触れられない相棒
アルフォンス様が見つめていた石箱は、ノクスの遺骸から少し離れた場所に置かれていた。
洞窟の入口に近い。
骨を納めた場所よりも、むしろ外へ持ち出しやすい位置だ。
細長い箱。
上から厚い布が掛けられ、その隙間から古びた黒革が覗いている。
「あれが」
私は尋ねた。
「ノクスの鞍ですか」
「ああ」
やはり。
第十四話。
王都でアルフォンス様は言っていた。
自分にも、触れられないものがあると。
それが。
ノクスの鞍だった。
けれど。
話として聞くことと。
目の前で見ることは。
まるで違った。
「見ても?」
私は尋ねる。
アルフォンス様はすぐには答えなかった。
視線だけが石箱へ向いている。
「……構わない」
「私が布を取りますか」
「いや」
短い返事。
そして。
彼自身が石箱へ歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
ノクスの遺骸へ近づく時よりは、足取りが速い。
けれど。
石箱まで残り二歩ほどのところで。
右手が震え始めた。
私は何も言わない。
アルフォンス様も止まらない。
一歩。
あと一歩。
石箱の前へ立つ。
それだけで。
息が浅くなっているのが分かった。
「アルフォンス様」
「大丈夫だ」
また。
言う前に返された。
「ですから、まだ何も言っていません」
「……そうだったな」
彼は右手を上げる。
布の端へ。
指先を伸ばす。
震えている。
ほんの数センチ。
あと少しで届く。
けれど。
その指が。
止まった。
◇
私はアルフォンス様の横顔を見た。
目は布を見ている。
けれど。
きっと見えているのは。
今ここにある石箱ではない。
そう思った。
もちろん。
私は生きた人の心を読めない。
だから。
何が見えているかは分からない。
何を思っているのかも。
本人が話さない限り。
分からない。
ただ。
触れようとした手が。
触れられずに止まっている。
それだけは。
見れば分かる。
「俺がやる」
アルフォンス様が言った。
「はい」
「これは俺のものでもある」
「はい」
竜騎士の鞍。
ノクスが使ったもの。
そして。
その背へ乗ったアルフォンス様も使ったもの。
「だから」
彼は言う。
「俺が開ける」
「分かりました」
私は手を出さない。
少し下がった。
待つ。
アルフォンス様の右手が再び動く。
布へ。
近づく。
あと少し。
けれど。
今度も。
届く前に止まった。
右手の震えが大きくなる。
指が。
布の上で宙を掴む。
「……くそ」
小さな声だった。
初めて聞いた。
アルフォンス様が。
自分自身へ向けて吐いたような言葉。
「六年だ」
彼が言う。
「はい」
「六年経った」
「はい」
「骨も運んだ」
「はい」
「命令書も調べた」
「はい」
「聖竜院にも何度も照会した」
「はい」
「この鞍も」
声が止まる。
私は待つ。
「……ここへ運ばせた」
「運ばせた?」
「ああ」
その言葉が気になった。
「アルフォンス様ご自身ではなく?」
「触れなかった」
私は石箱を見る。
「発見した時から?」
「ああ」
アルフォンス様が。
右手を下ろした。
「ノクスの遺骸を見つけた時、鞍は少し離れた岩場に落ちていた」
「ノクスから外れていた?」
「ああ」
「誰が回収したのですか」
「部下だ」
「アルフォンス様は?」
「見ていた」
「触れずに?」
「ああ」
六年前。
死んだ相棒を見つけた。
そのそばに。
長い間使ってきた鞍が落ちていた。
けれど。
拾えなかった。
「その後も?」
「触っていない」
私は息を止めた。
「一度も?」
「ああ」
そういえば、王都にいた頃にも。
彼は、ノクスの鞍には触れられないと言っていた。
でも私は、どこかで。
遺品を目の前にすれば、いつかは手を伸ばせるのだと思っていた。
違った。
六年間。
一度も。
彼は触れられないと言っていた。
でも。
私はどこかで。
死後、今になって触れられなくなったのだと思っていた。
違った。
六年間。
一度も。
「手入れは」
「騎士団の装具係にさせている」
「定期的に?」
「ああ」
「革が傷まないように?」
「ああ」
触れられない。
それでも。
捨てられない。
腐らせることもできない。
だから。
他人へ頼んで。
六年間。
保存している。
