王都を出る選択
翌朝、私は父の書斎を訪れた。
窓の外では、夜の雨が残した雫が、庭木の葉から落ちている。
机の中央には、母の弔い帳が置かれていた。
昨日と同じ、深い紺色の表紙。
私は手袋を外さなかった。
母の声は聞かない。
少なくとも、今は。
母の答えで、自分の行き先を決めないために。
「お話があります」
父は書類から顔を上げた。
「辺境のことか」
「はい」
父は椅子の背へ体を預けた。
目の下には、濃い影がある。
昨夜も眠れなかったのだろう。
それでも私は、大丈夫ですかとは尋ねなかった。
父が何を感じているのかを、先回りして決めたくなかった。
「決めたのか」
「決めました」
自分の声が、思っていたより静かに聞こえる。
「グレイヴ辺境伯領へ参ります」
父の顔から、表情が消えた。
怒ることも。
声を荒らげることもなかった。
ただ、机の上で組んでいた両手へ力が入った。
「理由を聞こう」
「ノクスの遺骨と遺品を確認するためです」
「それだけか」
「いいえ」
私は父の目を見る。
「ミラとルゥの失踪記録。書き換えられた竜骨の台帳。お母様が十八年前に訪れた谷の記録。それらを自分の目で確かめたいと思っています」
「調査なら、王都でもできる」
「原本は辺境にあります」
「写しを取り寄せればいい」
「遺骨の状態は、写しでは分かりません」
「グレイヴ辺境伯に報告させればいい」
「アルフォンス様は竜葬師ではありません」
「お前も、正式には違う」
以前と同じ言葉だった。
けれど、今度は胸へ刺さらなかった。
「はい」
私は認める。
「私は正式な竜葬師ではありません」
名を受けていない。
儀式を継いでいない。
経験もない。
「だからこそ、弔えるとは約束していません」
「ならば、行く必要はない」
「弔えるかどうかを確かめるために、行きます」
「何もできないかもしれないのだぞ」
「はい」
「ノクスの声が残っていない可能性もある」
「はい」
「遺骨を見ても、何も分からないかもしれない」
「分かっています」
「それでも行くというのか」
「はい」
父は立ち上がった。
椅子の脚が、床を低く擦る。
「分かっていない」
「何をですか」
「辺境は王都とは違う」
父は机を回り、窓の前へ立った。
「道は荒れている。竜脈が弱り、土地も安定していない。魔獣が出る地域もある」
「護衛を付けます」
「吹雪になれば、護衛がいても進めない」
「天候を確認しながら移動します」
「治療師も、王都ほど多くない」
「能力を使う前に、アルフォンス様と準備すると約束しています」
「約束で危険が消えるわけではない」
「消えるとは思っていません」
父が振り返る。
「ならば、なぜ平然としていられる」
「平然とはしていません」
自分でも驚くほど、すぐに答えられた。
「怖いです」
父の目がわずかに開かれる。
「王都を離れることも。ノクスの遺骨を見ることも。知らない死者の声を聞くかもしれないことも」
「なら」
「怖いことと、行かないことは同じではありません」
第十二話で父へ告げた言葉を思い出す。
怖くないから進むのではない。
怖いまま、決めたい。
「私は、お母様と同じことをしたいわけではありません」
「お前は、セレーネと同じ言葉を使う」
「似ているのかもしれません」
私は否定しなかった。
「ですが、違うこともあります」
「何が違う」
「私は、一人で行きません」
父の唇が止まる。
「アルフォンス様がいます。辺境の竜騎士団もいます。お父様にも、協力をお願いしたいと思っています」
「私に、お前を危険な場所へ送り出す手伝いをしろと?」
「戻ってくるための手伝いです」
父は何も言わなかった。
「能力を使う前には、必ず記録を確認します」
昨夜、自分で書き出した条件を伝える。
「一度触れた遺品へ、同じ日に触れ直しません。強い思いが残る物へ触れる時は、治療師と記録係を立ち会わせます」
「記録係?」
「聞こえた内容と、私の体調を分けて記録します」
