失われた半身
翌朝。
「腫れは昨日より引いています」
オスカー先生は。
私の右腕に巻かれた包帯を外しながら言った。
「熱もありません。化膿もしていない」
「では」
「森へは行きません」
「まだ何も言っていません」
「言う顔をしていました」
「……」
最近。
本当に。
先回りされる。
「能力も?」
「使いません」
「それは聞き分けがよくて結構です」
「噛まれた傷と能力は別だと思いますが」
「その理屈で無理を重ねるから、禁止しているのです」
包帯を巻き直される。
少し痛い。
「痛みます」
「はい」
「今のところ」
私は続けた。
「十段階なら三くらいです」
オスカー先生の手が。
一瞬。
止まった。
「何ですか」
「いえ」
「何か?」
「成長しましたね」
「子ども扱いしないでください」
「痛いと具体的に言えるようになったことを褒めています」
「……」
反論しづらい。
「座って話をする程度なら?」
「何の話です」
「竜騎士契約について」
オスカー先生が。
少し考える。
「誰と」
「アルフォンス様です」
「興奮しない?」
「たぶん」
「たぶんは禁止です」
「……なるべく」
「もっと駄目です」
難しい。
「では」
言い直す。
「腕が強く痛んだら、途中でやめます」
「よろしい」
許可が出た。
私は。
少しだけ。
嬉しくなる。
それを見たオスカー先生が。
ため息をついた。
「話を聞く許可だけで、なぜそんな顔になるのですか」
「気になっていましたので」
「研究者にでもなればよかったのでは?」
「死者の声を聞く研究者は、あまり歓迎されないと思います」
「竜葬師も十分珍しいでしょう」
それは。
確かにそうだった。
◇
話をする場所は。
執務室ではなく。
小さな資料室になった。
窓が広く。
庭が見える。
机。
椅子。
壁には。
古い竜騎士団の記録が並んでいる。
「これは?」
私は。
机の上に置かれた。
薄い本を見る。
「契約についての古い教本だ」
アルフォンス様が答えた。
「アルフォンス様の説明だけではなく?」
「ああ」
「どうしてですか」
「君なら」
彼は言う。
「俺の記憶だけで決めるなと言うだろう」
私は。
少し。
目を瞬いた。
「よく分かってきましたね」
「何度言われたと思っている」
「良いことです」
「褒められている気がしない」
私は本を開く。
紙は。
かなり古い。
ところどころ。
文字も薄れている。
表紙には。
『竜騎士契約概説』
と書かれていた。
「読みますか」
「全部読むと日が暮れる」
「では説明をお願いします」
「ああ」
アルフォンス様が。
向かいへ座った。
右手は。
机の上には置かない。
膝の上。
それには。
触れないことにした。
◇
「まず」
アルフォンス様が言った。
「契約は、人間から結ぶことができない」
「竜が選ぶから?」
「ああ」
「人間側が儀式をすれば、契約できるわけではない?」
「できない」
昔は。
竜騎士になるための儀式が。
いくつも存在したらしい。
香を焚く。
古い竜語を読む。
身体へ紋様を描く。
特別な場所へ行く。
でも。
「全部」
アルフォンス様が言う。
「人間側が、契約を受ける準備をするためのものだ」
「竜を従わせるためではない」
「ああ」
「では」
私は尋ねる。
「竜が嫌なら?」
「何も起こらない」
「どれだけ優秀な人でも?」
「起こらない」
「王族でも?」
「起こらない」
「命令しても?」
「当然だ」
少し。
安心した。
竜騎士契約まで。
人間側が。
一方的に決められるものだったら。
嫌だと思っていた。
「人間側も」
アルフォンス様が続ける。
「拒める」
「竜に選ばれても?」
「ああ」
「拒んだ人はいるのですか」
「記録にはある」
「理由は?」
「恐怖」
「家族」
「別の生き方を選んだ者もいる」
