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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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38/46

ノクスの鞍

 朝。


 私は。


 オスカー先生の前で。


 蜂蜜を舐めていた。


「甘いです」


「塩は」


「しょっぱいです」


「水」


「……水です」


「最後は味覚検査になってませんよね」


「知っています」


 オスカー先生は平然と答えた。


 そのまま。


 私の右手を取る。


「冷えは」


「ありません」


「耳鳴り」


「ありません」


「頭痛」


「ありません」


「声」


「あー」


「もう一度」


「あー」


「よろしい」


 腕に残った噛み傷も確認される。


 ルゥにつけられた傷は。


 まだ完全には塞がっていない。


 ただ。


 腫れは引いていた。


「これで」


 オスカー先生が包帯を巻き直す。


「私から止める理由はなくなりました」


「ありがとうございます」


「ただし」


 指が。


 額へ突きつけられた。


「許可したのは接触です」


「倒れる許可ではありません」


「はい」


「声が出なくなったら中止」


「はい」


「自分の名前が分からなくなったら中止」


「はい」


「強い耳鳴り、吐き気、手足の感覚異常、記憶の混同」


「全部、中止ですね」


「よくできました」


「最近、オスカー先生の試験に慣れてきました」


「喜ばしいことです」


 そこで。


 先生が目を細める。


「ですが」


「何でしょう」


「あなたの場合」


「慣れた頃が一番危ない」


「……」


「大丈夫だと思って無理をするからです」


「否定できません」


「否定しなさい」


「嘘になります」


「では無理をしないでください」


「はい」


 以前なら。


 私は。


 ここで笑って。


 大丈夫です、と答えていたかもしれない。


 けれど。


 今日は違う。


「先生」


「はい」


「もし私が」


「自分では続けられると言っても」


「様子がおかしいと思ったら止めてください」


 オスカー先生が。


 少しだけ黙る。


「あなたから頼まれるとは」


「そんなに珍しいですか」


「雪が下から降るくらいには」


「そこまでですか」


「そこまでです」


 ひどい。


 でも。


 たぶん。


 否定できない。


「分かりました」


 先生は。


 いつもの調子で言う。


「嫌がっても止めます」


「お願いします」


          ◇


 洞窟へ向かったのは。


 昼前だった。


 私。


 アルフォンス様。


 ギルベルトさん。


 オスカー先生。


 そして。


 少し離れて。


 ルゥ。


 誰も。


 ルゥを呼んではいない。


 門を出た時から。


 気づけばついてきていた。


 近づけば離れる。


 立ち止まれば。


 向こうも止まる。


 相変わらず。


 私たちを信用しているのか。


 監視しているのか。


 よく分からない。


 たぶん。


 どちらも少しずつなのだと思う。


「今日は」


 歩きながら。


 私は皆へ確認した。


「共鳴式を行います」


 ギルベルトさんが。


 前を向いたまま答える。


「ああ」


「もう一度説明します」


「昨日聞いた」


「もう一度です」


「……どうぞ」


「共鳴式は」


「死者を呼び戻す儀式ではありません」


 死者は。


 戻らない。


 呼びかけても。


 答えない。


「遺品に強く残った思いを」


「私が受け取る際に」


「その感情や感覚の一部を」


「周囲に開くための作法です」


 アルフォンス様が。


 静かに聞いている。


「言葉を聞けるのは」


「私だけです」


「皆さんが感じるのは」


「温度」


「痛み」


「恐怖」


「悲しみ」


「安堵」


「そういった感覚や感情です」


「重要なのは」


「それが言葉の意味と」


「完全に一致するとは限らないことです」


 ギルベルトさんが。


 こちらを見る。


「どういう意味だ」


「例えば」


「悲しみを感じたとしても」


「誰を悲しんでいるのかまでは分かりません」


「恐怖を感じても」


「何を恐れているのかは断定できません」


「……なるほど」


「ですから」


「共鳴式を行っても」


「皆さんがノクスの言葉を直接聞いたことにはなりません」


 私は。


 そこで一度止まる。


「私が聞いた言葉は」


「私の証言として残します」


「皆さんが感じたものは」


「皆さん自身の証言として残してください」


 アルフォンス様が頷いた。


「分けて記録する」


「はい」


「それがいいと思います」


「分かった」


「それから」


 私は。


 ギルベルトさんを見る。


「まだ」


「参加しないという選択もできます」


「しつこいな」


「大切なので」


「残る」


 即答だった。


「怖くないのですか」


「怖い」


「……」


「だから残る」


 ギルベルトさんは。


 前を向いた。


「六年間」


「怖いものから目を逸らして」


