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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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28/46

森に潜む影

 翌朝。


「二時間です」


 オスカー先生が言った。


「昨日は一時間でした」


「今日は森です」


「ですが、体調は昨日より良くなっています」


「だから二時間に増えました」


「では三時間でも」


「一時間に戻しますよ」


「二時間でお願いします」


 交渉は。


 終わった。


 右手の冷えは、ほとんどない。


 頭痛もない。


 耳鳴りも消えた。


 味覚は。


 朝食の焼いたパンに塗られた蜂蜜が、きちんと甘かった。


 声も。


 少し掠れてはいるけれど。


 もう。


 言葉を出すのに苦労はしない。


「能力は」


「使いません」


「素手には」


「なりません」


「疲れたら」


「言います」


 オスカー先生の目が。


 細くなる。


「本当に?」


「……なるべく早く言います」


「進歩として扱いましょう」


 厳しい。


 でも。


 昨日。


 自分から帰ることができた。


 あれくらいなら。


 今日もできる。


 たぶん。


「では行きましょう」


「はい」


          ◇


 ルゥを探す。


 そう決めたものの。


 森へ入る人数は。


 昨日より減らした。


 私。


 アルフォンス様。


 オスカー先生。


 森に詳しい辺境騎士が一人。


 四人だけ。


 アンナは屋敷へ残った。


「大勢で入れば、逃げる」


 アルフォンス様が言った。


「以前も?」


「ああ」


 六年前。


 黒杉の森で。


 アルフォンス様たちは。


 幼いルゥを見つけた。


 右前脚には。


 三枚だけ白く生え直した鱗。


 左後脚には。


 壊れた拘束具。


 けれど。


 近づこうとすれば。


 ルゥは逃げた。


「追いかけたのですか」


「最初は」


「どのくらい」


「半日」


「長いですね」


「……そうだな」


「捕まえるため?」


 アルフォンス様が。


 すぐには答えなかった。


「怪我をしていた」


「はい」


「拘束具も残っていた」


「はい」


「治療が必要だと思った」


 間違った判断ではない。


 傷ついた幼竜。


 捕らえられていた痕跡。


 治療しようと思うのは。


 自然だ。


「でも、ルゥには」


 私は言った。


「治療されるのか、また捕まるのか、区別できなかったかもしれません」


「ああ」


 アルフォンス様は。


 否定しなかった。


「だから今日は追わない」


「はい」


「見つけても?」


「追いません」


 私は答える。


「ルゥが逃げたなら、そこで終わりです」


「分かった」


 森へ入る。


          ◇


 黒杉の森。


 名前の通り。


 黒に近い幹をした杉が。


 隙間なく立っている。


 昼でも。


 少し暗い。


 雪は。


 木々の間に薄く残っている。


 地面には。


 落ち葉。


 枝。


 苔。


 岩。


「ここから先です」


 案内役の騎士が言う。


「六年前、幼竜が逃げた方向は」


 彼が。


 北を指す。


 私は。


 昨日見た爪痕を思い出した。


 そして。


 ノクスの牙から流れ込んできた。


 小さな黒い背中。


 森へ。


 走っていく姿。


 手袋の中で。


 右手を握る。


「大丈夫か」


 アルフォンス様。


「はい」


 一度。


 答えてから。


「少し思い出しました」


 言い直す。


「そうか」


「でも、問題ありません」


「分かった」


 それだけ。


 先へ進む。


 しばらくして。


 案内役の騎士が。


 足を止めた。


「ここ」


 地面。


 雪の薄いところ。


 跡。


 私は近づく。


「蹄ではないですね」


「ええ」


 大きい。


 四本の爪。


 前方へ。


 深く食い込んでいる。


 昨日見た。


 一番新しい爪痕と。


 大きさが近い。


「いつ頃ですか」


「雪が降ったのは五日前です」


