最後に触れられない遺品
母の弔い帳は、父の書斎へ運ばれた。
切り取られた頁が見つかった以上、地下の保管室が安全だとは言い切れない。
父は書斎の窓と扉の鍵を確かめ、帳面を机の中央へ置いた。
深い紺色の表紙。
銀糸で縫われた、翼を閉じた竜。
手袋越しに持った時の重みが、まだ両手に残っている。
「地下室の鍵を持っていた者は、三人だけだ」
父が調査した内容を読み上げる。
「私と、家令。それから先代の頃から仕えている執事だ」
「複製された可能性は?」
「鍵職人を呼んで確認させている」
「地下室へ入った記録は残っていないのですね」
「ああ」
父は弔い帳の背を見た。
複数の時代に綴じ直された、色の異なる糸。
「帳面自体は、切り取られた後に一度綴じ直されている」
「切り取られた頁を隠すためでしょうか」
「断定はできない」
「はい」
父は以前よりも、慎重に言葉を選ぶようになっていた。
私が死者の声を「真実ではなく証言」と呼ぶように、父もまた、分からないことを分からないまま扱おうとしている。
けれど、分からないまま待つことは難しい。
切り取られた直前の一文が、頭から離れなかった。
――聖竜院北部管理局の地下にて、名を失った竜骨と、
母は、その先に何を書いたのだろう。
名を失った竜骨と。
子どもたち。
加工の道具。
秘密の記録。
あるいは、人間の遺体。
どれも想像にすぎない。
想像を重ねるほど、母が見たものから遠ざかるかもしれない。
「リーゼロッテ」
父に呼ばれ、顔を上げる。
「同じ箇所を何度読んでも、失われた文字は戻らない」
「分かっています」
「朝から三時間だ」
「まだ、その程度です」
「休みなさい」
「能力は使っていません」
「使っていなくても疲れる」
「私は大丈夫です」
言ってから、口を閉じた。
父も何も言わずに私を見る。
大丈夫です。
長い間、何も伝えないために使ってきた言葉。
「……少し、頭が重いです」
言い直すと、父の表情がわずかに緩んだ。
「一時間休みなさい」
「その後は、また読ませてください」
「今日は終わりにしてもよい」
「それは私が決めます」
父の眉が寄る。
けれど、以前のように「許さない」とは言わなかった。
「一時間後、体調を確認してからだ」
「分かりました」
条件を付けられた。
それでも、選択を奪われたわけではない。
私は弔い帳から離れ、書斎を出た。
◇
自室へ戻り、長椅子へ腰を下ろす。
休むように言われたのだから、目を閉じればよい。
けれど、まぶたの裏に浮かぶのは、母の帳面だった。
深い紺色の表紙。
銀色の竜。
そこへ素手で触れれば、母の声が聞こえるかもしれない。
切り取られた頁について、何か分かるかもしれない。
母が最後に抱いていた思いを受け取れるかもしれない。
私は左手の手袋を見た。
留め具へ右手をかける。
外しても、ここには弔い帳がない。
能力が発動することはない。
それでも指は、留め具を外せなかった。
夜会の竜骨には、迷わず触れた。
落下する竜骨細工から給仕の少女を守るためだった。
あの時は、何が聞こえるか考えなかった。
死者の痛みが流れ込むことも。
声が出なくなることも。
ただ、手を伸ばした。
見知らぬ死者の遺品にも、必要なら触れることができる。
騎士の剣。
子どもの玩具。
竜の牙や鱗。
誰かが最期まで握っていた手紙。
けれど、母の帳面には触れられない。
「私は、卑怯なのでしょうか」
誰もいない部屋で呟く。
他人の痛みなら受け取れる。
母の痛みは怖い。
他人の死なら証言として扱える。
母の死だけは、自分から切り離せない。
もし母の声が、私へ向けられたものでなかったら。
最後に考えていたのが、竜のことだけだったら。
私を置いていくことに、何の未練も残していなかったら。
反対に。
私の名を呼びながら亡くなっていたら。
痛い。
苦しい。
助けて。
そう聞こえたら。
私はその声を、どこへ置けばよいのだろう。
死者とは会話ができない。
母へ、大丈夫だと伝えることもできない。
私が成長したことも。
十九歳になったことも。
婚約を解消されたことも。
母と同じ力を、今も持っていることも。
何一つ、返せない。
聞くだけだ。
そして母の思いは、一度聞けば薄れてしまう。
私は、聞く資格があるのだろうか。