「それで竜は怒らない?」
「竜による」
「……」
「怒る竜もいる」
「そこは普通なのですね」
「竜を何だと思っている」
「神聖で、常に寛大な存在だと教えられていました」
「嘘だな」
即答だった。
「ノクスなら?」
「しばらく嫌がらせをする」
「断られたら?」
「ああ」
「具体的には」
「荷物を隠す」
「……」
「靴を持っていく」
「……」
「戸を開けたままにする」
「幼いですね」
「あいつはそういう竜だった」
アルフォンス様の声には。
少し。
温度があった。
◇
「契約した後は」
私は教本を見る。
「心が読めるのですか」
「違う」
アルフォンス様が。
はっきり言った。
「言葉は聞こえない」
「私の力とは違いますね」
「ああ」
「では何が分かるのです?」
「最初は」
彼が少し考える。
「近い、とか」
「はい」
「遠い、とか」
「方向?」
「ああ」
「危険」
「痛み」
「強い感情」
「そんなものだ」
「嬉しい、悲しいも?」
「ある程度は」
「ある程度?」
「人間の感情と」
アルフォンス様は。
言葉を探す。
「同じ名前を付けられないものも多い」
例えば。
空を飛んでいる時。
ノクスから流れてくるもの。
風の高さ。
地面との距離。
獲物の匂い。
森の方向。
雨が近い感覚。
そういったものが。
感情と混ざる。
「言葉には?」
「しにくい」
「では」
私は尋ねる。
「ノクスが怒っている、と分かったのは?」
「慣れだ」
「慣れ?」
「同じ感覚を何度も受け取る」
「はい」
「その時のノクスを見る」
「はい」
「牙を見せている」
「はい」
「尾で地面を叩いている」
「はい」
「次から分かる」
「なるほど」
考えてみれば。
人間同士でも。
似ているのかもしれない。
声。
顔。
仕草。
同じものを。
何度も見て。
少しずつ。
相手のことを覚える。
「契約すれば」
私は言う。
「何でも理解できるわけではないのですね」
「できない」
「喧嘩も?」
「する」
「ノクスと?」
「何度も」
「例えば?」
「俺が予定を変えた」
「はい」
「ノクスが怒った」
「はい」
「説明した」
「はい」
「さらに怒った」
「なぜです?」
「俺にも分からなかった」
少し。
笑いそうになる。
「契約していても?」
「ああ」
「便利ではありませんね」
「便利なものではない」
その言い方に。
私は。
少しだけ。
背筋を伸ばした。
「では」
「何なのです?」
アルフォンス様が。
教本を見る。
「預けるものだ」
「何を?」
「命の一部を」
◇
竜騎士契約では。
竜が。
自分の感覚の一部を人間へ開く。
人間も。
同じように。
自分の一部を竜へ開く。
一方通行ではない。
「ノクスにも」
私は尋ねる。
「アルフォンス様の感情が伝わった?」
「ああ」
「隠せました?」
「ほとんど無理だった」
「では」
私は。
少し考える。
「怒っていないふりをしても?」
「ばれた」
「悲しくないふりをしても?」
「ばれた」
「平気なふりは?」
「一番ばれた」
「……」
「何だ」
「少し羨ましいと思いました」
アルフォンス様の眉が。
僅かに動く。
「なぜ」
「言わなくても分かってもらえるのでしょう?」
「全部ではない」
「それでも」
私は。
右腕を見る。
昔の私は。
痛くても。
怖くても。
平気だと言っていた。
言葉にしなければ。
分かってもらえなくても当然なのに。
それでも。
どこかで。
気づいてほしいと思っていた。
「便利ではないと言っただろう」
アルフォンス様が言う。
「はい」
「隠したいことまで伝わる」
「例えば?」
「失敗して落ち込んでいる時に」
「はい」
「ノクスがずっと顔を覗き込んでくる」
「優しいですね」
「うっとうしい」
「でも離れなかった?」
「ああ」
「優しいですね」
「……」
反論は。
なかった。
