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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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41/44

枯れた村ハルン

 ノクスの骨を。


 土へ返した日から。


 三日が過ぎた。


 その三日の間。


 私は。


 一度も死者の声を聞かなかった。


 手袋を外さず。


 遺品にも触れず。


 食事をして。


 眠って。


 右腕の傷を診てもらった。


「順調ですね」


 包帯を巻き直しながら。


 オスカー先生が言った。


「腫れはほとんど引いています」


「では」


「森へ行っても」


「駄目です」


「まだ何も言っていません」


「言う顔をしていました」


「顔で診断するのは」


「治療師としてどうなのでしょう」


「長く患者を診ていますと」


「そういう技術も身につきます」


 私は。


 少しだけ。


 不満だった。


 けれど。


「痛みは?」


「二くらいです」


「何を基準に?」


「十段階です」


 オスカー先生の手が止まった。


「……本当に成長しましたね」


「そんなに驚くことですか」


「以前なら」


『大丈夫です』


「の一言で終わっていました」


 否定できない。


「では」


 包帯を結び終えた先生が言った。


「馬車での移動なら許可します」


「本当ですか」


「ただし」


「能力は使わない」


「長時間歩かない」


「傷が痛んだら言う」


「疲れたら休む」


「以上を守れるなら」


「はい」


 私は即答した。


 その日の朝。


 アルフォンス様から。


 一つの話を聞いていたからだ。


          ◇


「ハルン?」


「ああ」


 朝食後。


 広げられた地図の上で。


 アルフォンス様が。


 辺境の南西を指した。


 王都から来る街道とは。


 少し外れた場所。


 山裾やますそに。


 小さな村の印がある。


「人口は?」


「今は百五十ほどだ」


「今は?」


「十年前は」


「三百近くいた」


 私は。


 地図を見る。


「半分ですか」


「ああ」


 アルフォンス様の指が。


 村の横を流れる細い線をなぞった。


「ここには」


「昔」


「小さな川があった」


「ありました?」


「今は」


「ほとんどない」


 辺境へ向かう途中。


 私たちは。


 枯れた川を見た。


 グレイヴ領では。


 竜脈りゅうみゃくの弱まりとともに。


 土地そのものが。


 少しずつ痩せている。


 ただ。


 それだけで。


 ハルンの水不足の原因まで。


 決めることはできない。


「井戸は?」


「三つあった」


「一つは完全に枯れた」


「一つは」


「日におけ数杯しか出ない」


「残り一つを」


「村全体で使っている」


「それでは」


「足りませんね」


「ああ」


 アルフォンス様は。


 一枚の報告書を出した。


「昨日」


「村長から届いた」


 紙には。


 簡潔な文字が並んでいる。


 作物の不作。


 家畜用の水不足。


 隣村から運ぶ水の費用。


 そして。


 最後に。


 短い一文。


『このままでは、冬を越せる者がさらに減ります』


「私に」


「何をさせたいのですか」


 私は聞いた。


「まだ」


「何も決めていない」


 アルフォンス様は答える。


「水脈の調査に」


「竜葬師の知識が役立つ可能性はある」


「だが」


「君の力を使えという意味ではない」


「はい」


「むしろ」


「今回は使わなくていい」


 少し。


 意外だった。


「調査なのに?」


「ああ」


「まず」


「生きている人間から聞く」


 私は。


 アルフォンス様を見る。


「……覚えていたんですね」


「誰かに」


「何度も言われた」


「誰でしょう」


「さあな」


 少しだけ。


 口元が緩む。


 以前のアルフォンス様なら。


 こういう顔をしても。


 すぐに消えていた。


 今も。


 長く続くわけではない。


 けれど。


 私は。


 その短さを。


 以前ほど寂しいとは思わなくなっていた。


「行きます」


「オスカーが許せば」


「もう許可はいただきました」


「早いな」


「先回りしました」


「それを」


「成長と言っていいのか?」


「条件を守るので」


「問題ありません」


 アルフォンス様は。


 少し考えてから。


「なら」


「昼前に出る」


 と言った。


          ◇


