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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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16/46

婚約者ではなくなった朝

 王都を出る朝は、よく晴れていた。

 冬の空は薄く白み、屋敷の屋根や庭木には、夜の間に降りた霜が残っている。


 玄関前には、長距離用の馬車が二台並んでいた。


 一台は私とアンナ、治療師のオスカーが乗るためのもの。


 もう一台には、薬や衣服、調査道具、記録用紙などが積み込まれている。


 アルヴァ家の騎士四名は、すでに馬上で出発を待っていた。


 門の外には、グレイヴ辺境伯家から派遣された騎士たちも並んでいる。


 アルフォンス様は、一足先に王都を出た。


 辺境の受け入れ準備と、雪で閉ざされる街道の状況を確認するためだ。


 別れ際、彼は私へ一つだけ言った。


 ――急がなくていい。予定より遅れても、こちらから迎えを出す。


 私を早く連れていこうとはしなかった。


 けれど、待っているとも言わなかった。


 待つという言葉が、私へ責任を感じさせると考えたのかもしれない。


 本当のところは分からない。


 生きている者の心は読めない。


 だから私は、辺境へ着いた後に尋ねるつもりだった。


「お嬢様」


 アンナの声に振り返る。


「こちらで最後のお荷物です」


 彼女が抱えているのは、小さな革の鞄だった。


 母の弔い帳から写した記録。


 グレイヴ領の黒竜に関する頁。


 聖竜院北部管理局について母が残した文章。


 能力を使う際の条件を書いた契約書。


 すべて写しで、原本は王都に残してある。


「ありがとうございます」


「中身を確認なさいますか」


「昨日、三度確認しました」


「お嬢様の確認ではなく、私の確認を申し上げております」


「信用がないのですね」


「はい」


 迷いのない返事だった。


 私は思わずアンナを見る。


 彼女は真面目な顔のまま、革の鞄を馬車へ運んでいった。


 少し離れた場所では、オスカーが薬箱を確認している。


「解熱薬、鎮痛薬、胃薬。耳鳴り用の薬は二種類」


 箱の中を見ながら、一つずつ声に出している。


「味覚が落ちた時のための栄養剤。手の冷えが続く場合の温熱布。眠れない時の薬は――」


「必要ありません」


 私が言うと、オスカーは箱から顔を上げた。


「使うかどうかは、眠れなくなってから決めます」


「眠れないくらいで薬を使うつもりは」


「そう言って三日眠らなかった患者を知っています」


「お母様ですか」


「あなたです」


 覚えがなかった。


「いつのことでしょう」


「十歳の時です。墓地で亡くなった老人の杖へ触れた後、三晩悪夢を見た」


 言われて、ぼんやりと思い出す。


 狭い部屋。


 呼吸ができない苦しさ。


 暗闇の中で、何度も扉を探す夢。


「父上からは、熱が出たとだけ聞いていました」


「あなたが悪夢について話さなかったからです」


 オスカーは薬を箱へ戻した。


「今回も隠したら、能力の使用を止めます」


「まだ何もしていません」


「今のうちに言っておきます」


 母を診ていた治療師の弟子。


 父が彼を選んだ理由が、少し分かった。


 私が大丈夫だと言っても、信じない人が必要だったのだ。


「リーゼロッテ」


 玄関から父が出てきた。


 灰色の外套を着ている。


 見送りのためだけなら、上着は必要ない。


「門まで送る」


「寒いですから、こちらで結構です」


「門までだ」


 反対する余地はなさそうだった。


「分かりました」


 父は馬車と護衛を順に確認した。


「車輪の予備は」


「後方の荷台に二本ございます」


 騎士が答える。


緩衝術式(かんしょうじゅつしき)の点検は?」


「今朝、専門の技師が確認しました」


「次の宿場へは日没前に着けるのだろうな」


