ノクスとアル
「古い黒竜の道?」
私は聞き返した。
「ああ」
アルフォンス様は窓の向こうを見たまま答える。
庭の端には、まだルゥがいる。
黒い身体を地面へ伏せ。
こちらを警戒しながら。
それでも森へは戻らない。
「今も残っているのですか」
「道そのものはな。ただ、ほとんど使われていない」
「黒竜だけが通る道だった?」
「正確には、人間がそう呼んでいただけだ」
アルフォンス様が言う。
「黒竜に聞いたわけではない」
「……確かに」
それはそうだ。
「昔は、黒竜が山と森を行き来する姿を何度も見たらしい。それで人間側が勝手に道と呼んだ」
「では、どうして入ってはいけなかったのですか」
「黒竜の縄張りだったからだ」
「危険では?」
「危険だった」
「十三歳で入ったのですか」
「ああ」
「なぜ」
アルフォンス様が。
少し。
黙った。
「一人になりたかった」
思っていなかった答えだった。
◇
十三歳。
その頃のアルフォンス様は。
すでに。
次のグレイヴ辺境伯として扱われていたという。
「朝は剣」
「はい」
「昼は領政」
「はい」
「午後は歴史と外交」
「はい」
「夜は会食」
「……十三歳ですよね?」
「ああ」
「子どもでは」
「子どもだった」
きっぱり。
言った。
「だが、周りはそう扱わなかった」
現辺境伯の一人息子。
将来。
竜騎士団を束ね。
領地を守る者。
幼い頃から。
そう教えられていたらしい。
「剣を握れば」
アルフォンス様が言う。
「次期辺境伯としては遅いと言われた」
「本を読めば」
「次期辺境伯なら、そこまで知っていて当然だと言われた」
「食事をすれば」
「次期辺境伯らしく振る舞えと言われた」
私は。
黙って聞く。
「失敗すると?」
「次期辺境伯なのに、と言われた」
「成功すると?」
「次期辺境伯だから当然だ、と言われた」
「……」
少し。
嫌な感じがした。
何をしても。
アルフォンスという人間ではなく。
次期辺境伯として評価される。
「ご両親も?」
「父は厳しかった」
少し間がある。
「だが、悪い人ではなかった」
「はい」
「辺境伯が一度判断を間違えれば、多くの人間が死ぬ」
この土地では。
魔獣。
竜。
雪。
飢え。
王都から届く命令。
その一つ一つが。
人の命につながる。
「だから俺を早く育てようとした」
「理解はしていたのですか」
「当時はしていなかった」
「今は?」
「理解はしている」
「納得は?」
アルフォンス様が。
私を見る。
「君は時々、面倒なところまで聞くな」
「気になりましたので」
「……完全にはしていない」
「そうですか」
「ああ」
理解することと。
納得することは。
同じではない。
それも。
少し分かる気がした。
◇
「その日は」
アルフォンス様が続けた。
「成人前の竜騎士候補を集めた訓練があった」
「竜騎士になる予定だったのですか」
「辺境伯家の人間は、代々そうだった」
「竜に選ばれる前から?」
「ああ」
「でも、契約は竜が人間を選ぶのでしょう?」
「そうだ」
「では、選ばれなかったら?」
「かなり格好が悪い」
「……そこですか?」
「十三歳だったからな」
少し。
アルフォンス様の口元が緩む。
「他の候補には、すでに竜と親しくしている者もいた」
「焦っていた?」
「あったと思う」
「アルフォンス様にも」
「俺にもある」
「少し安心しました」
「何に」
「十三歳らしいところがあって」
「失礼だな」
「褒めています」
「そうは聞こえない」
庭のルゥが。
頭を少し上げた。
こちらの声を。
聞いているのかもしれない。
「それで?」
私は促す。
「訓練が終わった後」
アルフォンス様の顔から。
僅かな笑みが消えた。
「教官が言った」
