鞍に残された思い
「今日は一時間です」
洞窟へ向かう前。
オスカー先生は。
私の右腕を指差した。
「昨日より傷は良くなっています。しかし、治ったわけではありません」
「分かっています」
「痛みが増したら?」
「言います」
「眩暈がしたら?」
「言います」
「疲れたら?」
「……言います」
「その間は何です」
「少し考えました」
「考えないでください」
厳しい。
「それから」
オスカー先生が。
私の両手を見る。
「手袋は外さない」
「はい」
「鞍へ素手で触れない」
「はい」
「『少しだけなら』もありません」
「言いません」
「本当に?」
「先生は私を何だと思っているのですか」
「前科の多い患者です」
否定できなかった。
◇
ノクスの眠る洞窟へ。
再び足を踏み入れる。
空気は。
相変わらず冷たい。
外では。
春に近い風が吹いているのに。
この場所だけ。
時間が止まっているようだった。
けれど。
以前とは。
少し違う。
ノクスの骨を見るだけで。
胸が締めつけられることは。
なくなっていた。
慣れたわけではない。
ただ。
私はもう。
ここに残る骨だけを。
ノクスだとは思わない。
山リンゴを勝手に食べたこと。
待たされると鞍を噛んだこと。
若いアルフォンス様を森から送り出したこと。
そういう。
生きていた時間も。
少しずつ知ったからだ。
「こちらです」
声をかけたのは。
騎士団の装具係だった。
五十代ほどの男性。
名前を聞くと。
「名前は記録に必要ですか?」
と聞き返された。
「証言として残すなら」
「では、装具係主任のベルトランです」
私は。
記録帳へ書こうとして。
右腕が。
少し痛んだ。
「……アンナ」
「はい」
「お願いしてもいいですか」
すぐ隣にいたアンナへ。
記録帳を渡す。
彼女は。
何も言わず受け取った。
けれど。
ほんの少しだけ。
口元が上がった。
「何ですか」
「いいえ」
「今、笑いました?」
「気のせいです」
オスカー先生と。
同じことを言うようになっている。
◇
石箱に掛けられていた布が。
取り払われる。
黒い鞍。
大きく。
重い。
何度見ても。
人間の馬具とは。
まるで違う。
ノクスの背へ沿うよう。
幅広く作られている。
「これを」
私は尋ねた。
「六年間、手入れしていたのがベルトランさんですか」
「私だけではありません」
ベルトランさんが答える。
「革を乾かさないよう油を入れ、金属部分の錆を落とし、虫が付かないよう確認する。若い者にもやらせました」
「定期的に?」
「三月に一度」
「六年間ずっと?」
「はい」
私は。
アルフォンス様を見る。
少し離れたところ。
鞍には。
近づいていない。
彼自身は。
六年間。
一度も触れられなかった。
それでも。
鞍が朽ちることは。
許さなかった。
「閣下から」
ベルトランさんが言った。
「処分しろと言われたことは一度もありません」
アルフォンス様の視線が。
僅かに動いた。
「聞かれていないことまで話すな」
「六年間世話をさせておいて、それはないでしょう」
「……」
少し。
意外だった。
ベルトランさんは。
アルフォンス様に。
かなり遠慮がない。
「昔から?」
私が尋ねる。
「何がです」
「アルフォンス様に、その調子なのですか」
「この方が十六の頃から鞍を直してきましたので」
「ベルトラン」
「事実です」
「余計なことを言うな」
「これも事実です」
私は。
少しだけ。
笑った。
◇
「この鞍を作ったのも?」
「違います」
ベルトランさんが。
革の縁を。
手袋で持ち上げる。
「原型を作った職人はもう亡くなっています。ただし、その後の調整は私がかなりやりました」
「調整?」
「人も竜も成長します」
「あ」
以前。
アルフォンス様から。
最初の鞍ではないと聞いた。
ノクスではなく。
アルフォンス様が大きくなったから。
「これを作ったのは」
「閣下が十七の頃です」
ということは。
ノクスが死ぬまで。
五年ほど。
使われていたことになる。
「長いですね」
「竜の鞍としては普通です」
ベルトランさんが。
指を滑らせる。
「ですが」
何度も。
修理されている。
革帯の交換。
縫い直し。
金具の交換。
補強。
新しい革と。
古い革。
色が僅かに違う。
「ここ」
私は指を差す。
「縫い方が違います」
「よく気づきましたね」
「三回目の補修です」
「何があったのですか」
「ノクスが噛みました」
「またですか」
「またです」
アルフォンス様が。
少しだけ。
顔を逸らした。
「何度噛まれているのです?」
「鞍だけなら」
ベルトランさんが。
数える。
「私が直したのは七回」
