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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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37/46

許すことはできない

 その日の午後。


 騎士団本部の会議室には、三人しかいなかった。


 私。


 アルフォンス様。


 そして。


 ギルベルトさん。


 窓の外では、雲の切れ間から細い光が落ちていた。


 机の上には。


 折り畳まれた一枚の紙。


 ギルベルトさんの辞表が置かれている。


 アルフォンス様は、それを見ていた。


 長い間。


 何も言わなかった。


 私は口を挟まない。


 これは。


 私が決めることではないからだ。


「ギルベルト」


「はい」


 先ほどまでとは違う。


 ギルベルトさんの返事は。


 副団長としてのものだった。


「辞表は受理しない」


 静かな声。


 ギルベルトさんの眉が、僅かに動く。


「……理由を伺っても?」


「許したからではない」


「はい」


「お前が必要だからでもない」


 そこで。


 アルフォンス様が一度、言葉を止めた。


「いや」


 言い直す。


「それは違うな」


 ギルベルトさんが顔を上げる。


「副団長として、お前が必要なのは事実だ」


「……」


「だからこそ」


 アルフォンス様は辞表へ手を置いた。


「必要だから罪を見なかったことにするのも違う」


「罰したいから追い出すのも違う」


 右手が。


 僅かに震えている。


 それでも。


 紙から手を離さない。


「今のお前を罷免ひめんすれば」


「たぶん俺は」


「少しだけ楽になる」


 ギルベルトさんの表情が固まった。


「ノクスを救えなかった理由を」


「お前一人に押しつけられるからだ」


「閣下」


「最後まで聞け」


「……はい」


「俺は」


 アルフォンス様が続ける。


「六年間、自分を責めていた」


「自分が間に合わなかったから」


「自分がノクスを死なせたと」


「そう思っていた」


 その声は。


 怒っているようには聞こえなかった。


 むしろ。


 怒りを。


 一つずつ。


 言葉へ直しているように聞こえた。


「そこへ」


「お前が部隊を止めたと知った」


「俺は」


「嬉しかったのかもしれない」


 ギルベルトさんが。


 目を見開く。


 私も。


 思わずアルフォンス様を見る。


「責められる相手が見つかったからだ」


「……」


「最低だろう」


「いいえ」


 口から出そうになった言葉を。


 私は止めた。


 違う。


 ここで私が。


 善悪を決めてはいけない。


 アルフォンス様は。


 自分の言葉で続ける。


「だが」


「お前の家族が人質にされていたと知った」


「それで」


「また分からなくなった」


「誰を責めればいいのか」


「どこまでがお前の責任で」


「どこからが命令を作った奴の責任なのか」


「俺には」


「まだ整理できない」


 ギルベルトさんは。


 何も言わなかった。


「だから」


 アルフォンス様は。


 辞表を持ち上げる。


「今は受理しない」


「……」


「処分を先送りにするつもりですか」


「そうだ」


 意外なほど。


 はっきりした返事だった。


「今の俺には」


「感情と処分を分ける自信がない」


「だから待つ」


「それだけだ」


          ◇


「ただし」


 アルフォンス様が言う。


「何も変えないわけではない」


「はい」


「六年前に関係する原本記録への単独での閲覧権限を外す」


「……はい」


「今後、記録庫へ入る場合は必ず別の騎士を同行させろ」


「承知しました」


「王都との連絡記録」


「軍務局の馬匹ばひつ台帳」


「当時使われていた宿」


「お前の母親が通っていた治療院」


「調べられるものはすべて調べる」


「はい」


「お前は証言者として協力しろ」


「調査する側ではなく?」


「少なくとも」


「自分に関係する記録についてはな」


 ギルベルトさんが。


 僅かに苦く笑った。


「信用されていないな」


「当たり前だ」


「そうだな」


「だが」


 アルフォンス様が続ける。


「副団長としての通常任務は続けろ」


「……」


「辺境の警備も」


「騎士たちの指揮も」


「ルゥの件も」


「今まで通りだ」


「閣下」


「勘違いするな」


 低い声。


「これは赦免しゃめんじゃない」


「分かっています」


「俺は」


「お前を許していない」


 はっきりと。


 言った。


 ギルベルトさんの顔が。


 少しだけ。


 歪んだ。


 でも。