「天候に問題がなければ」


「問題があれば、無理に進むな」


「承知しております」


 父の確認は、昨日までに何度も行われている。


 騎士たちも慣れた様子で答えていた。


「お父様」


「何だ」


「皆さんが困っています」


「安全の確認だ」


「同じことを四度お尋ねになっています」


「四度確認しても、事故は起きる」


「五度目で防げるとは限りません」


 父は口を閉ざした。


 オスカーが小さく笑ったような気がしたが、見ないふりをする。


「三日に一度、必ず手紙を」


「はい」


「宿場から出せない場合は、次の町で」


「はい」


「能力を使った場合は、通常の報告とは別に――」


「体調と、触れた遺品と、聞こえた内容を記録して送ります」


「聞こえた内容だけではない。推測を分けて」


「分かっています」


「本当に?」


「お父様」


 私は父を見る。


 父も私を見ていた。


 何かを言いたいのだろう。


 けれど、それが何かは分からない。


 心配している。


 寂しい。


 行かないでほしい。


 そう見える。


 けれど、それは私の推測だ。


「今、何をお考えですか」


 私は尋ねた。


 父の目がわずかに開かれる。


「なぜ急に」


「聞かなければ分かりませんから」


 父はしばらく黙った。


 やがて、門の方へ視線を向ける。


「行かせたくないと思っている」


「はい」


「今からでも、具合が悪いと言って出発を延ばせばよいとも」


「具合は悪くありません」


「分かっている」


「他には?」


「……戻ってきてほしい」


 短い言葉だった。


「はい」


「必ずとは言うな」


「戻りたいと思っています」


 辺境へ行くと決めた時にも、私は父へ同じ気持ちを伝えていた。

 必ず戻るとは約束できない。それでも、帰りたいと思っていることだけは嘘ではない。


「それでよい」


 父はうなずいた。


 それ以上は、何も求めなかった。


 私も、無事に戻ると約束しなかった。


 できない約束をして父を安心させるよりも、今の気持ちを正直に伝えたかった。


「そろそろ出発を」


 騎士が遠慮がちに声をかける。


「分かりました」


 私は馬車へ向かった。


 扉へ手をかけた時、門の外から馬の足音が聞こえた。


 一頭ではない。


 数人の護衛を伴った馬車が、アルヴァ邸の前で止まる。


 扉に刻まれているのは、双頭の鷲。


 ローレン公爵家の紋章だった。


 父の表情が硬くなる。


「なぜ、今」


 馬車の扉が開いた。


 降りてきたのは、セドリック様だった。


 濃紺の外套。


 整えられた金色の髪。


 夜会の時と変わらない姿。


 けれど目の下には、わずかに疲れが見える。


「リーゼロッテ」


 彼は私を見つけ、足早に近づいてきた。


「間に合ってよかった」


「何かご用でしょうか」


 元婚約者へ使う言葉としては、冷たすぎたかもしれない。


 けれど、今の私たちの関係を表す言葉が他に見つからなかった。


「辺境へ行くと聞いた」


「はい」


「どうして、僕に何も言わなかったんだ」


 思わず、セドリック様を見る。


「婚約は解消されました」


「それは分かっている」


「では、私の行き先をご報告する必要はありません」


「そういう意味ではない」


 セドリック様は周囲を見た。


 父。


 護衛の騎士。


 アンナ。


 オスカー。


 誰もが私たちの会話を聞いている。


「二人で話せないか」


「出発の時間です」


「少しでいい」


「こちらでお話しください」


 父が止めると思った。


 けれど、何も言わなかった。


 私が決めるのを待っているのだろう。


 セドリック様は不満そうだったが、やがて声を落とした。


「辺境へ行く必要なんてない」


「それを決めるのは、私です」


「危険だ。グレイヴ領は竜脈が弱っているし、魔獣も出る」


「承知しております」


「君は旅にも慣れていない」


「ですから、護衛と治療師が同行します」