 ハルンまでは。


 馬車で半日ほどだった。


 私。


 アルフォンス様。


 アンナ。


 オスカー先生。


 そして。


 護衛の騎士が二人。


 ギルベルトさんは。


 領都へ残った。


 偽造された命令書について。


 六年前の記録を。


 改めて洗い直している。


 彼が。


 副団長として残ることを。


 アルフォンス様は。


 まだ許したわけではない。


 ギルベルトさんも。


 許しを求めてはいない。


 ただ。


 逃げないために。


 今は。


 そこにいる。


 馬車の窓から。


 外を見る。


 景色は。


 領都を離れるほど。


 少しずつ変わっていった。


 木々が減る。


 草の色が薄くなる。


 土が。


 白っぽく乾いている。


「雨が」


「少ないのですか」


「今年は」


「例年より少ない」


 アルフォンス様が答える。


「だが」


「雨だけが原因ではない」


「昔は」


「これくらいでも」


「川は流れていた」


「竜脈ですか」


「可能性はある」


 そこで。


 アルフォンス様は。


 一度言葉を切った。


「可能性」


「ですね」


「ああ」


 私は。


 少し笑った。


「とても良いと思います」


「……何がだ」


「断定しなかったところです」


「君に」


「鍛えられている気がする」


「良いことです」


「そうか?」


「はい」


 向かいに座っていたアンナが。


 窓の外を見たまま。


「お二人とも」


「以前より面倒な話し方になりましたね」


 と言った。


「アンナ」


「褒めています」


「今のどこに」


「褒める要素があったんですか」


「間違ったことを」


「簡単に決めなくなったという意味です」


「それなら」


「そう言ってください」


「長いので」


「面倒で済ませました」


 相変わらずだった。


          ◇


 途中。


 馬車が。


 一度止まった。


「どうしました?」


 御者へ尋ねると。


「いえ」


「道の上ではありません」


「上です」


「上?」


 窓から。


 身を乗り出さない程度に。


 空を見る。


 遠い尾根。


 黒い影が。


 岩の上にいた。


「ルゥ」


 私は。


 小さく呟く。


 こちらからは。


 姿が。


 点のようにしか見えない。


 それでも。


 三日間。


 屋敷の近くで。


 何度か見かけている。


 以前のように。


 すぐ森の奥へ消えることは。


 少なくなった。


 けれど。


 近づいてもこない。


「連れていくのですか」


 アンナが聞いた。


「いいえ」


 私は答えた。


「私たちが」


「連れていくものではありません」


 ルゥが。


 こちらを見ているのかも。


 分からない。


 たまたま。


 同じ方向へ移動しているだけかもしれない。


「行こう」


 アルフォンス様が。


 御者へ声をかける。


 誰も。


 ルゥを呼ばなかった。


 馬車は。


 再び動き出した。


 しばらくして。


 尾根を振り返ると。


 黒い影は。


 もう見えなかった。


          ◇


 ハルンへ近づいた時。


 最初に気づいたのは。


 音だった。


 水の音が。


 しない。


 川沿いの村なら。


 本来。


 小さくても。


 流れる音があるはずだ。


 けれど。


 聞こえるのは。


 馬車の車輪が。


 乾いた土を踏む音だけ。


「ここが」


「川ですか」


「ああ」


 アルフォンス様が。


 窓の外を見る。


 道の横。


 幅だけなら。


 人が十人は並べそうな。


 川底がある。


 けれど。


 水はない。


 石の間に。


 細い泥の跡だけが残っている。


 岸には。


 昔。


 船着き場として使われたらしい。


 朽ちた杭まであった。


「昔は」


「船が?」


「小舟なら」


「下流まで出せた」


「……今は」


「歩いて渡れますね」


「ああ」


 村の入口には。


 畑が広がっていた。


 ただ。


 広がっているだけだった。


 茎は。


 細い。


 葉は。


 黄色く縮れている。


 ところどころ。


 作物そのものを。


 植えていない畑もあった。


 耕しても。


 水を与えられないのだろう。


 馬車が。


 村へ入る。


 子どもが。


 二人。


 道端にいた。


 一人が。


 木の桶を持っている。


 桶の底には。


 ほんの少し。


 水が揺れていた。


 私たちの馬車を見ると。


 二人とも。


 家の陰へ走った。


「辺境伯の馬車が」


