最初の竜葬
翌朝。
私は。
手袋を外さなかった。
ノクスの洞窟には。
まだ。
聞ける声が残っている。
鞍にも。
折れた牙にも。
骨にも。
けれど。
今日は。
死者へ問いかけるために来たのではない。
弔うために来た。
◇
「本当に」
「触れなくていいんですか」
洞窟へ入る前。
オスカー先生が聞いた。
「はい」
「即答ですね」
「昨日」
「必要な言葉は聞きました」
右腕には。
まだ包帯が巻かれている。
ルゥに噛まれた傷も。
完全には塞がっていない。
けれど。
痛みは。
昨日よりずっと軽い。
「今日は能力を使いません」
「大変よろしい」
オスカー先生が頷いた。
「あなたが自分からそう言う日が来るとは」
「私も成長しています」
「噛まれてから急に学習速度が上がりましたね」
「できれば」
「別の言い方をしてください」
「事実です」
反論できなかった。
◇
洞窟の中には。
アルフォンス様。
ギルベルトさん。
そして。
ノクスを知る数人の騎士がいた。
大勢は呼ばなかった。
領主の儀式でも。
騎士団の式典でもないからだ。
今日ここで弔うのは。
英雄として記録された黒竜でも。
辺境を守った戦力でもない。
ノクスという。
一頭の竜だった。
洞窟の奥。
巨大な黒い骨が。
静かに横たわっている。
右の角はない。
胸骨も。
左翼の一部もない。
失われたものは。
まだ戻っていない。
だから。
すべてを埋葬することはできなかった。
証拠として。
残さなければならない骨もある。
鞍も。
まだ保管する。
これは。
完全な別れではない。
最初の弔い。
止まっていたものを。
ほんの少し動かすための儀式だ。
◇
「これを」
ギルベルトさんが。
布に包まれたものを持ってきた。
中には。
小さな骨片があった。
ノクスの左側に残っていた。
砕けた肋骨の一部。
既に本体から離れていたものだ。
傷の位置も。
形も。
騎士団の記録へ残してある。
「これなら」
「調査を妨げません」
「アルフォンス様」
私は確認する。
「本当に」
「この骨を弔ってよいですか」
「ああ」
「一度土へ返せば」
「証拠として取り出すことはしません」
「ああ」
「後から」
「やはり残しておけばよかったと思うかもしれません」
「分かっている」
アルフォンス様は。
骨片を見る。
そして。
少し間を置いてから。
「それでも」
「返したい」
と答えた。
「分かりました」
私は。
それ以上。
確認しなかった。
◇
竜葬には。
豪華な祭壇は必要ない。
少なくとも。
私が知る古い作法では。
死者を飾り立てることより。
誰を弔うのかを。
生きている者が知っていることの方が。
大切だった。
洞窟の入口近く。
朝の光が届く場所に。
浅い穴を掘った。
深すぎない。
骨を隠すためではない。
土地へ返すための穴だ。
底へ。
乾いた土を敷く。
その上へ。
黒い布に包んだ骨片を置いた。
私は。
手袋をしたまま。
その前へ膝をつく。
「黒竜ノクス」
名前を呼ぶ。
反応はない。
当然だ。
死者は。
儀式をすれば。
起きて答えるものではない。
「あなたの骨の一部を」
「今日」
「グレイヴの土へ返します」
風が。
洞窟の中を抜けた。
「奪われたものは」
「まだ戻っていません」
「分からないことも」
「残っています」
「だから」
「これですべてを終わりにはしません」
私は。
土を見る。
「あなたを」
「分かったことにもしません」
ノクスの最後に。
何があったのか。
まだ。
すべては分からない。
死者の言葉を聞いても。
偽造された命令書を見つけても。
ギルベルトさんの告白を聞いても。
六年前の全てを知ったわけではない。
「けれど」
「一つだけ」
私は。
顔を上げる。
「あなたを」
「死んだ黒竜としてだけではなく」
「生きていたノクスとして」
「覚えている人たちがいます」
◇
私は。
アルフォンス様を見る。
「お願いします」
彼は。
少し困ったように。
私を見る。
「何を言えばいい」
「何でも」
「弔辞でなくても構いません」
「立派な話である必要もありません」
「ノクスについて」