扉が叩かれた。
手袋の留め具から指を離す。
「リーゼロッテ。入ってもよいか」
アルフォンス様の声だった。
「はい」
扉を開けると、アルフォンス様が黒い外套をまとって立っていた。
右手には、革製の書類鞄を持っている。
「突然すまない」
「お父様から連絡が?」
「ああ。弔い帳の頁が切り取られていたと聞いた」
父が自分から助けを求めた。
今までの父なら、アルヴァ家の中だけで解決しようとしただろう。
「中へどうぞ」
「二人で話して問題はないか」
「扉を開けておきます」
私は扉を半分開けたまま、アルフォンス様を窓際の椅子へ案内した。
「グレイヴ領に、セレーネ夫人の記録が残っていた」
アルフォンス様は書類鞄から、数枚の紙を取り出した。
「お母様の?」
「原本は領地にある。これは写しだ」
紙には、十八年前の日付が記されていた。
私はその頃、まだ一歳だった。
「竜葬師セレーネ・アルヴァ。グレイヴ領北部、レムナ谷へ到着」
声に出して読む。
「若い黒竜の弔いを行うため……」
「人間の罠で負傷し、谷へ戻った後に死んだ黒竜だ」
「罠を仕掛けた者は?」
「不明と記録されている」
「母は、遺品へ触れたのでしょうか」
「そこまでは書かれていない」
記録にあるのは、母が三日間の弔いを行ったこと。
立ち会った竜騎士と村人の名前。
遺骨が発見された場所。
儀式の翌朝、谷を覆っていた霜が解けたこと。
そして。
「北へ向かった」
私は最後の一文を読んだ。
「レムナ谷の北には?」
「聖竜院北部管理局があった」
切り取られた頁の直前に書かれていた場所。
母は、辺境から北部管理局へ向かっていた。
「黒竜を殺した罠と、聖竜院に関係があったのでしょうか」
「分からない」
アルフォンス様はすぐに答えた。
「記録にないことは判断できない」
「はい」
分からないことを、望む物語へ変えてはならない。
母の弔い帳にあった誓いを思い出す。
「この原本を確認したいです」
「王都へ運ぶ許可を取る」
「私が辺境へ行けば、直接確認できます」
口にした瞬間、アルフォンス様の視線が私へ向いた。
「辺境へ来ると決めたのか」
「まだです」
「なら、その理由を増やして自分を追い込むな」
「追い込んでなど」
「ノクスだけでは決めきれないから、母親の記録も理由に加えたように聞こえた」
胸を突かれた。
「違います」
「なら、なぜ今、辺境へ行く話をした」
「調べる必要があるからです」
「誰にとって?」
「真実を知るために」
「君自身は、行きたいのか」
返事ができなかった。
母の記録を確かめたい。
ノクスを弔いたい。
ミラの声の意味を知りたい。
それは、どれも本当だ。
けれど、「必要だから行く」と考えれば、自分の気持ちを決めなくて済む。
行きたいのか。
怖いのか。
王都を離れることに、何を感じているのか。
考えなくて済む。
「先ほど」
私は手袋へ視線を落とした。
「母の弔い帳へ触れようとしました」
「触れたのか」
「いいえ」
「なぜ触れなかった」
「怖かったからです」
口にすると、胸の奥が狭くなった。
「見知らぬ死者の遺品には触れられるのに、母の帳面には触れられません」
「そうか」
それだけだった。
アルフォンス様は、失望した顔をしなかった。
「役に立つ声が残っているかもしれません」
「ああ」
「切り取られた頁について、何か知っているかもしれません」
「ああ」
「それなのに、私は自分が傷つくことを恐れて、手袋を外せませんでした」
「それの何が悪い」
思っていなかった言葉だった。
「悪いに決まっています」
「なぜ」
「私にしか聞けないからです」
「君にしかできないことは、君が必ずしなければならないことではない」
「ですが、母の記録は今回の調査に関係しています」
「関係している可能性がある」
「同じことです」
「違う」
アルフォンス様の声は静かだった。
「君はまだ、触れる前から母親の声を調査の証拠にしようとしている」
息を止めた。
「そのようなつもりは」
「母親が切り取られた頁について知っていると、なぜ分かる」
「最期まで弔い帳へ書いていたからです」
「切り取られた時期を知っていたと、なぜ分かる」
「それは……」
「誰かに頁を奪われたことへ思いを残しているとも限らない」
「はい」
