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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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26/44

便利な道具ではありません

 目を開けたとき。


 最初に見えたのは、白い天井だった。


 知らない天井。


 そう思った直後。


 胸の奥が、強く縮む。


 ――ここはどこ。


 一瞬だけ。


 本当に分からなかった。


 白い天井。


 薬草の匂い。


 窓から差し込む薄い光。


 遠くで。


 鳥が鳴いている。


 私は。


 誰。


「リーゼロッテ様」


 声がした。


 すぐ横。


 顔を向ける。


 椅子に座っていた男が、立ち上がった。


 四十代半ば。


 短く整えた灰色がかった髪。


 旅の間も何度も私の脈を測った。


 オスカー・レナート。


 父が王都から同行させた治療師。


「私が分かりますか」


 私は。


 しばらく彼の顔を見た。


 分かる。


 オスカー先生。


 そして。


 私。


 リーゼロッテ・アルヴァ。


 十九歳。


 アルヴァ伯爵家の娘。


 王都から。


 辺境へ来た。


 ノクス。


 黒竜。


 牙。


 炎。


「……」


 口を開く。


 声が。


 出ない。


 喉に痛みはない。


 息もできる。


 それでも。


 声だけが抜け落ちている。


「まだ声は出ませんか」


 私は頷いた。


「分かりました。無理に出さないでください」


 オスカー先生が。


 水の入った器を取る。


「起きられますか」


 私は肘をついた。


 頭が。


 ずきりと痛んだ。


 顔をしかめた途端。


「そこまで」


 肩を押さえられる。


「まだ横になっていてください」


 私は首を振った。


「駄目です」


 さらに。


 首を振る。


「患者が治療師へ首を振れば、診断が変わるとでも?」


「……」


「セレーネ様も似たことをしました」


 動きが。


 止まった。


 母。


「その顔をされても、今日はお母上の話をするつもりはありません」


 先回りされた。


「今のあなたに必要なのは、自分の記憶を確かめることです」


 オスカー先生が。


 小さな板を出した。


 紙と。


 炭筆。


「書けますか」


 私は手を伸ばす。


 右手。


 冷たい。


 でも。


 動く。


 炭筆を握る。


『私はリーゼロッテ・アルヴァ』


 書いた。


「年齢」


『十九歳』


「ここは?」


 少し考える。


『グレイヴ辺境伯領』


「建物は」


 分からない。


 私は。


 首を振る。


「辺境伯邸の客室です。問題ありません。ここへ運ばれた後の記憶がないだけです」


 次。


「昨日、何をしました」


 私は。


 炭筆を止めた。


 ノクス。


 牙。


 触れた。


 炎。


 鎖。


 ミラ。


 ルゥ。


 アル。


『ノクスの左牙へ触れた』


 書く。


「自分で?」


『はい』


 そこだけは。


 迷わなかった。


 私が。


 選んだ。


 アルフォンス様に命じられたわけではない。


 ギルベルト様に強制されたわけでもない。


 私は。


 私の意思で。


