人間の匂い
翌朝。
「森には行きません」
オスカー先生が言った。
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあります」
「最近、皆さんそれを言いますね」
「分かりやすくなったのでしょう」
それは。
あまり嬉しくない。
私は寝台の上で。
包帯の巻かれた右腕を見る。
昨日。
ルゥに噛まれた傷。
骨は折れていない。
けれど。
牙の痕は深い。
夜中にも。
何度か痛みで目が覚めた。
「熱は?」
「ありません」
「指を動かしてください」
動かす。
痛い。
でも。
動く。
「痺れは?」
「ありません」
「痛みは?」
「あります」
オスカー先生が。
少しだけ満足そうに頷いた。
「よろしい」
「痛いと言って喜ばれるのは複雑です」
「あなたが『大丈夫です』以外の言葉を覚えたことを喜んでいます」
「……」
何も返せなかった。
「ともかく」
包帯を確認しながら。
オスカー先生が続ける。
「今日は安静です」
「ですが」
「森には行きません」
「まだ森とは」
「言うつもりだったでしょう」
「……はい」
「正直でよろしい」
負けた。
◇
朝食の後。
私は屋敷の裏庭にいた。
森へは行かない。
でも。
部屋の中に閉じこもる必要まではない。
そう交渉した。
結果。
屋敷の裏手にある小さな庭で。
毛布を掛けられ。
椅子に座っている。
「患者というより、荷物ですね」
「荷物は勝手に歩きません」
アンナが。
温かいお茶を置く。
「リーゼロッテ様は歩きますので、荷物より厄介です」
「そこまででしょうか」
「はい」
即答。
最近。
即答されることが多い。
「右手を使わないでください」
「分かっています」
左手で。
カップを持つ。
少し。
飲みにくい。
でも。
飲める。
味も。
普通に分かる。
ノクスの牙へ触れた後のような。
味覚の鈍さはない。
これは。
能力の代償ではない。
単純に。
噛まれた傷が痛いだけ。
そう考えると。
少し変な気分だった。
死者の痛みではなく。
自分の痛み。
私は。
それを。
昨日よりも少しだけ。
大切に扱えている。
「……」
風が吹く。
庭の向こう。
石壁。
さらに奥。
黒杉の森が見える。
距離はある。
ここまで。
ルゥが来るはずはない。
たぶん。
そう思った時。
アンナの手が。
止まった。
「リーゼロッテ様」
「はい」
「動かないでください」
声が。
少し硬い。
私は。
ゆっくり。
視線だけを動かす。
石壁の上。
黒いもの。
最初は。
大きな鳥かと思った。
違う。
黒い前脚。
爪。
金色の目。
「……ルゥ」
いた。
石壁の上に。
昨日。
私の腕を噛んだ黒竜が。
こちらを見ている。
「どうして」
アンナが。
小さく息を呑む。
私にも。
分からない。
森から。
ここまでは。
かなり離れている。
途中には。
街道も。
畑も。
人のいる場所もある。
それを越えて。
来た。
私は。
立ち上がらない。
「アンナ」
「はい」
「人を呼んでください」
「しかし」
「走らずに」
「……分かりました」
「あと」
「はい」
「武器を持った騎士は、近づけないように」
アンナが。
一度。
ルゥを見る。
「分かりました」
静かに。
屋敷へ戻る。
私は。
一人になった。
正確には。
一人と一頭。
「おはようございます」
ルゥの耳が。
少し動いた。
「昨日は」
右腕を見る。
「噛まれましたね」
金色の目。
「とても痛かったです」
ルゥは。
動かない。
「今も痛いです」
言ってから。
少し考える。
「怒っているわけではありません」
それも。
少し違うかもしれない。
「いえ」
言い直す。
「まったく怒っていない、と言えば嘘になります」
ルゥの頭が。
僅かに傾く。
「噛まれるのは嫌です」
当然だ。
「次は、できればやめてください」
返事はない。
「でも」
私は。
左手でカップを持ち直す。
「来てくれたことは、嬉しいです」
ルゥが。
石壁から。
飛び降りた。
「……」
思わず。
身体が固くなる。
怖い。
昨日の牙を。
身体が覚えている。
ルゥも。
それに気づいたのか。
気づいていないのか。
分からない。
黒竜は。
庭の端で止まった。
十歩以上。
距離を残す。
近づかない。
私も。
近づかない。
「そのくらいで」
私は言った。
「今日はお願いします」
ルゥが。
