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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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31/45

ノクスとアル

「古い黒竜の道?」


 私は聞き返した。


「ああ」


 アルフォンス様は窓の向こうを見たまま答える。


 庭の端には、まだルゥがいる。


 黒い身体を地面へ伏せ。


 こちらを警戒しながら。


 それでも森へは戻らない。


「今も残っているのですか」


「道そのものはな。ただ、ほとんど使われていない」


「黒竜だけが通る道だった?」


「正確には、人間がそう呼んでいただけだ」


 アルフォンス様が言う。


「黒竜に聞いたわけではない」


「……確かに」


 それはそうだ。


「昔は、黒竜が山と森を行き来する姿を何度も見たらしい。それで人間側が勝手に道と呼んだ」


「では、どうして入ってはいけなかったのですか」


「黒竜の縄張りだったからだ」


「危険では?」


「危険だった」


「十三歳で入ったのですか」


「ああ」


「なぜ」


 アルフォンス様が。


 少し。


 黙った。


「一人になりたかった」


 思っていなかった答えだった。


          ◇


 十三歳。


 その頃のアルフォンス様は。


 すでに。


 次のグレイヴ辺境伯として扱われていたという。


「朝は剣」


「はい」


「昼は領政」


「はい」


「午後は歴史と外交」


「はい」


「夜は会食」


「……十三歳ですよね?」


「ああ」


「子どもでは」


「子どもだった」


 きっぱり。


 言った。


「だが、周りはそう扱わなかった」


 現辺境伯の一人息子。


 将来。


 竜騎士団を束ね。


 領地を守る者。


 幼い頃から。


 そう教えられていたらしい。


「剣を握れば」


 アルフォンス様が言う。


「次期辺境伯としては遅いと言われた」


「本を読めば」


「次期辺境伯なら、そこまで知っていて当然だと言われた」


「食事をすれば」


「次期辺境伯らしく振る舞えと言われた」


 私は。


 黙って聞く。


「失敗すると?」


「次期辺境伯なのに、と言われた」


「成功すると?」


「次期辺境伯だから当然だ、と言われた」


「……」


 少し。


 嫌な感じがした。


 何をしても。


 アルフォンスという人間ではなく。


 次期辺境伯として評価される。


「ご両親も?」


「父は厳しかった」


 少し間がある。


「だが、悪い人ではなかった」


「はい」


「辺境伯が一度判断を間違えれば、多くの人間が死ぬ」


 この土地では。


 魔獣。


 竜。


 雪。


 飢え。


 王都から届く命令。


 その一つ一つが。


 人の命につながる。


「だから俺を早く育てようとした」


「理解はしていたのですか」


「当時はしていなかった」


「今は?」


「理解はしている」


「納得は?」


 アルフォンス様が。


 私を見る。


「君は時々、面倒なところまで聞くな」


「気になりましたので」


「……完全にはしていない」


「そうですか」


「ああ」


 理解することと。


 納得することは。


 同じではない。


 それも。


 少し分かる気がした。


          ◇


「その日は」


 アルフォンス様が続けた。


「成人前の竜騎士候補を集めた訓練があった」


「竜騎士になる予定だったのですか」


「辺境伯家の人間は、代々そうだった」


「竜に選ばれる前から?」


「ああ」


「でも、契約は竜が人間を選ぶのでしょう?」


「そうだ」


「では、選ばれなかったら?」


「かなり格好が悪い」


「……そこですか?」


「十三歳だったからな」


 少し。


 アルフォンス様の口元が緩む。


「他の候補には、すでに竜と親しくしている者もいた」


「焦っていた?」


「あったと思う」


「アルフォンス様にも」


「俺にもある」


「少し安心しました」


「何に」


「十三歳らしいところがあって」


「失礼だな」


「褒めています」


「そうは聞こえない」


 庭のルゥが。


 頭を少し上げた。


 こちらの声を。


 聞いているのかもしれない。


「それで?」


 私は促す。


「訓練が終わった後」


