竜骨の谷
白い谷は、翌朝になっても白いままだった。
昨夜泊まったレムの宿場から、谷までは馬車で半日ほど。
出発する頃には薄い雪が降り始めていたが、遠くに見える谷の白さは、それとは明らかに違っていた。
「本当に、雪ではないのですね」
馬車の窓から山間を見つめながら、私は言った。
「ああ」
向かいに座るアルフォンス様が答える。
「雪なら、もっと白い」
「十分白く見えます」
「近づけば分かる」
それ以上、彼は説明しなかった。
昨日、あそこを竜骨の谷と呼んだ。
名前だけなら聞いたことがある。
母の弔い帳にも、古い記録の中に何度か登場していた。
けれど、詳しいことまでは書かれていなかった。
――北の谷へ還す。
――遺骨を谷へ納める。
――竜脈への帰還を確認。
そんな短い記述だけだった。
「昔から、竜を葬る場所だったのですか」
尋ねると、アルフォンス様はうなずいた。
「人間が決めた墓地ではない」
「竜自身が?」
「ああ。老いた竜や、傷を負って飛べなくなった竜が、昔からあの谷へ向かった」
「死ぬために?」
「そう言われている」
「確認されたことは?」
「竜騎士たちの記録が残っている。契約竜が最期に谷へ向かい、騎士だけを途中で降ろした例もある」
人間に看取られることを望まなかった竜もいたのだろうか。
あるいは、竜なりの弔い方があったのかもしれない。
「では、谷にある骨はすべて自然死した竜のものですか」
「違う」
アルフォンス様の答えは早かった。
「戦で死んだ竜。人間に殺された竜。同族との争いで死んだ竜。病で死んだ竜も運ばれた」
「運んだのは人間ですか」
「人間だけではない。昔は、生きた竜が死んだ仲間を運んだ記録もある」
竜は常に穏やかな存在ではない。
縄張りを争い、人間を襲う竜もいた。
その事実を消して、すべての竜を犠牲者として語ることも違うのだろう。
「それでも、骨は土地へ還っていたのですね」
「ああ」
アルフォンス様が窓の外を見る。
「以前はな」
その一言が気になった。
「以前は?」
「竜脈が生きていた頃、骨は何十年もかけて土へ沈んだ」
「腐るのですか」
「人間の骨とは違う。竜の骨に残った魔力が土地へ流れ、少しずつ脆くなる」
「そして土へ還る」
「ああ」
「今は?」
アルフォンス様は答えなかった。
答えの代わりに、窓の外へ視線を向ける。
私も見る。
谷が近づいていた。
◇
馬車が止まったのは、谷の入口から少し離れた場所だった。
「ここから先は歩く」
アルフォンス様が言った。
「馬車では入れないのですか」
「入れない方がいい」
「道が悪いから?」
「骨を踏む」
その言葉だけで、背筋が冷えた。
馬車を降りる。
風が冷たい。
雪はいつの間にか止んでいた。
空は灰色で、山の間を抜ける風が外套を揺らす。
アンナも後ろから降りようとしたが、アルフォンス様が止めた。
「谷へ入るのは最小限にする」
「なぜですか」
私が尋ねる。
「足場が悪い。それに」
アルフォンス様の視線が、私の手へ向く。
「遺骨が多すぎる」
私は黒い手袋を確認した。
「素手では触れません」
「分かっている」
「ならば、能力は発動しません」
「それでも事故は起きる」
転倒し。
手袋が破れ。
骨へ素手で触れる。
あり得ない話ではない。
多数の死者の思いが残った物へ同時に触れれば、自分と死者の記憶の区別がつかなくなる危険がある。
一頭でも強い思いは危険だ。
この谷で何頭もの思いが一度に流れ込めば。
想像するだけで、指先が冷たくなる。
「私も同行します」
オスカーが薬箱を持って馬車から降りた。
「治療師がいても、触れればどうにかなるものではないぞ」
アルフォンス様が言う。
「承知しています。だから触れる前に止めるために行きます」
「先生」
「あなたは黙ってください」
まだ何もしていない。
そう言おうとして、やめた。
おそらく言えば、余計に警戒される。
「アンナはここで待っていてください」
「嫌です」
「即答ですか」
「お嬢様を一人にしないために来ました」
「一人ではありません」
アルフォンス様。
オスカー。
護衛の騎士たち。
「それでもです」
アンナは譲るつもりがなさそうだった。
結局、谷へ入るのは私、アルフォンス様、オスカー、アンナ。
それからグレイヴ家とアルヴァ家から騎士を一人ずつ。
六人となった。
「多いですね」
「あなたが転んだ時に、六人で止められます」
オスカーが言う。
「転ぶ前提で話さないでください」