「七回」
「革帯が三本。縁が二箇所。荷物袋が一つ。それと――」
「もういい」
アルフォンス様が止めた。
「まだあります」
「言うな」
「気になります」
「リーゼロッテ」
「調査です」
「楽しんでいるだろう」
「少しだけ」
「やはりな」
◇
けれど。
笑っていられる傷ばかりではない。
鞍の左側。
太い革帯。
そこには。
鋭く。
切れた跡がある。
「これは」
以前にも見た。
「刃物の可能性があると聞きました」
「そうです」
ベルトランさんが。
表情を変える。
「自然に千切れたものでは?」
「私はそうは思いません」
「理由は?」
彼は。
別の革帯を。
私たちへ見せる。
「これは古くなって交換した帯です」
「残してあるのですか」
「比較用です」
古い革帯。
端が。
ぼろぼろになっている。
「革が引き裂かれれば」
ベルトランさんが言う。
「繊維はこうなります」
不規則。
伸び。
裂け。
細かく分かれている。
「ですが」
ノクスの鞍。
左側の革帯。
「こちらは」
切断面が。
比較的。
揃っている。
「刃物?」
「可能性が高いです」
「どんな刃物かまでは?」
「分かりません」
「いつ切られたかも?」
「分かりません」
「では」
私は。
アンナへ視線を向ける。
「『左革帯、刃物による切断の可能性あり。時期、使用器具ともに不明』」
「はい」
ペンが動く。
分からないことを。
分からないまま残す。
それでいい。
◇
「一つ確認したいです」
私は尋ねる。
「鞍が発見された後、回収のために帯を切った可能性は?」
「ありません」
答えたのは。
アルフォンス様だった。
「どうして分かるのですか」
「回収記録がある」
ベルトランさんも。
頷く。
「鞍はノクスの遺骸から離れた岩場に落ちていました」
「身体には装着されていなかった」
「ああ」
「なら」
回収するために。
革帯を切る必要はない。
「発見した時点で?」
「切れていた」
アルフォンス様が答える。
「曲がった金具も?」
「ああ」
「焼けた跡も?」
「あった」
私は。
鞍の右側を見る。
小さな金属部分。
黒く。
煤けている。
「ベルトランさん」
「はい」
「これは火ですか」
「高熱を受けた跡でしょう」
「普通の炎?」
「分かりません」
表面だけではない。
金属の一部が。
僅かに変形している。
「かなりの熱ですか」
「少なくとも、焚き火へ少し近づけた程度ではこうなりません」
ノクスの遺骨にも。
後部。
尾。
強い熱を受けた跡があった。
牙から流れ込んだ記憶にも。
炎。
熱。
焦げた金属の匂い。
でも。
「同じ原因とは限りません」
私は。
自分へ言い聞かせるように。
口にした。
「ああ」
アルフォンス様が答える。
「鞍の焼損と骨の焼損が、同時だった証拠はない」
私は。
少し。
彼を見る。
「よく分かってきましたね」
「それは昨日も言われた」
「良いことは何度言ってもいいと思います」
「そうか」
少しだけ。
声が柔らかかった。
◇
次に。
鞍の底面を確認する。
ノクスの身体と。
直接触れていた側。
私は。
手袋をしたまま。
近づく。
「持ち上げても?」
「私がやります」
ベルトランさんが。
鞍を支える。
革の裏。
擦れ。
変色。
そして。
細かな傷。
「これは鱗?」
「そうです」
「ノクスの?」
「長年使えば、どうしても付く」
黒竜の鱗は。
硬い。
身体が動くたび。
鞍の革と擦れる。
その跡。
「つまり」
私は言う。
「ここにはノクスの身体が、何年も触れていた」
「そうなります」
私は。
少し。
距離を取った。
「触りたいか」
アルフォンス様が聞いた。
「はい」
正直に答える。
彼の表情が。
僅かに固くなる。
「ですが」
私は続ける。
「今日は触りません」
「……そうか」
「残念そうですね」
「違う」
「安心した?」
少し。
間。
「それは」
アルフォンス様が。
言い直す。
「少しある」
「正直でよろしいです」
「オスカーの真似をするな」
洞窟の入口から。
「聞こえていますよ」
声が飛んできた。
「先生は耳が良すぎます」
「患者が信用できないだけです」
◇
「でも」
私は。
鞍を見る。
「この部分は」
ノクスの身体へ。
何年も触れていた。
最後の日にも。
そして。
鞍そのものが。
何年もの間。
ノクスとアルフォンス様。
二人の生活の中心にあった。
訓練。
巡回。
移動。
喧嘩。
休憩。
帰還。
「声が残っている条件としては」
私は言う。
「かなり強いと思います」
「牙よりも?」
アルフォンス様が尋ねる。
「可能性はあります」
「断定は?」
「できません」
触れない限り。
私には。