「随分遠回りした」


「今さら」


「もう一度同じことをする気はない」


 それ以上。


 私は何も言わなかった。


          ◇


 洞窟へ入る。


 冷たい空気が。


 頬を撫でた。


 季節とは関係なく。


 ここは寒い。


 黒竜ノクスの巨大な骨が。


 薄暗闇の中に眠っている。


 ルゥは。


 入口で一度止まった。


 けれど。


 少しして。


 自分から入ってくる。


 誰にも近づかない。


 そのまま。


 ノクスの頭蓋骨の近くへ歩き。


 伏せた。


「そこでいいですよ」


 私は言った。


 ルゥの耳が。


 僅かに動く。


 もちろん。


 返事はない。


 私は。


 長い石箱の前へ向かった。


          ◇


 蓋は。


 昨日のうちに開けてある。


 中には。


 黒い鞍が横たわっていた。


 革は古びている。


 けれど。


 手入れされていた名残があった。


 縁には。


 いくつもの歯形。


 左側の太い帯は鋭く裂け。


 金具の一部には。


 火に焼かれた痕が残っている。


 アルフォンス様が。


 六年間。


 触れられなかったもの。


「確認します」


 私は言った。


「この鞍は」


「ノクスが最後に使ったものですね」


「ああ」


「回収された時も」


「ノクスの身体についていた」


「ああ」


 アルフォンス様の声が。


 少し低くなる。


「左の帯だけ」


「途中で外れていた」


「どこに?」


「翼の付け根に引っかかっていた」


「切れた原因は」


「分からない」


「分かりました」


 私は。


 帳面へ書く。


 推測は。


 書かない。


 見つかった位置だけ。


 状態だけ。


 確認できた事実だけを。


「焼けた金具は?」


「回収時からだ」


「修理された記録は?」


「ない」


「分かりました」


 書き終える。


 これで。


 触れる前に。


 今調べられることは。


 ほぼ調べた。


 鞍を直した職人。


 使用記録。


 騎士団の報告。


 偽造された追跡中止命令。


 ギルベルトさんの証言。


 そして。


 ノクスの牙に残っていた断片。


 炎。


 拘束具。


 ミラ。


 逃げるルゥ。


 白い布。


 あの紋章。


 まだ。


 分からないことの方が多い。


 だから。


 今から聞く声も。


 答えではない。


 新しい証言だ。


          ◇


「アルフォンス様」


「何だ」


「最後に確認します」


「ああ」


「やめますか」


 アルフォンス様は。


 鞍を見る。


 長い沈黙。


 右手が。


 僅かに震えていた。


「……いや」


 やがて。


 答える。


「聞きたい」


「分かりました」


「ただ」


「はい」


「途中で」


「止めてほしいと言うかもしれない」


「その時は止めます」


「俺が迷っても?」


「迷っている間は」


「待ちます」


 アルフォンス様が。


 私を見る。


「君は」


「変わったな」


「そうでしょうか」


「ああ」


「以前なら」


「大丈夫です、と言って」


「先に触っていた」


「……」


「否定できません」


「そこは否定してくれ」


 少しだけ。


 声が柔らかかった。


 私は。


 小さく息を吐く。


「では」


「始めます」


          ◇


 共鳴式に。


 華美な道具は必要ない。


 死者を飾るための儀式ではないからだ。


 必要なのは。


 遺品。


 死者の名。


 その死者を覚えている者。


 そして。


 聞いたものを。


 自分の望む形へ変えない覚悟。


 私は。


 鞍の前へ膝をつく。


 アルフォンス様は。


 私の右後ろ。


 ギルベルトさんは。


 左後ろ。


 オスカー先生だけは。


 少し離れた位置にいる。


 私の状態を見るためだ。


「名前を」


 私は言った。


 アルフォンス様が。


 一度。


 息を吸う。


「ノクス」


 洞窟に。


 その名が響く。


 ルゥが。


 顔を上げた。


「黒竜ノクス」


 私は繰り返す。


「ここに残った思いを」


「私たちは」


「命令としてではなく」


「証言として受け取ります」


 沈黙。


「あなたの死を」


「私たちの都合で」


「書き換えないために」


 私は。


 手袋の縁へ。


 指をかけた。


 ゆっくり。


 右手の手袋を外す。


 空気に触れた手が。


 少し冷たい。


 まだ。


 声はない。


 当然だ。


 鞍へ。


 触れていないから。


「リーゼロッテ」


 アルフォンス様が呼ぶ。


「はい」


「……頼む」


「はい」


 私は。


 素手を。


 黒い革へ伸ばした。


          ◇


 指先が。


 鞍に触れる。


 瞬間。


 世界が。


 落ちた。


          ◇


 風。


 強い風。


 冷たい。


 違う。


 これは。


 空を切る風だ。


 身体が大きい。


 四肢がある。


 翼がある。


 背中に。


 重み。


 人の重み。


 鞍。


 脚。


 手。


 背へ伝わる。


 懐かしい感触。


 ――ノクス!