「怖いのでしょうか」


 私が言うと。


 アルフォンス様は。


 少しだけ。


 眉を寄せた。


「それなら」


「まだいい」


          ◇


 村の中央。


 小さな広場に。


 一つだけ。


 人が並んでいた。


 井戸だった。


 十数人。


 いや。


 二十人近い。


 それぞれ。


 桶。


 壺。


 鍋。


 使える器なら。


 何でも持っている。


 一人ずつ。


 縄を下ろしている。


 けれど。


 引き上げるまで。


 ずいぶん時間がかかる。


「深いんですね」


「昔より」


「水面が下がった」


 アルフォンス様が言った。


 馬車が止まる。


 私たちが降りると。


 広場の空気が。


 変わった。


「辺境伯様だ」


 誰かが。


 小さく言った。


 何人かが。


 頭を下げる。


 何人かは。


 目を逸らす。


 アルフォンス様が。


「突然来てすまない」


 と声をかける。


「村長はいるか」


「呼んできます」


 若い男性が。


 走っていった。


 私は。


 井戸を見る。


 石組みの縁。


 何度も縄を擦った傷。


 地面には。


 一滴でも無駄にしないよう。


 水を受けるための。


 浅い桶が置かれている。


 その横で。


 小さな女の子が。


 母親らしい女性へ聞いた。


「今日」


「もう一杯もらえる?」


「駄目よ」


「でも」


「喉かわいた」


「家に帰ってから」


「少し飲もうね」


 母親は。


 そう言いながら。


 私たちに気づき。


 娘を。


 自分の後ろへ隠した。


 目が。


 合う。


「こんにちは」


 私が声をかけると。


 女性は。


 返事をしなかった。


 代わりに。


 私の手を見た。


 手袋。


 その次に。


 私の服装を見る。


 そして。


 アルフォンス様を見る。


「その方は」


 かすれた声だった。


「王都の方ですか」


「リーゼロッテ・アルヴァだ」


 アルフォンス様が答える。


「今回の調査に」


「協力してもらっている」


 周囲が。


 ざわついた。


「アルヴァ?」


「まさか」


「竜葬師の?」


 その言葉で。


 空気が。


 はっきり変わった。


 先ほどまで。


 遠巻きに見ていた人たちが。


 一歩。


 離れる。


「死んだ奴の声を聞くっていう」


「本当に?」


「何しに来たんだ」


「この村で」


「誰の声を聞くんだよ」


 小さな声だった。


 でも。


 聞こえた。


 私は。


 何も答えず。


 周囲を見る。


 恐れている。


 嫌っている。


 警戒している。


 それくらいは。


 表情から分かる。


 それ以上は。


 分からない。


 なぜ怖いのか。


 何を嫌っているのか。


 私は。


 生きている人の心を。


 読むことはできない。


 だから。


 聞くしかない。


「今日は」


 私は言った。


「死者の声を聞きに来たわけではありません」


 ざわめきが。


 少し止まる。


「水が足りないと聞きました」


「ですから」


「今」


「ここで暮らしている皆さんのお話を」


「聞きに来ました」


 誰も。


 答えない。


 一人の男性が。


 鼻で笑った。


「話を聞いて」


「水が出るなら」


「いくらでも話すさ」


「出るとは」


「約束できません」


 私は答えた。


 男性が。


 眉をひそめる。


「じゃあ」


「何しに来た」


「原因を」


「まだ知らないからです」


「分からないことを」


「分からないままにしないために」


「来ました」


「……変な女だな」


 誰かが。


 呟いた。


 私は。


 少し考えた。


「よく言われます」


 アルフォンス様が。


 横で。


 僅かに息を吐いた。


 笑ったのかもしれない。


          ◇


「お待たせしました」


 村長が。


 急ぎ足でやってきた。


 六十前後。


 日に焼けた男性だった。


 深く頭を下げる。


「ハルン村長のベルトです」


「辺境伯様」


「お越しいただき」


「ありがとうございます」


「報告は読んだ」


 アルフォンス様が言う。


「詳しく聞かせてほしい」


「はい」


 村長は答え。


 私を見る。


「そちらは」


「竜葬師の方だ」


 一瞬。


 村長の表情が固まった。


 けれど。


 すぐ。


 頭を下げる。


「……そうですか」


 歓迎ではない。


 拒絶でもない。


 何かを。


 飲み込んだ顔だった。


「まず」


「井戸を見せていただけますか」


