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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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14/44

最後に触れられない遺品

 母の(とむら)い帳は、父の書斎へ運ばれた。

 切り取られた(ページ)が見つかった以上、地下の保管室が安全だとは言い切れない。


 父は書斎の窓と扉の鍵を確かめ、帳面を机の中央へ置いた。


 深い紺色の表紙。


 銀糸で縫われた、翼を閉じた竜。


 手袋越しに持った時の重みが、まだ両手に残っている。


「地下室の鍵を持っていた者は、三人だけだ」


 父が調査した内容を読み上げる。


「私と、家令。それから先代の頃から仕えている執事だ」


「複製された可能性は?」


「鍵職人を呼んで確認させている」


「地下室へ入った記録は残っていないのですね」


「ああ」


 父は弔い帳の背を見た。


 複数の時代に綴じ直された、色の異なる糸。


「帳面自体は、切り取られた後に一度綴じ直されている」


「切り取られた頁を隠すためでしょうか」


「断定はできない」


「はい」


 父は以前よりも、慎重に言葉を選ぶようになっていた。


 私が死者の声を「真実ではなく証言」と呼ぶように、父もまた、分からないことを分からないまま扱おうとしている。


 けれど、分からないまま待つことは難しい。


 切り取られた直前の一文が、頭から離れなかった。


 ――聖竜院北部管理局の地下にて、名を失った竜骨と、


 母は、その先に何を書いたのだろう。


 名を失った竜骨と。


 子どもたち。


 加工の道具。


 秘密の記録。


 あるいは、人間の遺体。


 どれも想像にすぎない。


 想像を重ねるほど、母が見たものから遠ざかるかもしれない。


「リーゼロッテ」


 父に呼ばれ、顔を上げる。


「同じ箇所を何度読んでも、失われた文字は戻らない」


「分かっています」


「朝から三時間だ」


「まだ、その程度です」


「休みなさい」


「能力は使っていません」


「使っていなくても疲れる」


「私は大丈夫です」


 言ってから、口を閉じた。


 父も何も言わずに私を見る。


 大丈夫です。


 長い間、何も伝えないために使ってきた言葉。


「……少し、頭が重いです」


 言い直すと、父の表情がわずかに緩んだ。


「一時間休みなさい」


「その後は、また読ませてください」


「今日は終わりにしてもよい」


「それは私が決めます」


 父の眉が寄る。


 けれど、以前のように「許さない」とは言わなかった。


「一時間後、体調を確認してからだ」


「分かりました」


 条件を付けられた。


 それでも、選択を奪われたわけではない。


 私は弔い帳から離れ、書斎を出た。


          ◇


 自室へ戻り、長椅子へ腰を下ろす。


 休むように言われたのだから、目を閉じればよい。


 けれど、まぶたの裏に浮かぶのは、母の帳面だった。


 深い紺色の表紙。


 銀色の竜。


 そこへ素手で触れれば、母の声が聞こえるかもしれない。


 切り取られた頁について、何か分かるかもしれない。


 母が最後に抱いていた思いを受け取れるかもしれない。


 私は左手の手袋を見た。


 留め具へ右手をかける。


 外しても、ここには弔い帳がない。


 能力が発動することはない。


 それでも指は、留め具を外せなかった。


 夜会の竜骨には、迷わず触れた。


 落下する竜骨細工から給仕の少女を守るためだった。


 あの時は、何が聞こえるか考えなかった。


 死者の痛みが流れ込むことも。


 声が出なくなることも。


 ただ、手を伸ばした。


 見知らぬ死者の遺品にも、必要なら触れることができる。


 騎士の剣。


 子どもの玩具。


 竜の牙や鱗。


 誰かが最期まで握っていた手紙。


 けれど、母の帳面には触れられない。


「私は、卑怯ひきょうなのでしょうか」


 誰もいない部屋で呟く。


 他人の痛みなら受け取れる。


 母の痛みは怖い。