分からない。
遺品を見ただけで。
声の強さが分かるわけではない。
「ですが」
私は続ける。
「長く使われた物」
「最後の日にも使われた物」
「強い感情を向けられていた可能性が高い物」
条件が。
重なっている。
「今まで見た候補の中では」
私は言う。
「最も慎重に扱うべき遺品だと思います」
アルフォンス様が。
鞍を見る。
「つまり」
「最後まで残す?」
「少なくとも」
私は頷く。
「調べられることを調べ終えるまでは」
「触れません」
◇
「では」
ベルトランさんへ。
尋ねる。
「最後にこの鞍を整備したのは?」
「ノクスがいなくなる日の朝です」
私は。
顔を上げる。
「その日の?」
「はい」
「記録がありますか」
「装具点検簿に」
「見たいです」
アルフォンス様が。
ギルベルトへ視線を向けた。
洞窟の壁際。
彼は。
最初から。
ほとんど口を開かず立っていた。
「持ってきている」
ギルベルトが答える。
手にしていた革袋から。
一冊の帳面を出す。
「準備がいいですね」
「閣下に命じられた」
「そうでしたか」
私は。
帳面を受け取ろうとして。
一度。
止まる。
古い帳面。
多くの人が使っている。
死者の強い思いが残っている物かどうか。
分からない。
そして。
今日は。
能力を使わない。
「アンナ」
「はい」
アンナが。
手袋を確認してから。
帳面を受け取る。
机代わりの石台へ置いた。
私は。
手袋をしたまま。
頁をめくる。
「黒竜ノクス……」
日付。
六年前。
失踪した日。
『鞍・異常なし』
『胸帯・異常なし』
『左革帯・異常なし』
『留め具・異常なし』
『交換部品なし』
『飛行適性、問題なし』
「朝には」
私は言う。
「切れていなかった」
「ああ」
ベルトランさんが答える。
「私が確認しました」
「金具も?」
「曲がっていません」
「焼損も?」
「ありません」
つまり。
三つとも。
その日の朝から。
鞍が回収されるまでに生じた。
切れた革帯。
曲がった金具。
高熱。
「これは」
私はアンナを見る。
「記録してください」
「はい」
ペンが走る。
「それと」
私は。
次の頁を見る。
「その日のノクスの行動記録は?」
「別だ」
ギルベルトが言った。
「飛行記録」
「ありますか」
「ある」
◇
もう一冊。
古い帳面が出される。
そこには。
竜騎士団の。
出動記録が並んでいた。
名前。
時刻。
目的地。
帰還。
騎手。
竜。
「ノクス」
私は。
該当する行を探す。
あった。
『黒竜ノクス』
『騎手 アルフォンス・グレイヴ』
『北東境界巡回』
『出発 朝六刻』
『帰還 昼二刻』
「帰っている」
「ああ」
アルフォンス様が言う。
「その日は一度、通常巡回へ出た」
「ノクスと?」
「ああ」
「異常は?」
「なかった」
「その後?」
アルフォンス様の表情が。
固くなる。
「夕方」
「ノクスが急に落ち着かなくなった」
あの日。
ミラと。
幼いルゥが。
行方不明になった。
まだ。
誰も。
何が起きているか。
分かっていなかった頃。
「契約で?」
「恐怖が流れてきた」
「ノクスの?」
「分からない」
アルフォンス様が。
首を横に振る。
「ノクス自身のものだったのか」
「ミラとの何かだったのか」
「俺には判断できなかった」
「それから?」
「北へ飛んだ」
「アルフォンス様は?」
「乗っていない」
私は。
顔を上げる。
そうか。
最後の日。
アルフォンス様は。
確かにこの鞍へ乗った。
朝の巡回で。
けれど。
ノクスが最後に飛び立った時。
彼は。
背中にはいなかった。
「鞍は?」
「付けたままだった」
「なぜ?」
「夕刻の巡回へ出る予定だった」
だから。
鞍を。
まだ外していなかった。
ノクスは。
そのまま。
飛び立った。
「止められなかった?」
「ああ」
「契約で呼び戻すことは?」
「できない」
アルフォンス様が。
静かに言った。
「契約は命令ではない」
私は。
頷く。
それでいい。
◇
飛行記録には。
その後。
赤い線が引かれていた。
『黒竜ノクス、無断離脱』
その言葉に。
少し。
違和感がある。
「無断」
私は呟く。
「どうしました」
アンナが聞く。
「いえ」
竜は。
騎士団の所有物ではない。
契約も。
命令ではない。
なのに。
『無断離脱』
人間側の記録では。
そうなる。
「当時の書式だ」
アルフォンス様が言った。
「今は使っていない」
「変えたのですか」
「ああ」
「なぜ」
彼が。
少しだけ。
目を細める。
「ノクスが死んだ後」
「おかしいと思った」
私は。
それ以上。
何も言わなかった。
◇
次の行。
『追跡隊編成』