 アルフォンス様の顔から。


 僅かな笑みが消えた。


「教官が言った」


「何と?」


「辺境伯家の跡取りなら、竜の方から寄ってくると思っていた、と」


「……」


「冗談だったらしい」


 たぶん。


 言った本人は。


 そこまで深く考えていなかったのだろう。


 でも。


 十三歳の少年には。


 違った。


「腹が立った?」


「ああ」


「悲しかった?」


「その頃は」


 アルフォンス様が。


 少し考える。


「腹が立っていると思っていた」


「今は?」


「たぶん」


 短く。


 息を吐く。


「傷ついていた」


 私は。


 何も言わなかった。


 その言葉を。


 彼自身が口にしたことの方が。


 大切だと思ったから。


「それで訓練場を抜けた」


「一人で?」


「ああ」


「護衛は」


「撒いた」


「……」


「怒るな」


「怒っていません」


「顔が」


「呆れています」


「似たようなものだ」


 十三歳。


 一人。


 黒竜の縄張り。


 今なら。


 どれだけ危険だったか。


 本人にも分かるはずだ。


「死ぬ可能性は考えなかったのですか」


「考えなかった」


「十三歳ですね」


「ああ」


 アルフォンス様が。


 珍しく素直に認めた。


          ◇


 古い黒竜の道は。


 城から馬で一時間ほど北へ進み。


 さらに。


 森を歩いた先にあった。


 道と言っても。


 人が整備したものではない。


 岩の間。


 木々の隙間。


 長い年月。


 大きな生き物が同じ場所を通ることで。


 自然にできた道。


「怖くありませんでした?」


「最初は腹が立っていた」


「途中から?」


「迷った」


「……」


「笑うな」


「笑っていません」


「口が動いた」


「少しだけです」


 道を外れ。


 戻ろうとして。


 さらに奥へ入った。


 日が落ち始め。


 ようやく。


 十三歳のアルフォンス様は。


 自分がかなり危険な状況にいると理解したらしい。


「食べ物は?」


「持っていた」


「水は?」


「あった」


「なら、少し安心ですね」


「山リンゴが二つ」


「食べ物が山リンゴだけだったのですか?」


「ああ」


「安心を返してください」


 その山リンゴの一つを。


 少年は。


 岩に座って食べた。


 もう一つは。


 帰る途中のために残した。


 はずだった。


「なくなった」


「何が?」


「リンゴが」


「落とした?」


「違う」


 荷物の隣に。


 黒いものがいた。


「ノクス?」


「ああ」


「もう?」


「あれが最初だ」


 音も。


 ほとんどしなかったという。


 気づいた時には。


 岩の向こうから。


 黒い頭が出ていた。


「大きさは?」


「今のルゥより、少し大きいくらいだった」


 まだ。


 完全な成竜ではなかった。


 若い黒竜。


「怖かったですか」


「ああ」


 即答だった。


「動けなかった」


「剣は?」


「持っていた」


「抜いた?」


「抜こうとした」


「はい」


「手が震えて抜けなかった」


 私は。


 無意識に。


 今のアルフォンス様の右手を見る。


 彼も。


 気づいたらしい。


「今とは理由が違う」


「分かっています」


 十三歳の少年の前。


 黒竜は。


 じっと。


 彼を見ていた。


 金色の目。


 黒い鱗。


 人間なら。


 丸ごと入ってしまいそうな口。


「それで?」


「リンゴを食った」


「……」


「俺の最後の一つを」


「いきなり?」


「ああ」


「許可もなく?」


「ああ」


「ノクスは昔からそうなのですね」


「何が」


「自由です」


「図々しいの間違いだ」


 庭の向こう。


 ルゥの耳が。


 ぴくりと動いた。


「聞こえていますよ」


「ルゥにノクスの悪口を言ったつもりはない」


「図々しいと」


「事実だ」


 もし。


 ノクスがここにいたら。


 アルフォンス様の服を。


 また噛んだかもしれない。


          ◇


「逃げなかったのですか」


「逃げようとはした」


「はい」


「立った」


「はい」


「転んだ」


「……」


「足が痺れていた」


「アルフォンス様」


「何だ」


「ノクスとの出会いに、もう少し格好のいい話はないのですか」