私は。
もう一度。
石箱を見る。
「見せていただくのを、やめますか」
アルフォンス様がこちらを見る。
「君は見なくていいのか」
「見たいです」
「なら」
「でも」
私は言った。
「私が見たいことと、アルフォンス様が触れなければならないことは、別です」
彼の眉がわずかに寄る。
「昨日も同じことを言いましたね」
「ああ」
「何度でも言います」
「……頑固だな」
「アルフォンス様ほどではありません」
反論はなかった。
◇
「オスカー」
アルフォンス様が呼んだ。
「はい」
少し離れていたオスカーが近づく。
「布を取れ」
「承知しました」
それだけ。
オスカーは何も尋ねない。
アルフォンス様に代わり。
布の端を掴む。
ゆっくり。
取り除いた。
現れたのは。
黒い革の鞍だった。
大きい。
人間の馬具とは比べものにならない。
背へ固定するための革帯は何本もあり。
金属の留め具が。
黒革の上に並んでいる。
華美ではない。
宝石も。
金の飾りも。
ほとんどない。
ただ。
長く使われていたことだけが分かる。
革の一部は擦れて。
色が薄くなっている。
縫い目には補修の跡がある。
「ずいぶん古いのですね」
「ああ」
「契約した時から?」
「最初の鞍ではない」
アルフォンス様が答える。
「ノクスが成長して合わなくなった?」
「いや」
一瞬。
間があった。
「俺が成長した」
「あ」
十三歳で出会った。
今は二十八歳。
「なるほど」
「最初のものは、俺が小さすぎた」
「ノクスではなく」
「ああ」
「それを聞くと、少し安心します」
「なぜだ」
「ノクスがどこまで大きくなるのかと思いました」
オスカーが横で咳払いする。
笑いを堪えたらしい。
「笑いたければ笑え」
「滅相もございません」
「顔が笑っている」
「気のせいです」
ほんの少し。
空気が緩んだ。
けれど。
すぐに。
私は鞍へ視線を戻す。
「最後に使ったのは」
「ノクスがいなくなる日だ」
空気が戻った。
「六年前?」
「ああ」
「その日もアルフォンス様が乗った?」
「ああ」
私は鞍へ近づく。
手袋は外さない。
触れもしない。
見るだけ。
黒革の中央。
人が座る部分。
そこだけ艶が違う。
何年も。
同じ人物が座り続けた跡。
前方には。
竜の身体へ固定するための金具。
その一つに。
変形がある。
「ここ」
私は指差した。
「留め具が曲がっています」
「ああ」
「死んだ時に?」
「分からない」
「回収時には?」
「曲がっていた」
また。
分からない。
それでいい。
「革にも傷があります」
鞍の左側。
太い革帯に。
鋭く裂けた跡がある。
「切断?」
オスカーがしゃがむ。
「自然に千切れたようには見えませんね」
「刃物ですか」
「可能性はあります。ただ」
彼は断面を見る。
「六年前のものです。保存状態は良いですが、断定は難しいでしょう」
「記録は?」
「当時の検分書にあります」
アルフォンス様が答えた。
「後で見せてください」
「ああ」
私はさらに鞍を観察する。
右側。
金属製の小さな留め具。
そこに。
黒く焼けたような跡。
「これも高熱?」
「遺骸の尾部と同じ原因かは分からない」
「分析は?」
「当時はできなかった」
「今は?」
「辺境では設備が足りない」
「王都なら?」
「できるかもしれない」
王都。
その一言に。
私は少しだけ考える。
持ち出せば。
調べられる可能性はある。
けれど。
聖竜院と無関係とは言い切れない場所へ。
ノクスの重要な遺品を渡すことになる。
「急いで持ち出すべきではありませんね」
「ああ」
「まず、こちらでできることをしましょう」
「ああ」
◇
鞍の後ろ側に。
小さな革袋が付いていた。
「これは?」
「簡易食」
「ノクスの?」
「俺のだ」
「少し意外です」
「何が」
「アルフォンス様も食事をするのですね」
「俺を何だと思っている」
昨日オスカーへ言ったことを。
今度は自分が言われた。
「辺境伯です」
「人間だ」
「存じています」
「怪しいな」
私は小さく笑った。
でも。
その革袋も。
六年前のまま。
中身は当然処分されているだろう。
袋だけが残っている。
その横。
鞍の縁へ。
細い傷がいくつも付いていた。
規則的ではない。
「この傷は?」
アルフォンス様が。
少し黙る。
