最初の接触
翌朝。
私は騎士団本部の地下書庫にいた。
机の上には。
六年前の記録が、積み重ねられている。
『黒竜ノクス捜索記録』
『第三捜索隊行動報告』
『遺骸検分記録』
『回収品目録』
紙は古い。
端が黄ばんでいるものもある。
けれど。
どれも読める状態だった。
「右牙一本、欠損」
私は声に出した。
「やはり、ありますね」
向かいに座るアルフォンス様が頷く。
「ああ」
「昨日の石台にあったのは左牙です」
「ああ」
「では右牙は」
「見つかっていない」
分かっていた答え。
それでも。
記録として確かめる。
「遺骸発見時には、すでになかった?」
「そう記録されている」
アルフォンス様の隣。
ギルベルト様は腕を組んだまま、壁にもたれていた。
「正確には」
彼が言う。
「発見時、右牙が抜けていたことは確認した。しかし周囲を探しても見つからなかった」
「折れた痕だったのですか」
「分からない」
「検分記録には?」
「根元が損傷していた、とだけ」
私は頁をめくる。
あった。
『右牙基部に破砕痕。外力による欠損の可能性あり。ただし死後損壊か、生前損傷かは不明』
「持ち去られた可能性は」
「否定できない」
ギルベルト様が答える。
「だが、それだけだ」
「はい」
私は頷く。
「持ち去られたとは断定しません」
「……」
「誰かが持っているとも」
ギルベルト様が。
私をちらりと見る。
昨日より。
ほんの少しだけ、敵意が薄い。
信用されたとは思わない。
ただ。
少なくとも。
私が何でも死者のせいにして決めつける人間ではないとは。
少しだけ理解してもらえたのかもしれない。
「左牙については」
私は別の記録へ目を移す。
「遺骸から少し離れた場所で発見」
「ああ」
「岩壁のそば」
「そうだ」
「血痕?」
「当時は残っていた」
ギルベルト様が答えた。
「牙の根元と岩に、黒竜の血が付着していた」
「つまり」
私は考える。
「生前に折れた可能性が高い」
「高いだけだ」
「はい」
断定はしない。
でも。
遺品としては。
十分に強い思いが残っている可能性がある。
最期に近い時刻。
痛み。
恐怖。
怒り。
もし折れた瞬間が死の直前なら。
残留は強い。
「リーゼロッテ」
アルフォンス様が呼ぶ。
「はい」
「今日はやめてもいい」
私は顔を上げる。
「まだ何もしていません」
「だから言っている」
彼は机の上の書類を見る。
「記録を読んだ。それだけでも昨日より分かったことはある」
右牙がない。
左牙は生前に折れた可能性が高い。
ノクスの遺骸には。
鎖のような拘束痕。
翼や胸部に大きな裂傷。
そして。
発見された場所は。
聖竜院の輸送路から外れた渓谷。
「今、触る必要はない」
アルフォンス様は言う。
「あなたは」
私は少し笑った。
「以前より、ずいぶん慎重になりましたね」
「悪いか」
「いいえ」
むしろ。
ありがたい。
でも。
私はもう一度。
記録へ目を落とした。
「触れたいです」
アルフォンス様の眉が動く。
「必要だから、ではありません」
先に言う。
「……」
「私が、知りたいからです」
言ってから。
自分の胸の中を確認する。
怖い。
もちろん。
怖い。
でも。
触れなければならないから。
ではない。
母と同じだから。
でもない。
私が。
今、この牙に残った声を。
聞きたい。
「ただし」
私は続ける。
「一度だけです」
「ああ」
「聞こえたものは、その場で断定しません」
「ああ」
「私の体調が悪化した場合、続きを求めないでください」
アルフォンス様が。
少しだけ。
嫌そうな顔をした。
「それは俺に言うことか」
「念のためです」
「……分かった」
「ギルベルト様も」
「俺もか」
「はい」
「頼まれてもいない」
「それでもです」
彼は。
深くため息をついた。
「分かりましたよ」
「ありがとうございます」
「まだ信用したわけではありません」
「承知しております」
そこで。
地下書庫の扉が開いた。
父が王都から同行させた治療師、オスカー先生が入ってくる。