「事実を聞きたいと言ったのは君だ」


「そうでした」


 逃げようとして。


 転んだ。


 剣も抜けない。


 最後の食べ物も奪われた。


 辺境伯家の跡取りとしては。


 あまり。


 語り継ぎたくない出会いだった。


「ノクスは?」


「見ていた」


「助けては」


「くれなかった」


「厳しいですね」


「むしろ鼻で押された」


「起こすため?」


「違う」


「では?」


「もう一度転がされた」


「……遊ばれていませんか?」


「ああ」


 アルフォンス様が。


 真顔で答える。


「たぶん」


 少し。


 笑ってしまった。


「笑うな」


「すみません」


「まったく反省していないな」


「少しは」


「嘘だ」


 でも。


 アルフォンス様も。


 怒ってはいなかった。


          ◇


「名前は」


 私は聞いた。


「その時から分かっていたのですか」


「いや」


「ではノクスという名は?」


「後で知った」


「誰から?」


「古い竜騎士の記録だ」


 黒竜には。


 人間が発音できるものとは違う。


 竜同士で認識する何かがある。


 人間側は。


 契約や記録のために。


 それに近い音を。


 名前として残していた。


「最初は何と呼んでいたのですか」


「黒いの」


「……」


「何だ」


「もう少しなかったのですか?」


「黒かった」


「それは見れば分かります」


「名前を知らなかった」


「だから黒いの」


「ああ」


 ノクスも。


 アルフォンス様の名前を。


 知らなかった。


「名乗ったのですか」


「一応」


「何と?」


 少し。


 アルフォンス様が。


 遠い目をした。


「アルフォンス・グレイヴ。グレイヴ辺境伯家の嫡男だ、と」


「十三歳らしいですね」


「うるさい」


「ノクスの反応は?」


「欠伸をした」


「……」


 耐えられなかった。


 私は。


 左手で口元を押さえる。


「笑うな」


「申し訳ありません」


「二度目だぞ」


「でも」


 次期辺境伯。


 辺境伯家の嫡男。


 人間なら。


 少なからず。


 態度を変える言葉。


 それを聞いて。


 黒竜は。


 欠伸をした。


「ノクスには」


 私は言う。


「関係なかったのですね」


「ああ」


 アルフォンス様の声が。


 少し。


 変わった。


「たぶん」


 黒竜にとって。


 目の前にいたのは。


 グレイヴ辺境伯家の跡取りではなかった。


 ただ。


 森で迷って。


 リンゴを取られ。


 転ばされた。


 十三歳の少年。


「その時」


 アルフォンス様が言った。


「初めてだった」


「何がですか」


「俺が何者になるかを」


 一度。


 言葉が止まる。


「どうでもいいと思われたのは」


 私は。


 笑うのをやめた。


「嬉しかったのですか」


「その時は腹が立った」


「そうですか」


「今考えると」


 窓の向こう。


 ルゥ。


 黒い鱗へ。


 午後の光が当たっている。


「嬉しかったんだと思う」


          ◇


 その日。


 ノクスは。


 アルフォンス様を森の出口まで送った。


 正確には。


「送ってくれたのですか」


「たぶん」


「また『たぶん』」


「俺が歩くとついてきた」


「はい」


「止まると止まった」


「はい」


「道を間違えると、前へ出た」


「それは案内では?」


「当時はそう思わなかった」


「なぜ?」


「馬鹿にされていると思った」


「十三歳ですね」


「何度言う」


 森を抜ける直前。


 ノクスは。


 姿を消した。


 城へ戻れば。


 当然。


 大騒ぎだった。


「叱られました?」


「三日間」


「長いですね」


「父、騎士団長、教官、乳母」


「全員から?」


「ああ」


「反省は?」


「あった」


「本当に?」


「翌週また行った」


「反省していませんね」


「今ならそう思う」


 同じ道。


 同じ岩。


 山リンゴを。


 今度は三つ。


「ノクスのため?」


「違う」


「では?」


「自分の分だ」


「三つも?」


「取られると思った」


「つまりノクスの分も含まれています」


「違う」


「そういうことにしておきます」


 ノクスは。


 いた。


 同じ場所ではなく。


 少し離れた木の上。


「木に登るのですか」