 若い声。


 アルフォンス様。


 違う。


 もっと若い。


 笑っている。


 何かを怒鳴っている。


 風に消えて。


 言葉は分からない。


 でも。


 感情だけが。


 胸へ流れ込む。


 うるさい。


 重い。


 危なっかしい。


 仕方がない。


 それなのに。


 どうしようもなく。


 大切だ。


「……っ」


 息が止まる。


 私のものではない。


 感情。


 ノクスのもの。


 強い。


 けれど。


 痛くない。


 温かい。


          ◇


「……ノクス」


 アルフォンス様の声がした。


 遠い。


 でも。


 聞こえた。


 共鳴が。


 始まっている。


 アルフォンス様の呼吸が。


 大きく乱れた。


「これは……」


 ギルベルトさんの声も。


 掠れている。


 けれど。


 私は。


 答えられない。


 次の感覚が。


 押し寄せた。


          ◇


 山林檎。


 焼いた甘い匂い。


 袋を開ける音。


 呆れた顔。


 アルフォンス様。


 若い。


 今よりも。


 ずっと表情が多い。


 半分に割った山林檎。


 人間が一口。


 残りを。


 こちらへ差し出す。


 ――食うか。


 そんな声。


 そして。


 口に入る。


 甘い。


 熱い。


 少し焦げている。


 もっと寄越せ。


 そんな。


 妙に強い不満。


 次の瞬間。


 温かさ。


 笑い。


 これは。


 言葉ではない。


 でも。


 分かる。


 ただの餌ではない。


 ただの相棒でもない。


 共に生きていた時間。


 何度も。


 繰り返した日常。


          ◇


「……暖かい」


 ギルベルトさんが。


 呟いた。


「俺にも」


「分かる」


 アルフォンス様。


「……ああ」


 声が。


 震えている。


「分かる」


 私は。


 目を開けていない。


 開けられない。


 それでも。


 分かった。


 二人も。


 同じものの一部を。


 感じている。


 言葉ではなく。


 感情だけを。


          ◇


 けれど。


 景色が。


 変わる。


 夜。


 火。


 焦げた鉄。


 血の匂い。


 鞍が揺れる。


 翼。


 地面。


 激しい衝撃。


 身体を締めつける。


 金属。


 首。


 脚。


 翼。


 痛い。


 牙の時に。


 触れたものと似ている。


 でも。


 違う。


 あの時より。


 近い。


 もっと。


 深い。


 ノクス自身の。


 身体の中。


「っ……!」


 左肩が。


 焼ける。


 私の肩ではない。


 分かっている。


 なのに。


 身体が反応する。


 歯を食いしばる。


 耳鳴り。


 高い音。


「リーゼロッテ」


 オスカー先生。


「返事を」


「……聞こえています」


 声は出る。


 まだ。


 大丈夫。


「名前を」


「リーゼロッテ・アルヴァ」


「場所」


「ノクスの洞窟です」


「続けられますか」


 私は。


 答える前に。


 一度。


 自分の身体を確かめる。


 右手は。


 鞍に触れている。


 左手。


 動く。


 足。


 分かる。


 私は。


 私だ。


「はい」


 今度の「はい」は。


 反射ではない。


 確かめてから。


 答えた。


「続けます」


          ◇


 炎。


 鎖。


 ミラ。


 小さな黒い身体。


 ルゥ。


 走れ。


 逃げろ。


 そんな。


 言葉になる前の衝動。


 ノクスが。


 必死に。


 何かへ向かっている。


 怒り。


 恐怖。


 痛み。


 でも。


 その中心にあるのは。


 憎しみではない。


 守りたい。


 それだけ。


 強い。