「誰が行う」
「アルフォンス様の部下だけではなく、私が連れていく者にも記録させます」
「辺境伯家だけに情報を預けないためか」
「はい」
アルフォンス様を疑っているわけではない。
けれど、一つの家だけが記録を持てば、その家の都合で扱われる可能性がある。
ローレン家の台帳で学んだことだった。
「能力を使った後は、最低でも一日休みます」
「最低でも?」
「症状が残れば、さらに休みます」
「お前が自分で判断するのか」
「治療師にも判断してもらいます」
父の眉が動いた。
以前の私なら、治療師が止めても大丈夫だと言っただろう。
今も、本当に従えるかは分からない。
けれど、その危険を自分だけで抱えないための決まりだった。
「遺品へ触れるかどうかは、私が決めます」
「誰にも命じさせない?」
「はい」
「グレイヴ辺境伯が急げと言っても?」
「断ります」
「死者の思いが薄れると言われても?」
返事が一瞬遅れた。
「それでも、私が決めます」
「できるのか」
「分かりません」
正直に答える。
「ですが、できなければならないと思っています」
「それでは約束にならない」
「簡単に約束して破るよりは、今の自分にできることをお伝えしたいのです」
父は窓の外へ視線を戻した。
「お前は変わったな」
「婚約を解消されたからでしょうか」
「それだけではない」
父の声は、寂しそうにも聞こえた。
けれど、生きている者の心は読めない。
「お父様」
「何だ」
「私は、お父様を置いていくつもりではありません」
父の肩が小さく動く。
「家を捨てるつもりもありません」
「辺境へ行けば、戻らないかもしれない」
「事故や病気で、という意味ですか」
「それだけではない」
父がこちらを向く。
「グレイヴ領で、お前の力が必要とされれば」
言葉を切る。
「王都へ戻る理由を失うかもしれない」
「ここには、お父様がいます」
「それだけで戻るのか」
問いの意味が、すぐには分からなかった。
父は私に必要とされたいのだろうか。
それとも、娘を引き止める理由として自分を使うことを恐れているのか。
「戻るかどうかを、今決めることはできません」
私は答えた。
父の顔がわずかに歪む。
「ですが、戻れなくなるつもりで行くわけでもありません」
「同じではないのか」
「違います」
辺境へ行く。
ノクスの遺骨を見る。
声を聞くかもしれない。
弔いを行うかもしれない。
けれど、それですべてが決まるわけではない。
「私は、何もかも捨てて母の続きを生きに行くのではありません」
「では、何をしに行く」
「確かめに行きます」
私は胸の前で両手を握った。
「死者の声を聞くためだけではありません。今、生きている人々の話を聞くために」
アルフォンス様。
六年間、ノクスの鞍へ触れられない人。
ノクスを救えなかった騎士たち。
枯れているという辺境の土地。
記録の中でしか知らない竜たち。
「そして、私が何をしたいのかを知るために」
今の私には、竜葬師になると決めることもできない。
ならないと決めることもできない。
母の声を聞くかどうかさえ、まだ選べない。
「何も知らずに残ることは、できません」
「知った後、後悔しても戻れないぞ」
「戻れないこともあると思います」
「それでも?」
「はい」
父は目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
私は待った。
父が何を言うか。
反対するのか。
閉じ込めると言うのか。
もう、先回りして謝るつもりはなかった。
「認めない」
やがて父は言った。
「お父様」
「父親として、賛成はできない」
声は硬かった。
「お前を危険な場所へ送り出すことを、正しいとは思わない」
「はい」
「今からでも、行かないと決めてほしい」
「それはできません」
「ああ」
意外にも、父はすぐにうなずいた。
「分かっている」
その一言に、怒りはなかった。