 他人の死なら証言として扱える。


 母の死だけは、自分から切り離せない。


 もし母の声が、私へ向けられたものでなかったら。


 最後に考えていたのが、竜のことだけだったら。


 私を置いていくことに、何の未練も残していなかったら。


 反対に。


 私の名を呼びながら亡くなっていたら。


 痛い。


 苦しい。


 助けて。


 そう聞こえたら。


 私はその声を、どこへ置けばよいのだろう。


 死者とは会話ができない。


 母へ、大丈夫だと伝えることもできない。


 私が成長したことも。


 十九歳になったことも。


 婚約を解消されたことも。


 母と同じ力を、今も持っていることも。


 何一つ、返せない。


 聞くだけだ。


 そして母の思いは、一度聞けば薄れてしまう。


 私は、聞く資格があるのだろうか。


 扉が叩かれた。


 手袋の留め具から指を離す。


「リーゼロッテ。入ってもよいか」


 アルフォンス様の声だった。


「はい」


 扉を開けると、アルフォンス様が黒い外套がいとうをまとって立っていた。


 右手には、革製の書類鞄しょるいかばんを持っている。


「突然すまない」


「お父様から連絡が?」


「ああ。弔い帳の頁が切り取られていたと聞いた」


 父が自分から助けを求めた。


 今までの父なら、アルヴァ家の中だけで解決しようとしただろう。


「中へどうぞ」


「二人で話して問題はないか」


「扉を開けておきます」


 私は扉を半分開けたまま、アルフォンス様を窓際の椅子へ案内した。


「グレイヴ領に、セレーネ夫人の記録が残っていた」


 アルフォンス様は書類鞄から、数枚の紙を取り出した。


「お母様の?」


「原本は領地にある。これは写しだ」


 紙には、十八年前の日付が記されていた。


 私はその頃、まだ一歳だった。


「竜葬師セレーネ・アルヴァ。グレイヴ領北部、レムナ谷へ到着」


 声に出して読む。


「若い黒竜の弔いを行うため……」


「人間の罠で負傷し、谷へ戻った後に死んだ黒竜だ」


「罠を仕掛けた者は?」


「不明と記録されている」


「母は、遺品へ触れたのでしょうか」


「そこまでは書かれていない」


 記録にあるのは、母が三日間の弔いを行ったこと。


 立ち会った竜騎士と村人の名前。


 遺骨が発見された場所。


 儀式の翌朝、谷を覆っていた霜が解けたこと。


 そして。


「北へ向かった」


 私は最後の一文を読んだ。


「レムナ谷の北には?」


「聖竜院北部管理局があった」


 切り取られた頁の直前に書かれていた場所。


 母は、辺境から北部管理局へ向かっていた。


「黒竜を殺した罠と、聖竜院に関係があったのでしょうか」


「分からない」


 アルフォンス様はすぐに答えた。


「記録にないことは判断できない」


「はい」


 分からないことを、望む物語へ変えてはならない。


 母の弔い帳にあった誓いを思い出す。


「この原本を確認したいです」


「王都へ運ぶ許可を取る」


「私が辺境へ行けば、直接確認できます」


 口にした瞬間、アルフォンス様の視線が私へ向いた。


「辺境へ来ると決めたのか」


「まだです」


「なら、その理由を増やして自分を追い込むな」


「追い込んでなど」


「ノクスだけでは決めきれないから、母親の記録も理由に加えたように聞こえた」


 胸を突かれた。


「違います」


「なら、なぜ今、辺境へ行く話をした」


「調べる必要があるからです」


「誰にとって?」


「真実を知るために」


「君自身は、行きたいのか」


 返事ができなかった。


 母の記録を確かめたい。


 ノクスを弔いたい。


 ミラの声の意味を知りたい。


 それは、どれも本当だ。


 けれど、「必要だから行く」と考えれば、自分の気持ちを決めなくて済む。


 行きたいのか。


 怖いのか。


 王都を離れることに、何を感じているのか。


 考えなくて済む。


「先ほど」


 私は手袋へ視線を落とした。


「母の弔い帳へ触れようとしました」


「触れたのか」


「いいえ」


「なぜ触れなかった」


「怖かったからです」


 口にすると、胸の奥が狭くなった。