 手袋を外した。


「では」


 オスカー先生が訊く。


「今も、ご自分をノクスだと感じますか」


 手が。


 止まった。


 昨日。


 最後。


 名前を訊かれたとき。


 一瞬。


 分からなかった。


 私の名前が。


 ノクスという名と。


 重なった。


『今は違います』


 私は書く。


 その下に。


 少し迷って。


『でも、起きた直後、一瞬だけ自分が誰か分かりませんでした』


 オスカー先生の表情が。


 険しくなる。


「書いてくださってありがとうございます」


 叱られなかった。


 なぜか。


 それだけで。


 胸の力が少し抜けた。


「昨夜は二度、うなされました」


 私は彼を見る。


「一度目は『熱い』。二度目は『アル』と」


 アル。


 胸の奥が。


 また。


 ざわめく。


 ノクスの声。


『来るな』


 私は。


 紙へ書こうとした。


「記録は後です」


 オスカー先生が止める。


 私は強く首を振った。


「リーゼロッテ様」


『忘れます』


 大きく書いた。


『昨日より、もう一部が曖昧です』


「……」


『記録させてください』


 オスカー先生は。


 しばらく黙った。


 やがて。


「十五分だけです」


 私は顔を上げる。


「私が止めたら終わり。異論は?」


 少し考え。


『ありません』


「よろしい」


 紙が。


 新しいものへ替えられた。


「ただし」


 オスカー先生が言う。


「昨日あなたが見たものを、そのまま書いてください。解釈は後です」


 私は。


 母の弔い帳を思い出した。


 声を。


 自らの望む物語へ変えてはならない。


 聞こえなかったことを。


 聞こえたと言ってはならない。


 私は。


 炭筆を握り直した。


          ◇


 まず。


『感覚』


 熱。


 左肩から背中の痛み。


 口内、左牙付近の激痛。


 首を強く引かれる感覚。


 翼に異物が刺さる痛み。


 薬品。


 血。


 焦げた金属の匂い。


『映像』


 夜。


 山道。


 複数の輸送車。


 白い布。


 鉄製の拘束具。


 拘束された黒竜ミラ。


 幼い黒竜ルゥ。


 ミラが荷台を壊す。


 ルゥが逃げる。


 森。


 白い外套。


 胸元の紋章。


 私は。


 そこで手を止める。


 昨日は。


 王国中央の機関に似た紋章だと思った。


 でも。


 細部までは見ていない。


 聖竜院だと。


 断定してはいけない。


『円形の意匠。翼を広げた竜。その上に王冠のような形。所属は不明』


 そう書く。


 次。


『言葉』


 ここで。


 胸が。


 少し苦しくなる。


 聞こえた。


 確かに。


『アル』


『来るな』


 それから。


『あの子を――』


 途中まで。


 その後は。


 聞こえなかった。


 あるいは。


 私が覚えていない。


 私は。


『続きは不明』


 と書いた。


 そして。


『感情』


 怒り。


 恐怖。


 焦り。


 ミラへの思い。


 ルゥへの思い。


 ルゥが逃げたときの安堵。


 アルフォンス様を思ったときの――


 そこまで書いて。


 止まる。


 何だった。


 恐怖?


 心配?


 拒絶?


 守ろうとした?


 来てほしくなかった?