「ならば、どうなさいますか」
「止める」
胸が強張る。
「屋敷へ閉じ込めるのですか」
「そうしたい」
父は机の端を握った。
「扉へ鍵をかけ、馬車を出さず、辺境伯にも会わせない。そうすれば、少なくとも今は行けない」
「お父様」
「だが」
父の指が震えている。
「それをすれば、お前は私の目の前にいても、二度とここへ帰ってこないのだろう」
すぐには意味が分からなかった。
「心が、という意味だ」
父は苦しそうに続ける。
「お前は私と話さなくなる。何も望まなくなる。大丈夫だと言いながら、私の見えないところで出ていく方法を探す」
以前の私なら、そうしたかもしれない。
父を責めず。
父へ本当の気持ちを伝えず。
最後には、誰にも頼らず一人で行っただろう。
「私は、閉じ込められてもお父様を嫌いにはなりません」
「それは分からない」
「嫌いにならないよう、自分の気持ちを消すと思います」
父が目を伏せる。
「それが一番怖い」
小さな声だった。
「お前が生きていても、お前ではなくなることが」
父が初めて、私の命だけではなく、私自身を失うことが怖いと言った。
「私は、止めない方が正しいとは思えない」
父は続ける。
「今も、力ずくで止めるべきだと思っている」
「はい」
「それでも、止めない」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
「それは、許してくださるということですか」
「許すという言葉は使いたくない」
「なぜですか」
「お前の人生を、私が許可するもののように聞こえる」
父の答えに、言葉が出なかった。
「私は反対する」
父ははっきり言う。
「辺境へ行ってほしくない。今からでも考え直してほしい」
「はい」
「だが、お前が行くと決めたのなら」
一度、息を止める。
「生きて戻るための準備をする」
私は父を見つめた。
「馬車を用意する」
「お父様」
「長距離用のものだ。緩衝術式が入った車体を借りる」
「そこまでしていただかなくても」
「準備を求めたのはお前だ」
少しだけ、いつもの父らしい厳しい声が戻った。
「護衛は四名」
「アルフォンス様の騎士が同行するはずです」
「グレイヴ家の護衛とは別だ」
「信用していないのですか」
「信用の問題ではない。アルヴァ家の者も必要だ」
「監視のため?」
「お前の記録を、アルヴァ家にも残すためだ」
私が伝えた条件を、父は聞いていた。
「治療師も一人同行させる」
「王都の治療師を辺境まで?」
「セレーネを診ていた治療師の弟子がいる」
母を。
その言葉に胸が揺れた。
「その方は、母の力についてご存じなのですか」
「ああ」
「なぜ、今まで会わせてくださらなかったのですか」
「能力を使うことを前提にした治療師だからだ」
父は目を逸らした。
「お前をその道から遠ざけると決めた以上、必要ないと思っていた」
「お名前は?」
「オスカー・レナート。四十六歳。口は悪いが、患者が隠す不調を見逃さない」
「私には合わないかもしれません」
「だから選んだ」
思わず、父を見る。
父の口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったわけではない。
けれど、少しだけ空気が緩んだ。
「侍女はアンナを連れていきなさい」
「アンナを?」
「本人が希望している」
「危険があると伝えましたか」
「伝えた」
「それでも?」
「お前は一人にすると、食事も取らずに記録を読むからだと言っていた」
否定できなかった。
「後で、私からも確認します」
「そうしなさい」
「本人が断る余地を残してください」
「もちろんだ」
父は机の上の紙へ、必要な物を書き始めた。
馬車。
護衛。
治療師。
侍女。
防寒具。
薬。
保存食。
記録用紙。
複数の手袋。
素手で遺品へ触れた後、周囲の物へ誤って触れないための布。
「出発日は?」
「三日後では、急ぎすぎでしょうか」