「見知らぬ死者の遺品には触れられるのに、母の帳面には触れられません」


「そうか」


 それだけだった。


 アルフォンス様は、失望した顔をしなかった。


「役に立つ声が残っているかもしれません」


「ああ」


「切り取られた頁について、何か知っているかもしれません」


「ああ」


「それなのに、私は自分が傷つくことを恐れて、手袋を外せませんでした」


「それの何が悪い」


 思っていなかった言葉だった。


「悪いに決まっています」


「なぜ」


「私にしか聞けないからです」


「君にしかできないことは、君が必ずしなければならないことではない」


「ですが、母の記録は今回の調査に関係しています」


「関係している可能性がある」


「同じことです」


「違う」


 アルフォンス様の声は静かだった。


「君はまだ、触れる前から母親の声を調査の証拠にしようとしている」


 息を止めた。


「そのようなつもりは」


「母親が切り取られた頁について知っていると、なぜ分かる」


「最期まで弔い帳へ書いていたからです」


「切り取られた時期を知っていたと、なぜ分かる」


「それは……」


「誰かに頁を奪われたことへ思いを残しているとも限らない」


「はい」


「君へ何かを伝えたがっているとも限らない」


 胸が痛んだ。


 けれど、その通りだった。


 私は、母が私に声を聞いてほしいと願っていると思い込んでいた。


 強い思いが残っているなら、娘へ伝えたい言葉があるはずだと。


 けれど、それは私の望みだ。


 母の望みではない。


 死者の声を、自らの望む物語へ変えてはならない。


「申し訳ありません」


「誰に謝っている」


「お母様に」


「何を聞いたのかも分からないのに?」


 答えられなかった。


「リーゼロッテ嬢」


 アルフォンス様は卓上の資料へ手を置いた。


「聞けないことは、罪ではない」


「ですが」


「聞かないと決めることも、逃げではない」


「私は決めたのではありません。怖くて、できなかっただけです」


「ならば、今は触れられない。それだけだ」


「それでは何も分かりません」


「分からないまま待つことは、それほど悪いことか」


「死者の思いは、永遠には残りません」


「母親の思いが、今すぐ消えると分かるのか」


「分かりません」


「なら、焦りを死者のせいにするな」


 厳しい言葉だった。


 けれど、責められているとは感じなかった。


 私が自分を傷つけるために使っていた言い訳を、取り上げられたように感じた。


「アルフォンス様には分かりません」


 思わず、そう言っていた。


「何が」


「聞けるのに聞かないことが、どれほど恐ろしいか」


 聞かない間に思いが消えたら。


 二度と母の声を受け取れなくなったら。


 私が恐れたせいで、最後の言葉を失ったら。


「分からないことに耐えられない気持ちなら、分かる」


 アルフォンス様の右手が、わずかに震えた。


「俺も触れられない遺品がある」


「何ですか」


「ノクスのくらだ」


 以前、アルフォンス様から聞いていた。

ノクスが長く使い、最期の日にも身につけていた鞍が、辺境に残されていると。


「辺境で保管しているのですね」


「ああ」


「触れたことは?」


「ない」


「六年間、一度も?」


「ああ」


 私はアルフォンス様の右手を見た。


 震えは小さい。


 けれど、止まることはなかった。


「なぜですか」


「触れられなかった」


「触れれば、契約の痛みが戻るのですか」


「分からない」


「何かが見える?」


「俺には君のような力はない」


「では」


「鞍へ触れても、革の感触がするだけだろう」


「それでも怖いのですか」


「ああ」


 アルフォンス様は迷わず認めた。


「触れれば、失ったことが確かなものになる気がした」


「ノクスの死は、すでに」


「知っている」


遺骸いがいも見つかっています」


「見た」


「それでも?」


「知っていることと、受け入れることは違う」


 短い言葉だった。


「六年間、俺はノクスに何が起きたのかを探してきた。ミラとルゥも探した」


「はい」


「探している間は、まだ終わっていないと思えた」