◇
「距離が離れても分かるのですか」
「弱くなる」
「どの程度?」
「近ければ細かい」
「遠ければ?」
「強いものだけだ」
危険。
大きな痛み。
激しい恐怖。
怒り。
あるいは。
死に近いほどの。
何か。
私の指が。
教本の上で。
止まる。
「六年前も?」
アルフォンス様が。
黙った。
「答えたくなければ」
「いや」
短い返事。
「話す」
右手が。
膝の上で。
少し動いた。
「俺は」
彼が言う。
「ノクスが死んだ瞬間を知っている」
私は。
息を止める。
「見てはいない」
「はい」
「そばにもいなかった」
「はい」
「だが」
アルフォンス様の声が。
少し低くなる。
「契約が切れた」
◇
「最初に」
彼は言った。
「熱が来た」
熱。
私も。
ノクスの折れた牙へ触れた時。
感じた。
炎。
肩。
背中。
「身体が燃えているような?」
「ああ」
「その次は」
「鉄だ」
「鉄?」
「首」
私は。
手を止める。
「締められる感覚ですか」
「ああ」
そこも。
重なる。
牙から流れ込んだ。
人工的な拘束。
「それから」
アルフォンス様が。
胸元へ手を置く。
「ここが裂けたように痛んだ」
「実際に傷が?」
「なかった」
身体には。
傷一つ。
なかった。
それでも。
息ができないほど。
痛んだ。
「ノクスの痛み?」
「そう思っている」
「断定はしない?」
「ああ」
私は。
小さく頷く。
「他には」
「恐怖」
「ノクスの?」
「たぶん」
アルフォンス様の目が。
少し。
遠くなる。
「ただ」
「自分が死ぬことへの恐怖とは」
言葉が止まる。
「違った」
「では?」
「失う恐怖だった」
「何を」
聞いてから。
私は。
答えを。
少しだけ予想した。
「あの子を」
アルフォンス様が言う。
「幼い竜を」
ルゥ。
「どこにいる」
「逃げろ」
「見つかるな」
「そんなものが」
彼は。
右手を握る。
「一度に流れてきた」
言葉ではない。
でも。
それに近い意味として。
アルフォンス様は。
受け取った。
「そして」
私は。
小さく尋ねる。
「最後に?」
沈黙。
長い。
沈黙。
「何もなくなった」
◇
熱も。
痛みも。
恐怖も。
突然。
消えた。
「それまで」
アルフォンス様が言う。
「どれだけ離れていても」
「弱くても」
「ノクスがいる、と分かった」
「はい」
「方向が分からなくても」
「眠っているのかもしれなくても」
「いることだけは」
分かった。
それが。
一瞬で。
消えた。
「声が止まった、ではない」
「はい」
「気配がなくなった、でもない」
彼は。
言葉を探す。
「最初からそこに何もなかったようになった」
私は。
何も言えなかった。
それは。
たぶん。
私には。
完全には分からない。
死者の声が。
突然聞こえなくなることなら。
想像できる。
でも。
十四年近く。
自分の中にあった。
もう一つの感覚。
それが。
ある瞬間。
消える。
「倒れました?」
「ああ」
「意識を?」
「少し」
「起きた時は?」
「最初に」
アルフォンス様が言う。
「ノクスを探した」
「契約で?」
「ああ」
「でも」
「何もなかった」
◇
「竜騎士たちは」
アルフォンス様が。
古い教本を指で叩く。
「契約竜を半身と呼ぶことがある」
「半身」
「ああ」
「好きな言い方ではない」
「なぜです?」
「ノクスは俺の半分ではない」
即答だった。
「あいつは」
アルフォンス様が言う。
「俺が足りないから存在したわけではない」
「はい」
「俺も」
「ノクスの足りない部分を埋めるためにいたわけではない」
私は。
少し。
嬉しくなった。
相棒。
契約者。
半身。
どんな言葉を使っても。
ノクスは。
アルフォンス様の一部ではなく。
一頭の竜だった。
「では」
私は尋ねる。
「なぜ半身と?」
「失った時」