◇
谷の入口には、石の柱が二本立っていた。
門はない。
柵もない。
ただ、古い竜の文字が刻まれている。
「何と書いてあるのですか」
「正確な意味は分かっていない」
アルフォンス様が答える。
「竜の文字なのに?」
「人間が読める文字と、竜同士が使った古い記号は別だ」
「推測は?」
「『ここより先へ持ち出すな』」
私は柱を見る。
「骨を?」
「そう解釈されている」
「守られていたのですか」
「昔は」
また、その言葉。
昔は。
谷へ持ち込まれた竜の遺骨は、外へ持ち出さない。
それが人間と竜の間で守られていた決まりだったのだろう。
「竜骨魔石が使われ始めてからは?」
私が尋ねると、アルフォンス様の表情が硬くなった。
「後で話す」
今は、まず見ろということなのだろう。
私はうなずいた。
石柱の間を通る。
その瞬間。
足が止まった。
遠くから見えていた白い地面。
雪ではなかった。
骨だった。
一本や二本ではない。
谷の斜面。
地面。
岩の間。
見える限りの場所に、白い骨が散らばっている。
人間の背丈より長い肋骨。
大木の幹ほど太い脚の骨。
岩のように横たわる頭蓋骨。
折れた角。
牙。
翼を支えていた、細長い骨。
古いものは灰色に変色し、苔が生えている。
比較的新しいものは、まだ象牙のような色を残していた。
白い。
だから、遠くからは雪に見えた。
「これが……全部」
「竜だ」
アルフォンス様の声が聞こえる。
何頭いるのか。
数えることさえできない。
私は一歩も動けなかった。
夜会の竜骨細工とは違う。
あれは磨かれ。
加工され。
美しい装飾品として壁に飾られていた。
ここにあるのは、その前の形だ。
誰かの翼。
誰かの脚。
誰かが食べ物を噛んだ牙。
誰かが子どもを守るために広げた肋骨。
生きていた体の一部。
「お嬢様」
アンナが、小さく私を呼んだ。
「戻りますか」
アルフォンス様が尋ねる。
私は彼を見る。
「まだ、谷へ入っていません」
「入口には立っている」
「そうではなく」
視線を前へ戻す。
ここで引き返してもよい。
誰も責めないだろう。
アルフォンス様も、無理に入れとは言わない。
父との約束にもある。
危険を感じれば、何もできていなくても戻ってよい。
怖い。
はっきり、そう思った。
母の弔い帳とは別の怖さだった。
帳面は、母一人の声を聞く怖さ。
ここには、数え切れないほどの死がある。
手袋一枚の向こう側に。
「少し、時間をください」
「ああ」
誰も急かさなかった。
風が谷を通り抜ける。
骨と骨の隙間を抜ける音がした。
笛のようにも。
誰かの息のようにも聞こえた。
もちろん、声ではない。
私は何にも素手で触れていない。
ただの風だ。
それでも、全身が緊張していた。
「怖いです」
私は口にした。
アンナがこちらを見る。
オスカーは何も言わない。
アルフォンス様も。
「ですが」
私は続ける。
「怖いから見ない、とは決めたくありません」
「入るのか」
「はい」
「俺が先に歩く」
アルフォンス様が一歩進もうとする。
「待ってください」
彼が止まる。
「私が先に行きます」
「危険だ」
「先頭という意味ではありません」
言葉を選ぶ。
「連れていかれる形で、最初の一歩を踏みたくないのです」
アルフォンス様の視線が私へ向く。
「自分で入ると決めました」
手袋を確認する。
留め具は閉じている。
破れもない。
「足元だけ、教えてください」
「分かった」
アルフォンス様は前へ出ず、私の斜め後ろへ下がった。
私は谷を見る。
一歩。
土を踏む。
まだ骨はない。
二歩。
三歩。
足元に、小さな白いものが落ちていた。
指ほどの大きさ。
「これは?」
「牙だ」
アルフォンス様が答える。
「幼竜の?」
「おそらく乳歯だ」
自然に抜けたものか。
死んだ竜から落ちたものか。
見ただけでは分からない。
私は跨いで進む。
次には、細い骨。
その先には、大きな肋骨。
一歩ずつ。
踏まないように。
触れないように。
歩く。
骨の間に、青い小さな花が咲いていた。
「植物が」
「谷の入口だけだ」
アルフォンス様が言う。
「奥へ行くほど生えなくなる」
竜脈が弱っているからだろうか。
あるいは、残された魔力が濃すぎるのか。
まだ分からない。
「この骨は、誰のものか分かっているのですか」
大きな頭蓋骨の横で尋ねる。
「一部は」
「記録が?」
「ああ。竜騎士と契約していた竜は名前が残っている」
「野生の竜は?」
