護衛の方は」


「日陰になる場所を作ってください」


「承知しました」


 私は。


 自分で抱き上げなかった。


 できる人へ。


 頼んだ。


 女の子の母親が。


 震える声で。


 名前を呼ぶ。


「リナ」


「リナ」


「大丈夫だからね」


 大丈夫。


 その言葉に。


 胸が。


 小さく痛む。


 オスカー先生が。


 女の子のまぶたを確認する。


 口の中を見る。


 呼吸を聞く。


「いつから?」


「朝です」


「吐き気は?」


「少し」


「咳は?」


「あります」


 少し離れた場所で。


 何かが。


 落ちた。


 振り返る。


 マルタさんだった。


 手にしていた。


 パンの籠が。


 地面へ落ちている。


 彼女は。


 女の子を。


 見ていた。


 顔が。


 真っ青だった。


「……マルタさん?」


 返事はない。


 彼女の唇だけが。


 動いた。


「同じだ」


「え?」


「テオと」


 マルタさんの声が。


 震える。


「最初が」


「同じだった」


 誰も。


 動けなかった。


「だるいって言って」


「少し咳が出て」


「それから」


「熱が上がった」


 マルタさんが。


 女の子へ近づく。


 でも。


 途中で。


 足が止まる。


 数年前の。


 自分の息子を。


 そこに見ているようだった。


「先生」


 私は。


 オスカー先生を見る。


「まだ」


 先生は。


 はっきり言った。


「同じ病気とは」


「決まっていません」


 私は。


 頷く。


 そうだ。


 決めない。


 怖いからといって。


 同じ結末まで。


 先に決めてはいけない。


「リナさんを」


「診ましょう」


 私は言った。


「今」


「生きている子を」


 マルタさんが。


 私を見る。


 その目には。


 昨日までの怒りと。


 違うものがあった。


 恐怖。


 そして。


 どうすればいいか分からないという。


 助けを求める色。


 けれど。


 私は。


 その心を読めない。


 だから。


 勝手に。


 助けてほしいのだと。


 決めることもしない。


「マルタさん」


 私は聞いた。


「手伝っていただけますか」


「……私が?」


「はい」


「この村で」


「一番」


「水を無駄にせず使う方法を」


「知っているのは」


「たぶん」


「あなたです」


 マルタさんが。


 女の子を見る。


 落ちたパンを見る。


 そして。


 強く。


 唇を噛んだ。


「……分かった」


 それだけ言うと。


 彼女は。


 パンを拾わず。


 走り出した。


「布を持ってくる」


「それと」


「冷やす水」


「うちに」


「朝の分が残ってる」


 遠ざかる背中を。


 私は見送る。


 死者の声を。


 聞く前に。


 できることがある。


 過去を。


 知る前に。


 守るべきものがある。


 テオは。


 もう。


 助けられない。


 けれど。


 リナは。


 まだ。


 ここにいる。


 息をしている。


 熱い手を。


 母親が。


 握っている。


 私は。


 手袋を。


 外さなかった。


 今。


 聞くべきなのは。


 死者の声ではない。


「オスカー先生」


「何をすればいいですか」


 先生が。


 私を見る。


「まず」


「生きている子を」


「助けます」


「はい」


 私は。


 頷いた。


 今度は。


 迷わなかった。

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