「登る」


「竜が?」


「若い黒竜は身軽だ」


 ノクスは。


 降りてきた。


 そして。


 山リンゴを二つ食べた。


「二つ?」


「ああ」


「アルフォンス様の分は」


「一つ残った」


「優しいですね」


「違う。満腹になっただけだ」


「本人には聞けません」


「なら俺の証言を採用しろ」


「一つの証言として記録します」


「そこまで記録するな」


          ◇


 それから。


 何度も。


 会いに行った。


 毎週ではない。


 忙しい時期は。


 一月近く行けないこともあった。


 けれど。


 行けば。


 かなりの確率で。


 ノクスはいた。


「待っていた?」


「分からない」


「そうですね」


「ただ」


 アルフォンス様が。


 少し考える。


「俺が行かなかった後ほど、噛まれた」


「……やはり待っていたのでは?」


「分からない」


 今度は。


 彼が。


 私の言葉を使った。


「一本取られましたね」


「ああ」


 私は。


 少し笑う。


 庭のルゥは。


 まだいる。


 森へ戻る気配はない。


「何をして過ごしたのですか」


「何も」


「何も?」


「ああ」


「話したりは」


「俺が一方的に」


「何を話したのです?」


「その日のこと」


 訓練。


 勉強。


 父親に叱られたこと。


 騎士団のこと。


 食事。


 領地。


「愚痴も?」


「……ああ」


「ノクスは聞いていた?」


「たぶん」


「寝ていませんでした?」


「よく寝ていた」


「それは聞いていたのでしょうか」


「知らん」


 でも。


 それで。


 よかったのかもしれない。


 返事はない。


 正しいとも。


 間違っているとも。


 言われない。


 次期辺境伯として。


 どうすべきかも。


 求められない。


 ただ。


 少年が話して。


 黒竜が。


 そこにいる。


「名前で」


 アルフォンス様が言った。


「何ですか」


「ノクスの前だけだった」


 一瞬。


 分からなかった。


「何が?」


「アルフォンスでいられた」


 次期辺境伯ではなく。


 竜騎士候補でもなく。


 領地を守る者でもない。


「ただの」


 彼は言う。


「アルフォンスだった」


          ◇


 私には。


 少し。


 分かる気がした。


 伯爵令嬢。


 婚約者。


 不吉な力を持つ女。


 竜葬師。


 最後の竜葬師。


 呼ばれ方が変わるたび。


 周囲が私に求めるものも変わった。


 でも。


 そのどれも。


 私のすべてではない。


「ノクスは」


 私は言う。


「アルフォンス様を選ぶ前から、そうだったのですね」


「何が」


「あなたを、肩書で見なかった」


「ああ」


「だから」


 少し。


 考える。


「アルフォンス様も、ノクスを『竜』だけでは見なかった?」


 彼が。


 こちらを見る。


「そうかもしれない」


「神聖な黒竜でも」


「ああ」


「辺境を守る力でも」


「ああ」


「契約するための相手でもない」


 ただ。


 山リンゴを勝手に食べ。


 人を転がし。


 待たされると物を噛む。


「ノクスだった」


「ああ」


 その返事は。


 迷わなかった。


          ◇


「契約したのは?」


「出会って一年ほど後だ」


「十四歳」


「ああ」


「それまでは契約していなかった?」


「していない」


「なのに一年も会っていた?」


「ああ」


「誰にも言わず?」


「最初の半年は」


「……アルフォンス様」


「何だ」


「昔の私なら怒らなかったと思います」


「今は?」


「怒ります」


「なぜ」


「心配する人がいます」


 アルフォンス様が。


 少し。


 目を見開く。


「人に言わず危険な場所へ行き続けるのは、よくありません」


「……君が言うのか」


「はい」


「君が?」


「最近、改善しています」


「そうだったな」


 不服だ。


 でも。


 反論しづらい。


「契約の日は」


 私は話を戻す。


「何があったのですか」


 アルフォンス様の視線が。


 庭へ戻る。


「俺が選んだ日ではない」


「では」


「ノクスが決めた」


 その言葉に。


 ルゥの耳が。


 動いた。


          ◇


 その日は。


 雨だった。