「君へ何かを伝えたがっているとも限らない」
胸が痛んだ。
けれど、その通りだった。
私は、母が私に声を聞いてほしいと願っていると思い込んでいた。
強い思いが残っているなら、娘へ伝えたい言葉があるはずだと。
けれど、それは私の望みだ。
母の望みではない。
死者の声を、自らの望む物語へ変えてはならない。
「申し訳ありません」
「誰に謝っている」
「お母様に」
「何を聞いたのかも分からないのに?」
答えられなかった。
「リーゼロッテ嬢」
アルフォンス様は卓上の資料へ手を置いた。
「聞けないことは、罪ではない」
「ですが」
「聞かないと決めることも、逃げではない」
「私は決めたのではありません。怖くて、できなかっただけです」
「ならば、今は触れられない。それだけだ」
「それでは何も分かりません」
「分からないまま待つことは、それほど悪いことか」
「死者の思いは、永遠には残りません」
「母親の思いが、今すぐ消えると分かるのか」
「分かりません」
「なら、焦りを死者のせいにするな」
厳しい言葉だった。
けれど、責められているとは感じなかった。
私が自分を傷つけるために使っていた言い訳を、取り上げられたように感じた。
「アルフォンス様には分かりません」
思わず、そう言っていた。
「何が」
「聞けるのに聞かないことが、どれほど恐ろしいか」
聞かない間に思いが消えたら。
二度と母の声を受け取れなくなったら。
私が恐れたせいで、最後の言葉を失ったら。
「分からないことに耐えられない気持ちなら、分かる」
アルフォンス様の右手が、わずかに震えた。
「俺も触れられない遺品がある」
「何ですか」
「ノクスの鞍だ」
以前、アルフォンス様から聞いていた。
ノクスが長く使い、最期の日にも身につけていた鞍が、辺境に残されていると。
「辺境で保管しているのですね」
「ああ」
「触れたことは?」
「ない」
「六年間、一度も?」
「ああ」
私はアルフォンス様の右手を見た。
震えは小さい。
けれど、止まることはなかった。
「なぜですか」
「触れられなかった」
「触れれば、契約の痛みが戻るのですか」
「分からない」
「何かが見える?」
「俺には君のような力はない」
「では」
「鞍へ触れても、革の感触がするだけだろう」
「それでも怖いのですか」
「ああ」
アルフォンス様は迷わず認めた。
「触れれば、失ったことが確かなものになる気がした」
「ノクスの死は、すでに」
「知っている」
「遺骸も見つかっています」
「見た」
「それでも?」
「知っていることと、受け入れることは違う」
短い言葉だった。
「六年間、俺はノクスに何が起きたのかを探してきた。ミラとルゥも探した」
「はい」
「探している間は、まだ終わっていないと思えた」
アルフォンス様の視線が、震える右手へ落ちる。
「鞍は、俺とノクスがともにいた証拠だ」
「はい」
「同時に、ノクスがもう戻らない証拠でもある」
ノクスが使った鞍。
鞍だけが残され、乗せる竜はいない。
「だから触れられなかった」
アルフォンス様は、言い訳を加えなかった。
自分を正当化もしない。
ただ、触れられなかったという事実を私の前へ置いた。
「ご自分を、弱いと思いますか」
「ああ」
「今も?」
「ああ」
「では、なぜ私には、触れなくてもよいとおっしゃるのですか」
アルフォンス様は答えなかった。
「ご自分には許せないことを、私には許すのですか」
「君と俺は違う」
「違いません」
「違う」
「どこがですか」
「俺はノクスを助けるべきだった」
「それと鞍へ触れられないことは、別です」
「別ではない」
「同じにしているのは、アルフォンス様です」
彼の表情が固まった。
言いすぎたかもしれない。
けれど、今は謝りたくなかった。
「ノクスを救えなかった罰として、六年間ご自分を弱いと責め続けているのではありませんか」
「俺がどう考えるかは、君には分からない」
「はい」
生きている者の心は読めない。
だから、私は言い直した。
「私には、アルフォンス様が何を考えているか分かりません」
彼の右手を見る。
「ですが、鞍へ触れられないことを話す時、ご自分を責めているように見えました」
それは心を読んだのではない。
私が見たことだ。
「違うのなら、違うとおっしゃってください」