地面へ鼻先を近づける。
何かを。
嗅いでいるように見える。
草。
石。
それから。
私。
鼻先が。
こちらへ向く。
「私の匂いを覚えたのでしょうか」
もちろん。
答えはない。
◇
「本当に来たのか」
アルフォンス様の声。
ルゥの身体が。
瞬間。
変わった。
頭が上がる。
翼が。
わずかに開く。
喉から。
低い音。
「止まってください」
私が言う。
アルフォンス様は。
庭への入口で。
足を止めた。
オスカー先生と。
ギルベルト様もいる。
「今の距離で」
「ああ」
アルフォンス様は。
動かない。
ルゥは。
私を見ていた時とは。
明らかに違う。
金色の目が。
細い。
身体が低い。
尾が。
地面すれすれに動く。
「……俺か」
アルフォンス様が。
小さく言った。
ルゥの唸り声が。
少しだけ強くなる。
「名前を呼ばない方がいいです」
「ああ」
「目も、長く合わせない方が」
「分かった」
アルフォンス様が。
視線を僅かに落とす。
それでも。
ルゥは。
警戒を解かない。
「ギルベルト様」
「何だ」
「少しだけ前へ出てもらえますか」
「俺が?」
「比較したいのです」
「俺は実験用の犬か」
「副団長です」
「知っている」
文句を言いながら。
ギルベルト様が。
アルフォンス様より少し前へ出る。
ルゥを見る。
変化は。
ある。
警戒。
でも。
アルフォンス様に向けたものほどではない。
「もう少し」
「調子に乗るな」
それでも。
一歩。
ルゥは。
逃げない。
ギルベルト様に向かって。
牙も見せない。
「十分です」
「最初からそう言え」
ギルベルト様が下がる。
「オスカー先生も」
「嫌ですよ」
「まだ何も」
「患者を噛んだ竜の前へ出ろと言おうとしたでしょう」
「はい」
「正直でよろしい」
この人は。
最近。
私の言葉を取る。
「必要ありません」
アルフォンス様が言った。
「俺にだけ反応が違う」
私は。
すぐには答えなかった。
「そう見えます」
「見えます、か」
「はい」
「俺を嫌っている」
「それはまだ分かりません」
「だが」
「強く警戒していることと、嫌っていることは同じではありません」
アルフォンス様が。
黙る。
「それに」
私は続ける。
「理由も一つとは限りません」
六年前。
アルフォンス様は。
傷ついたルゥを追った。
治療するため。
捕らえるためではなかった。
でも。
ルゥがそう理解したとは限らない。
「以前追われたことを覚えているのかもしれません」
「ああ」
「アルフォンス様の服や声に、当時の記憶が結びついているのかもしれません」
「ああ」
「それ以外かもしれない」
「……例えば?」
聞かれて。
私は。
少し考える。
「分かりません」
「それだけか」
「分からない時に、理由を作ってはいけません」
アルフォンス様が。
少しだけ。
息を吐いた。
「そうだったな」
「はい」
◇
ギルベルト様が。
布袋を取り出した。
「持ってきたのですか」
「昨日から持ち歩いているわけではない」
「それは分かっています」
干し肉。
小さく切ったもの。
「置いていいですか」
私が。
ルゥに尋ねる。
当然。
返事はない。
「では」
ギルベルト様が。
庭の端へ。
肉を置く。
ルゥからは。
五歩ほど。
そのまま。
彼は下がった。
ルゥは。
すぐには食べない。
まず。
私たちを見る。
次に。
肉。
それから。
アルフォンス様。
低い唸り。
「俺は戻る」
アルフォンス様が言った。
「いいのですか」
「俺がいると食べない」
「まだ分かりません」
「なら」
アルフォンス様が。
一歩。
後ろへ下がる。
ルゥの頭が。
その動きを追う。
二歩。
三歩。
距離が。
開いていく。
やがて。
庭の入口から。
アルフォンス様の姿が消えた。
ルゥの身体から。
ほんの少し。
力が抜けた。
「……」
私は。
何も言わない。
ルゥが。
肉へ近づく。
一度。
匂いを嗅ぐ。
食べる。
一つ。
二つ。
三つ。
「食べましたね」
「見れば分かる」
ギルベルト様。
「確認です」
「それはもういい」
ルゥは。
肉を食べ終える。
それから。
また。
私を見る。
近づいてはこない。
けれど。
帰らない。
「私の近くにいる理由も」
私は。
小さく言った。
「分からないのですよね」
「ああ」
ギルベルト様が答える。
「昨日噛んだ相手だぞ」
「そうですね」
「普通なら逃げる」