 アルフォンス様は。


 いつものように。


 古い黒竜の道へ向かった。


 ただ。


 いつもの岩に。


 ノクスはいなかった。


「探したのですか」


「ああ」


「どのくらい」


「二時間」


「また無茶を」


「十四だった」


「一年しか成長していません」


 雨が。


 強くなった。


 探して。


 探して。


 ようやく。


 崖の下。


 ノクスを見つけた。


「怪我を?」


「していない」


「ではなぜ」


「ミラがいた」


 私は。


 息を止める。


「ミラ?」


「ああ」


 まだ。


 ルゥが生まれる前。


 若い黒竜が。


 二頭。


 並んでいた。


「その時に出会ったのですね」


「俺は、そこで初めて見た」


「ノクスの伴侶だと?」


「その時は知らなかった」


 近づこうとすると。


 ミラが。


 警戒した。


 低く唸り。


 前へ出る。


「怖かった?」


「かなり」


「ノクスは?」


「ミラの横にいた」


「助けてくれなかった?」


「ああ」


「厳しいですね」


「それでも」


 アルフォンス様は言う。


「俺が帰ろうとした時」


 ノクスが。


 ついてきた。


「ミラを置いて?」


「少しだけ」


 森の道。


 いつもの分かれ道まで。


 ノクスが。


 歩いた。


 そこで。


 止まった。


「何をしたのです?」


「頭を下げた」


「……頭を?」


「ああ」


 少年の前へ。


 黒竜が。


 首を差し出すように。


 頭を低くした。


「触った?」


「最初は分からなかった」


「何が」


「何を求められているのか」


 ノクスは。


 動かなかった。


 アルフォンス様が近づいても。


 逃げない。


 手を上げても。


 牙を見せない。


「額へ触れた」


「素手で?」


「ああ」


 その瞬間。


 何かが。


 流れ込んだ。


「言葉?」


「違う」


「感情?」


「近い」


 ここから先は。


 竜騎士契約。


 私には。


 まだ詳しく分からないもの。


「怖かった」


 アルフォンス様が言った。


「ノクスが?」


「俺が」


「契約が?」


「違う」


 少し。


 間。


「選ばれたことが」


 私は。


 黙る。


「それまで」


 アルフォンス様は続けた。


「俺が次期辺境伯だから必要とされるのは、分かった」


「はい」


「父の息子だから」


「はい」


「将来、領地を継ぐから」


「はい」


「それなら理由がある」


 でも。


 ノクスには。


 そんなものは。


 どうでもよかった。


「何も持っていない俺を」


 彼が言う。


「選んだ」


「何も持っていない?」


「肩書を全部取った俺を」


 十三歳の時と。


 同じ。


「アルフォンスを?」


「ああ」


 その一言だけが。


 とても。


 静かだった。


          ◇


 庭から。


 音がした。


 ざり。


 爪が。


 土を掻く音。


 私たちは。


 同時に。


 ルゥを見る。


 黒竜が。


 立ち上がっていた。


「ルゥ?」


 私は。


 名前を呼ぶ。


 ルゥは。


 私を見ない。


 アルフォンス様を。


 見ている。


 身体が。


 僅かに低くなる。


「……」


 また。


 警戒。


 そう思った。


 けれど。


 いつもと少し違う。


 唸っていない。


「アルフォンス様」


「ああ」


「動かないで」


「ああ」


 ルゥが。


 一歩。


 こちらへ。


 近づく。


 アルフォンス様の身体が。


 固まる。


 もう一歩。


「……ルゥ」


 今度は。


 アルフォンス様が呼んだ。


 低い。


 小さな声。


 ルゥが。


 止まった。


 距離。


 十数歩。


 それ以上は。


 来ない。


 けれど。


 逃げもしない。


「変ですね」


「何が」


「昨日までは」


 私は言いかけて。


 止める。


 昨日まで。


 ではなく。


「あなたの声を聞くと、すぐに強く警戒していました」


「ああ」


「今は」


「唸っていない」


「はい」


 理由は。


 分からない。


 ノクスの話を。


 理解していた?


 父親の名前を。


 聞いていた?


 アルフォンス様の声から。


 何かを感じた?