 分からない。


『アルフォンス様に対する強い感情。内容の判断不能』


 そう書いた。


「あと三分です」


 オスカー先生。


 私は。


 最後に。


『推測』


 と書こうとして。


 止めた。


「どうしました」


 私は紙を見た。


 そして。


 その文字を。


 二本線で消す。


 まだ。


 いらない。


 昨日。


 私が受け取ったのは。


 証言だ。


 真実ではない。


 誰がノクスを襲ったのか。


 誰が命令したのか。


 なぜ『来るな』と言ったのか。


 ノクスがどこで死んだのか。


 あの場面から死亡まで、どれほど時間があったのか。


 何一つ。


 決まっていない。


「そこまでです」


 私は。


 炭筆を置いた。


 途端。


 指が震えた。


 自分では。


 気づいていなかった。


「右手の冷え」


 オスカー先生が言う。


「頭痛。軽い耳鳴り。発声障害。記憶混同。そして短時間の自己認識の揺らぎ」


 記録されていく。


「今日は当然、能力使用禁止」


 私は頷く。


「明日も禁止」


 少し。


 顔を上げる。


「明後日も」


 私は眉を寄せた。


「症状が完全に消えてから、さらに一日」


 紙を取る。


『長すぎませんか』


「短すぎた結果が昨日です」


 返す言葉がない。


「それから」


 オスカー先生が。


 妙に静かな声を出した。


「あなたが眠っている間、辺境伯殿が三度来ました」


 私は。


 顔を上げる。


「一度目は運ばれた直後」


「……」


「二度目は夜中」


「……」


「三度目は今朝」


 少し間を置いて。


「全部、追い返しました」


 私は。


 思わず。


 オスカー先生を見る。


「患者が寝ているのに、領主が立っていようと邪魔なものは邪魔です」


 それは。


 そうかもしれない。


『アルフォンス様は』


「生きています」


 知っています。


「怪我もありません」


 それも。


 訊こうとしていない。


「会いたければ、昼以降です」


 私は。


 少し迷って。


 書いた。


『会います』


「そう言うと思いました」


          ◇


 昼食は。


 半分ほどしか食べられなかった。


 味が。


 ほとんどしない。


 塩気が。


 少しだけ。


 分かる。


 甘みは。


 ほぼ分からない。


 食べられます。


 と言おうとして。


 声が出ないことに気づく。


 そして。


 出なくてよかった。


 とも思った。


 声が出ていたら。


 きっと私は。


 また。


「大丈夫です」


 と言っていた。


 昼を少し過ぎたころ。


 扉が叩かれた。


 オスカー先生が。


 私を見る。


 私は頷く。


「入ってください」


 扉が開く。


 アルフォンス様。


 一人だった。


 いつもの黒い服。


 でも。


 昨日の洞窟より。


 顔色が悪いように見える。


「……」


 私を見る。


 何も言わない。


「十五分です」


 オスカー先生が言った。


「彼女はまだ声が出ません」


 アルフォンス様の瞳が。


 わずかに揺れる。


「そうか」


「疲れが見えたら私が終わらせます」


「分かった」


「それから、あなたが患者を責め始めた場合も追い出します」


「……俺が?」


「自分を責め始めてもです」


 アルフォンス様が。


 黙った。


「では」


 オスカー先生が私を見る。


「私は隣にいます」


 部屋を出る。


 扉は。


 完全には閉まらなかった。


 少し。


 開いている。


 しばらく。


 沈黙。


 アルフォンス様は。


 ベッドの横まで来なかった。


 少し離れたところに立っている。


 右手が。


 震えていた。


 いつもより。


 はっきり。


「……すまなかった」


 最初の言葉が。


 それだった。


 私は。


 枕元の板を取る。


『何についてですか』


 彼は。


 少し驚いた顔をした。


「全部だ」


 私は眉を寄せる。


『それでは分かりません』


「……」


『具体的にお願いします』


 アルフォンス様が。


 息を吐いた。


「ノクスの牙に触れさせたことだ」


 私は。


 すぐに書いた。


『それは違います』


「違わない」


『触れると決めたのは私です』


「俺が止めるべきだった」


 手が。


 止まる。


 私は。


 アルフォンス様を見る。


 ああ。


 まただ。


 そう思った。


『なぜですか』


「危険だった」


『触れる前から、危険なのは分かっていました』


「予想より強かった」


『それは私も同じです』


「俺はノクスを知っていた」


 アルフォンス様の声が。


 少しだけ。


 低くなる。


「俺は契約者だった。あいつが死んだ瞬間に流れ込んだ痛みが、普通ではなかったことも知っていた」


 私は。


 黙る。


 六年前。


 契約が切れた瞬間。


 彼は。


 ノクスの痛みの一部を受け取っている。


 それは。


 以前にも聞いていた。


 胸を裂くような痛み。


 炎。


 鉄。


 幼い竜の叫び。


「牙の状態を見たとき」