 騎士が答える。


「跡の中に雪がない」


「では五日以内?」


「可能性はあります」


 断定はしない。


 でも。


 新しい。


「進行方向は」


「北東です」


 アルフォンス様。


 私たちは。


 足跡を追う。


 十歩。


 二十歩。


 三十歩。


 そして。


 消えた。


「……ありません」


 私は。


 周囲を見る。


「飛んだ?」


「この木の密度では難しい」


 アルフォンス様が。


 上を見る。


「少なくとも大きく翼を広げるのは無理だ」


「では」


 案内役の騎士が。


 少し先の岩を指した。


「岩へ上がったのでしょう」


 確かに。


 大きな岩。


 その上を通れば。


 土に跡は残らない。


 さらに先。


 倒木。


 乾いた沢。


「足跡を残さない道になっていますね」


 私が言う。


「ああ」


「偶然でしょうか」


「分からない」


 アルフォンス様が。


 岩を見る。


「だが黒竜は賢い」


 人間から。


 何度も追われた竜なら。


 なおさら。


「自分で、見つかりにくい道を選んでいる可能性はありますね」


「ああ」


 ルゥは。


 ただ。


 森に隠れているのではない。


 人間に。


 見つからないように。


 暮らしている。


          ◇


 そこから。


 しばらく。


 何も見つからなかった。


 足跡も。


 鱗も。


 爪痕も。


 ない。


「森全部を探すのは無理ですね」


「無理だ」


「どのくらい広いのですか」


「馬で横断しても半日はかかる」


「……それは」


 探し回れば。


 こちらが先に疲れる。


 そして。


 見つけたとしても。


 ルゥを追い詰める。


「なら」


 私は言った。


「ルゥではなく、人を探しませんか」


 アルフォンス様が。


 こちらを見る。


「人?」


「昨日の食べ物です」


 肉。


 焼いた山リンゴ。


 人が。


 持ってきている。


「ルゥの居場所が分からなくても」


 私は続ける。


「食べ物を置いている人は、置く場所を知っているはずです」


「……そうだな」


「そして」


 一度。


 止まる。


「その人なら、話せます」


 死者ではない。


 能力も。


 いらない。


 アルフォンス様は。


 少し考えて。


「昨日の布を調べさせた」


「もう?」


「ああ」


「早いですね」


「領主なので」


「便利ですね」


「君は俺を何だと思っている」


「領主です」


「……そうだったな」


 前にも。


 似たような会話をした気がする。


「何か分かりましたか」


「布そのものはありふれている」


「はい」


「だが、肉を包む結び方が騎士団式だった」


「結び方?」


「片手で解ける」


 案内役の騎士が。


 腰の小袋を見せた。


 細い革紐。


 特殊な輪。


「手袋をしたままでも、引けば解けます」


 確かに。


 昨日の布にも。


 似た形で紐が残っていた。


「では」


「騎士団の人間である可能性が高い」


「何人くらいが使えますか」


「現役だけで百人以上」


「多いですね」


「退役者も入れれば、さらに」


 犯人探し。


 ではない。


 そもそも。


 食べ物を置くことは。


 悪いこととは限らない。


 禁足地へ無断で入っている。


 それは問題。


 でも。


 今、知りたいのは。


 誰を罰するかではなく。


 なぜ。


 何のために。


 六年間。


 続けたのか。


「昨日の場所へ戻りましょう」


 私は言った。


          ◇


 ノクスの遺骸の近く。


 昨日。


 肉の包みを見つけた場所。


 今日は。


 そこから少し森へ入る。


「道があります」


 細い。


 人一人分。


 獣道けものみちより。


 少し広い。


 でも。


 普通の道より細い。


 枝が。


 人の肩ほどの高さで折れている。


 地面。


 ところどころに。


 靴の跡。


「昨日は気づきませんでした」


「遺骸側からだと、茂みで隠れる」


 アルフォンス様が答える。


「森側からなら?」


「分かる」


 道を。


 逆に辿る。


 十分ほど。


 そこで。


 小さな岩場へ出た。


 岩が。


 三つ。