 強すぎる。


 そして。


 遠く。


 遠くに。


 誰かを感じている。


          ◇


 アル。


          ◇


 心臓が。


 大きく跳ねた。


 声。


 今。


 聞こえた。


 言葉。


 ノクスの。


 声。


「……」


 私は。


 息を止める。


 アルフォンス様には。


 聞こえていない。


 ギルベルトさんにも。


 聞こえていない。


 私だけ。


 死者の言葉を。


 聞いている。


          ◇


 ――アル。


          ◇


 もう一度。


 今度は。


 はっきり。


 その声には。


 怒りがない。


 けれど。


 それだけで。


 意味を決めてはいけない。


 名前を呼んだ。


 ただ。


 それだけ。


 私は。


 次を待つ。


          ◇


 景色が。


 崩れる。


 火。


 森。


 離れていく小さな黒い影。


 ルゥ。


 走っている。


 生きている。


 少なくとも。


 ノクスの目には。


 その瞬間まで。


 走っている姿が見えていた。


 そして。


 もう一つ。


 遠い。


 アルフォンス様。


 ここにはいない。


 来ていない。


 間に合っていない。


 その事実に。


 突然。


 強い感情が流れ込んだ。


 私は。


 思わず。


 目を見開く。


 安堵。


 だった。


          ◇


「……っ」


 アルフォンス様が。


 息を呑んだ。


 共鳴式を通じて。


 同じ感情の一部が。


 彼にも届いたのだ。


「なんで」


 掠れた声。


「なんで……」


 アルフォンス様の右手が。


 大きく震えている。


「これは」


 言葉が。


 続かない。


「安堵……なのか」


 私は。


 答えない。


 答えられない。


 今。


 私が言葉で意味を与えてはいけない。


 アルフォンス様が感じたものは。


 アルフォンス様自身が。


 受け止めるものだ。


「俺が」


 低い声。


「いなかったことに……?」


 それも。


 まだ。


 断定できない。


 けれど。


 ノクスの中に。


 確かに。


 安堵がある。


 強く。


 深く。


          ◇


「閣下」


 ギルベルトさんの声がする。


「俺にも」


「……分かる」


 その声も。


 震えていた。


「責める感じじゃない」


 私は。


 すぐに口を開く。


「ギルベルトさん」


「……ああ」


「それ以上は」


「決めないでください」


 沈黙。


「今感じているものだけを」


「覚えてください」


「……分かった」


「これは」


「誰かを許すという意味とは限りません」


「ああ」


「あなたの行為が」


「なかったことになるわけでもありません」


「分かってる」


 今度の返事は。


 少しだけ。


 苦しかった。


「分かってるよ」


 その言葉に。


 私は。


 少し安心する。


 死者の感情を。


 生者の免罪符にはしない。


 それが。


 必要だった。


          ◇


 また。


 声。


          ◇


 ――アル。


 ――責め……


          ◇


 耳鳴りが。


 強くなる。


「っ」


 指先が。


 一気に冷えた。


 視界の端が。


 白くなる。


「リーゼロッテ」


 オスカー先生。


「右手を離せますか」


 私は。


 試す。


 動く。


 まだ。


 離せる。


 でも。


 離さない。


 まだ。


 声が。


 続いている。


「あと少し」


「その言い方は信用しません」


「分かっています」


「なら」


「三十秒です」


「はい」


 時間を決める。


 それなら。


 無理ではない。


          ◇


 ノクスの声が。


 再び。


