幼竜ルゥ
翌朝。
私たちは、昨日ルゥが姿を見せた岩場へ戻った。
ただし。
今日は探さない。
追わない。
森へ入らない。
待つだけだ。
「本当に、この人数でいいのか」
アルフォンス様が尋ねる。
「むしろ、まだ多いくらいだと思います」
岩場に近づくのは私とギルベルト様だけ。
アルフォンス様とオスカー先生は、そこから二十歩ほど離れた木陰で待つ。
騎士は連れてこなかった。
もちろん。
武器も抜かない。
「俺はもっと離れた方がいい」
アルフォンス様が言った。
「なぜですか」
「六年前、俺はルゥを追った」
傷ついた幼竜を治療しようとして。
結果として、半日も追い回した。
「覚えている可能性がある」
「ありますね」
「否定しないのか」
「分からないことを、ないとは言えません」
「……そうだったな」
「ですが」
私はアルフォンス様を見る。
「姿が見えないところまでは離れないでください」
「危険だからか」
「はい」
言うと。
アルフォンス様が少しだけ目を見開いた。
「何ですか」
「いや」
「また、私が自分から危険を避けたことに驚きました?」
「少し」
「失礼ですね」
「すまない」
まったく。
否定してくれない。
◇
ギルベルト様が。
昨日と同じ岩の上へ、干し肉を置く。
隣に。
焼いた山リンゴ。
一つ。
「肉だけではないのですね」
「昨日も聞いただろう」
「確認です」
「好きだな、確認が」
「大切ですから」
ギルベルト様は何も言わず。
焼いた山リンゴを半分に割った。
甘い香りが。
冷たい森の空気へ広がる。
「匂いを出すためですか?」
「ああ」
「なるほど」
「……あまり見るな」
「なぜです?」
「やりづらい」
私は一歩下がった。
「これくらい?」
「もっとだ」
二歩。
「これくらい?」
「まだ近い」
「ギルベルト様」
「何だ」
「私を森へ帰すつもりではありませんよね」
「できるならそうしたい」
「残念です」
結局。
私は食べ物から十歩ほど離れた岩へ座った。
ギルベルト様も。
さらに少し離れる。
「普段はどうしているのですか」
「置いたら帰る」
「待たない?」
「待てば来ない」
「では今日は、いつもと違いますね」
「ああ」
「来ない可能性の方が高い?」
「高い」
それでも。
待つ。
◇
一時間。
何も起こらなかった。
鳥が鳴いた。
枝から雪が落ちた。
風が吹いた。
それだけ。
「寒くないか」
離れたところから。
アルフォンス様。
「大丈夫です」
答えた瞬間。
オスカー先生の視線が飛んでくる。
「……少し寒いです」
「正直でよろしい」
「聞こえているのですね」
「当然です」
毛布が。
飛んできた。
アルフォンス様が投げたらしい。
私は受け取る。
「ありがとうございます」
「ああ」
肩へ掛ける。
また。
待つ。
時間だけが。
ゆっくり過ぎていく。
でも。
焦らない。
ルゥが来なければ。
今日は会えない。
それだけだ。
私が会いたいからといって。
ルゥに出てくる義務はない。
「あと十五分です」
オスカー先生が言った。
私は頷く。
「今日は来ないかもしれませんね」
ギルベルト様へ言う。
「そうだな」
「では、また別の日に」
「諦めがいいな」
「追い回すよりは」
「……そうか」
その時。
ギルベルト様の視線が。
私の後ろへ動いた。
「動くな」
低い声。
私は。
息を止める。
「後ろですか」
「ああ」
「どのくらい」
「十五歩」
近い。
昨日とは。
比べものにならない。
「振り返っても?」
「ゆっくりなら」
私は。
少しずつ。
顔を動かした。
黒い木々。
その間。
影。
昨日。
岩壁の上から見た黒竜が。
今日は地面に立っている。
近くで見ると。
思っていたより大きい。
幼竜。
そう聞いていたから。
もっと小さな姿を想像していた。
けれど。
立ち上がれば。
頭は私の胸より高い位置にある。
身体は細い。
まだ成竜の厚みはない。
翼も。
ノクスの遺骸から想像する大きさには遠い。
それでも。
人間一人なら。
簡単に押し倒せるだろう。
黒い鱗。
金色の目。
右前脚。
三枚だけ。
白い鱗。
そして。
左の後脚。
傷。
古い傷痕が。
脚を一周している。
その一部に。
黒い金属片が残っていた。
壊れた拘束具。