 アルフォンス様の視線が、震える右手へ落ちる。


「鞍は、俺とノクスがともにいた証拠だ」


「はい」


「同時に、ノクスがもう戻らない証拠でもある」


 ノクスが使った鞍。


 鞍だけが残され、乗せる竜はいない。


「だから触れられなかった」


 アルフォンス様は、言い訳を加えなかった。


 自分を正当化もしない。


 ただ、触れられなかったという事実を私の前へ置いた。


「ご自分を、弱いと思いますか」


「ああ」


「今も?」


「ああ」


「では、なぜ私には、触れなくてもよいとおっしゃるのですか」


 アルフォンス様は答えなかった。


「ご自分には許せないことを、私には許すのですか」


「君と俺は違う」


「違いません」


「違う」


「どこがですか」


「俺はノクスを助けるべきだった」


「それと鞍へ触れられないことは、別です」


「別ではない」


「同じにしているのは、アルフォンス様です」


 彼の表情が固まった。


 言いすぎたかもしれない。


 けれど、今は謝りたくなかった。


「ノクスを救えなかった罰として、六年間ご自分を弱いと責め続けているのではありませんか」


「俺がどう考えるかは、君には分からない」


「はい」


 生きている者の心は読めない。


 だから、私は言い直した。


「私には、アルフォンス様が何を考えているか分かりません」


 彼の右手を見る。


「ですが、鞍へ触れられないことを話す時、ご自分を責めているように見えました」


 それは心を読んだのではない。


 私が見たことだ。


「違うのなら、違うとおっしゃってください」


 アルフォンス様は長く黙った。


 窓の外を、馬車の車輪が通り過ぎる。


 音が遠ざかってから、彼は答えた。


「違わない」


 低い声だった。


「触れられない自分を、六年間責めている」


「では」


「だが、責めるのをやめる方法は分からない」


 私は何も言えなかった。


 慰めることはできる。


 あなたは弱くない。


 ノクスを見捨てたわけではない。


 そう言えばよい。


 けれど、私は当時その場にいなかった。


 彼が何を選び、何ができなかったのか、すべてを知らない。


 簡単な慰めで、六年間を消してはいけない。


「私も同じです」


 代わりにそう言った。


「母の帳面へ触れられない自分を、許す方法が分かりません」


「ああ」


「聞かなくてもよいと、人から言われても」


「ああ」


「自分にしかできないのに、と考えてしまいます」


「俺も、誰かが鞍へ触れなくてよいと言っても、納得できないだろう」


「では、どうすればよいのでしょう」


 アルフォンス様は答えなかった。


 私も答えを持っていない。


 互いに弱さを告白すれば、すぐに前へ進めるわけではない。


 母の帳面は、まだ怖い。


 アルフォンス様も、今この場で鞍に触れられるようになったわけではない。


「無理に触れなくてよい」


 しばらくして、アルフォンス様が言った。


「先ほどと同じですね」


「ああ」


「それでは解決になりません」


「解決しなくてもいい」


「よくありません」


「今すぐ解決しなくてもいい」


 言い直され、私は黙った。


「触れる時を決めるのは君だ」


「触れないまま、母の思いが消えたら?」


「その可能性も含めて、君が選ぶ」


「責任を私へ返すのですね」


「ああ」


 優しい言葉で選択を奪わない。


 アルフォンス様は、私の代わりに正解を決めなかった。


「残酷です」


「分かっている」


「触れろと命じられた方が、楽かもしれません」


「なら、命じてほしいのか」


 私は答えられなかった。


 命じられれば、失敗しても命じた者の責任にできる。


 痛みに耐える理由もできる。


 自分で選ばなくて済む。


「いいえ」


 やがて首を横に振る。


「命じないでください」


「ああ」


「私が触れようとした時も、止めないでください」


「危険が高すぎると判断すれば、意見は言う」


「意見だけ?」


「最後に決めるのは君だ」


 夜会で初めて声の内容を尋ねられた時から、アルフォンス様は同じ姿勢を崩していない。


 私を守ろうとする。


 けれど、私の選択を奪わない。