 アルフォンス様が言う。


「残っているものが強い可能性は考えた」


『私たちも考えました』


「だが」


 彼の右手が。


 握られる。


「俺は、君が触れると言ったとき――安堵した」


 私は。


 板へ視線を落とした。


「答えが得られると思った」


 静かな声。


「ノクスに何があったのか」


「ミラに何があったのか」


「ルゥがどう逃げたのか」


「そして」


 一度。


 言葉が止まる。


「ノクスが、俺をどう思って死んだのか」


 私は。


 顔を上げた。


「聞きたかった」


 彼は言った。


「君が自分で選んだのだからいい、と考えた」


「条件も整えた」


「医師もいた」


「記録も調べた」


「だから大丈夫だと」


 そこで。


 自嘲するように。


 ほんの少し。


 口元が歪んだ。


「思いたかったんだろう」


 私は。


 板に書く。


『それは、私もです』


「違う」


『違いません』


 強く。


 書く。


『私は自分の限界を知っているつもりでした』


『今までにも強い声を聞いたことがありました』


『だから今回も、自分なら離せると思った』


 実際には。


 離せなかった。


『私も判断を誤りました』


「君が責任を分ける必要はない」


 その言葉で。


 胸の奥に。


 小さな苛立ちが生まれた。


 私は。


 炭筆を置く。


 喉に。


 力を入れる。


「……ぁ」


 掠れた音。


 アルフォンス様の顔が変わる。


「喋るな」


 私は。


 もう一度。


 息を吸った。


「……そ、れ……」


 痛くはない。


 ただ。


 声が。


 細い。


「やめろ」


「……嫌、です」


 出た。


 ほとんど。


 囁き。


 でも。


 自分の声。


「リーゼロッテ」


「それを……決めるのも……私です」


 アルフォンス様が。


 黙る。


 私は。


 水を一口飲んだ。


 喉を。


 休ませる。


 それから。


 板へ戻した。


『私は、自分の責任まで取り上げられたくありません』


 彼が読む。


『あなたが答えを欲しかったことは事実です』


『私が触れたいと思ったことも事実です』


『危険を十分に見積もれなかったのは、私たち両方です』


 そこで。


 アルフォンス様が言った。


「なら」


 嫌な予感がした。


「もう、触れなくていい」


 私は。


 顔を上げる。


「ノクスの遺品は封じる」


 予感通りだった。


「鞍も、牙も、骨も」


 右手が。


 強く握られている。


「調査は続ける。記録も探す。ルゥも探す」


「だが」


「君には、もう触れさせない」


 私は。


 しばらく。


 何も書かなかった。


 アルフォンス様は。


 それを同意だと思ったのかもしれない。


「王都へ戻るなら」


 そこで。


 私は。


 板を強く持ち上げた。


『違います』


「……」


『それは違います』


「何がだ」


『あなたは今、私の選択を決めました』


「危険だからだ」


『父と同じことを言っています』


 アルフォンス様の表情が。


 止まった。


 少し。


 言い過ぎたかもしれない。


 でも。


 消さない。


「……ヨアヒム伯爵と?」


 私は頷く。


『危険だから触れさせない』


『危険だから行かせない』


『危険だから知らなくていい』


『理由は正しいのかもしれません』


『でも、私を抜きにして決めるなら同じです』


「昨日、君は自分の名前さえ――」


『分からなくなりかけました』


 自分で書く。


 逃げない。


『だから、怖いです』


『今も怖いです』


『もう一度同じことが起きるかもしれない』


『もっとひどくなるかもしれない』


 手が。


 少し震える。


『だからこそ、次に触れるかどうかを決めるのは私です』


「それで死んだらどうする」


 低い声。


 私は。


 すぐには答えられなかった。


 そこを。


 軽く扱ってはいけない。


 死んでもいい。


 とは。


 言えない。


 言ってはいけない。


『死にたくありません』


 書く。


 アルフォンス様の目が。


 私を見る。


『だから、安全にする方法を考えます』


『次は同じやり方をしません』


『触れないという結論になるかもしれません』


『途中で王都へ帰るかもしれません』


『でも』


 一度。


 炭筆を止める。


『あなたが最初から「触れさせない」と決めることは受け入れません』


「……」


 私は。


 掠れた声で。


 少しずつ言った。


「私は……便利な、道具では……ありません」


 アルフォンス様が。


 目を伏せる。


「……分かっている」


「いいえ」


 声が。


 震える。


 怒鳴れない。


 それでも。


 言う。


「必要なときだけ……使って」


 一度。


 息を整える。


「壊れそうになったら……しまっておくものでも、ありません」


「……」


「あなたが……答えを欲しいときに……触れさせるのも」


 呼吸。


「あなたが……怖くなったときに……触れさせないと決めるのも」


 息が。


 少し苦しい。


 でも。


 最後まで。