 私は尋ねた。


「構いませんが」


 村長は。


 私の手袋を見る。


「触るんですか」


「今日は」


「触りません」


「何にも?」


「はい」


「声を聞かないのですか」


「必要かどうかも」


「まだ分かりませんので」


 村長は。


 少しだけ。


 戸惑った。


 竜葬師が。


 遺品へ触れないということが。


 不思議なのかもしれない。


「分かりました」


「では」


「こちらへ」


          ◇


 最初に見た井戸は。


 広場のものだった。


 村で。


 今もまともに使える。


 最後の井戸。


 縄を下ろす。


 かなり長い。


 やがて。


 小さな音がする。


「昔は」


「この半分も下ろせば」


「水へ届きました」


 村長が言った。


「いつ頃から下がり始めたのですか」


「少しずつです」


「七年ほど前から」


「はっきり減ったのは」


「五年ほど前からでしょうか」


 私は。


 手帳へ書く。


「川は?」


「もっと早くから」


「細くなっていました」


「完全に流れなくなったのは?」


「三年前です」


「上流の村は?」


「水はあります」


「少ないですが」


「ここほどではない」


「雨量は」


「ほぼ同じですね」


 アルフォンス様が言った。


「そうです」


 私は。


 記録する。


 雨だけでは。


 説明しづらい。


 でも。


 まだ。


 それだけだ。


「もう二つの井戸も」


「見せてもらえますか」


「はい」


 村長は。


 少し歩いてから。


 振り返った。


「ですが」


「一つは」


「パン屋の裏です」


「問題がありますか」


「……店主が」


「少々」


「気が強いので」


 アンナが。


 小さく言った。


「お嬢様と相性が良さそうですね」


「どういう意味ですか」


「そのままです」


          ◇


 二つ目の井戸は。


 本当に。


 枯れていた。


 底まで。


 石と土しか見えない。


 三つ目は。


 村の西側。


 小さな家々が並ぶ場所にある。


 近づく前から。


 匂いがした。


 小麦。


 酵母こうぼ


 薪。


 それから。


 焼いたパンの。


 香ばしい匂い。


「パンを」


「焼いているんですね」


 私は。


 少し驚いた。


「水が足りなくても」


「パンは必要です」


 村長が言った。


「マルタの店です」


 店の前には。


 木の看板がある。


 けれど。


 扉は閉じられていた。


 煙突から。


 細い煙だけが上がっている。


 店の横を通り。


 裏へ回る。


 そこに。


 三つ目の井戸があった。


 広場のものより。


 ずっと小さい。


「ここは」


「一日にどれくらい?」


「朝」


「桶で二、三杯」


「それだけです」


 私は。


 井戸の縁へ。


 近づく。


 もちろん。


 手袋は外さない。


 中を見る。


 暗い。


 水面は。


 見えなかった。


「この辺りに」


「昔」


「水路はありましたか」


「ありました」


 村長が。


 裏手を指す。


「山から」


「小さな流れが来ていたんです」


「それを」


「井戸へ?」


「いえ」


「畑へ流していました」


「井戸とは」


「別の水だった?」


「そう思っていました」


 思っていた。


 大切な言葉だ。


 実際に。


 地下でどう繋がっていたのかまでは。


 村人には分からない。


「古い水路を」


「後で見せてください」


「分かりました」


 その時。


 背後で。


 扉の開く音がした。


「何してる」


 低い。


 女性の声だった。


          ◇


 振り返る。


 四十歳ほどの女性が。


 パン屋の裏口に立っていた。


 袖を肘までまくり。


 腕には。


 小麦粉がついている。


 髪を。


 後ろで一つにまとめている。


 村長が。


 少し困った顔をした。


「マルタ」


「辺境伯様が」


「見れば分かる」


 女性。


 マルタさんは。


 アルフォンス様へ。


 形だけ。


 頭を下げた。


「ご領主様」


「こんな枯れた村へ」


「わざわざどうも」


 言葉は丁寧だった。


 声は。


 まったく丁寧ではなかった。


「井戸を調べている」


 アルフォンス様が言う。


「見れば分かります」


 同じ返事だった。


 そして。


 マルタさんの視線が。


 私へ移る。


「そっちは?」


「リーゼロッテ・アルヴァです」


 私は頭を下げる。


「水不足の調査を」


 そこまで言ったところで。


