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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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弔い帳

 地下へ続く階段は、思っていたよりも深かった。

 父が持つ燭台しょくだいの明かりが、古い石壁をぼんやり照らしている。


 足を下ろすたび、靴音が細い通路へ響いた。


 アルヴァ伯爵邸で生まれ育った私も、この場所へ来るのは初めてだった。


「この保管室は、いつからあるのですか」


「屋敷が建てられた時からだ」


 父は前を向いたまま答えた。


「戦乱や火災が起きても、家の記録を残せるように造られた」


「母の品を保管するための部屋ではなかったのですね」


「ああ」


 短い返事だった。


 けれど母が亡くなった後、父はここを母のための場所に変えたのだろう。


 階段を下りきると、鉄製の扉が現れた。


 扉の表面には、アルヴァ家の紋章と、見慣れない文字が刻まれている。


 翼を閉じた竜を囲むように並ぶ古い文字。


 第十話で父が持っていた紙に描かれていた印と同じものだった。


「これは竜葬師の印ですか」


「正確には、封印のための印だ」


 父は扉へ銀色の鍵を差し込む。


「中にある品へ、外から魔力が流れ込まないようにしている」


「思いを保存するために?」


「それもある」


「他には?」


 父の手が止まる。


「残された思いが、外へ漏れ出さないためだ」


 私は扉を見つめた。


 死者の思いは、通常なら遺品に留まっている。


 素手で直接触れなければ、声も映像も流れ込んでこない。


 けれど、あまりに強い感情が残された遺品は、周囲の魔力へ影響を与えることがある。


 母から昔話のように教えられたことがあった。


 眠れない家。


 夏でも凍る部屋。


 同じ夢を見る家族。


 死者の声を聞けなくても、残された感情へ引きずられる者はいる。


「危険な物もあるのですか」


「セレーネが保管していた遺品の一部は、ここにはない」


「どこに?」


「すでに弔いを終え、持ち主の家族へ返した」


「では、ここにあるのは」


「セレーネ自身の物だけだ」


 鍵が回る。


 重い音を立て、扉が内側へ開いた。


 冷たい空気が流れ出す。


 能力を使った後のような冷えではない。


 長く閉ざされていた石室の冷気だ。


 それでも私は、無意識に手袋の上から指を握った。


「入る前に約束を確認する」


 父がこちらを向く。


「何へも素手で触れないこと」


「はい」


「私が部屋を出ても、手袋を外さない」


「勝手に残るつもりはありません」


「言葉だけでは足りない」


 父の声は硬かった。


 昨夜、私を信じることが怖いと言った人の声だった。


「約束します」


 私は父の目を見て答える。


「今日は、何へも素手で触れません」


 父はしばらく私を見ていた。


 やがて、小さくうなずく。


「入ろう」


          ◇


 保管室には、いくつもの木箱が並んでいた。


 母の衣装。


 使っていた筆。


 銀色の髪飾り。


 欠けた茶器。


 幼い頃に見た記憶のある物も、知らない物もある。


 すべてが白い布や木箱に収められ、一つずつ丁寧に名前と日付が記されていた。


「お父様が整理されたのですか」


「ああ」


「すべて?」


「他人に任せたくなかった」


 父は一番近くの箱へ目を落とす。


 そこには、母が亡くなる前年の日付が書かれていた。


「最初は、捨てるつもりだった」


「母の物を?」


「残せば、お前が触れるかもしれないと思った」


 父の声には、今も迷いが残っている。


「だが、捨てることもできなかった」


「だから、ここへ?」


「ああ」


 捨てられず。


 見せられず。


 父は母のすべてを、この地下へ閉じ込めた。


 私の力と同じように。


「弔い帳は、どちらにありますか」


 尋ねると、父が保管室の奥を見る。


 そこには他の箱とは異なる、黒い木製の長箱が置かれていた。


 箱の蓋には、翼を閉じた竜の印。


 父が近づき、燭台を横の台へ置く。


「これはセレーネの実家から持ち込まれた物だ」


「母の実家?」


 母の親族について、私はほとんど何も知らない。


 父からは、遠い地方の小貴族の娘だったとしか聞かされていなかった。