 全部。


 推測だ。


「意味を決めないのだろう」


 アルフォンス様が言った。


 私は。


 彼を見る。


「覚えていたのですね」


「散々言われた」


「良いことです」


 ルゥが。


 鼻先を。


 少し持ち上げる。


 風。


 アルフォンス様の方から。


 ルゥへ吹く。


 匂い。


 黒竜は。


 動かない。


 アルフォンス様も。


 動かない。


 ただ。


 同じ場所にいる。


 それだけ。


          ◇


「一つ」


 私は尋ねた。


「まだ聞いてもいいですか」


「何だ」


「ノクスは」


 庭のルゥを見る。


「アルフォンス様を、何と呼んでいたのですか」


「呼べない」


「声ではなく」


 竜は。


 感情や映像。


 匂い。


 方向感覚。


 そうしたもので。


 意思を伝える。


「契約してからなら」


「呼ばれていると分かることはあったのでしょう?」


「ああ」


「どんな感じでした?」


 アルフォンス様は。


 少し。


 困った顔をした。


「説明できない」


「近い言葉なら?」


「……」


 長い。


 沈黙。


「アル」


「え?」


「一番近いのは」


 アルフォンス様が言う。


「アル、だ」


 私は。


 息を止める。


 ノクスの折れた牙。


 炎の中。


 流れ込んできた。


 声。


 ――アル。


 あの言葉。


「リーゼロッテ?」


「……いえ」


 私は。


 右腕に。


 左手を添える。


 まだ。


 傷が痛む。


「そうですか」


 ノクスは。


 アルフォンス様を。


 そう呼んでいた。


 辺境伯でも。


 竜騎士でも。


 契約者でもない。


 アル。


「だから」


 私は。


 小さく言った。


「あの時も」


 アルフォンス様の顔が。


 変わる。


 彼も。


 同じことを思い出したのだろう。


 炎。


 拘束。


 折れる牙。


 そして。


 ――アル。


 ――来るな。


「意味は」


 彼が言う。


「まだ決めない」


「はい」


 私は頷く。


「それでいいと思います」


          ◇


 ルゥが。


 突然。


 森の方を見る。


 耳が動く。


 何か。


 私たちには聞こえない音。


 次の瞬間。


 身体を翻した。


「ルゥ」


 私は呼ぶ。


 黒竜は。


 一度だけ。


 こちらを見る。


 そして。


 石壁へ。


 軽々と飛び乗った。


 そのまま。


 森側へ降りる。


 消える。


「帰りましたね」


「ああ」


 アルフォンス様が言う。


 でも。


 その声は。


 昨日までとは。


 少しだけ違って聞こえた。


「寂しいですか」


「……少し」


 私は。


 目を瞬く。


「今日は素直ですね」


「君に何度も言われた」


「何を?」


「分からないなら分からないと」


「ああ」


「寂しいなら」


 アルフォンス様は。


 少し。


 言いづらそうに。


「寂しいと言った方がいいのだろう」


 私は。


 思わず。


 笑った。


「何だ」


「いえ」


「笑っただろう」


「少しだけ」


「なぜ」


「私も」


 右腕を見る。


「同じ練習をしていますので」


 痛い時に。


 痛いと言う。


 怖い時に。


 怖いと言う。


 助けてほしい時に。


 助けを求める。


 アルフォンス様も。


 たぶん。


 別の形で。


 同じことを。


 練習している。


          ◇


「ところで」


 私は聞いた。


「契約した時、ノクスから何が伝わったのですか」


 アルフォンス様が。


 少しだけ。


 黙った。


「それを説明すると」


「はい」


「竜騎士契約そのものから話す必要がある」


「では、お願いします」


「今日は休むのではなかったか?」


「座っています」


「またそれか」


「聞くくらいなら」


 その瞬間。


 後ろから。


「駄目です」


 オスカー先生。


「……いつからいました?」


「かなり前からです」


「声を掛けてください」


「お二人とも珍しく素直に話していたので」


 気まずい。


 アルフォンス様も。


 少しだけ。


 顔を逸らした。


「今日はここまでです」


「でも」


「傷が治ってから」


「話を聞くだけです」


「興奮すると傷が痛むでしょう」


「興奮は」


 右腕が。


 ずきり。


「……少ししています」


「正直でよろしい」


 また。


 それだ。


「明日なら?」


「状態を見てからです」


「分かりました」


 私は。


 今回は。


 すぐに引いた。


 アルフォンス様が。


 こちらを見る。


「何ですか」


「いや」


「また驚きました?」


「少し」


「本当に失礼ですね」


 でも。


 彼の口元も。


 少しだけ。


 緩んでいた。


 十三歳の少年と。


 若い黒竜。


 山リンゴを奪われたことから始まった関係。


 肩書も。


 役目も。


 何も関係なく。


 ノクスは。


 アルフォンスという人を選んだ。


 そして。


 その契約が切れた時。


 アルフォンス様の中から。


 何が失われたのか。


 私は。


 まだ知らない。


 次に聞くべきなのは。


 ノクスの死ではなく。


 二人を。


 一つにつないでいたものの話だった。

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