私の子を返して
翌朝。
昨日見つけた黒竜の肋骨について、三冊の記録が机の上に並んでいた。
場所は、レムの宿場に併設された古い竜騎士団詰所。
窓の外には、薄く雪が降っている。
昨夜のうちにアルフォンス様が人を走らせ、谷の管理記録と六年前の搬入記録を取り寄せてくれた。
「まず、分かっていることだけ確認します」
私は紙と筆を用意した。
アルフォンス様。
オスカー。
谷の管理を担当している騎士。
アンナ。
私を含め、五人が机を囲んでいる。
「昨日の肋骨が谷へ移されたのは、六年前」
「ああ」
アルフォンス様が答える。
「ミラとルゥが失踪した年ですね」
「ああ」
「正確な日付は?」
管理騎士が記録を確認する。
「王暦四百十二年、冬至から八日後です」
私は筆を止めた。
「八日後……」
王都で確認した記録を思い出す。
聖竜院北部管理局がBK・四七二という番号を発行したのも、王暦四百十二年。
ミラとルゥが失踪してから四日後だった。
「骨が発見された場所は?」
「竜骨の谷ではありません」
「どこですか」
「旧北部街道の第三崖下です」
管理騎士が地図を広げる。
竜骨の谷より、かなり北。
聖竜院北部管理局へ続いていた旧街道の途中だった。
「なぜ、そこに竜の肋骨が?」
「発見時の報告があります」
別の紙が差し出された。
古い写しだ。
文字は薄れているが、読むことはできる。
――雪解け後の崖下にて、木箱の破片を発見。
――付近より黒竜と思われる肋骨一本を回収。
――骨の一端に人工的な切断痕あり。
――木箱には聖竜院の輸送印。
「木箱に入れられていた?」
「その可能性が高い」
アルフォンス様が答える。
「箱そのものは壊れていた。崖から落ちたのか、途中で捨てられたのかは分からない」
「骨だけが?」
「記録上は」
私は次の行を読む。
――表面に加工番号と思われる刻印。
その下に、番号が写されていた。
BK・四七二。
そして、その後ろに小さく。
R―3。
室内が静かになる。
「同じですね」
私が言った。
夜会で触れた竜骨細工。
その内側に刻まれていた番号。
BK・四七二。
「Rは何を意味するのでしょう」
「聖竜院へ照会したが、回答はない」
アルフォンス様が言う。
「部位を示す記号だと考える者もいる」
「Rib。肋骨?」
「推測にすぎない」
「はい」
私は紙へ書き込む。
――BK・四七二―R3。
意味は不明。
断定しない。
「ですが、BK・四七二が同じなのは偶然でしょうか」
アンナが尋ねた。
「偶然ではない可能性は高いと思います」
私は答える。
「ただし、この番号が一頭の竜へ付けられたものなのか、一つの搬送単位に付けられたものなのかは、まだ分かりません」
王都の台帳では。
BK・四七二には、黒竜の胸骨、肋骨、翼骨が記されていた。
「この肋骨が、その中の一本なら」
オスカーが言う。
「夜会の竜骨と同じ個体ということになりますね」
「記録が正しい部分については」
私は付け加える。
台帳の日付は改竄されていた。
それなら、部位や個体についても、すべてを信用することはできない。
「骨から分かることは?」
アルフォンス様が管理騎士へ尋ねる。
「昨夜、騎士団付きの獣医師に確認させました」
竜を診ていた者は、現在では獣医師と呼ばれることが多い。
竜騎士団そのものが縮小し、竜専門の治療師も減っているためだ。
「成体の黒竜。体格から見て、比較的大型。肋骨の湾曲と厚さから、雌の可能性が高いとのことです」
「年齢は?」
「二十年以上。正確には不明です」
黒竜。
成体。
雌。
BK・四七二。
六年前。
条件が一つずつ重なる。
「ミラの可能性は」
私はアルフォンス様を見る。
彼はすぐには答えなかった。
「高いと思う」
「断定は?」
「できない」
「はい」
私もうなずく。
名前が見つかったわけではない。
血を比べる術もない。
そして。
私が声を聞いたとしても、それだけで公的な証明にはならない。
「もう一つ」
アルフォンス様が紙を差し出した。
「切断痕についてだ」
図が描かれている。
肋骨の根元側。
本来なら他の骨とつながっていた部分が、不自然なほど平らに切られている。
「刃物ですか」
「大型の骨切断器具」
オスカーが図を見る。
「治療用ではありませんね」
「竜骨加工場で使われる形と似ている」
アルフォンス様が言った。
自然死した竜が谷で骨になったのなら、この形にはならない。
少なくとも。
誰かが切った。