「そういう問題じゃない」


 彼の声に焦りが混じった。


「今、王都を離れれば、余計な噂が広がる」


「どのような噂ですか」


「婚約を破棄された君が、グレイヴ辺境伯を頼って逃げたと」


「逃げたわけではありません」


「人は事実より、分かりやすい話を信じる」


 その言葉自体は間違っていない。


 夜会で私が声を聞いた時も、人々は婚約破棄の衝撃で錯乱したのだと考えた。


 けれど。


「噂を避けるために、王都へ残れとおっしゃるのですか」


「今は時期が悪い」


「よい時期は、いつですか」


「騒ぎが収まってからだ」


「何の騒ぎでしょう」


「夜会のことも、竜骨のことも、婚約解消も」


 セドリック様は、一つずつ指を折るように言った。


「皆、すぐに別の話題へ移る。聖竜院の調査も、父上や王宮へ任せればいい」


「記録が書き換えられていたことをご存じですか」


「聞いている」


「それでも、任せればよいと?」


「君が関わる必要はない」


 あの夜と同じだった。


 能力を使わなければいい。


 死者の話をしなければいい。


 見なければ、穏やかに暮らせる。


「君は、自分がどれほど危険なことへ近づいているか分かっていない」


「分かっていないから、確かめに行きます」


「それでまた倒れたら?」


「能力を使う条件は決めました」


「条件があれば安全だと思っているのか」


「安全だとは思っていません」


「なら、なぜ」


「私が行きたいと決めたからです」


 セドリック様が言葉を失った。


 以前の私なら、そうは答えなかっただろう。


 誰かのため。


 死者のため。


 必要だから。


 そう説明していた。


 自分が行きたいから。


 それだけでは、わがままだと思っていた。


「君らしくない」


 やがて彼が言った。


 胸の奥が、静かに痛んだ。


「私らしいとは、どのようなものでしょうか」


「君はもっと冷静だった」


「今も冷静に考えたつもりです」


「自分から危険へ向かうことが?」


「危険を避けることだけが、冷静な選択ではありません」


「以前の君なら、そんな言い方はしなかった」


 その通りだった。


 以前の私は、セドリック様が困る言葉を避けていた。


 反論すれば嫌われる。


 死者の声について話せば気味悪がられる。


 そう知っていたから、黙っていた。


「以前の私は、何も感じていなかったわけではありません」


「では、なぜ言わなかった」


「言えば、あなたが困ると思ったからです」


 セドリック様の顔が曇る。


「僕のせいだと言いたいのか」


「責めているのではありません」


「同じだ」


「違います」


 責任を伝えることと。


 相手を罰することは違う。


「私が黙ることを選んでいたのも事実です」


 私は続ける。


「あなたが私の力を恐れていると知りながら、婚約を続けようとしたのも私です」


「なら、やり直せる」


 思っていなかった言葉だった。


「何をですか」


「今すぐではない」


 セドリック様は一歩近づく。


「父上も、あの場で婚約を解消したことは軽率だったと言っている」


「ローレン公爵が?」


「ああ」


「婚約を戻すようにおっしゃったのですか」


「まだ、そこまでは」


 彼の視線がわずかに逸れる。


「でも、騒ぎが収まれば、以前のように王都へ戻れる」


「私は王都へ戻れなくなったわけではありません」


「そういう意味ではない」


「では、どのような意味ですか」


「君の立場も、名誉も、元に戻せるということだ」


 元に戻す。


 その言葉に、私はようやく理解した。


 セドリック様が望んでいるのは、私ではない。


 夜会より前の状態だ。


 問題のない婚約者。


 死者の声を公の場で語らない伯爵令嬢。


 ローレン家とアルヴァ家の関係。


 何も見ずに済んでいた日々。


「セドリック様」


「何だ」


「あなたは、私に戻ってきてほしいのですか」


 彼の目が揺れる。


「当然だ」


「どこへ?」


「王都へ」