「急ぎすぎだ」
「では、五日後」
「七日後だ」
「長すぎます」
「準備に必要だ」
「アルフォンス様は、先に戻る必要があります」
「辺境伯の予定は、お前が考えることではない」
「依頼人です」
「依頼人だからといって、お前が合わせる必要はない」
言い返そうとして、やめた。
アルフォンス様も、焦りを私へ押しつけないと言っていた。
「分かりました。七日後にします」
父の筆が止まる。
「随分と素直だな」
「休むことと、止まることは違いますから」
アルフォンス様の言葉を借りる。
父は一度だけ私を見て、また紙へ目を戻した。
「弔い帳は、持っていくのか」
難しい問いだった。
母の記録は、辺境で役立つ可能性がある。
けれど、切り取られた頁がある。
聖竜院に知られれば、奪われる危険もある。
「原本は王都へ残します」
私は答えた。
「必要な頁だけ、写しを作ります」
「すべてではなく?」
「ノクスの弔いに関係する部分と、母がグレイヴ領を訪れた記録に関係する部分だけです」
「それでよいのか」
「原本を持ち運ぶ危険を避けます」
「母親の声を聞く機会も、王都へ残る」
父は確認するように言った。
「はい」
「辺境へ行く前に、触れなくてよいのか」
私は弔い帳を見る。
今も怖い。
母の声を聞くことも。
何も聞こえないことも。
「触れません」
はっきり答えた。
「今は、母の声を聞く時ではありません」
「後悔しないか」
「するかもしれません」
声は永遠には残らない。
王都へ戻った時、思いが薄れている可能性もある。
「それでも、今は触れないと決めます」
父は長く弔い帳を見つめた。
「分かった」
帳面を箱へしまう。
鍵をかける音が、書斎へ響いた。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「まだ感謝されることはしていない」
「止めないでくださったことではありません」
父が顔を上げる。
「戻る準備をしてくださることにです」
父は返事をしなかった。
ただ、旅に必要な物の一覧へ新しい一行を書き加えた。
――アルヴァ家への定期報告。三日に一度。
「多すぎませんか」
「嫌なら、毎日にする」
「三日に一度でお願いします」
父は無言でうなずいた。
◇
午後、アルフォンス様へ返事を伝えた。
応接室には父も同席した。
「グレイヴ辺境伯領へ参ります」
私が告げると、アルフォンス様はすぐに喜びを示さなかった。
「決めたのか」
「はい」
「母親の声を聞かずに?」
「はい」
「なぜ」
「私が行きたいと思ったからです」
口にすると、胸がわずかに震えた。
誰かに必要とされたからではない。
母の続きを背負うためでもない。
「ノクスを弔えるかどうかは、分かりません」
「ああ」
「遺品へ触れないと判断する可能性もあります」
「ああ」
「何もできずに王都へ戻るかもしれません」
「それでも構わない」
「ですが」
私は続ける。
「何が起きたのかを、自分の目で確かめたいです」
アルフォンス様は、しばらく私を見ていた。
「分かった」
短い返事だった。
けれど、右手の震えが少し強くなっている。
「ありがとう」
「まだ、何もしておりません」
「来ると決めたことへの礼ではない」
「では?」
「自分で決めたことにだ」
父が小さく咳払いをした。
「出発は七日後です」
「承知した」
アルフォンス様は父へ向き直る。
「こちらからも騎士を出します」
「護衛は、アルヴァ家からも四名同行させます」
「必要な治療師は、こちらでも用意する」
「娘の能力を理解している治療師を一人、同行させます」
二人の声が、少しずつ硬くなる。
「治療師が二人いても困らない」
「指示系統が混乱します」
「患者の状態を優先する」
「その患者は私の娘です」
「依頼を受けた竜葬師でもある」
「まだ竜葬師ではありません」
「お二人とも」
私は間へ入った。
二人がこちらを見る。