「アルヴァ家の方ではないのですか」


「セレーネの一族は、家名を持たなかった」


「平民だったのですか」


「そう単純ではない」


 父は箱の鍵へ手をかける。


「竜葬師は、かつて王家や教会に属さず、竜の生息地を巡っていた。土地や家名を持てば、領主や国の命令から逃れられなくなるからだ」


「命令されないために、何も持たなかった?」


「ああ」


「それでは、生活は」


「弔いを受けた集落や竜騎士団が、必要な物を渡していた」


「報酬ですか」


「報酬ではないと、セレーネは言っていた」


 父の口元が、ごくわずかに緩む。


 母の言葉を思い出したのかもしれない。


「死者を送った後、生者が食事と寝床を分ける。それは取引ではなく、ともに生きるための決まりだと」


 母らしい言葉だと思った。


 死者のために何かをするだけではなく、残された者同士で食卓を囲む。


 弔いは墓の前だけで終わらない。


「竜葬師は、どのように選ばれるのですか」


「多くは血筋だ」


「私の力も、母から?」


「おそらくは」


「お母様のご両親も、声を聞けたのですか」


「セレーネの母親は聞けた。父親は聞けなかった」


「力を持たない者も、一族にはいたのですね」


「ああ」


 父は長箱を開けた。


 古い紙と乾いた薬草の香りが広がる。


 箱の中には数冊の本と、布に包まれた細長い物が収められていた。


 その一番上に、一冊の帳面があった。


 深い紺色の表紙。


 何度も使われたためか、角が丸く擦れている。


 表紙の中央には、銀色の糸で翼を閉じた竜が刺繍ししゅうされていた。


 その翼の下へ、小さな文字が縫い込まれている。


「何と書かれているのですか」


「名を残す。声を残す。生きる者を残す」


 父が読んだ。


「竜葬師の古い誓いだ」


 父の手が帳面へ伸びる。


 けれど、触れる寸前で止まった。


 その指が、わずかに震えている。


「お父様?」


「これを最後に開いたのは、セレーネが亡くなった日だ」


「その後は、一度も?」


「ああ」


「なぜですか」


「読めなかった」


 父は短く答えた。


「文字を見るだけで、あの日の声を思い出した」


 母が亡くなった日のことを、父はほとんど話さない。


 病で長く伏せっていた。


 最後は静かに息を引き取った。


 私が知っているのは、それだけだ。


「お母様は、最期までこの帳面を使っていたのですか」


「亡くなる数日前まで、何かを書いていた」


「では、強い思いが残っている可能性があります」


「ああ」


 父は私の手袋を見る。


「だから触れるな」


「分かっています」


「お前が聞きたいと思うことも、分かっている」


 父の声が掠れた。


「それでも、今日は触れるな」


「はい」


 私は手を伸ばさなかった。


 けれど、胸の奥では別の声がしていた。


 触れれば、母の声が聞こえるかもしれない。


 私の名を呼んでくれるかもしれない。


 父が隠していることも。


 母が何を恐れていたのかも。


 最後に私へ何を伝えたかったのかも。


 分かるかもしれない。


 もちろん、それは願望にすぎない。


 死者の声は質問へ答えない。


 母の思いが私へ向けられたものとは限らない。


 最期に書いていた記録のことだけが残っているかもしれない。


 痛みや苦しみだけが流れ込む可能性もある。


 それでも。


 私は、母の声を聞きたかった。


「リーゼロッテ」


 父に呼ばれ、私は顔を上げた。


「手を」


 知らないうちに、右手で左の手袋の端をつまんでいた。


 あと少し引けば、手首が露出する。


 私は慌てて指を離した。


「申し訳ありません」


「謝ることではない」


「約束を破りかけました」


「まだ破っていない」


 父は帳面を見つめる。


「私も、これを渡せばお前が触れたくなると分かっていた」


「それでも見せてくださったのですね」


「ああ」


「なぜですか」


 父はすぐには答えなかった。


 やがて帳面の下へ両手を差し入れ、慎重に持ち上げる。


「何も知らないまま閉じ込めることは、守ることではないと言われたからだ」


 第十二話で、私が父へ告げた言葉。


「私は、まだお前を辺境へ行かせたくない」


「はい」


「この帳面を渡すことが正しいとも思っていない」


「はい」


「だが、お前の知らないところで、私だけがセレーネの言葉を抱えているのも間違っているのだろう」


 父は帳面を私へ差し出した。