「王都へは、いずれ戻るつもりです」


「僕のところへだ」


 言い切った後、彼自身が驚いたように口を閉ざした。


「それは、婚約を戻したいという意味ですか」


「今すぐ答えを出す必要はない」


「私は答えを出しています」


「婚約破棄の直後で、感情的になっているだけだ」


 その言葉に、胸の痛みが消えた。


 代わりに、静かな寒さが残る。


「私が辺境へ行くと決めたことも?」


「そうだ」


「竜骨の記録を調べたいと思うことも?」


「君は死者の声へ引きずられている」


「母の弔い帳へ触れないと決めたことも?」


「何の話だ」


「私は母の遺品へ触れれば、声を聞けるかもしれません」


 セドリック様の顔が強張る。


「ですが、今は触れないと決めました」


「それなら、そのまま触れなければいい」


「なぜ触れないと決めたか、尋ねないのですか」


「聞かなくてもいいなら、その方が安全だ」


 やはり。


 彼が知りたいのは、私が何を考えているかではない。


 死者の声を聞かずに済むかどうかだ。


「あなたは、私が能力を使わなければ戻ってもよいと考えているのですね」


「それが君のためだ」


「私が何を望んでいるかは?」


「今は正しく判断できていない」


 私は、静かに息を吸った。


 以前なら、傷ついたことを隠しただろう。


 今は、隠したくなかった。


「悲しいです」


 セドリック様が目を見開く。


「何が」


「あなたが、私の言葉を一度も私の選択として受け取らないことがです」


「リーゼロッテ」


「婚約を解消されたから、感情的になった。死者の声に引きずられた。辺境伯に利用された」


 一つずつ、彼が考えている理由を口にする。


「私が自分で決めた可能性だけを、あなたは認めない」


「君を心配しているからだ」


「心配と否定は違います」


 父にも伝えた言葉だった。


 父は今も反対している。


 それでも、私が決めたことだと認めた。


 戻る場所を残そうとしてくれた。


 セドリック様は、私の決断そのものをなかったことにしようとしている。


「私は、以前のようには戻れません」


「戻れる」


「戻りたくありません」


 はっきり言う。


 セドリック様の顔から血の気が引いた。


「僕が婚約を破棄したことを、怒っているのか」


「怒っていないとは申しません」


「なら、謝る」


「謝罪を受け取ることと、関係を戻すことは別です」


 後に、もう一度この言葉を伝える日が来るかもしれない。


 けれど、今の彼には、まだ届かないのだろう。


「僕は、君を嫌っていたわけじゃない」


「はい」


「ただ、あの力が」


 気味悪かった。


 彼は最後まで言わなかった。


「分かっています」


「なら」


「力だけを私から切り離すことはできません」


「使わなければいい」


「聞こえた声を、なかったことにはできません」


「なぜ、そこまで死者にこだわる」


「死者だけではありません」


 ノラの証言。


 父の恐怖。


 アルフォンス様の後悔。


 記録を残した人々。


「生きている方の声も、聞きたいのです」


「僕の声は?」


 思いがけない問いだった。


 セドリック様の声。


 死や責任から目を逸らしたい。


 以前の平穏へ戻りたい。


 それも、生きている人の声だ。


「聞いています」


 私は答えた。


「では、なぜ従わない」


「聞くことと、従うことは違うからです」


 死者の声と同じ。


 父の声とも同じ。


 大切に聞き。


 その上で、自分で決める。


「セドリック様が、私に王都へ残ってほしいと願っていることは分かりました」


「なら」


「ですが、私は辺境へ行きます」


「僕より、グレイヴ辺境伯を選ぶのか」


「誰かを選ぶための旅ではありません」


 アルフォンス様のためだけでもない。


 母のためでもない。


「私自身が、確かめるためです」


 セドリック様は唇を噛んだ。


 父が時計へ視線を向ける。


「リーゼロッテ。そろそろ出発しなければ、日没までに宿場へ着かない」