「あなたが覚えていることを」
アルフォンス様は。
しばらく黙った。
昨日。
彼は泣いた。
六年間。
ほとんど形にならなかった感情が。
ようやく。
涙になった。
だからといって。
今日。
急に何でも話せるようになったわけではない。
「……山林檎」
「はい?」
「あいつは」
「山林檎が好きだった」
私は。
黙って聞く。
「最初に会った時」
「俺の分まで食べた」
「三つ持っていけば」
「二つ食べた」
「四つ持っていけば」
「三つ食べた」
少しだけ。
騎士たちの間から。
息を漏らすような笑いが聞こえた。
「一つは残してくれたんですね」
「腹がいっぱいになっただけだ」
「そこは」
「まだ断定できないのでは」
「……君は」
「こういう時まで厳密だな」
「大切なことです」
「そうだったな」
アルフォンス様は。
ほんの少し。
口元を緩める。
そして。
骨を見る。
「俺を」
「アルと呼んだ」
洞窟が。
静かになる。
「俺が」
「辺境伯家の跡取りでも」
「竜騎士でも」
「団長でもない時から」
言葉が。
途切れる。
「最後まで」
「アルだった」
それだけ言って。
アルフォンス様は。
黙った。
「ありがとうございます」
私は言った。
◇
「次は」
ギルベルトさんを見る。
「俺もか」
「ノクスを知っていますから」
「……そうだな」
ギルベルトさんが。
骨の前へ進んだ。
顔には。
迷いがある。
「俺は」
最初の言葉が。
なかなか出ない。
「謝るつもりだった」
アルフォンス様の視線が。
僅かに動いた。
「六年前から」
「ずっと」
「ノクスの骨の前へ来る度に」
「謝ろうと思っていた」
ギルベルトさんは。
拳を握る。
「でも」
「今日は」
「やめる」
私は。
何も言わない。
「俺が謝りたいことと」
「ノクスが何を思っていたかは」
「別だからな」
あの日。
救援部隊を止めた。
その責任は。
消えない。
けれど。
弔いの場を。
自分を罰するためだけに使うのも。
違うのだと思う。
「だから」
ギルベルトさんは。
少し考える。
「覚えていることを言う」
骨を見る。
「あいつは」
「人の兜をよく盗った」
「……盗った?」
私は聞き返した。
「正確には」
「咥えて持っていった」
「それを盗ったと言うのでは」
「そうとも言う」
後ろにいた騎士の一人が。
小さく。
「三回やられました」
と言った。
「お前か」
「はい」
「返してもらえたのか」
「崖の上に置かれました」
「嫌われていたのでは」
「違います」
騎士が。
即座に答える。
「たぶん」
「遊ばれていました」
「たぶん?」
「リーゼロッテ嬢がいるので」
「断定を避けました」
「皆さん」
「学習していますね」
小さな笑いが。
今度は。
確かに広がった。
死者の前で。
笑っている。
以前の私なら。
不謹慎だと思ったかもしれない。
でも。
違った。
これは。
ノクスが生きていた時の話だ。
死に方だけではない。
生き方を。
覚えている人たちの声だった。
◇
騎士たちは。
一人ずつ。
短い話をした。
「見張り中に寝たら」
「背中を鼻で押されて谷へ落ちかけました」
「起こしてくれたのでは」
「その後笑われた気がするので違います」
「竜は声で笑えないでしょう」
「顔です」
別の騎士が言う。
「訓練で失敗すると」
「アルフォンス様ではなく」
「なぜか俺の方を見るんです」
「それは」
「お前の指示が悪かったからだ」
「閣下まで言いますか」
また。
小さく笑いが起きる。
そして。
少しずつ。
笑いは。
静かになった。
最後に。
年嵩の騎士が言った。
「怖かった」
皆が。
彼を見る。
「ノクスと初めて飛んだ時」
「怖かった」
「誇らしかったし」
「嬉しかった」
「でも」
「死ぬほど怖かった」
彼は。
骨を見る。
「今まで」
「そんなこと」
「言えなかった」
「竜騎士が竜を怖がったなんて」
「情けないと思っていたから」
アルフォンス様が。
静かに言う。
「俺も」
騎士が。
目を見開く。
「初めて」
「ノクスの背に乗った時は」
「怖かった」
「閣下が?」
「ああ」
「吐いた」
「……」