 重なっている。


 中央。


 雨を避けられる隙間。


 そこに。


 木箱があった。


「……これは」


 私は止まる。


「触らないでください」


 オスカー先生。


「分かっています」


「最近、言われる前に止まれるようになりましたね」


「成長しています」


「自分で言いますか」


 アルフォンス様が。


 革手袋をしたまま。


 箱の蓋へ手を掛ける。


 私を見る。


「開けても?」


「はい」


 確認する。


 昨日から。


 何度か。


 こういうことが増えた。


 彼が聞く。


 私が答える。


 小さなことだけれど。


 たぶん。


 大切だ。


 蓋が開く。


 中。


 干した肉。


 布。


 小さな革袋。


 そして。


 赤い山リンゴ。


 三つ。


「まだ新しい」


 オスカー先生が。


 中を覗く。


「肉も、数日以内に用意したものでしょう」


「予備ですか」


「おそらく」


 私は。


 箱を見る。


 食べ物を。


 ここへ置いておいて。


 少しずつ。


 ノクスのところへ運ぶ。


 そんな使い方に見える。


「ここで待てば」


 私が言う。


「来るかもしれません」


「ルゥが?」


「人が、です」


 アルフォンス様が。


 森の奥を見る。


「どのくらい待つ」


「二時間」


 すぐ横から。


 オスカー先生。


「もう一時間十二分使っています」


「……残り四十八分ですね」


「計算は合っています」


「今日は来ないかもしれません」


「その場合は帰ります」


「先生」


「帰ります」


 仕方ない。


「四十八分だけ待ちます」


          ◇


 三十分。


 何もない。


 四十分。


 鳥が。


 二羽。


 枝を移った。


 四十五分。


 オスカー先生が。


 時計を見た。


「あと三分です」


「分かっています」


「二分五十秒」


「数えなくて結構です」


「二分四十秒」


「先生」


 その時。


 枝が鳴った。


 私たちは。


 同時に。


 森を見る。


 人影。


 こちらへ。


 歩いてくる。


 黒い外套。


 ただし。


 腰に剣はない。


 手には。


 布袋。


 男が。


 岩場へ入る。


 そして。


 私たちを見て。


 止まった。


「……」


 私も。


 何も言わない。


 アルフォンス様も。


 言わない。


 先に。


 口を開いたのは。


 向こうだった。


「待ち伏せとは」


 低い声。


「随分なことをしますね」


「ギルベルト様」


「見れば分かる」


 辺境竜騎士団副団長。


 ギルベルト・ハーン。


 彼の手にある布袋から。


 少しだけ。


 肉の匂いがした。


          ◇


「あなたでしたか」


 私が言う。


「見た通りだ」


「六年間?」


「……ああ」


 アルフォンス様の顔が。


 硬くなる。


「ギルベルト」


「閣下」


「なぜ黙っていた」


「言う必要がないと思った」


「禁足地だ」


「知っています」


「領主の許可なく入るなと命じている」


「俺も、その命令を部下に伝える側です」


「なら」


「処分するならしてください」


 ギルベルト様が。


 布袋を岩の上へ置く。


「その前に、これだけ置いてきます」


「待ってください」


 私が言う。


 ギルベルト様が。


 こちらを見る。


「聞かせてください」


「何を」


「なぜ始めたのですか」


「……」


「六年前から食べ物を置いているのでしょう」


「ああ」


「ルゥのために?」


 長い。


 沈黙。


「最初から、ルゥだと確信していたわけではない」


 ギルベルト様が言う。


「黒杉の森で見た幼竜が、ノクスの遺骸の近くへ出るようになった」


 六年前。


 幼い黒竜。


 右前脚の。


 三枚の白い鱗。


「同じ特徴があった?」


「あった」


「白い鱗?」


「ああ」


「では、ルゥだと思った」


「思った」


「どうして報告しなかったのですか」


 ギルベルト様は。


 アルフォンス様を見た。


 すぐ。


 目を逸らす。


「報告すれば、人が集まる」


「はい」


「捕まえようとする者も出る」


「治療のためでも?」