 彼女の目が。


 私の手袋で止まった。


「アルヴァ」


 声が。


 変わった。


「……竜葬師か」


 村長が。


「マルタ」


 と止める。


 けれど。


 彼女は。


 私から目を逸らさなかった。


「はい」


 私は答える。


「そうです」


「死んだ奴の声を」


「聞くんだってな」


「強い思いが残った遺品へ」


「素手で触れた時だけです」


「今は」


「そんな説明を聞いてない」


 マルタさんが。


 一歩。


 こちらへ来た。


 アルフォンス様は。


 動かない。


 私と彼女の間にも。


 入らない。


「竜を弔うんだろ」


「はい」


「竜の言い分を」


「聞いて回ってるんだろ」


「竜だけではありません」


「人間の死者の声も」


「同じです」


「同じ?」


 その一言に。


 強いとげがあった。


「竜と」


「人間が?」


 私は。


 すぐには。


 答えなかった。


 マルタさんの手を見る。


 小麦粉のついた手が。


 強く握られている。


 右手の薬指に。


 古い指輪。


 その首には。


 細い革紐がある。


 革紐の先は。


 服の中へ隠れている。


 遺品かどうかは。


 分からない。


 誰の物かも。


 分からない。


 だから。


 見ない。


 決めない。


「命の価値が」


「まったく同じだと」


「私が決められるとは思っていません」


 私は答えた。


「ただ」


「亡くなった者の言葉を」


「聞く時に」


「人間だから聞く」


「竜だから聞かない」


「という分け方はしていません」


「……そうか」


 マルタさんの声が。


 冷たくなる。


「だったら」


「うちには」


「来るな」


「マルタ」


「村長は黙ってて」


 彼女は。


 私を見ている。


「竜の声なんか」


「聞きたくもない」


「竜を弔う奴も」


「見たくない」


 空気が。


 止まった。


 私は。


 彼女を責めなかった。


「分かりました」


 そう答える。


 マルタさんの眉が。


 僅かに動く。


「……何が」


「あなたのお店には」


「勝手に入りません」


「所有物にも」


「触れません」


「あなたが望まない限り」


「声を聞くこともしません」


 マルタさんは。


 しばらく。


 私を見た。


「物分かりのいいふりをするな」


「ふりではありません」


「だったら」


 彼女の声が。


 少しだけ。


 震えた。


「竜なんかより」


「生きてる人間を助けろよ」


 私は。


 何も言えなかった。


 怒鳴られたからではない。


 その言葉が。


 正しい部分を。


 持っていたからだ。


 死者の声を。


 聞いてきた。


 ミラ。


 ノクス。


 名も知らない竜たち。


 その声を。


 無視したくなかった。


 でも。


 今。


 目の前にいる人たちも。


 水がなく。


 畑が枯れ。


 喉が渇いている。


「はい」


 私は答えた。


「そのために」


「来ました」


「……」


「今日は」


「誰の声も聞きません」


 私は。


 手袋をした両手を。


 彼女に見えるよう。


 少し上げた。


「まず」


「生きている方のお話を」


「聞きます」


 マルタさんは。


 笑わなかった。


 怒りも。


 消えなかった。


「私は」


「話すことなんかない」


「分かりました」


「帰れ」


「井戸の調査が終わったら」


「ここからは離れます」


「村から帰れって言ってる」


「それは」


「できません」


 即答した。


 マルタさんの目が。


 鋭くなる。


「なぜ」


「この村には」


「水が必要だからです」


「……」


「嫌われても」


「調べるべきことは調べます」


「ただし」


「あなたに」


「私を好きになってくださいとは」


「言いません」


 長い。


 沈黙。


 アンナが。


 後ろで。


 ものすごく小さく。


 ため息をついた。


 たぶん。


 また面倒なことを言っていると。


 思われている。


 けれど。


 マルタさんは。


 私を睨んだまま。


「勝手にしろ」


 と言った。


 そして。


 裏口へ戻る。


 扉を閉める直前。


 私は。


 店の中を。


 ほんの少しだけ見た。


 棚に。


 パンが並んでいる。


 大きいものはない。


 水をあまり使わない。


 硬そうなパンばかり。


 その奥。


 壁に。


 小さな木剣が。


 掛けられていた。


 子ども用の。


 使い込まれた木剣。


 私は。