「何と?」
「辺境伯家の跡取りなら、竜の方から寄ってくると思っていた、と」
「……」
「冗談だったらしい」
たぶん。
言った本人は。
そこまで深く考えていなかったのだろう。
でも。
十三歳の少年には。
違った。
「腹が立った?」
「ああ」
「悲しかった?」
「その頃は」
アルフォンス様が。
少し考える。
「腹が立っていると思っていた」
「今は?」
「たぶん」
短く。
息を吐く。
「傷ついていた」
私は。
何も言わなかった。
その言葉を。
彼自身が口にしたことの方が。
大切だと思ったから。
「それで訓練場を抜けた」
「一人で?」
「ああ」
「護衛は」
「撒いた」
「……」
「怒るな」
「怒っていません」
「顔が」
「呆れています」
「似たようなものだ」
十三歳。
一人。
黒竜の縄張り。
今なら。
どれだけ危険だったか。
本人にも分かるはずだ。
「死ぬ可能性は考えなかったのですか」
「考えなかった」
「十三歳ですね」
「ああ」
アルフォンス様が。
珍しく素直に認めた。
◇
古い黒竜の道は。
城から馬で一時間ほど北へ進み。
さらに。
森を歩いた先にあった。
道と言っても。
人が整備したものではない。
岩の間。
木々の隙間。
長い年月。
大きな生き物が同じ場所を通ることで。
自然にできた道。
「怖くありませんでした?」
「最初は腹が立っていた」
「途中から?」
「迷った」
「……」
「笑うな」
「笑っていません」
「口が動いた」
「少しだけです」
道を外れ。
戻ろうとして。
さらに奥へ入った。
日が落ち始め。
ようやく。
十三歳のアルフォンス様は。
自分がかなり危険な状況にいると理解したらしい。
「食べ物は?」
「持っていた」
「水は?」
「あった」
「なら、少し安心ですね」
「山リンゴが二つ」
「食べ物が山リンゴだけだったのですか?」
「ああ」
「安心を返してください」
その山リンゴの一つを。
少年は。
岩に座って食べた。
もう一つは。
帰る途中のために残した。
はずだった。
「なくなった」
「何が?」
「リンゴが」
「落とした?」
「違う」
荷物の隣に。
黒いものがいた。
「ノクス?」
「ああ」
「もう?」
「あれが最初だ」
音も。
ほとんどしなかったという。
気づいた時には。
岩の向こうから。
黒い頭が出ていた。
「大きさは?」
「今のルゥより、少し大きいくらいだった」
まだ。
完全な成竜ではなかった。
若い黒竜。
「怖かったですか」
「ああ」
即答だった。
「動けなかった」
「剣は?」
「持っていた」
「抜いた?」
「抜こうとした」
「はい」
「手が震えて抜けなかった」
私は。
無意識に。
今のアルフォンス様の右手を見る。
彼も。
気づいたらしい。
「今とは理由が違う」
「分かっています」
十三歳の少年の前。
黒竜は。
じっと。
彼を見ていた。
金色の目。
黒い鱗。
人間なら。
丸ごと入ってしまいそうな口。
「それで?」
「リンゴを食った」
「……」
「俺の最後の一つを」
「いきなり?」
「ああ」
「許可もなく?」
「ああ」
「ノクスは昔からそうなのですね」
「何が」
「自由です」
「図々しいの間違いだ」
庭の向こう。
ルゥの耳が。
ぴくりと動いた。
「聞こえていますよ」
「ルゥにノクスの悪口を言ったつもりはない」
「図々しいと」
「事実だ」
もし。
ノクスがここにいたら。
アルフォンス様の服を。
また噛んだかもしれない。
◇
「逃げなかったのですか」
「逃げようとはした」
「はい」
「立った」
「はい」
「転んだ」
「……」
「足が痺れていた」
「アルフォンス様」
「何だ」
「ノクスとの出会いに、もう少し格好のいい話はないのですか」