「ノクスだ」
「ノクス?」
「あいつは待たされるのが嫌いだった」
「爪?」
「牙」
「鞍を噛んでいたのですか」
「ああ」
「自分が着ける物を?」
「出発が遅いと噛む」
私は鞍を見る。
そこだけ。
浅い歯形が何本も残っている。
「怒っていた?」
「急かしていた」
「違いが分かるのですか」
「分かった」
即答。
私は。
その答えが。
妙に嬉しかった。
死んだノクスの傷ばかりを見ていた。
拘束痕。
裂傷。
焼けた骨。
失われた角。
けれど。
この鞍には。
生きていたノクスの癖がある。
「では」
私は言った。
「これを噛まれた時、アルフォンス様はどうしたのです?」
「殴った」
「ノクスを?」
「鼻先を」
「……竜を殴ったのですか」
「ああ」
「怖くなかったのですか」
「噛み返された」
「それは当然では?」
「俺もそう思う」
オスカーが今度こそ吹き出した。
「オスカー」
「申し訳ございません」
「後で覚えていろ」
「今の話を聞いた後ですと、閣下の脅しもかなり弱く感じますね」
「黙れ」
私は口元を押さえる。
笑ってはいけない場面ではない。
たぶん。
ノクスは。
こういう話をされることまで嫌がりはしない。
もちろん。
死者に確認はできないけれど。
◇
「この鞍には」
私は改めて言った。
「強い思いが残っている可能性があります」
笑いが消える。
アルフォンス様の顔も戻った。
「ああ」
「ノクスが長く使い」
「最後の日にも使った」
「そしてアルフォンス様との契約生活の多くを共にした」
「ああ」
条件としては。
十分すぎる。
能力が反応する可能性は高い。
しかも。
骨とは違う。
鞍は。
ノクスが生きていた時間を長く受け止めている。
死の直前だけではなく。
そこへ至るまでの。
強い感情が。
残っているかもしれない。
「触れるか」
アルフォンス様が聞いた。
私は。
すぐに答えた。
「いいえ」
彼が目を上げる。
「なぜだ」
「まだ早いです」
「昨日は、俺に選べと言った」
「はい」
「これを選んだ」
「そうですね」
「なら」
「選んだことと、今すぐ使うことも別です」
アルフォンス様は黙った。
「思いは有限です」
私は鞍を見る。
「一度聞けば薄くなります」
「ああ」
「おそらく、これはノクスについて最も強い遺品の一つです」
「……ああ」
「だからこそ」
手袋をした手を握る。
「分からないことが多すぎる今、使いたくありません」
四肢の拘束。
胸の傷。
高熱。
失われた骨。
切れた革帯。
曲がった留め具。
誰が。
何のために。
ノクスへ何をしたのか。
ほとんど分からない。
「声を聞いてしまえば」
私は言う。
「私たちは、その声に引っ張られます」
「引っ張られる?」
「はい」
例えば。
ノクスが。
誰かの顔を見せたとする。
私たちは。
その人物が犯人だと思いたくなるかもしれない。
けれど。
その顔は助けに来た人物かもしれない。
ノクスが恨んでいた相手かもしれない。
最後に見ただけかもしれない。
「死者の声へ意味を与える前に」
私は続ける。
「生きている側で調べられることは、先に調べたいです」
「……分かった」
「鞍は最後にします」
「最後?」
「少なくとも、今ある候補の中では」
アルフォンス様が。
鞍を見る。
「俺は早く聞きたいと思っている」
「はい」
「六年待った」
「はい」
「まだ待てと言うのか」
その声には。
怒りではなく。
苦しさがあった。
私は。
簡単に「はい」と言えなかった。
六年。
私には。
その長さを同じようには理解できない。
だから。
「私が六年を軽く扱うことはできません」
私は言った。
「ですが」
一歩。
鞍へ近づく。
「六年待ったからこそ」
手袋越しでも触れない。
その手前で止まる。
「最後の一度を、焦って使いたくありません」
アルフォンス様の目が。
私の手を見る。
「一度目の声が、最も鮮明です」
「……ああ」
「ノクスが何を残したとしても」
私は彼を見る。
「それを都合よく受け取らないための準備をしましょう」
長い沈黙。
やがて。
アルフォンス様が息を吐いた。
「君に頼んだのは」
「はい」
「こういうことだったな」
「どういうことでしょう」
「俺が聞きたいものを聞かせることではない」
第九話。
王都で交わした約束。