 遠くから。


 近づいてくる。


 今度は。


 言葉だけではない。


 感情も一緒だ。


 アルフォンス様。


 ルゥ。


 ミラ。


 三つの存在が。


 ノクスの最期の中で。


 絡まり合っている。


 失いたくない。


 守りたい。


 もう。


 戻れない。


 それでも。


 生きてほしい。


 その思い。


          ◇


 ――あの子を……


          ◇


 ルゥ。


 そう思った瞬間。


 洞窟の中で。


 小さな音がした。


 爪。


 石を踏む音。


 目を開ける。


 ぼやけた視界の先。


 ルゥが。


 立ち上がっていた。


 黒い瞳で。


 こちらを見ている。


 何が起きているか。


 分かっているのかは。


 私には分からない。


 ノクスの声も。


 ルゥには聞こえない。


 それでも。


 ルゥは。


 逃げなかった。


          ◇


 そして。


 次の瞬間。


 共鳴した感情が。


 大きく変わった。


 温かい。


 驚くほど。


 温かい。


 まるで。


 夜の中で。


 誰かの背に触れているような。


 命の熱。


 安心。


 安堵。


 悲しみがないわけではない。


 痛みがないわけでもない。


 それでも。


 最後に強く残っているのは。


 誰かを。


 恨むためのものではなかった。


「ノクス……」


 アルフォンス様が。


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 死者は。


 呼びかけに答えない。


 なのに。


 アルフォンス様は。


 もう一度。


 呼んだ。


「ノクス」


 右手が。


 震えている。


 声も。


 震えている。


 けれど。


 鞍へは触れない。


 私の選択を。


 邪魔しないために。


 ただ。


 そこにいる。


          ◇


「時間です」


 オスカー先生の声。


 私は。


 右手を。


 鞍から離した。


          ◇


 世界が。


 一気に戻ってくる。


 洞窟。


 冷気。


 石。


 自分の身体。


「……っ」


 身体が。


 少し傾く。


 でも。


 倒れない。


 膝をついたまま。


 左手で床を支える。


「触らないでください」


 私は先に言った。


「自分で座れます」


「よろしい」


 オスカー先生が。


 すぐ隣へ来る。


 手首。


 瞳。


 呼吸。


 一つずつ。


 確認される。


「名前」


「リーゼロッテ・アルヴァ」


「年齢」


「十九歳」


「ここは」


「グレイヴ領にある、ノクスの遺骸が安置された洞窟です」


「今日の目的」


「ノクスの鞍への最初の接触と、共鳴式」


「誰がいます」


「アルフォンス様」


「ギルベルトさん」


「オスカー先生」


 少し離れて。


「ルゥ」


「よろしい」


 オスカー先生が。


 息を吐く。


「記憶の混同は今のところ見られません」


「手が冷たいです」


「知っています」


「耳鳴りも」


「それも知っています」


「頭痛は」


「少し」


「そこで平気ですと言ったら」


「怒られますね」


「学習しています」


「褒めてください」


「あとで」


          ◇


「リーゼロッテ」


 アルフォンス様の声。


 私は。


 顔を上げる。


 彼は。


 立ったままだった。


 右手を。


 左手で押さえている。


 震えは。


 止まっていない。


「何が」


 そこで。


 言葉が止まる。


「何が聞こえた」


 私は。


 すぐには答えなかった。


「その前に」


「はい」


「アルフォンス様は」


「何を感じましたか」


 彼が。


 目を伏せる。


「温かかった」


「はい」


「それから」


 長い沈黙。


「安心した」