「言うな」
「ご自分で言いました」
「忘れろ」
騎士たちの肩が。
震えた。
誰も。
英雄ではなかった。
竜も。
人間も。
立派な物語だけで。
生きていたわけではない。
怖がって。
失敗して。
怒って。
笑って。
それでも。
一緒に飛んだ。
そういう時間が。
確かにあった。
◇
全員の言葉が終わった後。
私は。
骨片へ。
最初の土をかけた。
手袋越し。
能力は。
何も起こらない。
声も。
映像も。
流れ込んでこない。
それでいい。
「黒竜ノクス」
もう一度。
名を呼ぶ。
「あなたの死を」
「なかったことにはしません」
一掬い。
土を落とす。
「あなたが傷つけられたことも」
「奪われたものも」
「調べ続けます」
もう一掬い。
「けれど」
私は。
アルフォンス様を見る。
「生きていたあなたを」
「最期の苦しみだけに」
「閉じ込めません」
風が。
洞窟の外から入った。
「今日」
「あなたの骨の一部を」
「この土地へ返します」
「眠れとは」
「言いません」
私は。
少しだけ。
笑った。
「眠るかどうかは」
「あなたが決めてください」
ギルベルトさんが。
小さく息を吐いた。
アルフォンス様は。
何も言わない。
ただ。
ノクスの骨を見ていた。
「私たちは」
「生きている側の時間を」
「少しずつ」
「動かします」
◇
アルフォンス様が。
次の土を取った。
右手で。
震えていた。
昨日と。
同じように。
震えは。
消えていない。
けれど。
彼は。
左手へ持ち替えなかった。
震える右手のまま。
土を落とした。
「ノクス」
低い声。
「俺は」
止まる。
でも。
今度は。
言葉を飲み込まなかった。
「まだ」
「お前がいないことに」
「慣れない」
土が。
骨片の上へ落ちる。
「たぶん」
「これからも」
「完全には慣れない」
震えが。
少し強くなる。
「それでも」
昨日聞いた。
あの言葉。
生きろ。
アルフォンス様が。
息を吐く。
「生きる」
私は。
何も言わなかった。
それは。
私が伝えたノクスの命令に。
従った言葉ではない。
アルフォンス様自身が。
選んだ言葉だった。
だから。
何も足さなかった。
◇
ギルベルトさんも。
土をかけた。
騎士たちも続いた。
最後に。
小さな石を置いた。
文字は刻まない。
ここが。
ノクスの全ての墓ではないからだ。
失われた骨がある。
鞍も残っている。
何より。
ノクスを覚えている生者が。
まだいる。
石一つへ。
全部を閉じ込める必要はなかった。
◇
儀式が終わっても。
誰も。
すぐには動かなかった。
その時。
洞窟の外。
岩の向こうから。
黒い影が見えた。
「ルゥ」
誰かが。
小さく呟く。
ルゥだった。
かなり離れている。
こちらへ近づこうとはしない。
翼を畳み。
岩陰から。
私たちを見ている。
いつからいたのかは。
分からない。
儀式を理解していたのかも。
分からない。
「追わないでください」
私は。
小さな声で言った。
誰も動かなかった。
ルゥは。
こちらを見る。
私。
騎士たち。
ギルベルトさん。
そして。
アルフォンス様。
その時。
首が。
僅かに下がった。
低い唸り。
アルフォンス様の肩が。
強張る。
でも。
彼は。
手を伸ばさなかった。
「ルゥ」
名前だけ。
呼ぶ。
返事はない。
「今日は」
アルフォンス様が言う。
「ノクスの骨を」
「少しだけ」
「土へ返した」
ルゥの瞳が。
動く。
「許せとは言わない」
声は。
低い。
「俺を」
「信じろとも言わない」
一度。
息を吸う。
「ただ」
「お前の父親を」
「俺は」
「忘れない」
ルゥが。
動いた。
騎士の一人が。
僅かに身構える。
「動かないで」
私は言う。
ルゥは。
一歩。
前へ出た。
たった一歩。
それだけ。
まだ。
アルフォンス様との間には。
長い距離がある。
触れられるような距離ではない。
近づけば。
逃げるかもしれない。
噛みつくかもしれない。
次の瞬間には。
また離れていくかもしれない。
だから。
誰も。
その一歩へ。
意味を与えなかった。
許した。
信じた。
父の相棒だと認めた。