誰かが箱へ入れた。
誰かが運んだ。
「この骨は」
私はゆっくり言った。
「一度、谷の外へ持ち出されたのではありません」
全員が私を見る。
「最初から、谷で亡くなった竜の骨ではない可能性があります」
「そう考えている」
アルフォンス様が答える。
「どこかで死んだ黒竜を加工し、輸送していた。その途中で箱が壊れ、一本だけ落ちた」
「そして辺境の騎士が回収し、竜骨の谷へ戻した」
「ああ」
「名前も分からないまま」
「ああ」
名を失った竜。
母の弔い帳にあった言葉が浮かぶ。
「当時、BK・四七二を調べなかったのですか」
「調べた」
「結果は?」
「聖竜院からは、自然死した黒竜の正規搬送品だという回答が届いた」
「信じた?」
アルフォンス様の右手が、わずかに震えた。
「完全には」
「それでも、それ以上は?」
「追えなかった」
短い返事だった。
「その頃には、ノクスの捜索も続いていた」
ミラ。
ルゥ。
ノクス。
三頭の行方を同時に追っていた時期。
アルフォンス様一人の判断だけで、すべての記録を調べられたとは思わない。
それでも。
今は、その話を掘り下げる時ではない。
「骨へ触れる前に確認したかったのは以上です」
私は記録を閉じた。
「接触するのか」
アルフォンス様が尋ねる。
「はい」
「今?」
「はい」
条件は揃えた。
記録を読んだ。
発見場所を確認した。
加工痕も確認した。
「声が聞こえても、個体を断定する証拠にはしません」
「ああ」
「私が何かを見ても、その映像が実際に起きた順番と一致するとは限りません」
「ああ」
「死者の思い込みも含まれます」
「分かっている」
「それから」
私はアルフォンス様の目を見る。
「私が聞きたい答えが聞こえるとは限りません」
「それも分かっている」
「ミラではない可能性も」
「ああ」
「ミラであっても、あなたが望まない言葉を残している可能性があります」
「ああ」
「それでも?」
アルフォンス様は少しだけ間を置いた。
「聞こえたままを教えてくれ」
王都で初めてノクスの弔いを頼まれた時、アルフォンス様は一つだけ私へ求めた。
――俺の望む答えを選ばないでくれ。
死者の声を、彼にとって都合のよい答えへ変えないこと。
それが、私たちが最初に交わした約束だった。
私はうなずいた。
「分かりました」
俺の望む答えを選ばないでくれ。
私はうなずいた。
「分かりました」
◇
谷へ戻ったのは、昼前だった。
昨日よりも空が低い。
風は弱いが、細かな雪が舞っている。
昨日見つけた黒竜の肋骨の周囲には、目印となる縄が張られていた。
他の骨を誤って踏まないよう、騎士たちが木板で細い足場も作っている。
「触れるのは一本だけです」
オスカーが言った。
「分かっています」
「接触後、私が許可するまで他の物へ素手で触れない」
「はい」
「手袋を外すのは右手だけ」
「はい」
「頭痛、耳鳴り、吐き気、視界の異常。どれか一つでも出たら、すぐ言う」
「はい」
「『大丈夫です』は禁止」
「そこまで言われる覚えが」
「あります」
アンナまでうなずいた。
「……分かりました」
骨から少し離れた場所に、記録用の机が用意されている。
アンナが筆を持つ。
「聞こえた言葉を、そのまま申し上げます」
私は言った。
「解釈は後にします」
「承知しました」
アルフォンス様は私の少し後ろに立った。
近すぎず。
遠すぎない場所。
「止めてほしい時は言ってください」
私が告げると、彼は首を横に振った。
「決めるのは君だ」
私は黒い肋骨の前へしゃがんだ。
近くで見ると、昨日より加工痕がはっきり分かる。
表面には細かな傷。
自然に風雨で付いたものではない。
何か硬い物と擦れたような直線の傷が何本も走っている。
そして。
骨の内側。
薄く削られた文字。
BK・472―R3。
「確認しました」
アンナが記録する。
私は右手を見る。
黒い手袋。
留め具へ左手をかける。
母の弔い帳を前にした時は、これが外せなかった。
今も怖い。
けれど、怖さの種類が違う。
母の声を聞くことは、自分自身の傷へ触れることだった。
この骨へ触れることは。
知らない誰かの死へ、こちらから手を伸ばすことだ。
「リーゼロッテ嬢」
アルフォンス様が呼ぶ。
「はい」
「今なら、やめてもいい」
「分かっています」
「確認しただけだ」
「ありがとうございます」
私は留め具を外した。
右手の手袋を抜く。
冷たい風が、素肌へ触れる。