「では、私も同じようにします」


「何を」


「アルフォンス様がノクスの鞍へ触れられなくても、責めません」


「君に責められる理由はない」


「ですが、代わりに触れるよう求めることもしません」


「君は、いずれ鞍へ触れる必要がある」


「私が触れることと、アルフォンス様が触れることは別です」


 自分が先ほど言った言葉を、そのまま返す。


「鞍から声を聞くために、私が触れる時は来るかもしれません」


「ああ」


「ですが、その前にアルフォンス様が触れなければならないとは言いません」


「弔いには、必要ではないのか」


「分かりません」


「生きている者が別れを受け入れることも、弔いだと言った」


「受け入れ方を、竜葬師が決めるわけではありません」


 弔い帳に書かれていた。


 声を聞く者は、声の主になってはならない。


 死者だけではない。


 生きている者の悲しみも、私の望む形へ変えてはいけない。


「鞍へ触れなくても、アルフォンス様がノクスを忘れたことにはなりません」


「忘れられるはずがない」


「はい」


「だが、触れなければ進めないのかもしれない」


「それも、今は分かりません」


 アルフォンス様は黙った。


「分からないことばかりですね」


「ああ」


「それでも、辺境へ来てほしいと?」


「ああ」


 迷いのない返事だった。


「ノクスを弔えるかは分からない」


「はい」


「君が母親の記録を見つけられる保証もない」


「はい」


「聖竜院の真実へ近づけるとも限らない」


「分かっています」


「それでも、来てほしい」


「竜葬師として?」


 尋ねると、アルフォンス様は一度口を閉じた。


「今の俺が求めているのは、君の力だ」


 正直な言葉だった。


 少しだけ胸が痛む。


 けれど、彼は続けた。


「だが、力だけなら、ここまで話す必要はなかった」


「どういう意味ですか」


「君が触れられないと聞いても、失望しなかった」


 アルフォンス様は、自分の言葉を確かめるようにゆっくり話した。


「むしろ、安心した」


「安心?」


「君にも、触れられないものがあると知ったからだ」


 ひどい言葉にも聞こえる。


 けれど、彼が何を言おうとしているか、少し分かった。


「私を、何でも聞ける便利な人間ではないと思えた?」


「ああ」


「最初は、そう思っていたのですか」


「思っていた」


 否定しない。


「君ならノクスの声を聞ける。答えを得られる。そのことばかり考えていた」


「今は?」


「怖いなら触れられないこともある人間だと思っている」


「当たり前です」


「ああ」


 アルフォンス様が、ほんのわずかに目を細めた。


 笑ったのかもしれない。


「俺は、その当たり前を忘れていた」


 能力がある。


 死者の声を聞ける。


 その事実が、私も恐怖を持つ一人の人間だということを隠してしまう。


 周囲だけではない。


 私自身も忘れていた。


「アルフォンス様も、当たり前の人なのですね」


「何だ、それは」


「辺境伯でも、元竜騎士団長でもなく」


 ノクスを失い。


 鞍へ触れられない。


 一人の人間。


「失礼しました」


「否定はしない」


 また、短い沈黙が落ちる。


 今度の沈黙は、苦しくなかった。


 互いに相手を励ます言葉はない。


 弱さを克服する約束もない。


 けれど、隠さずにいることはできた。


「リーゼロッテ嬢」


「はい」


「辺境へ来るかどうかは、母親の声を聞いてから決めるつもりか」


「そう考えていました」


「今は?」


 私は手袋を見た。


 母の声を聞けなければ、何も決められないと思っていた。


 けれど、それでは自分の人生まで、死者の言葉へ預けることになる。


 母が行けと言えば行く。


 行くなと言えば行かない。


 死者の声は質問へ答えない。


 それでも私は、母の声を自分の決断の代わりにしようとしていた。


「母の声とは別に、決めます」


「そうか」


「触れるかどうかも、今すぐには決めません」


「ああ」


「それでもよいのですね」


「君が決めたなら」


 私は窓の外を見た。


 王都セレスティアの屋根。


 青白く光る竜骨灯(りゅうこつとう)