「どちらも……私を、見ていません」


 沈黙。


 長かった。


 アルフォンス様の右手が。


 震えている。


 彼は。


 その手を。


 隠そうとしなかった。


 やがて。


「……そうだな」


 小さく。


 言った。


「俺は」


 一度。


 息を吐く。


「昨日、君が触れると決めたことに甘えた」


「……」


「自分で選んだのだからと」


「本当は俺も、その答えを望んでいたのに」


 彼が。


 こちらを見る。


「そして今は」


 少し。


 苦そうに。


「君を失うかもしれないと思って、逆のことをしようとした」


 私は。


 何も書かない。


「どちらも」


 彼は言った。


「俺の都合だ」


 簡単な言葉だった。


 言い訳は。


 なかった。


「すまない」


 今度の謝罪は。


 最初より。


 何についてなのか。


 分かった。


 私は。


 少しだけ。


 息を吐く。


『謝罪は受け取ります』


 書く。


 そして。


 続ける。


『ただし、一つ訂正があります』


「何だ」


『昨日の接触そのものを、あなたの責任にはしません』


「……」


『私が選びました』


『そこは、奪わないでください』


 アルフォンス様は。


 しばらく。


 私を見た。


 それから。


「ああ」


 頷いた。


「君が選んだ」


 その言葉を聞いて。


 なぜか。


 少しだけ。


 胸の奥が楽になった。


          ◇


「十五分、と言ったはずですが」


 扉から。


 冷たい声。


 私たちは。


 同時にそちらを見る。


 オスカー先生が。


 腕を組んで立っていた。


「先生」


 声が。


 出てしまった。


 掠れている。


 オスカー先生の眉間に。


 皺が寄る。


「誰が発声を許可しました」


「……」


「リーゼロッテ様?」


 私は。


 視線を逸らした。


「辺境伯殿も」


「俺もか」


「患者と口論するために来たのですか」


「……すまない」


「謝罪は私ではなく、患者の喉にしてください」


 どうやって。


 アルフォンス様も。


 さすがに困った顔をした。


「ですが」


 オスカー先生が部屋へ入る。


「話そのものは聞こえていました」


 扉。


 開いていた。


 そうだった。


「結論として」


 私たちを見る。


「二人とも、昨日と同じ手順で次の遺品へ接触することは禁止します」


 私は。


 板を取る。


『接触そのものではなく?』


「今のところは」


 オスカー先生が答える。


「私は治療師です。あなたの人生すべてを決める権限はありません」


 アルフォンス様を見る。


「領主にもありません」


「分かっている」


「今、学ばれたようですね」


「……」


「では、改善策を考えます」


 オスカー先生が。


 椅子を引いた。


「今回、何が不足していたのか」


 私は考える。


 記録確認はした。


 体調も見た。


 医師もいた。


 一日に一つ。


 それも守った。


「まず」


 アルフォンス様が言った。


「俺の契約記憶を、もっと詳細に共有すべきだった」


 私は見る。


「六年前、ノクスが死んだ時に俺へ流れ込んだもの」


「熱」


「鉄」


「胸部の痛み」


「幼竜の恐怖」


「そこまでは話した」


「だが、強さを言葉にしていなかった」


 確かに。


 内容は聞いた。


 でも。


 それが。


 六年経った今も。


 夜中に彼を起こすほどのものだとは。


 もっと。


 詳しく確認できたかもしれない。


「次」


 オスカー先生。


 私は。


 紙へ書く。


『遺品の損傷と、思いの強さを分けて考えない』


「どういう意味です?」


『左牙は、ただ折れた牙ではありませんでした』


『折れた瞬間そのものが、ノクスにとって重大な出来事だった可能性があります』


 物としての牙ではなく。


 その瞬間。


 何を感じていたか。


 誰を守ろうとしていたか。


 そこを。


 もっと考える。


「他には」


『接触時間』


 私は書く。


『私は自力で離せなくなりました』


 オスカー先生が頷く。


「次回があるなら、時間を決めます」


「どれくらいだ」


「数秒から始めます」


 アルフォンス様が。


 顔をしかめる。


「短すぎないか」


「長すぎた結果を昨日見たでしょう」


「……そうだな」


「さらに」


 オスカー先生。


「本人が反応できなくなった時点で、即座に接触を切る人間を一人決める」


 私は。


 少し迷う。


『私の許可を待たず?』


「はい」


 昨日も。


 そういう約束だった。


 でも。


 実際には。


 私が離れられなくなってから。


 少し時間があった。


 皆が。


 私がまだ聞いているだけなのか。


 危険なのか。


 判断できなかったから。


『合図を決めます』


「それがいいでしょう」


『呼びかけに二回反応しなければ切る』


「一回で」


 オスカー先生。


『二回』


「一回」


『……一回』


 負けた。


 アルフォンス様が。


 ほんの少し。


 口元を動かした。


 笑った?