王都を出るとき、父が半ば無理やり同行させた人だ。
あの時は、少し大げさだと思っていた。
けれど今は、父に感謝している。
「体調は」
「問題ありません」
医師が無言で私を見る。
「……今のところは」
言い直す。
「頭痛なし。耳鳴りなし。味覚も戻っています。手の冷えもありません」
「昨夜は?」
「眠れました」
「悪夢は」
「ありません」
医師は私の脈を取る。
「触れた瞬間、異常があれば離すこと」
「はい」
「意識が混濁したら」
「離していただいて構いません」
「あなたの意思確認を待ちません」
一瞬。
私は黙った。
でも。
「分かりました」
頷いた。
一人で背負わない。
それも。
王都を出るときに決めたことだった。
◇
昼前。
私たちは。
ノクスの眠る洞窟へ戻った。
昨日と同じ。
冷たい空気。
黒い骨。
奥に横たわる。
巨大な遺骸。
洞窟へ入った瞬間。
アルフォンス様の歩幅が。
ほんの少しだけ狭くなる。
私は気づいた。
でも。
何も言わない。
今日は。
彼がノクスへ触れる日ではない。
石台の前へ行く。
白布の上。
左の牙が置かれている。
ノクスの牙。
私の前腕ほどもある。
先端から三分の一ほどが折れており。
根元には。
細かな亀裂。
黒竜の牙は。
本来なら深い黒。
けれど。
長い年月を経て。
表面の一部は灰色にくすんでいる。
「触れる前に」
私は言った。
「確認します」
全員を見る。
「私に聞こえるものは、ノクスの認識です」
アルフォンス様が頷く。
「映像が見えても、それが客観的な出来事とは限りません」
「ああ」
「誰かの顔が見えても、その者が犯人とは限りません」
「分かっている」
「言葉が聞こえても」
一度。
息を吸う。
「死後に起きたことは、ノクスには分かりません」
ミラのとき。
学んだこと。
「そして」
石台の牙を見る。
「この接触によって、残った思いは薄れます」
次に触れれば。
同じだけは聞けない。
「今日、聞けなかったことを」
私は言う。
「明日もう一度聞けばよい、とは考えないでください」
「約束する」
アルフォンス様が言った。
「俺の望む答えが出なくても、二度目を急がせない」
「……ありがとうございます」
ギルベルト様は。
何も言わなかった。
けれど。
昨日のように。
止めもしない。
「では」
私は。
右手の手袋を見る。
指先を。
左手でつまむ。
少しずつ。
引く。
手袋が外れる。
冷たい洞窟の空気が。
裸の皮膚へ触れた。
それだけでは。
何も聞こえない。
当然だ。
私は。
ノクスの声が。
そこら中から聞こえるわけではない。
裸の指を。
牙の上へ近づける。
「リーゼロッテ」
アルフォンス様。
「はい」
「まだ、やめられる」
「はい」
「触れた後でも、すぐ離していい」
「はい」
「何も聞こえなくても」
「それも結果です」
私は答えた。
そして。
指先を。
牙へ触れさせた。
◇
――熱い。
最初に来たのは。
声ではなかった。
「っ……!」
熱。
違う。
炎。
目の前が。
赤く染まる。
洞窟が。
消えた。
――熱い。
――痛い。
翼。
自分の翼ではない。
なのに。
私の背中が裂ける。
「――っ!」
叫んだつもりだった。
声にならない。
炎。
夜。
山道。
黒い翼。
ノクス。
私は。
ノクスの目で見ている。
違う。
そう感じているだけ。
映像。
記憶。
断片。
――走る馬車。
幾つも。
白布。
鉄輪。
車輪。
夜道。
鼻を刺す。
薬品の臭い。
血。
焦げた金属。
――ミラ。
黒い竜。
翼を縛られている。
口元にも。
鉄。
首。
脚。
鎖。
何本も。
太い鎖。
ミラが。
暴れる。
鎖が鳴る。
甲高い。
金属音。
その足元。
小さな影。
ルゥ。
まだ。
とても小さい。
今の姿さえ。
私は知らない。
けれど。
分かる。
ノクスの感情が。
そう告げる。
――子。
――ミラ。
――生きている。
胸の奥へ。
安堵と恐怖が。
同時に流れ込む。
ノクスが飛び込む。
爪。
牙。
鎖。
人の叫び。