「普通の令嬢なら、森へ戻らないと思います」
「そこではない」
「では?」
「……もういい」
私は。
ルゥを見る。
「昨日」
右腕が痛む。
「私は手を上げました」
「それで噛まれた可能性はある」
「はい」
「捕まると思ったのかもしれない」
「はい」
「殴られると」
「それも」
「だが分からん」
私は。
頷いた。
「分かりません」
何度。
この言葉を。
言っただろう。
でも。
悪いことではない。
分からないものを。
分からないまま置いておく。
それも。
必要だ。
◇
「リーゼロッテ様」
アンナが。
屋敷の扉の近くから。
小さく呼んだ。
「はい」
「お薬のお時間です」
「あ」
「忘れていましたね」
「……少し」
「かなり、の間違いでは?」
「少しです」
立とうとする。
右腕が。
ずきりと痛む。
「っ」
思わず。
息が漏れた。
ルゥの頭が。
こちらへ向く。
「大丈夫です」
言って。
止まる。
オスカー先生が。
こちらを見ている。
「……痛いですが、歩けます」
「よろしい」
「先生はそればかりですね」
「学習できているか確認しています」
私は。
左手で椅子を支え。
立ち上がる。
ルゥが。
一歩。
動く。
こちらへ。
ギルベルト様の肩が。
僅かに強張る。
「大丈夫です」
「今度は何がだ」
「……」
「言え」
「ルゥが一歩近づいただけです」
「ならそう言え」
「はい」
ルゥは。
そこで止まった。
距離。
七歩。
「私は屋敷へ戻ります」
ルゥへ言う。
「今日は森へ行きません」
耳が。
少し動く。
「腕が痛いので」
そう言うと。
ルゥの視線が。
包帯へ向いた。
ように見えた。
でも。
それが。
意味のある反応なのか。
偶然なのか。
分からない。
「また来たければ」
私は。
少し考える。
「ここまでなら、来ても構いません」
「リーゼロッテ嬢」
ギルベルト様。
「領主の許可を取らずに決めるな」
「あ」
確かに。
「では後ほど確認します」
「順番が逆だ」
私は。
屋敷へ向かう。
二歩。
三歩。
振り返らない。
けれど。
後ろから。
爪が。
石を踏む音がした。
一度だけ。
◇
薬を飲み。
傷を洗い直し。
包帯を替えられた。
とても痛かった。
「痛いです」
「はい」
「かなり」
「はい」
「もう少し優しく」
「十分優しくしています」
「そうですか」
「動かない」
「はい」
治療を終えて。
廊下へ出る。
窓。
庭。
「……」
まだいる。
ルゥ。
庭の端。
木陰。
伏せている。
眠ってはいない。
目は。
こちらを見ている。
「帰らないのですね」
隣に。
アルフォンス様がいた。
「先ほどから?」
「ああ」
「近づかなかったのですか」
「ああ」
「ありがとうございます」
「俺が近づけば逃げる」
声が。
少し低い。
私は。
窓越しに。
ルゥを見る。
「それもまだ」
「分からない?」
「はい」
「……君は」
「何でしょう」
「残酷だな」
思わず。
彼を見る。
「私が?」
「ああ」
「なぜですか」
「俺を嫌っているなら」
アルフォンス様は。
庭を見たまま。
「そうだと決めた方が楽だ」
私は。
黙る。
「嫌われている理由を」
「俺が勝手に作って」
「俺が悪かったと決めればいい」
右手。
震えている。
「そうすれば」
「考えなくて済む」
「何をですか」
長い。
沈黙。
「ルゥが」
彼が言う。
「俺に何を見ているのかを」
「……」
「それを考えなくて済む」
私は。
アルフォンス様を見る。
「怖いのですか」
「ああ」
即答だった。
「ルゥが」
「俺を見た時」
右手が。
強く握られる。
「ノクスのことを思い出しているのではないかと考える」
「ノクスを?」
「ああ」
「なぜ」
「ルゥは」
アルフォンス様が。
言葉を止める。
「ノクスの遺骸へ何度も戻っていた」
「はい」
「なら」
声が。
さらに低くなる。
「父親が死んだことは、理解している」
「おそらく」
「そして」
一度。
息を吸う。
「俺は、生きている」
私は。
返事ができなかった。
「契約した相手だけが生きて帰り」
「ノクスが死んだ」
「それを」
アルフォンス様の喉が。
少し動く。
「ルゥがどう受け取ったかは分からない」
その通りだ。
分からない。
「だが」
「もし」
その先を。
彼は。
なかなか言わなかった。
「俺がノクスを死なせたと思っているなら」