 この街で私は生まれ。


 育ち。


 十一年間、セドリック様の婚約者として暮らした。


 王都を出ることは、これまでの人生から離れることでもある。


 怖くないはずがない。


 それでも。


 知らないまま、ここへ残ることも怖かった。


「アルフォンス様」


「何だ」


「辺境へ行けば、ノクスの鞍を見せていただけますか」


「ああ」


「触れるかどうかは、その場で決めます」


「ああ」


「アルフォンス様も、鞍へ触れるかはご自分で決めてください」


「分かった」


「お互い、相手へ触れることを命じない」


「約束する」


 約束を交わしても、怖さは消えなかった。


 けれど、怖いことを隠す必要はなくなった。


          ◇


 アルフォンス様を玄関まで見送った後、私は父の書斎へ戻った。


 弔い帳は、先ほどと同じ場所に置かれている。


 父は一人で、切り取られた箇所を調べていた。


「休んだのか」


「アルフォンス様とお話ししていました」


「聞いている」


 扉を開けていたため、使用人から報告があったのだろう。


「体調は?」


「頭の重さは、少し良くなりました」


 大丈夫です、とは言わなかった。


「続きを読んでも?」


「一時間だけだ」


「分かりました」


 父の向かいへ座る。


 弔い帳の表紙へ、手袋を着けたまま手を置いた。


 声は聞こえない。


 母の気配も感じない。


「触れないのか」


 父が尋ねた。


 思わず顔を上げる。


「止めないのですか」


「止めたい」


 父の答えは早かった。


「だが、お前が触れるかどうかを、私が決めるべきではないのだろう」


 苦しそうな声だった。


 父にとって、それは簡単な変化ではない。


「今日は触れません」


「そうか」


「怖いからです」


 父の目が揺れる。


「それを、悪いことだと思わないよう努力します」


「努力しなければならないのか」


「今は」


「そうか」


 父は、それ以上何も言わなかった。


 私は弔い帳を開く。


 切り取られた頁の先にも、母の文字は続いている。


 失われた言葉ばかりを見ていたため、残された言葉を十分に読んでいなかった。


 頁をめくる。


 母が弔った竜。


 話を聞いた人々。


 失敗した儀式。


 何も聞こえなかった遺品。


 そこには、成功だけが記されているわけではなかった。


 ――声を受け取れず。


 ――遺族の同意が得られず、接触せず。


 ――遺品に触れることを、次代の竜葬師へ委ねる。


 私は、その一文で手を止めた。


「次代へ委ねる」


 声に出して読む。


「お母様も、聞かなかったことがあるのですね」


「ああ」


「すべての遺品へ触れたわけではない」


「セレーネは、断ることもあった」


「知っていたのですか」


「依頼人から責められたこともある」


「なぜ、教えてくださらなかったのですか」


 父は目を伏せた。


「お前が力を使う理由を増やしたくなかった」


 母も迷った。


 母も断った。


 母も、すべてを救えたわけではなかった。


 私は母を、何も恐れない竜葬師に変えようとしていたのかもしれない。


「お母様にも、触れられない遺品はありましたか」


「一つだけ、知っている」


 父の言葉に、私は顔を上げる。


「何ですか」


「母親の形見だ」


「私の祖母の?」


「ああ」


「お母様も、母親の遺品へ?」


「最後まで触れなかった」


 胸の奥が大きく揺れた。


「なぜですか」


「私にも話さなかった」


「では、理由は」


「分からない」


 父は静かに首を横に振った。


「ただ、触れられない自分を責めていた」


 母も。


 私と同じように。


 他人の遺品には触れられても、自分の母親の遺品には触れられなかった。


「その遺品は、今どこに?」


「白竜の谷にあるはずだ」


「白竜の谷?」


「セレーネが、信頼していた治療師へ預けた」


「名前は?」


 父は少し迷った後、答えた。


「ルチアという女性だ」


 初めて聞く名だった。


「今も生きているのですか」


「セレーネが亡くなった時には、生きていた」


「連絡は?」


「それ以来、取っていない」


「なぜですか」


「セレーネを思い出すからだ」


 父もまた、触れられないものを持っていた。


 物ではない。


 母を知る、生きている人。


 私は弔い帳を見た。


 母は自分の母親の形見に触れられなかった。


 アルフォンス様は、ノクスの鞍に触れられない。


 父は、母を知る人へ連絡できなかった。


 そして私は、母の弔い帳へ触れられない。


 誰にでも、最後まで手を伸ばせないものがある。


 それは、弱さなのかもしれない。


 逃げなのかもしれない。


 けれど、触れられないまま抱えてきた時間まで、間違いと呼ぶことはできない。


「お父様」


「何だ」


「ルチアさんへ、いつか会いたいです」


 父の表情が強張る。


「今すぐとは申しません」


「……そうか」


「まず、ノクスの弔いについて決めます」


「決めたのではないのか」


「まだ、お父様にはお伝えしていません」


 私は弔い帳を閉じた。


 手袋を着けた掌に、表紙の硬さが伝わる。


 母の声は聞こえない。


 けれど、今の私にはそれでよかった。


「明日、お話しします」


「何を?」


「王都を出るかどうかです」


 父の顔から血の気が引いた。


 それでも、私を閉じ込めるとは言わなかった。


「今、聞かせてくれないのか」


「今夜、自分で考えます」


「私が反対することは分かっているな」


「はい」


「それでも?」


「お父様の言葉を聞いた上で、私が決めます」


 父は、長い間黙っていた。


 やがて、弔い帳の上へ置かれた私の手を見る。


「その手袋は、外さないのか」


「今日は」


「明日は?」


「分かりません」


「辺境へ行く前には?」


「それも、分かりません」


 以前なら、分からないままでは進めないと思っていた。


 今は違う。


 母の声を聞けなくても。


 恐怖を消せなくても。


 私は、自分の声で選ばなければならない。


「お母様の答えではなく」


 私は言った。


「私の答えを考えます」


 父は目を閉じた。


 その言葉が、父を安心させたのか。


 さらに怖がらせたのか。


 私には分からない。


 生きている者の心は読めない。


 だから、明日もう一度、父の言葉を聞く。


 そして私の言葉を伝える。


 弔い帳を読むためではない。


 母の続きを生きるためでもない。


 私自身が、これから進む場所を決めるために。


 私は最後まで手袋を外さなかった。


 それでも初めて。


 触れられない自分のままで、前へ進んでもよいと思えた。

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