「事実を聞きたいと言ったのは君だ」
「そうでした」
逃げようとして。
転んだ。
剣も抜けない。
最後の食べ物も奪われた。
辺境伯家の跡取りとしては。
あまり。
語り継ぎたくない出会いだった。
「ノクスは?」
「見ていた」
「助けては」
「くれなかった」
「厳しいですね」
「むしろ鼻で押された」
「起こすため?」
「違う」
「では?」
「もう一度転がされた」
「……遊ばれていませんか?」
「ああ」
アルフォンス様が。
真顔で答える。
「たぶん」
少し。
笑ってしまった。
「笑うな」
「すみません」
「まったく反省していないな」
「少しは」
「嘘だ」
でも。
アルフォンス様も。
怒ってはいなかった。
◇
「名前は」
私は聞いた。
「その時から分かっていたのですか」
「いや」
「ではノクスという名は?」
「後で知った」
「誰から?」
「古い竜騎士の記録だ」
黒竜には。
人間が発音できるものとは違う。
竜同士で認識する何かがある。
人間側は。
契約や記録のために。
それに近い音を。
名前として残していた。
「最初は何と呼んでいたのですか」
「黒いの」
「……」
「何だ」
「もう少しなかったのですか?」
「黒かった」
「それは見れば分かります」
「名前を知らなかった」
「だから黒いの」
「ああ」
ノクスも。
アルフォンス様の名前を。
知らなかった。
「名乗ったのですか」
「一応」
「何と?」
少し。
アルフォンス様が。
遠い目をした。
「アルフォンス・グレイヴ。グレイヴ辺境伯家の嫡男だ、と」
「十三歳らしいですね」
「うるさい」
「ノクスの反応は?」
「欠伸をした」
「……」
耐えられなかった。
私は。
左手で口元を押さえる。
「笑うな」
「申し訳ありません」
「二度目だぞ」
「でも」
次期辺境伯。
辺境伯家の嫡男。
人間なら。
少なからず。
態度を変える言葉。
それを聞いて。
黒竜は。
欠伸をした。
「ノクスには」
私は言う。
「関係なかったのですね」
「ああ」
アルフォンス様の声が。
少し。
変わった。
「たぶん」
黒竜にとって。
目の前にいたのは。
グレイヴ辺境伯家の跡取りではなかった。
ただ。
森で迷って。
リンゴを取られ。
転ばされた。
十三歳の少年。
「その時」
アルフォンス様が言った。
「初めてだった」
「何がですか」
「俺が何者になるかを」
一度。
言葉が止まる。
「どうでもいいと思われたのは」
私は。
笑うのをやめた。
「嬉しかったのですか」
「その時は腹が立った」
「そうですか」
「今考えると」
窓の向こう。
ルゥ。
黒い鱗へ。
午後の光が当たっている。
「嬉しかったんだと思う」
◇
その日。
ノクスは。
アルフォンス様を森の出口まで送った。
正確には。
「送ってくれたのですか」
「たぶん」
「また『たぶん』」
「俺が歩くとついてきた」
「はい」
「止まると止まった」
「はい」
「道を間違えると、前へ出た」
「それは案内では?」
「当時はそう思わなかった」
「なぜ?」
「馬鹿にされていると思った」
「十三歳ですね」
「何度言う」
森を抜ける直前。
ノクスは。
姿を消した。
城へ戻れば。
当然。
大騒ぎだった。
「叱られました?」
「三日間」
「長いですね」
「父、騎士団長、教官、乳母」
「全員から?」
「ああ」
「反省は?」
「あった」
「本当に?」
「翌週また行った」
「反省していませんね」
「今ならそう思う」
同じ道。
同じ岩。
山リンゴを。
今度は三つ。
「ノクスのため?」
「違う」
「では?」
「自分の分だ」
「三つも?」
「取られると思った」
「つまりノクスの分も含まれています」
「違う」
「そういうことにしておきます」