彼は言った。
「そう感じるからだろう」
私の表情に。
疑問が出たらしい。
「二人で使っていた感覚がある」
「はい」
「危険を感じる」
「方向を知る」
「感情を受け取る」
「自分のものを返す」
「それを何年も続ける」
「はい」
「すると」
アルフォンス様が。
右手を見る。
「自分一人の身体で生きていた頃が」
少し。
思い出せなくなる。
それが。
契約。
「そこから」
「突然一頭分が消える」
「……」
「残った側は」
彼が言う。
「元に戻るわけではない」
契約前へ。
戻るのではない。
二人で使っていた道が。
途中から。
切り落とされる。
「古い記録では」
アルフォンス様が。
本を開く。
一つの箇所を指す。
そこには。
古い表現で。
書かれていた。
『契約竜を失いし者、魂に欠損を残すことあり』
「契約欠損」
私は読む。
「ああ」
「治療は?」
「確立していない」
「時間が経てば?」
「軽くなる者もいる」
「完全に戻る?」
「戻ったと記録された者もいる」
「アルフォンス様は?」
「分からない」
私は。
彼を見る。
「六年です」
「ああ」
「今も?」
「ああ」
◇
「右手の震えも?」
私は。
初めて。
そこへ触れた。
アルフォンス様が。
自分の右手を見る。
「医師には」
彼が言う。
「契約欠損の一部だろうと言われた」
「身体には問題がない?」
「ああ」
「筋肉や骨は?」
「異常なし」
「でも震える」
「ああ」
「いつもではありませんね」
「そうだ」
ノクス。
鞍。
遺骸。
思い出。
強く。
契約へ触れる時。
震えることが多い。
「治したいですか」
私が聞くと。
アルフォンス様は。
しばらく答えなかった。
「昔は」
「はい」
「治したかった」
「今は?」
「分からない」
「どうして」
「治すという言葉が」
彼は。
ゆっくり言う。
「ノクスがいなかった頃へ戻るように聞こえる時がある」
私は。
黙る。
「震えない方が便利だ」
「はい」
「感情も」
「もう少し普通に感じられた方が」
「周囲には迷惑をかけない」
「でも」
右手。
「これまで全部消えたら」
アルフォンス様は。
小さく息を吐く。
「俺は」
「何を失ったのかまで」
「分からなくなりそうで怖い」
◇
「感情も」
私は。
慎重に尋ねる。
「契約欠損の影響なのですね」
「ああ」
「感じない?」
「違う」
彼は。
少し考える。
「感じる」
「はい」
「ただ」
「以前より遠い」
「遠い?」
「嬉しいことがある」
「はい」
「嬉しいと分かる」
「でも?」
「胸の奥まで届く前に」
アルフォンス様が。
手を止める。
「途中で薄くなる」
悲しみも。
同じ。
「悲しくないわけではない」
「はい」
「悲しいと理解している」
「でも涙が出ない?」
「ああ」
私は。
少し。
思い出す。
アルフォンス様は。
ノクスの話をする時も。
怒る時も。
顔が。
ほとんど変わらないことがある。
無口だから。
そういう性格だから。
そう思っていた。
「怒りは?」
「比較的分かりやすい」
「なぜです」
「身体が先に反応する」
「なるほど」
「だから」
「冷たい人に見えましたか」
不意に。
そう聞かれた。
私は。
少し考える。
「最初は」
「はい」
「少し」
「そうか」
「でも」
私は続ける。
「今は違います」
「なぜ」
「冷たい人なら」
ノクスの鞍を。
六年間。
他人に頼んでまで。
手入れし続けない。
「ルゥが自分を嫌っているかもしれないというだけで」
私は言う。
「そんな顔もしないと思います」
「どんな顔だ」
「それは」
説明しにくい。
「傷ついた顔です」
アルフォンス様が。
黙る。
「していたか」
「はい」
「自覚はなかった」
「なら」
私は。
少し笑う。
「届いていないだけで」
「なくなってはいないのでは?」
彼の目が。