アルフォンス様は長く黙った。
窓の外を、馬車の車輪が通り過ぎる。
音が遠ざかってから、彼は答えた。
「違わない」
低い声だった。
「触れられない自分を、六年間責めている」
「では」
「だが、責めるのをやめる方法は分からない」
私は何も言えなかった。
慰めることはできる。
あなたは弱くない。
ノクスを見捨てたわけではない。
そう言えばよい。
けれど、私は当時その場にいなかった。
彼が何を選び、何ができなかったのか、すべてを知らない。
簡単な慰めで、六年間を消してはいけない。
「私も同じです」
代わりにそう言った。
「母の帳面へ触れられない自分を、許す方法が分かりません」
「ああ」
「聞かなくてもよいと、人から言われても」
「ああ」
「自分にしかできないのに、と考えてしまいます」
「俺も、誰かが鞍へ触れなくてよいと言っても、納得できないだろう」
「では、どうすればよいのでしょう」
アルフォンス様は答えなかった。
私も答えを持っていない。
互いに弱さを告白すれば、すぐに前へ進めるわけではない。
母の帳面は、まだ怖い。
アルフォンス様も、今この場で鞍に触れられるようになったわけではない。
「無理に触れなくてよい」
しばらくして、アルフォンス様が言った。
「先ほどと同じですね」
「ああ」
「それでは解決になりません」
「解決しなくてもいい」
「よくありません」
「今すぐ解決しなくてもいい」
言い直され、私は黙った。
「触れる時を決めるのは君だ」
「触れないまま、母の思いが消えたら?」
「その可能性も含めて、君が選ぶ」
「責任を私へ返すのですね」
「ああ」
優しい言葉で選択を奪わない。
アルフォンス様は、私の代わりに正解を決めなかった。
「残酷です」
「分かっている」
「触れろと命じられた方が、楽かもしれません」
「なら、命じてほしいのか」
私は答えられなかった。
命じられれば、失敗しても命じた者の責任にできる。
痛みに耐える理由もできる。
自分で選ばなくて済む。
「いいえ」
やがて首を横に振る。
「命じないでください」
「ああ」
「私が触れようとした時も、止めないでください」
「危険が高すぎると判断すれば、意見は言う」
「意見だけ?」
「最後に決めるのは君だ」
夜会で初めて声の内容を尋ねられた時から、アルフォンス様は同じ姿勢を崩していない。
私を守ろうとする。
けれど、私の選択を奪わない。
「では、私も同じようにします」
「何を」
「アルフォンス様がノクスの鞍へ触れられなくても、責めません」
「君に責められる理由はない」
「ですが、代わりに触れるよう求めることもしません」
「君は、いずれ鞍へ触れる必要がある」
「私が触れることと、アルフォンス様が触れることは別です」
自分が先ほど言った言葉を、そのまま返す。
「鞍から声を聞くために、私が触れる時は来るかもしれません」
「ああ」
「ですが、その前にアルフォンス様が触れなければならないとは言いません」
「弔いには、必要ではないのか」
「分かりません」
「生きている者が別れを受け入れることも、弔いだと言った」
「受け入れ方を、竜葬師が決めるわけではありません」
弔い帳に書かれていた。
声を聞く者は、声の主になってはならない。
死者だけではない。
生きている者の悲しみも、私の望む形へ変えてはいけない。
「鞍へ触れなくても、アルフォンス様がノクスを忘れたことにはなりません」
「忘れられるはずがない」
「はい」
「だが、触れなければ進めないのかもしれない」
「それも、今は分かりません」
アルフォンス様は黙った。
「分からないことばかりですね」
「ああ」
「それでも、辺境へ来てほしいと?」
「ああ」
迷いのない返事だった。
「ノクスを弔えるかは分からない」
「はい」
「君が母親の記録を見つけられる保証もない」
「はい」
「聖竜院の真実へ近づけるとも限らない」
「分かっています」
「それでも、来てほしい」
「竜葬師として?」
尋ねると、アルフォンス様は一度口を閉じた。
「今の俺が求めているのは、君の力だ」
正直な言葉だった。
少しだけ胸が痛む。
けれど、彼は続けた。
「だが、力だけなら、ここまで話す必要はなかった」
「どういう意味ですか」