まだ、何も聞こえない。
当然だ。
死者の遺品へ直接触れなければ、能力は発動しない。
私は手を伸ばした。
肋骨まで。
あと少し。
一度触れれば。
残された思いは薄くなる。
戻せない。
「触れます」
誰に向けるでもなく告げた。
指先が。
黒い骨へ触れた。
◇
寒い。
最初に来たのは、声ではなかった。
凍えるような寒さ。
けれど谷の冬ではない。
もっと狭い。
暗い。
体の横に、硬いものが当たっている。
動けない。
翼を広げられない。
首が痛い。
前脚。
後脚。
何かが食い込んでいる。
鉄。
革。
鎖。
鼻の奥へ、血の匂いが流れ込む。
「っ……」
自分の息なのか。
誰かの息なのか分からない。
暗闇が揺れる。
木の壁。
細い隙間から流れ込む白い光。
車輪の音。
人間の声。
知らない言葉ではない。
けれど、意味を聞き取る余裕がない。
遠くで。
高い鳴き声。
幼い竜。
胸の奥を引き裂くような焦りが流れ込む。
子ども。
小さな黒い背中。
走る。
追われる。
白い布。
人間の腕。
光。
王都。
王都へ。
連れていかれる。
違う。
返して。
あの子を。
私の――
声が来た。
『私の子を、王都から返して』
夜会と。
同じ声だった。
「……っ」
指を離す。
景色が戻った。
灰色の空。
白い骨。
アルフォンス様。
アンナ。
オスカー。
足元が少し揺れた。
「座って」
オスカーの声。
「まだ――」
「座る」
腕を支えられる。
用意されていた椅子へ腰を下ろした。
「右手は?」
「冷たいです」
「頭痛」
「少し」
「耳鳴り」
答えようとした時。
キィン、と高い音が右耳の奥で鳴った。
「……あります」
「吐き気」
「ありません」
「味覚」
水を渡される。
口に含む。
「味が」
「ない?」
「薄いです」
夜会の後と似ている。
けれど、あの時ほど強くはない。
「もう触らない」
「分かっています」
「今日は能力使用終了」
「はい」
オスカーが私の右手を布で包む。
指先は、自分のものではないように冷たい。
それでも意識ははっきりしている。
「記録を」
私はアンナを見る。
「お嬢様、少し休んでからでも」
「言葉が変わる前に」
記憶は、後から自分の解釈に引っ張られる。
最初に聞いたものを、そのまま残さなければならない。
アンナが筆を構える。
「最初は、寒さ」
私はゆっくり話した。
「狭い場所です。木箱か、荷車のような場所」
筆が走る。
「体を拘束されています。鉄と革。鎖の感触」
「映像は?」
「木の壁。隙間から白い光。車輪の音」
アルフォンス様が何かを言いかけた。
けれど、止める。
私が話し終えるまで待っている。
「幼い竜の鳴き声」
彼の右手が震えた。
「小さな黒竜の背中が見えました」
「顔は?」
アンナが尋ねる。
「はっきりとは」
「他には?」
「白い布。人間の腕。王都」
私は一度、目を閉じる。
「ただし、王都の景色を見たわけではありません」
「どういう意味ですか」
「王都という認識が流れ込んできました」
実際に見ていた場所なのか。
そう思い込んでいたのか。
分からない。
「そして、言葉」
喉が乾く。
「一文です」
アンナが筆を止め、待つ。
私は聞こえた通りに言った。
「『私の子を、王都から返して』」
風が止んだように感じた。
誰も話さない。
アルフォンス様の顔から、表情が消えている。
「同じなのか」
彼が尋ねた。
「夜会の竜骨と?」
「はい」
「声も?」
「同じだと思います」
「思う?」
「完全に同一だと証明する方法はありません」
私は布に包まれた右手を見る。
「ですが、私には同じ声に聞こえました」
「感情は」
「強い焦りと恐怖」
そして。
「子どもを探しています」
「ミラ……」
アルフォンス様が呟く。
「まだ断定はできません」
「分かっている」
「ただ」
私は黒い肋骨を見る。
BK・四七二。
黒竜。
雌。
六年前。
同じ声。
同じ言葉。
「夜会の胸骨と、この肋骨が同じ竜のものだと考える根拠は、かなり増えました」
「ああ」
「そして、その竜がミラである可能性も」
「ああ」
アルフォンス様は目を閉じた。
長い間。
何も言わなかった。
「子を返して」
やがて。
彼は低く繰り返した。
「王都から」
「はい」
私は答える。
アルフォンス様の眉が寄る。
「それは、おかしい」
私は彼を見る。
「何がですか」
「ルゥは」
右手の震えが大きくなる。
「王都にはいなかった」
耳鳴りの向こうで、その言葉だけがはっきり聞こえた。