私を見る。
しばらく。
何も言わなかった。
「そうだと」
やがて。
小さく言う。
「いいと思う」
◇
窓の外。
黒いものが動いた。
「あ」
石壁。
その上に。
ルゥがいる。
「今日も来ました」
「ああ」
アルフォンス様の身体が。
少しだけ。
硬くなる。
ルゥは。
庭へ降りない。
石壁の上から。
こちらを見る。
私。
アルフォンス様。
交互に。
「離れますか」
私は聞く。
アルフォンス様が。
少し考える。
「いや」
以前なら。
すぐに。
姿を消していたかもしれない。
「ここにいる」
「はい」
「ルゥが嫌なら」
彼が言う。
「ルゥが離れる」
「それでいいと思います」
私たちは。
窓へ近づかない。
手も振らない。
名前も呼ばない。
ただ。
そこにいる。
ルゥも。
逃げない。
◇
「別の竜と」
私は尋ねる。
「もう一度契約することはできますか」
ルゥの前で。
少し。
聞きづらい質問だった。
「できる者もいる」
「契約欠損が治る?」
「治るとは限らない」
「では」
「新しい契約は」
アルフォンス様が言う。
「新しい契約だ」
穴を。
別の竜で塞ぐものではない。
「ノクスの代わりにはならない」
「はい」
「だから」
アルフォンス様が。
ルゥを見る。
「俺はルゥに」
一度。
言葉が止まる。
「何も求めない」
私は。
彼を見る。
「契約を?」
「ああ」
「ノクスの子だから?」
「それもある」
「他には?」
「俺の欠けたものを埋めるために」
アルフォンス様が。
静かに言った。
「ルゥを使いたくない」
その言葉を。
私は。
何も挟まず。
聞いた。
「もし」
彼が続ける。
「いつかルゥが」
「自分から誰かを選ぶなら」
「それはルゥのものだ」
誰か。
それは。
アルフォンス様かもしれない。
別の騎士かもしれない。
誰も選ばないかもしれない。
「選ばなくても?」
「構わない」
「竜騎士団が困っても?」
「困るだろうな」
「領主としては?」
「かなり困る」
「それでも?」
「ああ」
アルフォンス様は。
迷わなかった。
「契約は」
「困っている人間を助ける義務ではない」
ルゥが。
石壁の上で。
僅かに。
頭を傾けた。
意味が分かったのかは。
分からない。
だから。
そう書くことはできない。
でも。
少なくとも。
逃げなかった。
◇
「一つ」
私は言った。
「気になることがあります」
「何だ」
「ノクスの牙に触れた時」
私の声に。
アルフォンス様の右手が。
僅かに動く。
「最後に」
聞こえた。
――アル。
――来るな。
――あの子を――
「アル、と呼ばれました」
「ああ」
「そして」
「来るな、と」
「ああ」
「契約があったなら」
私は言う。
「ノクスは、アルフォンス様が近づいていることを感じていた可能性がありますね」
アルフォンス様が。
黙る。
「可能性です」
私は。
すぐに付け足す。
「断定はできません」
「ああ」
「距離も」
「どこまで分かったかも」
「分かりません」
「ああ」
「だから」
私は。
彼を見る。
「来るな、を」
「見捨てられた、という意味にはしません」
「……」
「逆に」
「来るな、があなたを守ろうとした言葉だとも」
「まだ決めません」
長い沈黙。
「分かった」
アルフォンス様が言う。
「でも」
「何でしょう」
「一つだけ」
彼の声が。
僅かに掠れる。
「六年前」
右手。
震えが。
少し強くなる。
「契約が切れる直前」
「ノクスから」
「俺に向いた何かがあった」
私は。
黙って聞く。
「怒りではなかった」
「はい」
「憎しみでも」
「なかったと思う」
「はい」
「だが」
彼は。
目を閉じる。
「何だったのか」
「分からなかった」
「だから」
六年間。
問い続けた。
あれは。
何だったのか。
最後に。
ノクスは。
自分へ。
何を向けたのか。