 視線は逸らさなかった。


「はい」


「今後も」


「許せるか分からない」


「はい」


「それでも」


 アルフォンス様は。


 辞表を机の引き出しへしまった。


「仕事はしてもらう」


「……随分と」


 ギルベルトさんが息を吐く。


「厳しい処分ですね」


「追放された方がよかったか」


「正直に言えば」


「少しは」


 アルフォンス様の眉が動く。


「楽だったかもしれません」


 ギルベルトさんは。


 自分の手を見る。


「辞めれば」


「ここから離れられる」


「ノクスの骨も」


「ルゥも」


「閣下も」


「見なくて済む」


「……」


「だから」


 彼は。


 小さく笑った。


「残れと言われる方が」


「たぶん」


「俺にはきつい」


「なら丁度いい」


「そうかもしれません」


 仲直りには。


 見えなかった。


 笑ってもいない。


 手も握らない。


 六年前のことを。


 水に流す言葉もない。


 それでも。


 二人は。


 同じ机を挟んで座っている。


 昨日までより。


 少しだけ。


 正しい距離に見えた。


          ◇


「一つ」


 ギルベルトさんが言う。


「俺からも条件がある」


「条件?」


「ああ」


 アルフォンス様の目が細くなる。


「言ってみろ」


「俺が六年前にしたことを」


「記録から外さないでくれ」


 私は。


 ギルベルトさんを見る。


「脅迫されていたことだけを残して」


「俺が部隊を止めたことを薄めないでほしい」


「……」


「家族を人質にされていた」


「命令書は偽造されていた」


「それは事実だ」


「でも」


「俺が北門を閉じたことも事実だ」


「全部」


「同じ記録に残してくれ」


 アルフォンス様は。


 答えない。


 私は。


 帳面へ視線を落とす。


 そこには。


 私が書き取った言葉がある。


 家族を守りたかった。


 怖かった。


 部隊を止めた。


 命令に従った。


 後悔している。


 同じ状況に戻った時。


 今度は違う選択ができるか分からない。


 どれか一つだけを選べば。


 別の人物になる。


「残します」


 私は言った。


 二人がこちらを見る。


「理由も」


「行為も」


「結果も」


「分けずに残します」


「リーゼロッテ」


「はい」


「それは」


 ギルベルトさんが。


 少しだけ困った顔をする。


「俺には」


「都合が悪いな」


「そうかもしれません」


「普通は少しくらい気を遣わないか?」


「記録には」


「なるべく気を遣わないことにしています」


「嫌な女だ」


「よく言われます」


 一度。


 ギルベルトさんが鼻で息を吐いた。


 笑ったのかどうか。


 微妙なところだった。


          ◇


 会議が終わった後。


 私は騎士団本部を出た。


 中庭の隅。


 大きな木の下に。


 黒い影がある。


「ルゥ」


 呼ぶ。


 耳が動く。


 でも。


 こちらへは来ない。


 私が歩いていくと。


 ルゥは一度立ち上がった。


 逃げるかと思ったけれど。


 二歩ほど下がったところで止まる。


「そこにいますね」


 もちろん。


 返事はない。


 私は。


 少し離れた場所へ座った。


 腕の傷は。


 布の下でまだ少し痛む。


 ルゥに噛まれた痕。


 でも。


 それを見せるようなことはしない。


「今日は」


「難しい話をしました」


 黒い瞳が。


 こちらを見る。


「あなたには関係のある話です」


「でも」


「私が勝手に」


「あなたの答えを決めることはできません」


 ルゥが。


 鼻を鳴らした。


「ギルベルトさんが」


「あなたに食べ物を置いていました」


「アルフォンス様は」


「六年前、あなたのお父様を助けられませんでした」


 言葉を選ぶ。


「だからといって」


「あなたがどちらかを許さなければならないとは」


「私は思いません」


 ルゥの尾が。


 地面を一度叩いた。


 怒ったのか。


 ただ虫を払っただけなのか。


 私には分からない。


 生きている者の心は。


 私には聞こえない。


「分からないままでいいんですよね」


 それは。


 ルゥへ言ったのか。


 自分へ言ったのか。


 私にも分からなかった。


          ◇


「何を話している」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 アルフォンス様だった。


「ルゥに」


「今日あったことを」


「全部?」


「話せる範囲は」


 アルフォンス様が。


 ルゥを見る。


 ルゥの身体が。


 目に見えて硬くなる。


 耳が伏せられ。


 喉の奥から。