ノクスは。
いた。
同じ場所ではなく。
少し離れた木の上。
「木に登るのですか」
「登る」
「竜が?」
「若い黒竜は身軽だ」
ノクスは。
降りてきた。
そして。
山リンゴを二つ食べた。
「二つ?」
「ああ」
「アルフォンス様の分は」
「一つ残った」
「優しいですね」
「違う。満腹になっただけだ」
「本人には聞けません」
「なら俺の証言を採用しろ」
「一つの証言として記録します」
「そこまで記録するな」
◇
それから。
何度も。
会いに行った。
毎週ではない。
忙しい時期は。
一月近く行けないこともあった。
けれど。
行けば。
かなりの確率で。
ノクスはいた。
「待っていた?」
「分からない」
「そうですね」
「ただ」
アルフォンス様が。
少し考える。
「俺が行かなかった後ほど、噛まれた」
「……やはり待っていたのでは?」
「分からない」
今度は。
彼が。
私の言葉を使った。
「一本取られましたね」
「ああ」
私は。
少し笑う。
庭のルゥは。
まだいる。
森へ戻る気配はない。
「何をして過ごしたのですか」
「何も」
「何も?」
「ああ」
「話したりは」
「俺が一方的に」
「何を話したのです?」
「その日のこと」
訓練。
勉強。
父親に叱られたこと。
騎士団のこと。
食事。
領地。
「愚痴も?」
「……ああ」
「ノクスは聞いていた?」
「たぶん」
「寝ていませんでした?」
「よく寝ていた」
「それは聞いていたのでしょうか」
「知らん」
でも。
それで。
よかったのかもしれない。
返事はない。
正しいとも。
間違っているとも。
言われない。
次期辺境伯として。
どうすべきかも。
求められない。
ただ。
少年が話して。
黒竜が。
そこにいる。
「名前で」
アルフォンス様が言った。
「何ですか」
「ノクスの前だけだった」
一瞬。
分からなかった。
「何が?」
「アルフォンスでいられた」
次期辺境伯ではなく。
竜騎士候補でもなく。
領地を守る者でもない。
「ただの」
彼は言う。
「アルフォンスだった」
◇
私には。
少し。
分かる気がした。
伯爵令嬢。
婚約者。
不吉な力を持つ女。
竜葬師。
最後の竜葬師。
呼ばれ方が変わるたび。
周囲が私に求めるものも変わった。
でも。
そのどれも。
私のすべてではない。
「ノクスは」
私は言う。
「アルフォンス様を選ぶ前から、そうだったのですね」
「何が」
「あなたを、肩書で見なかった」
「ああ」
「だから」
少し。
考える。
「アルフォンス様も、ノクスを『竜』だけでは見なかった?」
彼が。
こちらを見る。
「そうかもしれない」
「神聖な黒竜でも」
「ああ」
「辺境を守る力でも」
「ああ」
「契約するための相手でもない」
ただ。
山リンゴを勝手に食べ。
人を転がし。
待たされると物を噛む。
「ノクスだった」
「ああ」
その返事は。
迷わなかった。
◇
「契約したのは?」
「出会って一年ほど後だ」
「十四歳」
「ああ」
「それまでは契約していなかった?」
「していない」
「なのに一年も会っていた?」
「ああ」
「誰にも言わず?」
「最初の半年は」
「……アルフォンス様」
「何だ」
「昔の私なら怒らなかったと思います」
「今は?」
「怒ります」
「なぜ」
「心配する人がいます」
アルフォンス様が。
少し。
目を見開く。
「人に言わず危険な場所へ行き続けるのは、よくありません」
「……君が言うのか」
「はい」
「君が?」
「最近、改善しています」
「そうだったな」
不服だ。
でも。
反論しづらい。
「契約の日は」
私は話を戻す。
「何があったのですか」
アルフォンス様の視線が。
庭へ戻る。
「俺が選んだ日ではない」
「では」