「君が触れられないと聞いても、失望しなかった」
アルフォンス様は、自分の言葉を確かめるようにゆっくり話した。
「むしろ、安心した」
「安心?」
「君にも、触れられないものがあると知ったからだ」
ひどい言葉にも聞こえる。
けれど、彼が何を言おうとしているか、少し分かった。
「私を、何でも聞ける便利な人間ではないと思えた?」
「ああ」
「最初は、そう思っていたのですか」
「思っていた」
否定しない。
「君ならノクスの声を聞ける。答えを得られる。そのことばかり考えていた」
「今は?」
「怖いなら触れられないこともある人間だと思っている」
「当たり前です」
「ああ」
アルフォンス様が、ほんのわずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。
「俺は、その当たり前を忘れていた」
能力がある。
死者の声を聞ける。
その事実が、私も恐怖を持つ一人の人間だということを隠してしまう。
周囲だけではない。
私自身も忘れていた。
「アルフォンス様も、当たり前の人なのですね」
「何だ、それは」
「辺境伯でも、元竜騎士団長でもなく」
ノクスを失い。
鞍へ触れられない。
一人の人間。
「失礼しました」
「否定はしない」
また、短い沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、苦しくなかった。
互いに相手を励ます言葉はない。
弱さを克服する約束もない。
けれど、隠さずにいることはできた。
「リーゼロッテ嬢」
「はい」
「辺境へ来るかどうかは、母親の声を聞いてから決めるつもりか」
「そう考えていました」
「今は?」
私は手袋を見た。
母の声を聞けなければ、何も決められないと思っていた。
けれど、それでは自分の人生まで、死者の言葉へ預けることになる。
母が行けと言えば行く。
行くなと言えば行かない。
死者の声は質問へ答えない。
それでも私は、母の声を自分の決断の代わりにしようとしていた。
「母の声とは別に、決めます」
「そうか」
「触れるかどうかも、今すぐには決めません」
「ああ」
「それでもよいのですね」
「君が決めたなら」
私は窓の外を見た。
王都セレスティアの屋根。
青白く光る竜骨灯。
この街で私は生まれ。
育ち。
十一年間、セドリック様の婚約者として暮らした。
王都を出ることは、これまでの人生から離れることでもある。
怖くないはずがない。
それでも。
知らないまま、ここへ残ることも怖かった。
「アルフォンス様」
「何だ」
「辺境へ行けば、ノクスの鞍を見せていただけますか」
「ああ」
「触れるかどうかは、その場で決めます」
「ああ」
「アルフォンス様も、鞍へ触れるかはご自分で決めてください」
「分かった」
「お互い、相手へ触れることを命じない」
「約束する」
約束を交わしても、怖さは消えなかった。
けれど、怖いことを隠す必要はなくなった。
◇
アルフォンス様を玄関まで見送った後、私は父の書斎へ戻った。
弔い帳は、先ほどと同じ場所に置かれている。
父は一人で、切り取られた箇所を調べていた。
「休んだのか」
「アルフォンス様とお話ししていました」
「聞いている」
扉を開けていたため、使用人から報告があったのだろう。
「体調は?」
「頭の重さは、少し良くなりました」
大丈夫です、とは言わなかった。
「続きを読んでも?」
「一時間だけだ」
「分かりました」
父の向かいへ座る。
弔い帳の表紙へ、手袋を着けたまま手を置いた。
声は聞こえない。
母の気配も感じない。
「触れないのか」
父が尋ねた。
思わず顔を上げる。
「止めないのですか」
「止めたい」
父の答えは早かった。
「だが、お前が触れるかどうかを、私が決めるべきではないのだろう」
苦しそうな声だった。
父にとって、それは簡単な変化ではない。
「今日は触れません」
「そうか」
「怖いからです」
父の目が揺れる。
「それを、悪いことだと思わないよう努力します」
「努力しなければならないのか」
「今は」
「そうか」
父は、それ以上何も言わなかった。
私は弔い帳を開く。
切り取られた頁の先にも、母の文字は続いている。
失われた言葉ばかりを見ていたため、残された言葉を十分に読んでいなかった。