 低い音が漏れた。


 アルフォンス様は。


 足を止める。


 近づかない。


「まだ嫌われているな」


「そうですね」


「慰めないのか」


「慰めてほしいのですか」


「いや」


「では」


 それで終わる。


 アルフォンス様は。


 私から少し離れた場所に立った。


 ルゥまでの距離は。


 私の倍以上ある。


「ルゥ」


 アルフォンス様が呼ぶ。


 黒竜の瞳が。


 彼を見る。


「ギルベルトを」


「俺は許していない」


 ルゥが。


 じっとしている。


「お前が」


「俺を許す必要もない」


 私は。


 何も言わなかった。


「ただ」


 アルフォンス様は。


 そこで。


 一度息を吐いた。


「お前の父親が」


「最期に何を思っていたのか」


「俺は知りたい」


 ルゥの耳が。


 僅かに上がる。


「でも」


「それを」


「俺を許す理由に使うつもりはない」


 その言葉に。


 私はアルフォンス様を見た。


 彼は。


 ルゥだけを見ている。


「ノクスが」


「俺を責めていなかったとしても」


「俺が救えなかったことは消えない」


「責めていたとしても」


「俺が死ぬまで自分を罰し続ければいいとも思わない」


 右手が。


 小さく震えていた。


「まだ」


「分からないが」


「それでも」


「聞かなければ」


「俺は」


「自分の後悔だけで」


「ノクスの最期を決め続けることになる」


 ルゥは。


 動かなかった。


 やがて。


 顔を逸らす。


 それから。


 木の根元へ。


 再び伏せた。


 逃げない。


 近づかない。


 ただ。


 そこに残った。


 アルフォンス様も。


 それ以上は何も言わなかった。


          ◇


「リーゼロッテ」


「はい」


「ノクスの鞍」


 心臓が。


 僅かに強く打った。


「……はい」


「あれに」


「触れる準備はできているか」


 私は。


 すぐには答えなかった。


 準備。


 以前なら。


 きっと。


 聞かれた瞬間に。


『できます』


 そう答えていた。


 たとえ。


 できなくても。


 でも。


 牙へ触れた時。


 私は。


 ノクスの痛みに引きずられた。


 声を失い。


 自分の記憶と。


 ノクスの記憶の境目まで。


 曖昧になった。


 あの鞍には。


 さらに強い思いが残っている可能性がある。


 最初の一度は。


 一度しかない。


 そして。


 私の身体も。


 一つしかない。


「今日すぐに」


 私は答える。


「と言われたら」


「断ります」


 アルフォンス様が。


 私を見る。


「そうか」


「はい」


「オスカー先生にも診てもらいます」


「儀式の手順も確認したいです」


「記録役も必要です」


「それから」


「アルフォンス様にも」


「決めていただきたいことがあります」


「俺に?」


「はい」


 私は。


 手袋をした右手を見る。


「鞍へ触れれば」


「何か聞こえるかもしれません」


「でも」


「聞こえた言葉が」


「アルフォンス様の望むものとは限りません」


「分かっている」


「ノクスが」


「ギルベルトさんを責めているかもしれません」


「……ああ」


「アルフォンス様を責めているかもしれません」


 彼の右手が。


 止まる。


「逆に」


「誰も責めていないかもしれません」


「はい」


「そして」


「私が受け取れるのは」


「ノクスの最期に残った断片だけです」


「六年前の出来事を」


「すべて説明してくれるわけではありません」


「分かっている」


「質問しても」


「答えてはもらえません」


「ああ」


「なら」


 私は。


 彼を見る。


「何のために」


「ノクスの声を聞きたいですか」


          ◇


 長い沈黙だった。


 以前。


 王都で。


 アルフォンス様は私に言った。


 自分の望む答えを選ばないでほしいと。


 その約束は。


 今も変わっていない。


 でも。


 あの頃とは違う。


 今は。


 聞く前に。


 なぜ聞くのかを。


 私たちは確かめようとしている。


「六年前を」


 アルフォンス様が言う。


「裁くためではない」


「はい」


「ギルベルトを」


「許すためでもない」


「はい」


「俺が」


「許されるためでもない」


 右手が。


 また少し震える。


「ノクスが」


「最期に残したものを」


「俺の後悔で上書きしないためだ」


 私は。


 その答えを。


 静かに聞いた。


「俺はずっと」


「ノクスは」


「俺を待っていたと思っていた」


「助けを」


「俺だけを」


「……」


「でも」


「牙に残っていたのは」