「どういう意味ですか」
「六年前」
アルフォンス様が黒い骨を見る。
「ミラとルゥが消えた三日後だ」
「三日後?」
「ああ」
「BK・四七二の番号が発行される前ですね」
「そうだ」
胸がざわつく。
「ルゥを見たのですか」
「俺が見た」
アルフォンス様の答えは、迷いがなかった。
「どこで?」
「グレイヴ領北部の黒杉の森だ」
聖竜院北部管理局から、山を越えた南側。
辺境伯領の中。
「本当に、ルゥだったのですか」
「ああ」
「似た幼竜ではなく?」
「間違えない」
アルフォンス様の声が少し強くなる。
「ノクスとミラが俺の前へ連れてきた時から知っている」
彼は続けた。
「右前脚に、幼い頃につけた傷がある」
「傷?」
「崖から落ちた時のものだ。鱗が三枚だけ、白く生え変わった」
「それを確認した?」
「ああ」
「距離は?」
「二十メートルもなかった」
「他の方も見ていますか」
「騎士が二人」
生きている証人がいる。
「ルゥの状態は?」
「傷だらけだった」
アルフォンス様の声が低くなる。
「後ろ脚に壊れた拘束輪が残っていた」
私が先ほど受け取った感覚。
鉄。
革。
鎖。
「俺が名前を呼んだ」
「ルゥは?」
「逃げた」
アルフォンス様の表情は動かない。
「俺を見た瞬間、怯えた」
「追ったのですか」
「ああ」
「捕まえられなかった?」
「二日追った」
森に血痕。
折れた枝。
小さな黒い鱗。
途中までは痕跡が続いた。
けれど、岩場で途切れた。
「それから一度も?」
「姿を直接確認できていない」
「では、今も生きているかは」
「分からない」
夜会の翌日、アルフォンス様は「ルゥは生きている可能性がある」と言っていた。
その理由を、ようやく理解した。
ミラとルゥが姿を消した三日後。
彼自身が、グレイヴ領の森でルゥを目撃していたのだ。
「ですが」
私は確認する。
「少なくとも、ミラとルゥが失踪した三日後には」
「ああ」
「ルゥは王都ではなく、グレイヴ領へ戻っていた」
「そうだ」
黒い肋骨を見る。
先ほど聞いた声が、耳の奥で繰り返される。
――私の子を、王都から返して。
「おかしい」
アルフォンス様がもう一度言った。
「ミラが、ルゥと一緒に捕まったのなら」
「はい」
「ルゥが逃げたことを知っていてもおかしくない」
「一緒に逃げたとは限りません」
「だが、この声は王都にいると思っている」
「そう聞こえました」
「なら、声が間違っているのか」
その問いに。
私はすぐには答えなかった。
死者は、意図的に嘘をつかない。
けれど。
死者の誤解。
恐怖。
思い込み。
知らなかったこと。
それらまで正しくなるわけではない。
「まだ、分かりません」
私は答えた。
「ミラだと仮定することも」
「……ああ」
「この声が、いつの時点の認識なのかも」
アルフォンス様が私を見る。
「いつ?」
私は口を開きかけた。
そこで止まった。
聞いた言葉。
見えた映像。
それ以上のことは、まだ私の推測だ。
「今は、聞こえた内容だけ記録しましょう」
「だが」
「考えるのは、その後です」
私はアンナを見る。
「最後に一文、追加してください」
「はい」
アンナが筆を構える。
「死者の声と、確認されている事実に食い違いあり」
筆先が紙の上を動く。
「声では、子は王都にいると認識しているように聞こえた」
次の行。
「生者の証言では、その三日前後に、ルゥはグレイヴ領内で目撃されている」
アンナが書き終える。
「結論は?」
尋ねられる。
「書きません」
私は答えた。
「まだ、分かりませんから」
今まで。
死者の声は不完全だと、何度も説明してきた。
証言であり。
真実そのものではないと。
けれど。
実際に、聞こえた言葉と生きている者の記録が正面から食い違ったのは、初めてだった。
夜会で聞いた。
子を返して。
私はあの言葉を、今までずっと。
どこかで「今も子どもが囚われている」という訴えとして受け取っていた。
けれど。
もし。
死者が知らないことまであるのなら。
声が教えてくれるのは。
世界で起きたすべてではない。
その者が。
死ぬまでに見た世界だけなのかもしれない。
黒い肋骨は何も語らない。
一度目の思いを私へ渡し。
再び、ただの骨へ戻っている。
その向こうで。
六年前。
一頭の幼い黒竜は確かに辺境へ逃げ帰っていた。
それなのに。
母竜の声は。
今も私の耳の奥で叫んでいる。
――私の子を、王都から返して。