 視線を外した。


 誰の物かは。


 知らない。


 今は。


 知る必要もない。


 扉が閉まる。


          ◇


「すみません」


 村長が。


 頭を下げた。


「マルタは」


「以前から」


「竜の話になると」


「必要ありません」


 私は言った。


「謝る必要はありません」


「ですが」


「理由を聞いても?」


 村長は。


 迷った。


「本人から」


「聞いた方がいいでしょうか」


「そうですね」


 私は頷く。


「マルタさんが」


「話したくないことを」


「他の方から先に聞くのは」


「できれば避けたいです」


「……変わった方ですね」


「今日」


「二人目です」


「何がです?」


「変わっていると言われたのが」


 村長は。


 一瞬。


 何を言われたのか分からない顔をして。


 それから。


 ほんの少しだけ。


 笑った。


          ◇


 日が傾くまで。


 私たちは。


 村を歩いた。


 能力は。


 使わなかった。


 井戸の深さ。


 水が減り始めた時期。


 畑の場所。


 昔の川幅。


 雨の記録。


 隣村から。


 水を買い始めた時期。


 村人たちから。


 一つずつ。


 聞いた。


 全員が。


 歓迎してくれたわけではない。


「死人に聞けばいいだろ」


 と言う人もいた。


「竜葬師に水が分かるのか」


 と笑う人もいた。


 私が近づくと。


 子どもの手を引いて。


 離れる母親もいた。


 そのたびに。


 胸の奥が。


 少しだけ痛んだ。


 昔から。


 慣れている。


 そう思いかけて。


 やめた。


 慣れていることと。


 傷つかないことは。


 同じではない。


「少し」


「寂しいです」


 夕方。


 私は。


 アルフォンス様へ言った。


 彼が。


 こちらを見る。


「怖がられるのは」


「慣れていると思っていました」


「でも」


「少し」


「寂しいです」


 自分で言って。


 少し驚いた。


 アルフォンス様は。


 慰めなかった。


「そうか」


「はい」


「帰るか?」


「いいえ」


「そう言うと思った」


「では」


「なぜ聞いたんですか」


「選べるように」


 私は。


 少しだけ。


 黙った。


「ありがとうございます」


「ああ」


 それで。


 十分だった。


          ◇


 村長宅の一室を。


 宿として借りることになった。


 窓の外。


 夕暮れのハルンは。


 静かだった。


 川の音は。


 やはりしない。


 遠くで。


 井戸の滑車かっしゃだけが。


 きい。


 きい。


 と鳴っている。


 私は。


 今日の記録を。


 机へ並べた。


 七年前から。


 水位低下。


 五年前から急激に悪化。


 三年前。


 川が完全に枯れた。


 雨量の減少だけでは。


 説明できない可能性。


 上流には。


 まだ水がある。


 昔の水路。


 三つの井戸。


 そして。


 村人の証言。


 まだ。


 答えはない。


 死者の声も。


 必要ない。


 少なくとも。


 今は。


 私は。


 手袋をしたまま。


 記録を書き続ける。


 その時。


 窓の外から。


 微かな音がした。


 翼の音。


 顔を上げる。


 村の外。


 枯れた畑の向こう。


 遠い丘の上に。


 黒い影がいた。


 ルゥだった。


 村へは。


 入ってこない。


 こちらへも。


 近づかない。


 ただ。


 遠くから。


 村を見ている。


 私は。


 呼ばなかった。


 この村には。


 竜を恐れる人がいる。


 竜を嫌う人もいる。


 そして。


 パン屋のマルタさんは。


 竜の話をしただけで。


 手を震わせた。


 理由は。


 まだ知らない。


 知らないことは。


 知らないままにしておく。


 それが。


 今の私にできる。


 最初のことだった。


 私は。


 再び。


 紙へ視線を落とす。


 死者の声ではなく。


 今日聞いた。


 生きている人たちの言葉を。


 一つずつ。


 書き残した。


 枯れた村には。


 水がない。


 けれど。


 それだけではない。


 ここには。


 まだ。


 私の知らない怒りと。


 悲しみがある。


 そして。


 明日から私は。


 その声を。


 素手ではなく。


 自分の耳で。


 聞かなければならない。

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