「治療師同士で、事前に役割を決めていただけますか」
沈黙。
アルフォンス様が先にうなずいた。
「そうしよう」
父は不満そうだったが、反対はしなかった。
「それから、能力を使う場合の条件を、書面にします」
私は用意していた紙を卓上へ置いた。
事前に記録を確認すること。
接触する遺品を私自身が選ぶこと。
一日に複数の遺品へ触れないこと。
能力使用後の休息期間を治療師と相談して決めること。
聞こえた内容と、推測を分けて記録すること。
「追加したい条件はありますか」
私が尋ねると、父がすぐに答えた。
「体調不良を隠した場合、その時点で能力の使用を中止する」
「お父様」
「反対か」
「曖昧です。体調不良の範囲を決めてください」
父がわずかに目を見開く。
アルフォンス様が紙を取り、別の欄へ書き込んだ。
「味覚の低下、手の冷え、頭痛、耳鳴り。どれかが残っている間は、次の遺品へ触れない」
「軽い手の冷えは、数日続くことがあります」
「ならば数日待つ」
「調査が進みません」
「君の体が壊れれば、もっと進まない」
反論できなかった。
「分かりました」
父とアルフォンス様が、同時に私を見る。
「本当に?」
父が尋ねる。
「努力します」
「それは承諾ではない」
「承諾します」
言い直すと、父はようやく紙へ署名した。
アルフォンス様も続く。
最後に私が署名する。
三人の名前が、一枚の紙へ並んだ。
誰かが私の代わりに決めた条件ではない。
私も話し合いへ加わり、自分で同意した条件だった。
「一つ、私からも条件があります」
署名を終えたアルフォンス様が言った。
「何でしょう」
「辺境で危険を感じた場合、帰ると決めてもよい」
「当然です」
父が答える。
アルフォンス様は父ではなく、私を見ていた。
「何もできていなくてもだ」
胸の奥が痛んだ。
何もできずに帰る。
私が最も苦手な選択だった。
「努力します」
「承諾を」
今度はアルフォンス様に言われた。
私は少し迷ってから、うなずく。
「承諾します」
「分かった」
父も、その言葉を聞いていた。
◇
その日から、屋敷は旅の準備で慌ただしくなった。
長距離用の馬車が手配され。
防寒着が仕立て直され。
薬と食料が木箱へ詰められた。
アンナは本当に同行を希望した。
「お嬢様は、目を離すと食事を忘れますから」
「忘れているのではなく、後にしているだけです」
「それを忘れていると言うのです」
返す言葉がなかった。
護衛として、アルヴァ家の騎士が四名選ばれた。
治療師のオスカー・レナートは、挨拶に来るなり私の顔を見て言った。
「能力を使った後に『大丈夫です』と言ったら、まず嘘だと思うことにします」
「初対面の方に、そこまで言われる覚えはありません」
「セレーネ様も同じことを言いました」
母の名が出る。
私は聞きたいことを飲み込んだ。
今尋ね始めれば、旅の準備が止まる。
「辺境への道中で、お話を伺っても?」
「治療師として必要な範囲なら」
オスカーはそう答えた。
母のすべてを語るとは言わない。
それでよいと思った。
生きている者の証言も、一度にすべてを聞く必要はない。
出発まで、あと七日。
私は毎日、決まった時間だけ弔い帳を読んだ。
母の声は聞かなかった。
切り取られた頁ばかりを追わず、残された記録を書き写した。
成功した弔い。
失敗した弔い。
遺族が拒んだため、行わなかった弔い。
声が残っていなかった遺品。
母も、すべての死者を救ったわけではない。
分からないまま残したこともある。
触れずに次の世代へ委ねた遺品もある。
その事実は、私を少しだけ楽にした。
同時に、怖くもなった。
母でさえできなかったことを、私にできるのだろうか。
答えは出ない。
それでも、荷物は一つずつ整っていった。
◇
出発前日の夜。
私は自室で、最後の荷物を確認していた。
窓辺に置いていた本。
母からもらった銀の髪飾り。
幼い頃から使っている小さな裁縫箱。
どれを持っていき、どれを残すか。