そんなことは。
何一つ。
分からない。
ただ。
昨日までより。
一歩。
距離が短くなった。
それだけが。
今ここにある事実だった。
◇
アルフォンス様の右手が。
震えている。
ルゥを見ながら。
それでも。
隠さなかった。
「……ありがとう」
彼が言った。
私は。
少し驚いた。
ルゥへ。
近づいてくれたことを。
感謝したのだろうか。
あるいは。
ただそこにいてくれたことを。
感謝したのか。
それも。
本人に聞かなければ。
分からない。
ルゥは。
しばらく。
アルフォンス様を見ていた。
やがて。
くるりと背を向ける。
黒い翼を広げ。
一度。
地面を蹴った。
朝の光の中へ。
小さな身体が。
飛び出していく。
誰も。
追わなかった。
◇
「行きましたね」
「ああ」
アルフォンス様が。
遠ざかる影を見ている。
「寂しいですか」
私は聞いた。
少し前なら。
彼は。
分からないと答えたかもしれない。
長い沈黙。
それから。
「少し」
答えた。
「そうですか」
「ああ」
「では」
「それでいいと思います」
「君は」
「何でもそれでいいと言うな」
「いいものは」
「いいので」
「そうか」
「はい」
アルフォンス様は。
空を見る。
黒い影は。
もう。
ほとんど見えない。
「リーゼロッテ」
「はい」
「ありがとう」
今度は。
私へ向けた言葉だと。
分かった。
「私は」
「声を伝えただけです」
「違う」
「……」
「聞かないことも」
「待つことも」
「教えられた」
私は。
少しだけ。
返事に困った。
「それなら」
考えて。
答える。
「私も」
「アルフォンス様に」
「待っていただいたことがあります」
母の弔い帳。
触れられなかった。
あの時。
彼は。
無理に触れとは。
言わなかった。
「お互い様です」
「そうか」
「はい」
それで。
十分だった。
◇
洞窟を出る前。
私は。
一度だけ。
振り返った。
ノクスの巨大な遺骨。
欠けた身体。
残された鞍。
そして。
入口近くにできた。
小さな土の盛り。
何も。
元には戻っていない。
ノクスは。
生き返らない。
アルフォンス様の失ったものも。
すべてが戻ったわけではない。
ギルベルトさんの罪も。
消えていない。
ルゥも。
人間を許してはいない。
それでも。
昨日までとは。
少し違う。
弔いとは。
死者を忘れるための儀式ではない。
悲しみを消すためでもない。
失ったものを。
失ったまま。
抱えて。
生きている人間が。
次の一歩を選ぶための。
区切りなのだ。
私は。
ようやく。
その意味を。
自分自身にも。
少しだけ。
理解し始めていた。
◇
洞窟の外へ出る。
朝日は。
思ったより。
暖かかった。
オスカー先生が。
私の顔を見る。
「頭痛は」
「ありません」
「耳鳴りは」
「ありません」
「手は」
私は。
手袋をした両手を見せる。
「冷えていません」
「能力を使っていないので」
「当然です」
「はい」
「では」
「今日は休んでください」
「儀式が終わったばかりですが」
「だからです」
「……はい」
素直に答えると。
オスカー先生が。
逆に少し驚いた顔をした。
「何ですか」
「いえ」
「人は変わるものだと思いまして」
「私も変わります」
言ってから。
自分でも。
少しだけ。
不思議に思った。
以前の私なら。
変わることを。
怖がっていた気がする。
死者の声を聞くこと。
それだけが。
自分の役目だと思っていたから。
でも。
今日。
私は。
一度も声を聞かなかった。
それでも。
弔うことはできた。
生きている人たちが。
自分の言葉で。
ノクスを語ったから。
そして。
最後に。
生きている一頭の竜が。
自分の意思で。
一歩だけ。
距離を縮めた。
死者の声だけでは。
作れなかった一歩だった。
私は。
遠くの空を見る。
もう。
ルゥの姿はない。
それでも。
確かに。
あの一歩を。
見た。
ノクスの弔いは。
まだ。
終わっていない。
私たちの調査も。
終わっていない。
けれど。
六年間。
止まっていた時間が。
ようやく。
ほんの少しだけ。
前へ動いた。