「あの子を守ろうとする姿だった」


 炎。


 拘束具。


 ミラ。


 小さなルゥ。


 そして。


 最後に聞こえた。


 途切れた言葉。


 ――アル。


 ――来るな。


 ――あの子を――


 その先を。


 私は知らない。


「俺が」


 アルフォンス様は続ける。


「勝手に」


「ノクスの最期を」


「俺への恨みだけにしていたのかもしれない」


「でも」


 私は言う。


「それも」


「まだ分かりません」


「ああ」


 アルフォンス様は。


 すぐに頷いた。


「だから聞く」


 その言葉に。


 私は。


 少しだけ。


 安心した。


 答えを決めてから。


 死者へ触れるのではない。


 分からないから。


 分からないまま。


 聞く。


「分かりました」


 私は答えた。


「では」


「準備をしましょう」


          ◇


 その日の夕方。


 私たちは。


 再び。


 ノクスの眠る洞窟へ向かった。


 今日は。


 遺品へ触れない。


 確認するだけ。


 それは。


 私とアルフォンス様。


 二人で決めたことだった。


 ギルベルトさんも同行している。


 ただし。


 少し後ろを歩いていた。


 騎士団本部で。


 アルフォンス様が告げた。


『明日以降も副団長として働け』


 ギルベルトさんは。


『了解しました』


 そう答えた。


 許されたわけではない。


 罰がなくなったわけでもない。


 ただ。


 逃げずに。


 残ることになった。


 ルゥも。


 私たちについてきた。


 誰も呼んでいない。


 気づけば。


 少し離れた場所を歩いていた。


 洞窟の入口で。


 ルゥが止まる。


「入りますか?」


 私が尋ねる。


 返事はない。


 当然だ。


 ルゥは。


 しばらく暗い洞窟を見た後。


 一歩。


 中へ入った。


 私たちも。


 続く。


          ◇


 洞窟の奥は。


 相変わらず寒かった。


 季節とは合わない冷気。


 壁際には。


 黒竜ノクスの遺骸。


 巨大な骨。


 失われた右角。


 欠けた翼。


 拘束痕。


 初めて見た時より。


 私は。


 少しだけ。


 ノクスを知っている。


 焼いた山林檎が好きだったこと。


 退屈すると。


 鞍の革紐を噛んだこと。


 若いアルフォンス様を。


 崖から助けたこと。


 伴侶と子どもを追い。


 最後まで。


 前へ進んだこと。


 骨だけではない。


 傷だけでもない。


 ここにいるのは。


 誰かと生きた竜だ。


「……ノクス」


 アルフォンス様が。


 小さく名前を呼んだ。


 答えはない。


 死者は。


 呼びかけに答えない。


 それでも。


 名前を呼ぶことには。


 意味があるように思えた。


          ◇


 入口近く。


 長い石箱。


 中には。


 ノクスが最期の日まで使っていた鞍がある。


 黒い革。


 噛み痕。


 切れた左の帯。


 焼けた金具。


 アルフォンス様が。


 六年間。


 一度も触れられなかったもの。


 私は。


 手袋をしたまま。


 少し離れた場所に立つ。


「明日」


 アルフォンス様が言った。


「触れるのか」


「まだ決めません」


「……そうか」


「オスカー先生の許可が出て」


「記録役を決めて」


「儀式の手順をもう一度確認して」


「全員が納得してからです」


「全員?」


 私は。


 アルフォンス様を見る。


「少なくとも」


「私」


「アルフォンス様」


「それから」


 視線を移す。


 ルゥ。


 洞窟の入口にいる。


「ルゥが」


「この場所にいたくないなら」


「無理に残したくありません」


「そうだな」


「ギルベルトさんにも」


 今度は。


 彼を見る。


「決めてもらいます」


「俺?」


「はい」


「ノクスの言葉が聞こえるのは私だけです」


「でも」


「正式な共鳴式を行えば」


「周囲の人にも」


「言葉ではなく」


「強い感情や感覚が伝わる可能性があります」


 ギルベルトさんの表情が。


 僅かに強張る。


「痛みも?」


「可能性はあります」


「恐怖も」


「悲しみも」


「安堵も」


「何が共有されるかは」


「始めるまで分かりません」


「……」


「ですから」


「参加を強制しません」


 ギルベルトさんは。


 ノクスの骨を見る。


「怖いな」


「はい」


 私は答えた。


「怖くていいと思います」


 彼が。


 こちらを見る。


「逃げてもいいと?」


「参加しないことと」


「六年前から逃げることは」


「同じではありません」


「……」


「自分で決めてください」