自分の部屋を見回すと、帰ってこない人の部屋を片づけているような気持ちになった。
私は首を横に振る。
帰ってこないと決めたわけではない。
扉が叩かれた。
「リーゼロッテ」
父だった。
「どうぞ」
父は室内へ入ると、積まれた荷物を見回した。
「随分と少ないな」
「旅に必要な物だけです」
「ドレスは?」
「辺境で夜会へ出る予定はありません」
「公式の晩餐があるかもしれない」
「二着入れました」
「冬用は?」
「一着です」
「足りない」
「お父様」
「追加させる」
父は荷物箱の横へ立ち、侍女が作った一覧を確認する。
「本も少ない」
「調査記録を読む時間があります」
「移動には時間がかかる」
「では、一冊追加します」
「三冊だ」
「二冊で」
「……分かった」
旅の準備というより、普段通りの親子の会話のようだった。
「お父様」
「何だ」
「まだ、反対していますか」
父は一覧から顔を上げない。
「ああ」
「今からでも、止めたいですか」
「ああ」
「それなのに、こんなに準備を」
「反対しているからだ」
父は紙を置いた。
「賛成しているなら、お前の好きにさせる」
「反対しているから、準備をする?」
「危険だと思っているからこそ、減らせる危険は減らす」
父らしい言葉だった。
「リーゼロッテ」
「はい」
「辺境で、何もできなくてもよい」
「アルフォンス様にも同じことを言われました」
「私が先に言うべきだった」
父は悔しそうに目を伏せた。
「何も聞こえなくても」
「はい」
「弔えなくても」
「はい」
「途中で怖くなっても」
父の声が少しずつ掠れる。
「戻ってきなさい」
私は何も言えなかった。
「お前が何を成し遂げたかを、帰る条件にはしない」
父は続ける。
「母の記録を見つけなくても。ノクスを弔えなくても。誰の声も聞けなくても」
父の目が、私の黒い手袋へ向く。
「そのまま帰ってきてよい」
胸が熱くなった。
父は今まで、私を外へ出さないことで守ろうとしていた。
今は、戻る場所を残すことで守ろうとしている。
「帰ってきても、よいのですか」
自分でも不思議な問いだった。
ここは私の家だ。
父の娘である私が、戻ってよいか尋ねる必要などない。
それでも、尋ねずにはいられなかった。
「当たり前だ」
父はすぐに答えた。
「失敗しても?」
「失敗したかどうかは、お前一人で決めるな」
「逃げたとしても?」
「逃げたのか、戻ると決めたのか、まず話を聞く」
「何も持ち帰れなくても?」
「お前が戻る」
父の声が震えた。
「それで十分だ」
目の奥が熱くなる。
泣くほどのことではない。
そう思った。
けれど、それも自分の感情を軽く扱う言葉だと気づく。
「嬉しいです」
私は正直に言った。
父が目を見開く。
「そうか」
「はい」
「……そうか」
二度目の返事は、ひどく小さかった。
「私は、お父様の反対を押し切って行きます」
「ああ」
「それでも、戻ってきてよいのですね」
「反対したことと、お前の家であることは別だ」
父は一歩近づいた。
けれど、私へ触れる直前で手を止めた。
幼い頃なら、頭を撫でてくれただろう。
今は、私が十九歳の娘だから迷っているのかもしれない。
私は自分から、父の手へ手袋を着けた手を重ねた。
能力は発動しない。
父は生きている。
何を思っているかは聞こえない。
だから、言葉で確かめる。
「帰ってきます」
「無理に約束するな」
「戻りたいと思っています」
言い直す。
「それならよい」
父の手が、私の手を握り返した。
「帰る場所は、私が残す」
その言葉を聞き、私は初めて、王都を出ることができると思った。
閉じ込められていた場所から逃げるのではない。
帰ることもできる場所から、自分の意思で旅立つのだ。
明日の朝。
私は婚約者ではなくなった王都を出る。
母の続きを生きるためではない。
死者の声へ従うためでもない。
私自身の声で選んだ道を、確かめるために。