俺の望む答えを選ばないでくれ。
「はい」
私は答える。
「その約束は守ります」
「……そうしてくれ」
◇
「では」
私は尋ねた。
「鞍以外の候補を選びましょう」
「候補?」
「はい」
ノクスの声を初めて聞く遺品。
鞍ほど強くなく。
それでも。
ノクス自身の思いが残っている可能性があるもの。
「骨なら」
私は遺骸を見る。
「どの部分でも発動する可能性はあります」
「なら骨でいい」
「ですが」
「何だ」
「ノクスという竜を知る物を、アルフォンス様に選んでほしいという考えは変わりません」
「骨で、か」
「はい」
アルフォンス様の視線が。
黒い遺骸をゆっくり移動する。
頭蓋。
角。
肋骨。
前脚。
翼。
そして。
止まった。
石台の上。
折れた牙。
「それだ」
「牙?」
「ああ」
昨日見た。
途中から折れていた一本。
「理由を聞いても?」
アルフォンス様は。
少しだけ迷った。
「ノクスは」
「はい」
「牙を一本、昔から欠けさせていた」
私は牙を見る。
「戦いで?」
「俺を庇った」
初めて聞く話だった。
「いつですか」
「十年前」
「アルフォンス様が十八歳の頃?」
「ああ」
「何から?」
「崖から落ちた」
「……アルフォンス様が?」
「ああ」
「それをノクスが牙で?」
「服を引っ掛けた」
私は。
少し想像する。
「その時に折れた?」
「いや」
「違うのですか」
「俺を引き上げた後、勢い余って岩に顔をぶつけた」
沈黙。
「……ノクスが?」
「ああ」
「自分で?」
「ああ」
「格好がつきませんね」
「本人も相当怒っていた」
「誰に」
「岩に」
とうとう。
私は笑ってしまった。
「笑うな」
「申し訳ありません」
「ノクスも怒る」
「亡くなった方の感情を勝手に決めてはいけません」
「そうだったな」
けれど。
アルフォンス様も。
ほんの少し。
笑っていた。
悲しそうな笑いではなく。
一瞬だけ。
本当に昔を思い出した顔だった。
「その牙が?」
私は尋ねる。
「同じものですか」
「ああ」
「では、十年前から欠けていた?」
「先端がな」
なるほど。
今回の死の際に根元近くから大きく折れ。
以前から先端も欠けていた。
「アルフォンス様を助けた傷と」
私は呟く。
「ノクスが死んだ時についた傷が、同じ牙に残っている」
「ああ」
「長いですね」
「何が」
「一つの傷にも」
私は黒い牙を見る。
「一つの時だけが残るわけではないのですね」
アルフォンス様は答えなかった。
でも。
その牙を。
長く見ていた。
「では」
私は言う。
「最初の接触候補は、あの牙にします」
「ああ」
「ただし」
「まだ触れない?」
「はい」
アルフォンス様の眉がわずかに動いた。
「今日は遺骸と鞍を確認しただけです」
「十分では?」
「不十分です」
「何が足りない」
「人の証言です」
「俺が話した」
「アルフォンス様一人です」
騎士団。
捜索に参加した者。
遺骸を最初に発見した者。
検分した獣医師。
鞍を回収した者。
救援に出ようとした者。
「ノクスの最後の日を知る生者が」
私は言った。
「まだいます」
アルフォンス様の表情が。
ほんの少し固くなった。
「……いる」
「会わせてください」
「誰に」
「まずは」
私は記録帳を閉じる。
「当時の竜騎士団の方に」
その瞬間だった。
「必要ありません」
洞窟の入口から。
低い声がした。
私たちは振り返る。
一人の男が立っていた。
三十代半ばほど。
灰色の騎士服。
短く切った焦げ茶の髪。
腰には剣。
胸には。
翼を広げた竜の紋章。
辺境竜騎士団。
男の視線は。
私ではなく。
アルフォンス様へ向いていた。
「ギルベルト」
アルフォンス様の声が。
冷える。
男は一度だけ頭を下げた。
「辺境竜騎士団副団長、ギルベルトです」
そして。
今度こそ。
私を見た。
歓迎する者の目ではなかった。
「王都から竜葬師を連れてきたと聞きました」
「まだ正式な竜葬師ではありません」
私は訂正する。
「なら、なおさらだ」
即答だった。
彼は。
石台の折れた牙を見る。
次に。
ノクスの鞍を見る。
最後に。
私の手袋を見る。
「その女に」
ギルベルトは言った。
「ノクスを触らせるおつもりですか」
洞窟の中で。
アルフォンス様の右手が。
また。
小さく震えた。