「幼竜には分からん」


 昨日。


 私が。


 アルフォンス様へ言ったのと。


 同じだった。


「最初の冬」


 ギルベルト様が続ける。


「痩せていた」


「ルゥが?」


「ああ」


「どのくらい」


「肋が見えるほどだ」


 胸が。


 少し痛む。


「左後脚の輪も残っていた」


「外してあげようとは」


「近づけなかった」


 即答だった。


「十歩まで行けば逃げた」


 以前。


 聞いた証言と一致する。


「だから」


 ギルベルト様が。


 布袋を見る。


「肉を置いた」


「食べました?」


「翌日には消えていた」


「それで続けた?」


「ああ」


「毎日?」


「違う」


 首を横に振る。


「最初の冬は三日に一度。その後は姿を見ない時期もあった」


「何か月も?」


「あった」


「それでも戻ってきた?」


「ああ」


「だから、食べ物もまた置いた」


「ああ」


「去年も?」


 ギルベルト様が。


 少し。


 眉を寄せる。


「置いた」


 私は。


 昨日の問いを思い出す。


 足跡を。


 なぜ正式な記録に残さなかったのか。


 理由不明。


 そう記録した。


 今。


 少しだけ。


 理由が見えた。


「山リンゴも?」


「……」


 ギルベルト様が。


 露骨に嫌そうな顔をした。


「はいか、いいえで」


「尋問か」


「確認です」


「……置いた」


「焼いて?」


「ああ」


「ノクスが好きだったから?」


 沈黙。


「ルゥも食べるかと思った」


 小さな声だった。


「食べましたか」


「最初は肉だけ持っていった」


「はい」


「リンゴは残した」


「はい」


「三回目から食った」


 私は。


 少し。


 笑いそうになる。


 でも。


 笑わなかった。


「好きになったのでしょうか」


「知らん」


「そこは断定しないのですね」


「あなたに散々言われたからな」


「それは良いことです」


「……本当に嫌な女だ」


「以前も聞きました」


          ◇


 アルフォンス様は。


 ほとんど。


 口を挟まなかった。


 でも。


 右手が。


 震えている。


 ギルベルト様は。


 それを見ない。


「罪滅ぼしですか」


 私は尋ねた。


 空気が。


 止まった。


 アルフォンス様が。


 私を見る。


 けれど。


 止めなかった。


 ギルベルト様は。


 しばらく。


 何も言わなかった。


「最初は」


 やがて。


 答えた。


「そうだった」


「最初は?」


「ああ」


 彼は。


 森を見る。


「ノクスを助けられなかった」


 アルフォンス様の右手が。


 強く握られる。


 私は。


 何も言わない。


 助けられなかった。


 それだけ。


 なぜ。


 どうして。


 何があったのか。


 ギルベルト様は。


 まだ話していない。


「何かしなければと思った」


 彼が続ける。


「ルゥに肉を置いて」


「生きているのを確認して」


「それで自分が少し楽になろうとした」


 低い声。


「最低だろう」


「それを私に決めさせるのですか」


 ギルベルト様が。


 こちらを見る。


「私は、あなたが何を考えていたか読めません」


「……」


「最初が罪滅ぼしだったとしても」


 私は。


 木箱を見る。


「六年間続けた理由も、同じなのですか」


「同じだ」


「本当に?」


「何が言いたい」


「罪滅ぼしだけなら」


 私は言う。


「ルゥが食べなくても、置いたという事実だけで満足できたのではありませんか」


「……」


「でも、あなたは」


 肉を変えた。


 置く間隔を変えた。


 近づけば逃げるから。


 近づかなかった。


 冬には回数を増やした。


 山リンゴまで焼いた。


「ルゥが食べるかどうかを見ていた」


「……」


「生きているかどうかを、気にしていた」


 ギルベルト様の顔が。


 少しだけ歪む。


「それを」


 私は続ける。


「全部、自分を罰するためだけの行為にしてしまう必要がありますか」


「分かったようなことを」


「分かりません」


 すぐ答える。


「ですから、聞いています」


 彼は。


 黙った。


 長く。


 そして。


「……途中から」