頁をめくる。
母が弔った竜。
話を聞いた人々。
失敗した儀式。
何も聞こえなかった遺品。
そこには、成功だけが記されているわけではなかった。
――声を受け取れず。
――遺族の同意が得られず、接触せず。
――遺品に触れることを、次代の竜葬師へ委ねる。
私は、その一文で手を止めた。
「次代へ委ねる」
声に出して読む。
「お母様も、聞かなかったことがあるのですね」
「ああ」
「すべての遺品へ触れたわけではない」
「セレーネは、断ることもあった」
「知っていたのですか」
「依頼人から責められたこともある」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
父は目を伏せた。
「お前が力を使う理由を増やしたくなかった」
母も迷った。
母も断った。
母も、すべてを救えたわけではなかった。
私は母を、何も恐れない竜葬師に変えようとしていたのかもしれない。
「お母様にも、触れられない遺品はありましたか」
「一つだけ、知っている」
父の言葉に、私は顔を上げる。
「何ですか」
「母親の形見だ」
「私の祖母の?」
「ああ」
「お母様も、母親の遺品へ?」
「最後まで触れなかった」
胸の奥が大きく揺れた。
「なぜですか」
「私にも話さなかった」
「では、理由は」
「分からない」
父は静かに首を横に振った。
「ただ、触れられない自分を責めていた」
母も。
私と同じように。
他人の遺品には触れられても、自分の母親の遺品には触れられなかった。
「その遺品は、今どこに?」
「白竜の谷にあるはずだ」
「白竜の谷?」
「セレーネが、信頼していた治療師へ預けた」
「名前は?」
父は少し迷った後、答えた。
「ルチアという女性だ」
初めて聞く名だった。
「今も生きているのですか」
「セレーネが亡くなった時には、生きていた」
「連絡は?」
「それ以来、取っていない」
「なぜですか」
「セレーネを思い出すからだ」
父もまた、触れられないものを持っていた。
物ではない。
母を知る、生きている人。
私は弔い帳を見た。
母は自分の母親の形見に触れられなかった。
アルフォンス様は、ノクスの鞍に触れられない。
父は、母を知る人へ連絡できなかった。
そして私は、母の弔い帳へ触れられない。
誰にでも、最後まで手を伸ばせないものがある。
それは、弱さなのかもしれない。
逃げなのかもしれない。
けれど、触れられないまま抱えてきた時間まで、間違いと呼ぶことはできない。
「お父様」
「何だ」
「ルチアさんへ、いつか会いたいです」
父の表情が強張る。
「今すぐとは申しません」
「……そうか」
「まず、ノクスの弔いについて決めます」
「決めたのではないのか」
「まだ、お父様にはお伝えしていません」
私は弔い帳を閉じた。
手袋を着けた掌に、表紙の硬さが伝わる。
母の声は聞こえない。
けれど、今の私にはそれでよかった。
「明日、お話しします」
「何を?」
「王都を出るかどうかです」
父の顔から血の気が引いた。
それでも、私を閉じ込めるとは言わなかった。
「今、聞かせてくれないのか」
「今夜、自分で考えます」
「私が反対することは分かっているな」
「はい」
「それでも?」
「お父様の言葉を聞いた上で、私が決めます」
父は、長い間黙っていた。
やがて、弔い帳の上へ置かれた私の手を見る。
「その手袋は、外さないのか」
「今日は」
「明日は?」
「分かりません」
「辺境へ行く前には?」
「それも、分かりません」
以前なら、分からないままでは進めないと思っていた。
今は違う。
母の声を聞けなくても。
恐怖を消せなくても。
私は、自分の声で選ばなければならない。
「お母様の答えではなく」
私は言った。
「私の答えを考えます」
父は目を閉じた。
その言葉が、父を安心させたのか。
さらに怖がらせたのか。
私には分からない。
生きている者の心は読めない。
だから、明日もう一度、父の言葉を聞く。
そして私の言葉を伝える。
弔い帳を読むためではない。
母の続きを生きるためでもない。
私自身が、これから進む場所を決めるために。
私は最後まで手袋を外さなかった。
それでも初めて。
触れられない自分のままで、前へ進んでもよいと思えた。