「相変わらず」


「優しいのか厳しいのか分からないな」


「私も」


「最近そう思います」


 ギルベルトさんが。


 今度こそ。


 僅かに笑った。


          ◇


 アルフォンス様が。


 石箱の前へ立つ。


 右手を。


 伸ばす。


 私は。


 止めない。


 指先が。


 石箱の縁へ触れる。


 鞍ではない。


 ただの石。


 声も。


 記憶も。


 流れ込まない。


 それでも。


 アルフォンス様にとっては。


 きっと。


 意味のある距離だった。


「リーゼロッテ」


「はい」


「明日」


 彼は。


 鞍を見たまま言う。


「俺が」


「やめてくれと言うかもしれない」


「はい」


「直前になって」


「怖くなるかもしれない」


「はい」


「それでも」


「……」


 言葉が止まる。


「その時は」


 私は言った。


「止めます」


 アルフォンス様が。


 こちらを見る。


「いいのか」


「はい」


「一度延期しても」


「ノクスの声が消えるわけではありません」


「私たちが」


「聞ける状態になるまで」


「待てばいいんです」


 以前。


 この人は。


 私にそう言ってくれた。


 母の弔い帳へ。


 触れられなかった私に。


 無理に触れなくていいと。


 だから。


 今度は。


 私が同じことを言う。


「弔いは」


「急いだ人が勝つものではありません」


「……そうだな」


 アルフォンス様は。


 右手を石箱へ置いたまま。


 ゆっくり。


 息を吐いた。


          ◇


 その時。


 小さな音がした。


 爪が。


 石を踏む音。


 振り返る。


 ルゥが。


 こちらへ歩いてきていた。


 一歩。


 また一歩。


 ただし。


 アルフォンス様へではない。


 ノクスの骨へ。


 ゆっくりと近づいていく。


 頭蓋骨の前で止まり。


 鼻先を。


 骨の近くへ寄せる。


 触れたかどうか。


 私の場所からは分からない。


 アルフォンス様は。


 動かなかった。


 声もかけない。


 ただ。


 見ている。


 ルゥが。


 やがて顔を上げる。


 アルフォンス様と。


 目が合った。


 低い唸り声。


 まだ。


 敵意は残っている。


 アルフォンス様は。


 視線を逸らさない。


 でも。


 近づかない。


「俺を」


 彼が言う。


「許さなくていい」


 ルゥの耳が。


 僅かに動く。


「俺も」


「まだ」


「許せない奴がいる」


 後ろで。


 ギルベルトさんが。


 息を止めたのが分かった。


「だから」


「お前にだけ」


「許せとは言わない」


 ルゥは。


 アルフォンス様を見ている。


「ただ」


「ノクスの声を」


「一緒に聞けるなら」


 右手が。


 震える。


「ここにいてくれ」


 返事はない。


 ルゥは。


 アルフォンス様へ近づかなかった。


 代わりに。


 ノクスの骨のそばで。


 身体を伏せた。


 それだけだった。


 でも。


 洞窟からは。


 出ていかなかった。


          ◇


 許せない。


 その言葉は。


 冷たい言葉だと思っていた。


 誰かとの関係を。


 終わらせるための言葉だと。


 けれど。


 今日。


 初めて。


 違う形を見た。


 許せないから。


 追い出すのではない。


 許せないから。


 黙るのでもない。


 許せないまま。


 同じ場所に残る。


 話す。


 調べる。


 責任を取る。


 それも。


 一つの選択なのかもしれない。


 私は。


 手袋越しに。


 自分の指先を見る。


 明日。


 この手袋を外すかもしれない。


 ノクスの鞍へ。


 素手で触れるかもしれない。


 そこに。


 どんな声が残っているのか。


 私は知らない。


 ノクスが。


 誰を責めているのかも。


 誰を案じているのかも。


 何を望んでいるのかも。


 まだ。


 知らない。


 だから。


 聞く。


 答えを作るためではなく。


 すでに決めた答えを。


 死者に言わせるためでもなく。


 ノクスが。


 最期に残したものを。


 ノクスのものとして。


 受け取るために。


 私は。


 黒い鞍を見つめた。


 アルフォンス様も。


 ルゥも。


 ギルベルトさんも。


 同じ場所にいる。


 誰も。


 まだ。


 許してはいない。


 それでも。


 誰も。


 逃げなかった。


 それで。


 十分だった。


 今は。


 まだ。

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