六年前。
目撃された姿と。
同じ特徴。
「ルゥ」
名前を呼んだのは。
私だった。
黒竜の頭が。
僅かに傾いた。
逃げない。
でも。
近づいてもこない。
「初めまして」
返事はない。
当然だ。
竜は。
人間の言葉を理解しても。
人間の声では話さない。
「リーゼロッテ・アルヴァと申します」
ルゥの耳のあたりが。
少し動く。
「王都から来ました」
その瞬間。
ルゥの身体が。
僅かに低くなった。
「……」
金色の目が。
細くなる。
ギルベルト様が。
私を見る。
「王都、と言わない方がよかったかもしれませんね」
「今さらだ」
「そうですね」
私は。
それ以上。
言葉を重ねなかった。
ルゥが。
一歩。
前へ出る。
私は動かない。
もう一歩。
鼻先が。
風を嗅ぐように動く。
けれど。
食べ物へ向かわない。
私を。
見ている。
「私に何か付いていますか」
「俺に聞くな」
「ギルベルト様にも分かりませんか」
「分からん」
そう。
分からない。
私は。
ルゥの心を読めない。
恐れているのか。
怒っているのか。
興味を持っているのか。
目の前の動きから。
推測することしかできない。
ルゥが。
さらに近づく。
十歩。
八歩。
六歩。
「リーゼロッテ」
遠くから。
アルフォンス様の声。
「動かないでください」
私は言う。
「でも」
「まだ何もされていません」
ルゥの視線が。
アルフォンス様の声がした方向へ向いた。
身体が。
びくりと強張る。
低い音。
喉の奥から。
唸り声が漏れた。
「アルフォンス様」
「……ああ」
「それ以上、話さないでください」
「分かった」
ルゥが。
再び。
私を見る。
三歩。
近い。
黒い鼻先。
金色の目。
牙。
一本一本が。
はっきり見える。
怖い。
そう思った。
当たり前だった。
目の前にいるのは。
傷ついた小動物ではない。
竜だ。
怒れば。
私など。
簡単に傷つけられる。
私は。
手を膝の上へ置いたまま。
動かさない。
手袋も。
外さない。
「こんにちは」
さっきも。
似たことを言った。
ほかに。
何を言えばいいのか分からない。
ルゥが。
私の周囲を。
半周する。
鼻先が。
肩の近くまで来る。
匂いを。
嗅いでいる?
そう見える。
でも。
断定はしない。
「何の匂いがするのでしょう」
「喋るな」
ギルベルト様。
「すみません」
「俺に謝るな」
ルゥの鼻先が。
私の右腕へ近づく。
私は。
息を止めた。
手袋。
袖。
その上から。
鼻先が。
僅かに触れた。
温かい。
生きている。
ノクスの牙から流れ込んできた。
死の直前の冷たさでも。
ミラの骨から受け取った。
凍える寒さでもない。
目の前にいる竜は。
温かい。
「……生きている」
思わず。
声が漏れた。
ルゥの頭が。
上がる。
しまった。
「ごめんなさい」
私は。
反射的に。
右手を少し持ち上げた。
それだけだった。
「リーゼロッテ!」
視界が。
黒くなる。
◇
「――っ!」
衝撃。
右腕。
熱い。
何が起きたのか理解するより先に。
身体が地面へ倒れた。
「ルゥ!」
「来ないで!」
私は叫んだ。
アルフォンス様の足音が。
止まる。
右腕。
噛まれている。
ルゥの牙が。
厚い外套と袖を突き抜け。
腕へ食い込んでいた。
「っ……!」
痛い。
ものすごく。
痛い。
死者から流れ込む痛みとは違う。
これは。
私自身の痛みだ。
「リーゼロッテ嬢、目を逸らすな」
ギルベルト様の声。
彼も動いていない。
「腕を引くな。裂ける」
「はい……」
分かっている。
引けば。
もっと傷が広がる。
ルゥの喉から。
低い唸り。
金色の目が。
私を見ている。
近い。
怖い。
逃げたい。
腕を取り戻したい。
それでも。
左手で。
ルゥを押さえつけようとはしない。
首へ。
腕を回さない。
魔法も。
使わない。
「リーゼロッテ」
アルフォンス様。
低い声。
「命に関わるなら俺は動く」
「……はい」
「今なら、まだ待てる」
「少しだけ……お願いします」
許可を。
求められた。
だから。
私も。
自分で選ぶ。
少しだけ。
待つ。
ルゥは。
噛んだまま。
動かない。
牙が。
さらに深く入ってくる気配もない。
でも。
放してもくれない。
何を。
伝えたい?