 気のせいかもしれない。


 私は。


 さらに書く。


『接触後、すぐに記録しない』


 自分で書いて。


 少し。


 苦しくなる。


 昨日。


 私は。


 意識が混濁していても。


 記録しようとした。


 聞いた声が。


 消えることの方を。


 自分より。


 優先した。


『最低限の単語だけ、別の人が私の発言から記録する』


『詳細は体調が安定してから』


 オスカー先生が。


 ゆっくり頷く。


「それなら許容できます」


 アルフォンス様も。


「俺も記録する」


『一人では駄目です』


「なぜだ」


『あなたは当事者だからです』


 彼が黙る。


『ノクスについて、あなた自身の記憶と混ざる可能性があります』


「……そうだな」


『ギルベルト様か、別の記録官も必要です』


 名前を出した瞬間。


 アルフォンス様の表情が。


 ほんの少し硬くなった。


 私は。


 それに気づいた。


 でも。


 今は。


 触れない。


「そして最後」


 オスカー先生。


「次の接触は」


 私は。


 彼を見る。


「今ある症状がすべて消えるまでありません」


 頷く。


「症状が消えても」


 続く。


「あなた自身が望まなければありません」


 頷く。


「周囲が必要だと言っても」


 頷く。


「死者の思いが薄れると言われても」


 少し。


 時間がかかった。


 それでも。


 頷いた。


「よろしい」


          ◇


 アルフォンス様が。


 帰る前。


 私は。


 昨日の記録を。


 彼へ見せた。


 彼は。


 一つずつ。


 静かに読んだ。


 ミラ。


 ルゥ。


 炎。


 鎖。


 紋章。


 そして。


『アル』


『来るな』


 そこで。


 手が止まった。


 顔は。


 ほとんど変わらない。


 けれど。


 右手の震えが。


 少しだけ。


 強くなった。


「……そうか」


 それだけ。


 私は。


 板に書く。


『意味は分かりません』


「ああ」


『あなたを拒絶したとは限りません』


「ああ」


『助けに来るな、かもしれない』


『危険だから来るな、かもしれない』


『別の場面の言葉かもしれない』


「分かっている」


『あなたが望んでいた答えでなくても』


「分かっている」


 少し。


 強い声だった。


 私は。


 書くのを止める。


「……すまない」


 アルフォンス様が。


 目を伏せた。


「分かっているつもりだ」


 つもり。


 その言葉を。


 彼が使った。


「だが」


 紙を見る。


「六年間」


 少しだけ。


 声が掠れる。


「俺は、あいつが俺を呼んでいたのではないかと思っていた」


「もっと早く追えば」


「命令を待たなければ」


「部隊を置いてでも行けば」


 握られた手。


「間に合ったのではないかと」


 私は。


 慰める言葉を。


 探さなかった。


 まだ。


 何も分からない。


 だから。


 ノクスはあなたを責めていません。


 とは。


 言えない。


 代わりに。


 書く。


『調べましょう』


 アルフォンス様が。


 私を見る。


『「来るな」が何を意味していたのか』


『能力だけではなく』


『生きている人の記録と』


『現場と』


『残っている証言で』


 そして。


『分からなければ、分からないと残します』


 彼は。


 長い間。


 その文章を見ていた。


「ああ」


 やがて。


 頷いた。


「それでいい」


 少し。


 迷ってから。


「いや」


 言い直す。


「それがいい」


          ◇


 その日の夕方。


 私は。


 ノクスの牙へ触れなかった。


 もちろん。


 鞍にも。


 骨にも。


 何にも。


 触れなかった。


 ベッドの上。


 手袋をしたまま。


 騎士団から届けてもらった遺骸発見時の見取り図を広げる。


 能力を使わずに。


 できること。


 まだ。


 いくらでもある。


 牙が見つかった場所。


 ノクスの遺骸。


 岩壁。


 血痕。


 折れた翼。


 失われた右牙。


 そして。


 発見当時に回収されなかった細かな痕跡。


 私は。


 見取り図の端へ。


 一つだけ書き加える。


『次にすること』


 少し考えて。


『ノクスの周囲を、もう一度見る』


 死者へ。


 すぐ続きを聞くのではない。


 まず。


 残された場所を見る。


 生きている人に聞く。


 記録を探す。


 それでも必要なら。


 そのとき初めて。


 触れるかどうかを決める。


 私は。


 自分の右手を見る。


 まだ。


 少し冷たい。


 昨日までなら。


 これくらい。


 と思ったかもしれない。


 でも。


 今日は。


 オスカー先生を呼ぶための鈴へ。


 自分から手を伸ばした。


 小さな音が。


 部屋に響く。


 死者の声ではない。


 助けを求めるために。


 私自身が鳴らした音だった。

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