 小さく言った。


「何ですか」


「途中からは」


 一度。


 息を吐く。


「食っていれば、それでよかった」


「はい」


「次に来た時」


「肉がなくなっていれば」


 ギルベルト様が。


 地面を見る。


「まだ生きていると思えた」


 罪滅ぼし。


 だった。


 でも。


 六年。


 それだけでは。


 なかった。


「ルゥは」


 私は言う。


「あなたを許すために食べていたわけではないと思います」


「分かっている」


「あなたが自分を許すためでも」


「ああ」


「ただ、お腹が空いたから食べた」


「……おそらくな」


「それでいいのではありませんか」


 ギルベルト様が。


 何も言わなくなる。


          ◇


「なぜ」


 今度は。


 アルフォンス様が口を開いた。


「俺に言わなかった」


 ギルベルト様の肩が。


 わずかに動く。


「さっき言ったでしょう」


「人が集まるから?」


「ああ」


「俺一人にも?」


「……」


「六年だ」


 低い声。


「ルゥがここへ来ていたことを」


「お前は六年、俺に黙っていた」


「閣下」


「答えろ」


 ギルベルト様が。


 歯を食いしばる。


「言えると思いますか」


「何?」


「俺が」


 そこで。


 言葉が切れる。


 握られた拳。


「俺が、あなたに」


 続きは。


 出なかった。


 アルフォンス様も。


 追わなかった。


 追えば。


 何かが壊れる。


 そんな空気だった。


「今は」


 私は言った。


 二人が。


 こちらを見る。


「ルゥのことだけにしませんか」


「……」


「ギルベルト様が何を黙っているのか」


 私は彼を見る。


「それは、別に聞きます」


 彼の顔が。


 さらに険しくなる。


「逃がさないつもりか」


「逃げるかどうかは、あなたが決められます」


「……」


「でも」


 記録帳を出す。


「尋ねることはやめません」


「本当に嫌な女だな」


「三回目です」


          ◇


「今日は置かない方がいい」


 ギルベルト様が。


 突然言った。


「食べ物を?」


「ああ」


「なぜですか」


「人が多い」


 私たちは。


 四人。


 ギルベルト様を入れて。


 五人。


「ルゥは見ているのですか」


「分からない」


「でも?」


「ここへ来る時は」


 彼が。


 森を見る。


「先に人間を見る」


「どこから?」


「分からない」


「それでは」


「俺も見つけたことはない」


 少し。


 意外だった。


「六年間も?」


「ああ」


「食べ物を置いているのに?」


「俺が見つけているんじゃない」


 ギルベルト様が言う。


「向こうが俺を見ている」


 森。


 暗い。


 枝。


 葉。


 影。


「俺が食べ物を置いて離れる」


「はい」


「その後に来る」


「姿は?」


「遠くからなら何度か」


「近づいたことは」


「ない」


「触ったことも?」


「あるわけがない」


 それなら。


 ギルベルト様も。


 ルゥと親しくなったわけではない。


 六年間。


 一方的に。


 食べ物を置いて。


 それが消えることで。


 生きていると知った。


「なら」


 私は言った。


「今日は、これを置いて帰りましょう」


 ギルベルト様が。


 こちらを見る。


「探さないのか」


「探しました」


「まだ二時間も」


 オスカー先生が。


「二時間経ちました」


 時計を見せる。


「……」


「帰ります」


「ですが」


「帰ります」


「……はい」


 私は。


 今日も。


 帰る。


 自分から。


「ただ」


 森を見る。


「次は、探し回るのをやめます」


「何をする」


 アルフォンス様。


「待ちます」


「どこで」


「食べ物を置く場所の近くで」


 ギルベルト様が。


 すぐに首を振る。


「出てこない」


「全員で待てば、でしょう?」


「一人で残る気か」


 アルフォンス様の声が。


 一段低くなる。


「いいえ」


 即答する。


 昨日までの私なら。


 考えたかもしれない。


 自分一人なら。


 危険でも。


 ルゥが出てくるなら。


 でも。