その下。
人名が並ぶ。
ギルベルト。
他の騎士。
斥候。
治療師。
かなりの人数。
「救援隊?」
「最初は追跡隊だ」
アルフォンス様が答える。
「ノクスが向かった先で」
「血痕と」
「輸送車の轍が見つかった」
そこで。
追跡ではなく。
救援に変わった。
「アルフォンス様は?」
「先に出た」
「一人で?」
沈黙。
「アルフォンス様」
「時間がなかった」
「一人で?」
「……ああ」
「それについては後で」
「今ではないのか」
「今話すと長くなります」
「そうか」
少し。
ほっとした顔をした気がする。
たぶん。
気のせいではない。
◇
私は。
記録を追う。
『第一追跡班 出発』
『第二追跡班 準備』
『第三救援班――』
そこで。
文字が。
変わる。
後から。
別の筆で書き加えられている。
『待機』
「待機?」
私は読む。
さらに。
横。
小さな文字。
『王都命により追跡中止』
洞窟の空気が。
変わった。
アルフォンス様が。
黙る。
ギルベルトも。
動かない。
「王都命?」
私は。
顔を上げる。
「これは」
誰に聞くべきか。
少し迷う。
「アルフォンス様」
「ああ」
「ご存じでしたか」
「救援が途中で止まったことは知っている」
「理由は?」
沈黙。
「当時」
アルフォンス様が言う。
「俺には」
「王都からの命令だと報告された」
「命令書は見ました?」
「見ていない」
私は。
ギルベルトを見る。
彼の顎が。
僅かに。
硬くなる。
「ギルベルトさん」
「何だ」
「あなたは?」
「……見た」
短い答え。
「原本を?」
「ああ」
「誰から受け取ったのですか」
ギルベルトは。
答えない。
「今も残っていますか」
やはり。
答えない。
アルフォンス様の声が。
低くなる。
「ギルベルト」
「保管庫にある」
ようやく。
返事。
「廃棄していないのですね」
「ああ」
「では」
私は。
帳面を閉じる。
「見せてください」
ギルベルトの目が。
私へ向く。
「何のために」
「確認するためです」
「命令があったことは記録に残っている」
「記録だけです」
「俺も見た」
「それも証言です」
彼の眉が。
動く。
「疑っているのか」
「はい」
私は。
そのまま答えた。
「あなたが嘘をついているという意味ではありません」
「なら何を疑う」
「命令書そのものです」
洞窟に。
沈黙が落ちた。
「印章」
「署名」
「発行日」
「発行元」
「受領経路」
「同じ日に出た王都側の記録」
調べられることは。
まだある。
「死者へ聞く前に」
私は言った。
「紙に聞けることがあります」
「紙に?」
「正確には」
「記録を照らし合わせます」
ギルベルトは。
私を。
じっと見ている。
「嫌な女だな」
久しぶりに。
同じ言葉を言われた。
「よく言われます」
「誰にだ」
アルフォンス様が聞く。
「最近は主にギルベルトさんです」
「俺しか言っていないではないか」
「では、よく言われる予定です」
「意味が分からん」
◇
「時間です」
洞窟の入口から。
オスカー先生の声。
私は。
まだ記録を見たい。
命令書も。
今すぐ。
確認したい。
でも。
右腕が。
少し。
重くなっている。
「……戻ります」
自分から言った。
オスカー先生が。
一瞬。
何も返さない。
「何ですか」
「いえ」
「驚きました?」
「かなり」
「失礼ですね」
「成長を確認しただけです」
私は。
アンナから。
記録帳を受け取る。
そこには。
今日分かったことが。
整然と書かれていた。
朝の時点では。
鞍に異常なし。
その後。
革帯が切断。
金具が変形。
高熱による焼損。
ノクスは。
アルフォンス様を乗せず。
一頭で北へ飛んだ。
そして。
追跡隊の一部は。
『王都命』
によって。
止められた。
鞍へ。
私は。
最後に視線を向ける。
触れれば。
ノクスの声が。
聞こえるかもしれない。
何があったのか。
一気に。
近づけるかもしれない。
でも。
触れない。
鞍の中に残っているものは。
使えば。
薄くなる。
なら。
まだ。
生きている人間が残した。
消えない記録から。
調べればいい。
「アルフォンス様」
「何だ」
「命令書を見ます」
「ああ」
「王都の命令だったから」
私は言う。
「本物だったとは限りません」
アルフォンス様の顔が。
僅かに。
変わる。
ギルベルトは。
何も言わなかった。
ただ。
洞窟を出る直前。
私には。
彼の足が。
一度だけ。
止まったように見えた。
ノクスの鞍へ触れるのは。
まだ。
その時ではない。
先に確かめるべきなのは。
六年前。
一頭の黒竜を追う人々の足を止めた。
一枚の紙だった。