「ほとんど分からない」
母の弔い帳にあった言葉を思い出す。
――名を奪われた者。
「名前が分からない竜へ、勝手に名を付けることはしないのですね」
「ああ」
「お母様と同じです」
「セレーネ夫人が?」
「弔い帳にそう書かれていました」
アルフォンス様は骨へ視線を落とす。
「昔は、竜葬師が谷の記録を作っていたらしい」
「母も?」
「来たことはある」
「十八年前の黒竜ですね」
「ああ」
その黒竜の骨が、この中にあるのだろうか。
母が聞いた声。
母が行った弔い。
私が知らない時間が、この谷にも残っている。
「この谷の骨を、聖竜院が持ち出したことはありますか」
尋ねると、アルフォンス様の足が止まった。
「ある」
風の音が大きく聞こえた。
「いつからですか」
「正確には分からない」
「記録は?」
「公式には、自然に落ちた骨と、所有者のいない古い遺骨だけだ」
「所有者?」
「人間側の呼び方だ」
アルフォンス様の声に、わずかな硬さがあった。
「契約竜ではなく、誰の財産とも記録されていない骨」
「竜自身のものではないのですか」
「ああ」
「それを、所有者なしと?」
「王都の法では」
私は巨大な肋骨を見る。
死ねば、持ち主がいない。
だから使ってよい。
人間が人間の都合で作った理屈だった。
「グレイヴ家は認めたのですか」
「最初は、自然に外れた骨だけだと説明された」
「それなら」
「当時は、俺も問題だと思わなかった」
自然に抜けた鱗や乳歯。
意思によって与えられた素材。
そうしたものを利用することまで、私は否定するつもりはない。
「途中から変わった?」
「持ち出される量が増えた」
「止めなかったのですか」
アルフォンス様の顔が硬くなる。
「止められなかった」
言い直した。
「止めなかった時期もある」
私は彼を見る。
「その話は、また聞かせてください」
「今、責めないのか」
「今聞けば、谷を見ることより、あなたを責めることに気持ちが向きます」
「それでは駄目か」
「順番を決めたいのです」
まず見る。
次に記録を読む。
それから、生きている者の話を聞く。
死者の声へ触れるのは、その後だ。
「分かった」
アルフォンス様はそれ以上話さなかった。
◇
谷の中央へ近づくにつれ、土が見えなくなっていった。
骨。
骨。
骨。
歩く場所だけ、人の手で細い道が作られている。
「ここは、誰が整備を?」
「騎士団だ」
「骨を動かしたのですか」
「最小限だけ」
「なぜ道を?」
「弔いに来る者がいる」
「竜の?」
「人間の遺族も」
意味が分からず、振り返る。
「竜に殺された者の家族だ」
「なぜ、その方々が竜の墓地へ?」
「死んだ竜を確認したい者もいる」
アルフォンス様は静かに答える。
「家族を殺した竜が本当に死んだのか、自分の目で見なければ終われないと言う者もいる」
竜を悼む者だけが来る場所ではない。
憎んでいる者も来る。
死を喜んだ者もいたかもしれない。
「それも、弔いなのでしょうか」
思わず呟く。
「君が決めることでは?」
「私にも分かりません」
死者を愛していなければ、弔えないわけではない。
許していなければ、区切りを作れないわけでもない。
「ただ」
私は言った。
「ここへ来た人が、竜を許さなければならないとは思いません」
「竜が被害者でも?」
「一頭ずつ違います」
人間を守った竜。
人間に殺された竜。
人間を殺した竜。
命令されて暴れた竜。
自分の意思で襲った竜もいたはずだ。
「死んだから善良だったことにするのも、死者の声を都合よく使うことになります」
「ああ」
さらに進む。
やがて、谷の一角に石碑が見えた。
新しいものではない。
表面は風雨で削られている。
いくつもの名前が刻まれていた。
人間の文字。
竜の名。
「契約竜の名前ですか」
「そうだ」
アルフォンス様が石碑の前へ立つ。
指先で文字には触れない。
ただ、一つの場所を見つめた。
私も視線を追う。
そこに。
名前はなかった。
「ノクスの名は?」
「ここには刻んでいない」
「なぜですか」
アルフォンス様の右手が震える。
「まだ、弔っていないからだ」
六年。
遺骨は見つかった。
それでも、名前を石へ刻めなかった。
終わったと認めるように感じたのだろうか。
鞍へ触れられないことと同じように。
「ノクスの遺骨は、この谷の中に?」
「もっと奥だ」
「今日、見に行けますか」
「行かない」
意外な返事だった。
「なぜですか」