「一人になるつもりはありません」


 アルフォンス様が。


 少し。


 目を見開いた。


「私も怪我をしたくありませんので」


「……そうか」


「なぜ少し驚くのです」


「いや」


 オスカー先生が。


 後ろで。


 満足そうに頷いている。


「人を減らして」


 私は続ける。


「距離を取ります」


「こちらから近づかない」


「名前を呼んで追わない」


「ルゥが出てこなければ、それで終わり」


「出てきても」


 一度。


 息を吸う。


「ルゥが近づくかどうかは、ルゥに決めてもらいます」


 生きている者のことは。


 生きている者に。


 決めてもらう。


 たとえ。


 相手が。


 人ではなくても。


          ◇


 帰ろうとした。


 その時だった。


 ざり。


 音。


 小さい。


 岩の上。


「待て」


 アルフォンス様。


 全員が止まる。


 剣には。


 誰も手を掛けない。


 森。


 黒い木々。


 何も。


 見えない。


 でも。


 もう一度。


 ざり。


 高いところ。


 私は。


 ゆっくり。


 顔を上げる。


 岩壁の上。


 木々の隙間。


 影。


 大きい。


 人ではない。


 黒。


「……」


 息を。


 止めた。


 影が。


 一歩。


 前へ出る。


 前脚。


 黒い鱗。


 その中に。


 三枚だけ。


 白いもの。


「ルゥ」


 アルフォンス様の声が。


 震えた。


 影の頭が。


 動く。


 こちらを見る。


 距離は。


 遠い。


 表情までは。


 分からない。


 でも。


 黒竜。


 右前脚。


 三枚の白い鱗。


 六年前。


 幼い竜にあった特徴。


 今。


 目の前にある。


「動くな」


 ギルベルト様が。


 小さく言う。


「誰も動くな」


 私は。


 動かない。


 手も。


 上げない。


 呼ばない。


 ただ。


 見る。


 ルゥも。


 こちらを見ている。


 何秒。


 だったのか。


 分からない。


 やがて。


 鼻先が。


 少し。


 動いた。


 食べ物の匂いを。


 嗅いだのかもしれない。


 でも。


 来ない。


 一歩。


 後ろへ。


 下がる。


「ルゥ」


 アルフォンス様が。


 もう一度。


 呼んでしまった。


 その瞬間。


 黒い影の身体が。


 強くこわばった。


 そして。


 消えた。


「待て!」


 アルフォンス様が。


 一歩。


 出る。


「アルフォンス様」


 私は。


 呼んだ。


 彼の足が。


 止まる。


「追わないと」


 昨日。


 決めた。


「……ああ」


 握られた右手。


 震えている。


 それでも。


 彼は。


 二歩目を。


 踏み出さなかった。


 森は。


 再び。


 静かになる。


「今のは」


 私は。


 自分の声が。


 少し震えていることに気づいた。


「ルゥですか」


「……ああ」


 アルフォンス様。


「三枚」


 右前脚。


「同じだった」


 六年前。


 目撃された。


 三枚の白い鱗。


 それだけで。


 絶対だとは言えない。


 でも。


 ギルベルト様も。


 低く言った。


「ルゥだ」


 私は。


 森を見る。


 死者へ。


 訊く必要はなかった。


 今。


 生きた竜が。


 自分の身体で。


 答えを見せた。


 ルゥは。


 生きている。


 そして。


 私たちを見て。


 逃げた。


「明日」


 私は言う。


「ここへ来ます」


「また探すのか」


 ギルベルト様。


「いいえ」


 首を横に振る。


「今度は」


 ルゥが消えた森を見る。


「私たちが、待ちます」


 近づくか。


 逃げるか。


 怒るか。


 それを。


 決めるのは。


 ルゥだ。


 そして。


 その時。


 私はまだ知らなかった。


 人間に近づかない黒竜が。


 次に姿を見せた時。


 最初に向けてくるのが。


 言葉ではなく。


 牙だということを。

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