「誰が?」


「分からない」


「はい」


「でも」


 アルフォンス様は。


 鞍を見る。


「俺の感情ではなかった」


「分かるのですか」


「ああ」


「六年前から」


「俺の中には」


「こんな安心はなかった」


 静かな声だった。


「だから」


「ノクスのものだと思う」


「分かりました」


 私は。


 そのまま帳面へ書く。


 アルフォンス・グレイヴ。


 温かさ。


 安堵。


 本人の感情とは異なると認識。


 対象、理由は不明。


「ギルベルトさんは」


「俺も」


 彼は。


 壁際に座り込んでいた。


「温かさと」


「安心した感じだ」


「それ以上は?」


「……」


 少し考える。


「ない」


「分かりました」


「いや」


 ギルベルトさんが。


 顔を上げる。


「一つだけ」


「はい」


「安心したことが」


「怖かった」


 私は。


 筆を止める。


「どういう意味ですか」


「俺は」


 彼は。


 鞍を見る。


「責められると思っていた」


「ノクスに」


「……」


「責められた方が」


「楽だったのかもしれない」


 ギルベルトさんは。


 自嘲するように笑った。


「怒りを感じれば」


「俺はそのまま」


「罪人でいられた」


「でも」


「感じたのは違った」


 拳を握る。


「だから怖い」


「これで」


「自分を許してしまいそうで」


 私は。


 首を横へ振った。


「許すかどうかを」


「ノクスの感情に任せないでください」


 ギルベルトさんが。


 私を見る。


「あなたが何をしたのか」


「どう償うのか」


「それを決めるのは」


「生きているあなたです」


「……そうだな」


「はい」


「厳しいな」


「記録には」


「気を遣わないことにしていますので」


「知ってる」


 小さく。


 息を吐く音。


          ◇


「それで」


 アルフォンス様が。


 もう一度言う。


「君には」


「何が聞こえた」


 今度は。


 私は。


 逃げなかった。


「言葉が」


「ありました」


 アルフォンス様の肩が。


 僅かに動く。


「ノクスの?」


「はい」


「何と」


 私は。


 唇を開く。


 でも。


 その前に。


 確認する。


 自分の記憶。


 自分の名前。


 ノクスの声。


 混ざっていない。


 大丈夫。


 それを確かめてから。


 私は言う。


「最初に」


「あなたの名前を」


「呼びました」


 アルフォンス様が。


 動かなくなる。


「俺の」


「はい」


「『アル』と」


「……」


 右手の震えが。


 大きくなる。


 けれど。


 今度は。


 隠さなかった。


「それから」


 私は。


 帳面へ。


 視線を落とす。


 まだ。


 完全には書いていない。


 聞いた声を。


 一つずつ。


 思い出す。


 ――アル。


 ――責め……


 ――あの子を……


 そして。


 最後。


 もっとも短く。


 もっとも強く。


 残った言葉。


 その言葉だけは。


 耳鳴りの奥でも。


 消えなかった。


「リーゼロッテ」


 アルフォンス様が呼ぶ。


「はい」


「続きは」


 私は。


 顔を上げた。


 ノクスの鞍。


 その向こう。


 黒竜の骨。


 そして。


 そのそばにいる。


 ルゥ。


 誰も。


 動かない。


 私は。


 息を吸った。


「あります」


 ノクスは。


 アルフォンス様の名を呼んだ。


 ルゥを思った。


 そして。


 最後に。


 確かに。


 生きることを願った。


 その言葉を。


 私は。


 今度こそ。


 誰かの望む形へ変えずに。


 そのまま。


 伝えなければならない。

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