「ノクスが決めた」
その言葉に。
ルゥの耳が。
動いた。
◇
その日は。
雨だった。
アルフォンス様は。
いつものように。
古い黒竜の道へ向かった。
ただ。
いつもの岩に。
ノクスはいなかった。
「探したのですか」
「ああ」
「どのくらい」
「二時間」
「また無茶を」
「十四だった」
「一年しか成長していません」
雨が。
強くなった。
探して。
探して。
ようやく。
崖の下。
ノクスを見つけた。
「怪我を?」
「していない」
「ではなぜ」
「ミラがいた」
私は。
息を止める。
「ミラ?」
「ああ」
まだ。
ルゥが生まれる前。
若い黒竜が。
二頭。
並んでいた。
「その時に出会ったのですね」
「俺は、そこで初めて見た」
「ノクスの伴侶だと?」
「その時は知らなかった」
近づこうとすると。
ミラが。
警戒した。
低く唸り。
前へ出る。
「怖かった?」
「かなり」
「ノクスは?」
「ミラの横にいた」
「助けてくれなかった?」
「ああ」
「厳しいですね」
「それでも」
アルフォンス様は言う。
「俺が帰ろうとした時」
ノクスが。
ついてきた。
「ミラを置いて?」
「少しだけ」
森の道。
いつもの分かれ道まで。
ノクスが。
歩いた。
そこで。
止まった。
「何をしたのです?」
「頭を下げた」
「……頭を?」
「ああ」
少年の前へ。
黒竜が。
首を差し出すように。
頭を低くした。
「触った?」
「最初は分からなかった」
「何が」
「何を求められているのか」
ノクスは。
動かなかった。
アルフォンス様が近づいても。
逃げない。
手を上げても。
牙を見せない。
「額へ触れた」
「素手で?」
「ああ」
その瞬間。
何かが。
流れ込んだ。
「言葉?」
「違う」
「感情?」
「近い」
ここから先は。
竜騎士契約。
私には。
まだ詳しく分からないもの。
「怖かった」
アルフォンス様が言った。
「ノクスが?」
「俺が」
「契約が?」
「違う」
少し。
間。
「選ばれたことが」
私は。
黙る。
「それまで」
アルフォンス様は続けた。
「俺が次期辺境伯だから必要とされるのは、分かった」
「はい」
「父の息子だから」
「はい」
「将来、領地を継ぐから」
「はい」
「それなら理由がある」
でも。
ノクスには。
そんなものは。
どうでもよかった。
「何も持っていない俺を」
彼が言う。
「選んだ」
「何も持っていない?」
「肩書を全部取った俺を」
十三歳の時と。
同じ。
「アルフォンスを?」
「ああ」
その一言だけが。
とても。
静かだった。
◇
庭から。
音がした。
ざり。
爪が。
土を掻く音。
私たちは。
同時に。
ルゥを見る。
黒竜が。
立ち上がっていた。
「ルゥ?」
私は。
名前を呼ぶ。
ルゥは。
私を見ない。
アルフォンス様を。
見ている。
身体が。
僅かに低くなる。
「……」
また。
警戒。
そう思った。
けれど。
いつもと少し違う。
唸っていない。
「アルフォンス様」
「ああ」
「動かないで」
「ああ」
ルゥが。
一歩。
こちらへ。
近づく。
アルフォンス様の身体が。
固まる。
もう一歩。
「……ルゥ」
今度は。
アルフォンス様が呼んだ。
低い。
小さな声。
ルゥが。
止まった。
距離。
十数歩。
それ以上は。
来ない。
けれど。
逃げもしない。
「変ですね」
「何が」
「昨日までは」
私は言いかけて。
止める。
昨日まで。
ではなく。
「あなたの声を聞くと、すぐに強く警戒していました」
「ああ」
「今は」
「唸っていない」
「はい」
理由は。
分からない。
ノクスの話を。
理解していた?
父親の名前を。
聞いていた?
アルフォンス様の声から。
何かを感じた?