炎。
どこから。
誰が。
分からない。
火球が飛ぶ。
ノクスの肩を。
焼く。
痛い。
私の肩が。
焼かれたように痛む。
「リーゼロッテ!」
遠くで。
誰かが呼んだ。
でも。
離せない。
違う。
手を。
動かせない。
指が。
牙へ貼りついたようだった。
――鎖。
今度は。
ノクスの首へ。
何かが飛んでくる。
黒い鉄。
輪。
首に絡む。
引かれる。
地面へ。
落ちる。
岩。
牙。
激突。
――砕ける。
私の口の奥に。
ありもしない衝撃。
左の歯が。
一斉に割れたような痛み。
「――っ、ぁ……!」
牙が折れる。
黒い血。
石。
炎。
人影。
数人。
誰かが叫ぶ。
何と言った。
聞き取れない。
ノクスが立ち上がる。
そして。
見る。
布。
白い外套。
胸元。
紋章。
丸い輪の中に。
翼を広げた竜。
その上。
王冠。
王都で。
見たことがある。
王国の管理機関で使われる。
中央認可を示す意匠。
でも。
違う。
細部が。
見えない。
聖竜院なのか。
王国の輸送隊なのか。
ほかの機関なのか。
――分からない。
それでも。
ノクスの感情が。
燃える。
敵。
奪う者。
返せ。
返せ。
返せ。
声ではない。
怒り。
焦燥。
そして。
その先。
ミラが。
こちらを見る。
拘束されたまま。
翼を広げる。
何を。
する。
炎。
白煙。
叫び。
ミラの尾が。
荷台を叩き割る。
木片。
砕ける檻。
小さなルゥが。
転がり落ちる。
ミラが。
ルゥへ。
顔を押しつける。
押す。
逃げろ。
声はない。
でも。
意味が。
流れ込んでくる。
――行け。
――行け。
――生きろ。
ルゥが。
動かない。
母を見ている。
ノクスが。
吠える。
音ではなく。
感情が。
胸を打つ。
――走れ。
ルゥが走る。
森へ。
小さな黒い体が。
闇へ消える。
ノクスが。
追おうとする。
しかし。
鎖。
引かれる。
翼に。
何かが刺さる。
鉄。
痛い。
痛い。
痛い。
視界が。
赤くなる。
怒り。
恐怖。
安堵。
ミラ。
ルゥ。
アル。
――アル。
初めて。
言葉が。
はっきり聞こえた。
『来るな』
私は。
息を止めた。
『アル』
『来るな』
ノクスの声。
低く。
遠く。
それでも。
確かに。
『あの子を――』
そこで。
何かが。
変わった。
映像が。
歪む。
炎が。
洞窟の壁へ変わる。
ノクスの目ではない。
私の目。
違う。
分からない。
自分が。
どこにいる。
「リーゼロッテ!」
アルフォンス様の声。
近い。
でも。
同時に。
ノクスの記憶の中にも。
アルフォンス様がいる。
若い。
今より。
少しだけ。
笑っている。
ノクスの鼻先を押し返している。
これは。
いつ。
最後ではない。
違う。
思いが。
混ざっている。
まずい。
分かる。
離さないと。
なのに。
指が。
動かない。
――アル。
――ミラ。
――子。
――逃げろ。
――来るな。
――守れ。
――違う。
違う。
どれが。
ノクス。
どれが。
私。
胸が。
痛い。
呼吸が。
できない。
「手を離せ!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間。
私の右腕が。
強く引かれた。
皮膚が。
牙から離れる。
接触が。
切れた。
◇
洞窟が戻る。
石。
黒い骨。
白布。
人。
「……」
息が。
吸えない。
口を開く。
空気は入る。
でも。
声が。
出ない。
「リーゼロッテ」
アルフォンス様。
近い。
私の肩を。
掴んでいる。
いや。
違う。
直接ではない。
上着越し。
片方の手で。
私を支えている。
もう一方。
右手が。
震えている。
「聞こえるか」
私は。
頷こうとした。
でも。
景色が揺れる。
「座らせろ」
医師の声。
「いや、横に」
「意識はある」
「リーゼロッテ様。私が分かりますか」
分かる。
答えたい。
声が。
出ない。
「……」
私は。
左手を上げる。
一本。
指を立てる。
大丈夫。
そう伝えようと。
して。
やめた。
違う。