右手が。
震えた。
「俺には」
「否定する言葉がない」
「なぜですか」
「守れなかったからだ」
私は。
すぐには答えない。
ノクスの牙に残っていた。
炎。
拘束具。
輸送車。
ミラ。
ルゥ。
そして。
ノクスの声。
――アル。
――来るな。
それが。
何を意味していたのか。
まだ分からない。
「アルフォンス様」
「何だ」
「それは」
私は。
ゆっくり言う。
「アルフォンス様が、ご自身をどう見ているかです」
「……」
「ルゥがどう見ているかとは、別です」
「分かっている」
「本当に?」
「……」
返事がない。
「ルゥがあなたを恨んでいる可能性はあります」
アルフォンス様の肩が。
僅かに強張る。
「ないとは言いません」
「はい」
「ですが」
庭を見る。
黒い竜。
「私たちはまだ」
「ルゥがなぜあなたへ強く反応するのかを知りません」
六年前に追われたから。
ノクスの死に関係していると思っているから。
ノクスを思い出す匂いがするから。
あるいは。
まったく別の理由。
どれも。
まだ推測だ。
「死者の声を」
私は言う。
「自分を罰するために使ってはいけないと、以前お話ししました」
「ああ」
「生きているルゥの反応も同じです」
アルフォンス様が。
私を見る。
「ルゥがあなたを見て唸ったことを」
「あなた自身を罰する材料にしないでください」
「……難しいことを言う」
「私も難しいと思っています」
「君でも?」
「はい」
私は。
右腕を見る。
「噛まれた理由を」
「私が何か間違えたからだ、と決めてしまえば」
「少し楽です」
「なぜ」
「次から、それをしなければいいと思えるからです」
でも。
分からない。
だから。
怖い。
「分からないまま相手と向き合うのは」
私は言った。
「思ったより怖いですね」
アルフォンス様が。
ほんの少し。
目を細めた。
「ああ」
◇
庭へ。
風が吹く。
ルゥの鼻先が。
上がった。
匂いを。
探しているように見える。
「竜は」
私は尋ねる。
「人間を匂いで見分けますか」
「ああ」
アルフォンス様が答える。
「ノクスは?」
「見分けた」
「どのくらい正確に?」
「俺が三週間、王都へ行った時」
「はい」
「帰った翌朝に、寝室の窓を壊された」
「……なぜです?」
「庭へ出るのが遅かった」
「それは匂いで見分けた証拠になりますか?」
「少なくとも」
アルフォンス様が。
少しだけ。
口元を緩める。
「俺だとは分かっていた」
「なるほど」
「使用人にはやらなかった」
「アルフォンス様にだけ?」
「ああ」
「愛されていたのですね」
言ってから。
アルフォンス様の表情が。
止まった。
私は。
少し迷う。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「いえ」
「事実だ」
静かな声。
「俺も」
少し。
間。
「そう思っていた」
思っていた。
過去形。
私は。
そこを。
聞き流せなかった。
「アルフォンス様」
「何だ」
「ノクスとは」
彼を見る。
「どうやって出会ったのですか」
アルフォンス様が。
黙る。
庭では。
ルゥが。
まだこちらを見ている。
「私は」
続ける。
「ノクスがどう死んだのかばかりを調べてきました」
傷。
拘束痕。
折れた牙。
最後の声。
「でも」
「ルゥがノクスをどう見ていたのかを考えるなら」
「まず」
一度。
言葉を選ぶ。
「ノクスが、どんなふうに生きていたのかを知りたいです」
アルフォンス様の右手が。
少しだけ。
動いた。
「俺から?」
「はい」
「俺の話は」
「一人の証言です」
私は答える。
「それでも」
「生きている人から聞けることは」
「聞いておきたいです」
長い。
沈黙。
やがて。
アルフォンス様が。
庭のルゥを見る。
「長くなる」
「構いません」
「君は休めと言われている」
「座って聞きます」
「そういう問題か?」
「たぶん」
少し。
迷った後。
アルフォンス様が。
息を吐いた。
「十三の時だ」
「十三歳?」
「ああ」
彼の視線が。
遠くなる。
「俺が初めてノクスを見たのは」
黒杉の森より。
さらに北。
「人間が入るなと言われていた」
「古い黒竜の道だった」
庭の向こうで。
ルゥの耳が。
僅かに動いた。
偶然かもしれない。
でも。
私は。
そのまま。
アルフォンス様の声を聞いた。