「はい」


 私はセドリック様へ一礼した。


「お話しくださり、ありがとうございました」


「待ってくれ」


 彼が私の腕へ手を伸ばす。


 けれど、触れる前に止まった。


 手袋を見たからかもしれない。


 私の力を思い出したのだろうか。


「本当に行くのか」


「はい」


「騒ぎが収まれば、戻ってこられるんだぞ」


「私は、騒ぎから逃げるために行くのではありません」


「戻る場所を失っても?」


「父が残すと約束してくれました」


 セドリック様が父を見る。


 父は何も言わない。


 ただ、私の後ろに立っている。


「ローレン家へ戻る場所は」


 セドリック様が言いかける。


 私は旅用の鞄を開いた。


 内側の小さな箱を取り出す。


 白い布に包まれた、婚約指輪。


 夜会で一度、返したはずの物だった。


 けれど竜骨細工が落下した混乱の中、誰が受け取るか決まらないまま、王宮の侍従が私の外套のポケットへ戻していた。


 その後、公爵家から返却を求める連絡はなかった。


 私も、婚約解消の書類が整うまで手元に置いていた。


「こちらを」


 布を開き、指輪を差し出す。


 セドリック様は動かなかった。


「夜会では、正式にお渡しできませんでした」


「持っていてくれ」


「できません」


「今すぐ決めなくてもいいと言っている」


「もう決めました」


「これは、十一年の証だ」


「はい」


 十一年間。


 すべてが嘘だったわけではない。


 幼い頃に一緒に庭を歩いた。


 祝祭で贈り物を選んだ。


 手紙を交わした。


 嬉しかったこともある。


 傷ついたことだけを残し、過去のすべてを否定するつもりはなかった。


「だから、お返しします」


「なぜ」


「終わったことを、終わっていないように残したくないからです」


 弔いとは、忘れることではない。


 なかったことにすることでもない。


 区切りを作り、その先へ進むこと。


 私たちの婚約も同じなのかもしれない。


「受け取ってください」


 セドリック様は指輪を見つめた。


 やがて、ゆっくり手を差し出す。


 私の手袋の上から、指輪を取った。


 素手には触れなかった。


「帰ってきたら」


 彼が言う。


「その時、もう一度話そう」


「お話はいたします」


 期待を持たせないように続ける。


「ですが、婚約は戻りません」


「今はそう思っているだけだ」


 最後まで、彼は私の言葉を今だけのものとして扱った。


 けれど、もう言い争う必要はなかった。


「では、行ってまいります」


 私は馬車へ乗り込んだ。


 アンナが続き、扉を閉じる。


 窓の外に、父がいる。


 オスカーは後方の馬車へ向かっていた。


 セドリック様は、手の中の指輪を見つめたまま立っている。


 馬車が動き出す。


 父が一歩だけ前へ出た。


 引き止めるのかと思った。


 けれど、父は右手を上げただけだった。


 私も窓越しに手を上げる。


 言葉はなかった。


 けれど、父が何を約束してくれたかは覚えている。


 帰る場所を残す。


 それだけで十分だった。


 馬車は門を出る。


 青白い竜骨灯(りゅうこつとう)が並ぶ王都の通りを進んでいく。


 十一年間、私はセドリック・ローレンの婚約者だった。


 誰と話す時も。


 何を着る時も。


 どこへ行く時も。


 いつか公爵家へ嫁ぐ者として選んできた。


 今朝、初めて。


 その肩書を持たずに、王都を出る。


 窓の外で、アルヴァ邸の門が遠ざかる。


 セドリック様の姿も。


 父の姿も。


 やがて通りの向こうへ見えなくなった。


 胸は痛んでいた。


 寂しくもあった。


 それでも、戻りたいとは思わなかった。


 私は逃げるのではない。


 捨てられたから去るのでもない。


 婚約者ではなくなった朝に。


 私は初めて、自分で選んだ場所へ向かっていた。

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