大丈夫ではない。
指を。
下ろす。
それから。
手のひらを。
少し振った。
「喋れないのか」
医師。
私は頷く。
「喉の痛みは」
首を横に振る。
「息苦しさ」
少し。
迷う。
頷く。
「頭痛」
頷く。
「耳鳴り」
頷く。
「視界」
手を。
揺らす。
「歪む?」
頷く。
「分かった。もう質問しない」
医師が言った。
「横にしてください」
アルフォンス様の腕が。
私の背中へ回る。
違う。
「……」
私は。
彼の袖を。
掴んだ。
首を振る。
「何だ」
伝えたい。
牙。
左牙。
聞いた。
ミラ。
ルゥ。
逃げた。
紋章。
鎖。
そして。
『来るな』
早く。
言わなければ。
忘れる。
声は。
一度。
思いは。
薄れる。
今のうちに。
記録しなければ。
私は。
空いている手で。
記録帳を指した。
アルフォンス様の顔が。
変わる。
「駄目だ」
首を振る。
書く。
今。
書く。
「駄目だ」
もう一度。
「忘れるかもしれません」
声は出ていない。
唇だけが。
動く。
でも。
アルフォンス様には。
意味が伝わったらしい。
「忘れていい」
私は。
彼を見る。
「今は」
アルフォンス様が言う。
「忘れていい」
違う。
駄目。
ノクスの声。
有限。
私が聞いた。
私しか。
「リーゼロッテ」
低い声。
「君まで失うほどの記録なら」
そこで。
一度。
彼の言葉が止まる。
「そんなものは、今はいらない」
胸の奥が。
少しだけ。
揺れた。
でも。
私は。
まだ記録帳へ手を伸ばそうとした。
「リーゼロッテ様」
医師が。
私の手首を取る。
「今のあなたに必要なのは、記録ではなく呼吸です」
「……」
「四つ吸って」
言われる。
「六つ吐く」
やる。
吸う。
吐く。
途中で。
胸が痛む。
ノクスの痛みなのか。
私の痛みなのか。
分からない。
「もう一度」
吸う。
吐く。
視界が。
少し暗くなる。
「目を閉じないで」
医師。
無理。
「リーゼロッテ」
アルフォンス様。
「俺を見ろ」
視線を。
向ける。
灰色の瞳。
アルフォンス様。
今の。
アルフォンス様。
六年前ではない。
ノクスの記憶でもない。
今。
「ここはどこだ」
答えられない。
「分かっているなら頷け」
頷く。
「ノクスの洞窟か」
頷く。
「君の名前は」
息が。
止まる。
名前。
分かる。
リーゼロッテ。
私は。
リーゼロッテ・アルヴァ。
そう。
分かっている。
なのに。
一瞬。
ノクス。
という名前が。
自分のもののように。
頭へ浮かんだ。
違う。
私は。
「……」
怖い。
急に。
怖くなる。
「リーゼロッテ?」
アルフォンス様の声が。
遠くなる。
名前。
私の。
名前。
リーゼロッテ。
母が。
呼んだ。
父が。
呼んだ。
リーゼロッテ。
「リーゼロッテ・アルヴァ」
アルフォンス様が。
はっきりと言う。
「君はリーゼロッテ・アルヴァだ」
そう。
私。
私は。
頷く。
「分かるな」
もう一度。
頷く。
そこで。
緊張が。
一気に切れた。
力が。
抜ける。
「リーゼロッテ!」
倒れる。
床へ。
ではなく。
誰かの腕に。
受け止められた。
でも。
もう。
それが誰なのか。
確認する余裕はなかった。
意識が。
沈む。
最後に。
聞こえたのは。
死者の声ではない。
「医師!」
生きている。
アルフォンス様の声だった。
◇
暗闇へ沈む直前。
最後に浮かんだのは。
炎でも。
鎖でもなかった。
森へ走る。
小さな黒い背中。
ルゥ。
そして。
その背を見送る。
ミラと。
ノクス。
確かなことは。
まだ一つしかない。
六年前。
ルゥは。
両親に逃がされた。
けれど。
誰が彼らを捕らえたのか。
あの紋章が何を意味するのか。
なぜノクスは。
アルフォンス様へ。
『来るな』
と残したのか。
私は。
何一つ。
まだ知らない。
そして。
それを確かめるために。
もう一度すぐ牙へ触れることも。
できない。
ノクスの左牙に残された。
最も鮮明な声の一部を。
私は。
すでに使ってしまったのだから。