全部。
推測だ。
「意味を決めないのだろう」
アルフォンス様が言った。
私は。
彼を見る。
「覚えていたのですね」
「散々言われた」
「良いことです」
ルゥが。
鼻先を。
少し持ち上げる。
風。
アルフォンス様の方から。
ルゥへ吹く。
匂い。
黒竜は。
動かない。
アルフォンス様も。
動かない。
ただ。
同じ場所にいる。
それだけ。
◇
「一つ」
私は尋ねた。
「まだ聞いてもいいですか」
「何だ」
「ノクスは」
庭のルゥを見る。
「アルフォンス様を、何と呼んでいたのですか」
「呼べない」
「声ではなく」
竜は。
感情や映像。
匂い。
方向感覚。
そうしたもので。
意思を伝える。
「契約してからなら」
「呼ばれていると分かることはあったのでしょう?」
「ああ」
「どんな感じでした?」
アルフォンス様は。
少し。
困った顔をした。
「説明できない」
「近い言葉なら?」
「……」
長い。
沈黙。
「アル」
「え?」
「一番近いのは」
アルフォンス様が言う。
「アル、だ」
私は。
息を止める。
ノクスの折れた牙。
炎の中。
流れ込んできた。
声。
――アル。
あの言葉。
「リーゼロッテ?」
「……いえ」
私は。
右腕に。
左手を添える。
まだ。
傷が痛む。
「そうですか」
ノクスは。
アルフォンス様を。
そう呼んでいた。
辺境伯でも。
竜騎士でも。
契約者でもない。
アル。
「だから」
私は。
小さく言った。
「あの時も」
アルフォンス様の顔が。
変わる。
彼も。
同じことを思い出したのだろう。
炎。
拘束。
折れる牙。
そして。
――アル。
――来るな。
「意味は」
彼が言う。
「まだ決めない」
「はい」
私は頷く。
「それでいいと思います」
◇
ルゥが。
突然。
森の方を見る。
耳が動く。
何か。
私たちには聞こえない音。
次の瞬間。
身体を翻した。
「ルゥ」
私は呼ぶ。
黒竜は。
一度だけ。
こちらを見る。
そして。
石壁へ。
軽々と飛び乗った。
そのまま。
森側へ降りる。
消える。
「帰りましたね」
「ああ」
アルフォンス様が言う。
でも。
その声は。
昨日までとは。
少しだけ違って聞こえた。
「寂しいですか」
「……少し」
私は。
目を瞬く。
「今日は素直ですね」
「君に何度も言われた」
「何を?」
「分からないなら分からないと」
「ああ」
「寂しいなら」
アルフォンス様は。
少し。
言いづらそうに。
「寂しいと言った方がいいのだろう」
私は。
思わず。
笑った。
「何だ」
「いえ」
「笑っただろう」
「少しだけ」
「なぜ」
「私も」
右腕を見る。
「同じ練習をしていますので」
痛い時に。
痛いと言う。
怖い時に。
怖いと言う。
助けてほしい時に。
助けを求める。
アルフォンス様も。
たぶん。
別の形で。
同じことを。
練習している。
◇
「ところで」
私は聞いた。
「契約した時、ノクスから何が伝わったのですか」
アルフォンス様が。
少しだけ。
黙った。
「それを説明すると」
「はい」
「竜騎士契約そのものから話す必要がある」
「では、お願いします」
「今日は休むのではなかったか?」
「座っています」
「またそれか」
「聞くくらいなら」
その瞬間。
後ろから。
「駄目です」
オスカー先生。
「……いつからいました?」
「かなり前からです」
「声を掛けてください」
「お二人とも珍しく素直に話していたので」
気まずい。
アルフォンス様も。
少しだけ。
顔を逸らした。
「今日はここまでです」
「でも」
「傷が治ってから」
「話を聞くだけです」
「興奮すると傷が痛むでしょう」
「興奮は」
右腕が。
ずきり。
「……少ししています」
「正直でよろしい」
また。
それだ。
「明日なら?」
「状態を見てからです」
「分かりました」
私は。
今回は。
すぐに引いた。
アルフォンス様が。
こちらを見る。
「何ですか」
「いや」
「また驚きました?」
「少し」
「本当に失礼ですね」
でも。
彼の口元も。
少しだけ。
緩んでいた。
十三歳の少年と。
若い黒竜。
山リンゴを奪われたことから始まった関係。
肩書も。
役目も。
何も関係なく。
ノクスは。
アルフォンスという人を選んだ。
そして。
その契約が切れた時。
アルフォンス様の中から。
何が失われたのか。
私は。
まだ知らない。
次に聞くべきなのは。
ノクスの死ではなく。
二人を。
一つにつないでいたものの話だった。