私は。
そう考えて。
すぐにやめる。
分からない。
怒っているのか。
怖いのか。
私を追い払いたいのか。
それとも。
ただ。
手を上げたことに反応しただけなのか。
分からない。
「ルゥ」
私は。
痛みに。
息を震わせながら言った。
「私には……あなたの心は、読めません」
金色の目。
「だから」
一度。
呼吸する。
「どうして噛んだのかも……分かりません」
牙。
血。
腕の中が。
脈打つように痛い。
「でも」
声が。
震える。
「怒っているなら」
言う。
「怒っていいです」
アルフォンス様も。
ギルベルト様も。
何も言わない。
「怖いなら……怖がっていいです」
ルゥの耳が。
僅かに動いた。
「人間を……嫌いでも」
息を吸う。
「今すぐ、許さなくてもいいです」
私は。
ルゥを見る。
逃げない。
でも。
強がりもしない。
「私も」
少し。
笑おうとして。
失敗した。
「今、かなり怖いです」
ギルベルト様が。
小さく息を吐いた。
「その状況で言うことか」
「本当ですから」
「なら早く放してもらえ」
「できれば、そうしたいです」
ルゥの喉から。
また。
低い音。
私は。
もう一度。
その目を見る。
「怒っていいです」
そして。
ゆっくり。
言った。
「でも、ひとりで怒らないでください」
ルゥの目が。
瞬いた。
「誰かを許せ、とは言いません」
「人間を信じろとも」
「私を好きになれとも、言いません」
そんなことを。
言う権利はない。
「ただ」
痛みで。
額に汗が滲む。
「ひとりでしか怒れない場所に、自分を閉じ込めないでください」
私は。
それ以上。
言わなかった。
ルゥも。
何も言わない。
言葉では。
答えられない。
数秒。
それとも。
もっと長かったのか。
分からない。
そして。
突然。
腕が。
軽くなった。
「っ……!」
ルゥが。
牙を放した。
私は。
反射的に右腕を胸へ抱える。
血。
袖に。
赤いものが広がっている。
「リーゼロッテ!」
アルフォンス様が走ってくる。
その瞬間。
ルゥの身体が。
大きく跳ねた。
黒い翼が。
半分だけ開く。
唸り声。
「止まってください!」
私は叫ぶ。
アルフォンス様が。
二歩目で止まった。
「でも血が」
「分かっています」
「治療が必要だ」
「それも分かっています」
「なら」
「ルゥが逃げてからでも、間に合います」
オスカー先生が。
遠くから。
「傷の深さ次第です!」
「先生」
「止血だけでも必要です!」
それは。
正しい。
私は。
ルゥを見る。
森へ逃げるなら。
止めない。
「ルゥ」
名前だけ。
呼ぶ。
「今日は、もう近づきません」
黒竜が。
こちらを見る。
「食べ物は置いていきます」
返事はない。
「食べるかどうかも、あなたが決めてください」
ルゥが。
一歩。
後ろへ下がる。
また一歩。
森。
木々の影。
入っていく。
私は。
追わない。
アルフォンス様も。
追わなかった。
「……行きました」
私は言う。
「なら腕を出してください!」
オスカー先生が。
ものすごい速さで来た。
「はい」
「笑っている場合ではありません」
「笑っていません」
「口元が動いています」
「痛いからです」
「ならなおさらです!」
◇
外套を切る。
袖も。
切る。
右腕。
牙の痕。
四か所。
そのうち二つは。
かなり深い。
「骨は」
オスカー先生が。
慎重に。
腕を調べる。
「折れてはいません」
全員が。
同時に息を吐いた。
「ですが」
続く。
「立派な怪我です」
「はい」
「しばらく右腕は使わせません」
「それは」
「使わせません」
「……はい」
消毒。
痛い。
「っ!」
「我慢しない」
「していません」
「では痛いと言ってください」
「痛いです」
「よろしい」
何が。
よろしいのだろう。
包帯が。
巻かれていく。
アルフォンス様が。
すぐ横に。
立っている。
顔が。
怖い。
「アルフォンス様」
「何だ」
「怒っていますか」
「……分からない」
その答えに。
私は少し驚いた。
「怒っていると思う」
彼が。
言葉を探す。
「怖かった」
右手が。
震えている。
「君の腕が折れると思った」
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃない」
「あ」
「君が決めたことだった」
アルフォンス様が。
森を見る。
「俺は、それを尊重すると決めた」
「はい」
「だが」
私を見る。
「怖いものは怖い」
「……はい」
「それだけだ」
私は。
少し考えて。
「ありがとうございます」
「なぜ礼を言う」
「話してくださったので」
彼は。
何も言わなかった。
◇
「ところで」
包帯を巻き終えたオスカー先生が言う。
「帰ります」
「はい」
今日は。
反論しない。
その時。
ギルベルト様が。
森を見たまま。
動かなくなった。
「どうしました?」
「……いや」
「何か?」
彼は。
少し迷ってから。
顎で。
木々の間を示した。
見る。
黒。
影。
一本の木の。
向こう側。
金色の目。
「……ルゥ」
帰ったと。
思っていた。
でも。
まだいる。
私たちから。
ずっと離れた場所。
いつでも逃げられる距離。
そこから。
こちらを。
見ている。
「追わないでください」
「誰も追わない」
アルフォンス様が言った。
私は。
立ち上がる。
右腕が。
ずきりと痛む。
でも。
自分で立てる。
「帰りましょう」
「ああ」
私たちは。
森の出口へ向かう。
振り返らない。
何度も。
見たくなったけれど。
見ない。
ルゥが。
ついてくるかどうか。
確かめようとしない。
けれど。
しばらく歩いたところで。
後ろから。
小さく。
枝を踏む音がした。
一度。
止まる。
また。
少し離れて。
枝が鳴る。
私は。
前を向いたまま。
歩いた。
噛まれた。
拒まれた。
怖かった。
痛かった。
それでも。
ルゥは。
完全には森の奥へ消えなかった。
私たちを警戒したまま。
一定の距離を置いて。
ついてきている。
それが。
何を意味するのか。
私には分からない。
だから。
まだ。
意味を決めない。
ただ。
生きているルゥが。
自分で選んで。
そこにいる。
今は。
それだけでよかった。