「それを」
アルフォンス様が言う。
「知りたくて」
彼の視線が。
私へ向く。
「君を辺境へ呼んだ」
私は。
驚かなかった。
もう。
分かっていたから。
「はい」
「最初は」
「ノクスを弔うためだと思っていた」
「はい」
「違った」
アルフォンス様の右手が。
止まる。
「俺が」
彼は言う。
「答えを欲しかった」
だから。
急いだ。
私が。
牙へ触れることを。
心のどこかで。
望んだ。
「それでも」
私は言う。
「知りたいと思うこと自体は」
「悪いことではありません」
「だが君を危険にした」
「それは別です」
「……」
「知りたいことと」
「そのために何をしていいかは」
「別です」
アルフォンス様が。
小さく息を吐く。
「また別か」
「はい」
「君は本当に」
「何でも分けるな」
「混ぜると」
私は言う。
「誰か一人が、全部悪いことになってしまいますから」
六年前も。
今も。
たぶん。
これからも。
◇
「では」
私は。
机の教本を閉じる。
「次に調べるものが決まりました」
「何だ」
「契約記録です」
「俺とノクスの?」
「はい」
契約した日。
訓練。
任務。
負傷。
飛行記録。
最後の日。
「アルフォンス様の記憶だけではなく」
「記録を照らし合わせます」
「ああ」
「それから」
少し。
言葉を止める。
「鞍」
アルフォンス様の顔が。
僅かに固くなる。
「あれは」
私は続ける。
「ノクスだけの遺品ではないのかもしれません」
「どういう意味だ」
「ノクスが長く身につけ」
「アルフォンス様も」
「長く使った」
二人を。
物理的にも。
つないでいた物。
竜の背。
人間の身体。
その間に。
ずっと。
あった。
「契約生活の多くを」
私は言う。
「あの鞍は受け止めています」
「……ああ」
「だから」
死の直前だけではない。
もっと。
長い時間。
強い思いが。
残っている可能性がある。
「牙よりも?」
「可能性は高いと思います」
アルフォンス様が。
窓の外を見る。
ルゥは。
まだ。
石壁の上にいる。
「触れるのか」
私は。
首を横に振った。
「まだです」
「やはり」
「はい」
「契約のことを知ったからこそ」
私は言う。
「余計に、急いではいけないと思いました」
ノクスの鞍に。
何が残っているか。
分からない。
死の恐怖かもしれない。
アルフォンス様への思いかもしれない。
ルゥかもしれない。
ミラかもしれない。
あるいは。
山リンゴを奪った。
遠い日の記憶かもしれない。
「一度目は」
「最も鮮明です」
「ああ」
「なら」
私は。
手袋をした左手で。
閉じた教本を押さえる。
「聞く前に」
「聞かなくても分かることを」
「できるだけ集めます」
アルフォンス様が。
しばらく。
何も言わなかった。
「分かった」
やがて。
答える。
「契約記録を出す」
「お願いします」
「鞍も?」
「もう一度見せてください」
「触れずに?」
「はい」
私は。
少し考える。
「まず」
「あの鞍が」
「どれだけ二人の時間を残しているのか」
「生きている側から調べましょう」
窓の外。
ルゥが。
石壁から立ち上がった。
こちらを。
一度だけ見る。
そして。
森側へ。
姿を消した。
アルフォンス様は。
追わなかった。
私も。
呼び止めなかった。
いなくなったものを。
無理に。
取り戻そうとはしない。
でも。
残されたものを。
なかったことにも。
しない。
竜騎士たちが。
契約竜を。
半身と呼ぶ理由。
私は。
少しだけ。
分かった気がした。
失うのは。
相手だけではない。
二人で生きるために作った。
自分の中の道まで。
突然。
途切れてしまうのだ。
そして。
ノクスとアルフォンス様が。
長い年月。
同じ道を歩いた証が。
今も。
洞窟の石箱の中で。
黒い鞍として。
残されている。