「今日は、谷を見るだけにすると決めていた」
「私はまだ疲れていません」
「そういう問題ではない」
「では」
「一度に全部を見る必要はない」
母の弔い帳を前にして、どうしても手袋を外せなかった時。
アルフォンス様は、無理に触れる必要はないと言ってくれた。
今も同じなのだ。
今すぐ、すべてを知ろうとしなくてもいい。
私は先を急ごうとする自分に気づく。
「分かりました」
素直に答えると、オスカーが私を見た。
「何ですか」
「いえ。ようやく学習したのかと思いまして」
「失礼です」
アンナが小さく笑う。
私は少しだけ息を吐いた。
こんな場所で笑うことに、一瞬罪悪感が浮かぶ。
けれど。
死者の前で、生きている者が笑ってはいけないわけではない。
そう思い直した。
「戻りましょう」
私は自分から言った。
アルフォンス様がわずかに目を見開く。
「いいのか」
「今日は谷を見る日なのでしょう」
「ああ」
「なら、目的は果たしました」
本当は、もっと見たい。
ノクスの遺骨も。
母が十八年前に弔った黒竜も。
ミラにつながるものも。
けれど、好奇心と必要性を混同してはいけない。
遺品に触れない時でも。
止まることはできる。
「帰ります」
「ああ」
私たちは来た道を戻り始めた。
◇
谷の入口まで、あと少し。
その時だった。
「待ってください」
私の足が止まった。
道の端。
灰色に変色した骨の間に、一本だけ色の違う骨があった。
黒い。
完全な黒ではない。
煤で焼けたような暗い灰色。
長く湾曲した骨。
「肋骨でしょうか」
アルフォンス様が、私の視線の先を見る。
次の瞬間。
彼の表情が変わった。
「触るな」
「触りません」
私は両手を上げる。
手袋は着けたままだ。
けれど、アルフォンス様はその骨から目を離さない。
「ご存じなのですか」
「……いや」
答えが遅れた。
「知らない?」
「ここにあるとは知らなかった」
意味が違った。
「誰の骨ですか」
アルフォンス様は骨へ近づく。
けれど、一歩手前で止まった。
騎士の一人を呼ぶ。
「この区画の記録を」
「はい」
騎士が携帯していた帳面を開く。
谷にある骨の位置と、確認された由来を記したものらしい。
頁をめくる。
「この付近は……六年前、北側斜面の崩落後に露出した遺骨を移した区画です」
「個体は」
「不明です」
「黒竜ではないのか」
「記録には、種別不明と」
アルフォンス様の眉が寄る。
「なぜだ」
「搬送時の担当記録を確認しなければ」
「その骨だけ、まだ新しい」
オスカーが言った。
私もそう感じていた。
周囲の骨は長い年月で色が抜け、灰白色になっている。
けれど、この肋骨は表面が黒い。
「焦げた跡ですか」
「違う」
アルフォンス様が即座に答えた。
「黒竜の骨は、死後しばらくこの色を残す」
胸が鳴った。
「六年前?」
「可能性はある」
六年前。
ミラが消えた年。
ノクスが死んだ年。
「ノクスのものでは?」
「違う」
今度は迷いがない。
「ノクスの肋骨は、欠損していない」
ノクスの遺骸からは、胸骨や翼骨など一部が欠けていたと聞いた。
だが、この形は該当しないのだろう。
「では」
ミラ。
その名が喉まで出かかった。
飲み込む。
形だけでは分からない。
黒竜だからといって、ミラとは限らない。
「調べる必要があります」
私は言った。
「ああ」
「位置の記録。ここへ移された時期。誰が運んだか。元々どこにあったか」
「ああ」
「その後で」
私は黒い肋骨を見る。
手袋の下で、指先が緊張していた。
「必要なら、触れます」
アルフォンス様は私を見る。
「今日ではない?」
「今日ではありません」
私は答えた。
この骨には、一度も触れていない。
声が残っているかも分からない。
それでも。
なぜか、夜会で触れた竜骨細工を思い出した。
胸を締めつける痛み。
鉄の匂い。
凍える寒さ。
そして。
――私の子を返して。
「明日までに記録を揃える」
アルフォンス様が言った。
「お願いします」
私は骨へ背を向けた。
触れたいと思った。
今すぐ手袋を外せば、何か分かるかもしれない。
けれど。
聞く前に調べる。
死者の声を、自分の望む答えにしないために。
私は一歩、谷の出口へ向かう。
背後には、名の分からない黒竜の肋骨が残っている。
その骨が誰のものなのか。
今は、まだ分からない。
だからこそ。
次にここへ来る時は、聞こえたものを受け止める準備をしてからにしようと思った。