 私は両手で受け取る。


 厚い手袋越しに、革の硬さと重みだけが伝わった。


 声は聞こえない。


 当然だ。


 布一枚でも間にあれば、能力は発動しない。


 母は目の前にいるようで。


 同時に、どこにもいなかった。


「重いですね」


「何十年分もの記録がある」


「母だけの記録ではないのですか」


「歴代の竜葬師が引き継いできた帳面だ」


 私は驚いて父を見る。


「それでは、お母様より前の竜葬師の文字も?」


「ああ。最初の頁は百年以上前のものだと聞いた」


「一冊を使い続けたのですか」


「頁を追加し、綴じ直しながらな」


 帳面の背を見る。


 何種類もの糸が使われていた。


 新しい紺色の糸。


 色褪せた灰色の糸。


 ほとんど白くなった古い糸。


 一冊の帳面に見えるが、何世代もの記録が重ねられている。


「開いても?」


「手袋を外さなければ」


 私は慎重に表紙を開いた。


 最初の頁には、竜葬師の誓いが書かれていた。


 古い文字だったが、その下に母の筆跡で読みやすく書き直されている。


 ――声を聞く者は、声の主になってはならない。


 ――死者の言葉を、自らの望む物語へ変えてはならない。


 ――聞こえなかったことを、聞こえたと言ってはならない。


 ――分からないことを、分かったと言ってはならない。


 ――弔いは死者への服従ではない。


 ――生者が死者を忘れるためのものでもない。


 ――死者と生者の間に境を置き、双方をその先へ進ませるものである。


 これまで私が、自分なりに考えてきたこと。


 死者の声は真実ではなく、証言であること。


 聞こえた願いへ、そのまま従うべきではないこと。


 それはすべて、竜葬師が守ってきた考えだった。


「お母様は、これを私に教えようとしていたのですね」


「幼いお前へ、すべてを教えるつもりはなかったと思う」


「それでも、同じ言葉を聞いた記憶があります」


 昔、母の膝の上で聞いた。


 死んだ人は、正しい人になるわけではない。


 悲しい声だからといって、何でも叶えてよいわけではない。


 母の言葉は、昔話ではなかった。


 竜葬師として受け継いだ教えだった。


 頁をめくる。


 竜の名。


 種類。


 生きていた土地。


 遺骨が見つかった場所。


 触れた遺品。


 聞こえた言葉。


 立ち会った生者。


 弔いの方法。


 その後、遺骨や遺品をどうしたか。


 一体ずつ、丁寧に記録されている。


 黒竜。


 白竜。


 赤竜。


 青竜。


 名前が判明している竜には、その名が大きく記されている。


 名前が分からない竜の欄には、勝手な名はつけられていない。


 ただ、こう書かれていた。


 ――名を奪われた者。


「名前が分からないまま、弔った竜もいるのですね」


「ああ」


「それでも弔えるのですか」


「セレーネは、名前が分からないことを隠してはならないと言っていた」


「新しい名前をつけるのではなく?」


「人間が呼びやすい名を勝手に与えれば、その竜が生きていた証拠を上書きすることになると」


 死者の声を、自分の望む物語へ変えない。


 名前も同じなのだろう。


 分からないことを、分からないまま残す。


 それも記録の役割だ。


 さらに頁をめくる。


 一頭の白竜についての記録があった。


 老衰で亡くなった白竜。


 生前、人間の村へ自ら鱗を与え、病人を癒やしていた。


 村人たちはその竜を神としてまつろうとした。


 けれど、遺品から聞こえた思いは、神になりたいというものではなかった。


 ――水を汚さないで。


 ただ、それだけだった。


 竜葬師は、村人へ白竜を崇拝するよう求めなかった。


 代わりに、川へ汚水を流さない決まりを作らせた。


 死者の願いを、生活の中へ残したのだ。


「弔いとは、儀式だけではないのですね」


「ああ」


 父は私の隣へ立ち、頁を見下ろしている。


「セレーネは、祈りを唱えるだけなら聖職者に任せればよいと言っていた」


「竜葬師が必要なのは、聞いた後に何をするかを決めるため?」


「死者だけでなく、生きている者と話すためだそうだ」


 声を聞く力だけでは、竜葬師にはなれない。


 父がそう言った意味が、少し分かった。


 死者の声を聞き。


 その声を記録し。


 生者と話し。


 できることと、できないことを分ける。


 死者へ従うのではない。


 生者へ忘れろと命じるのでもない。


 双方の間へ、境を作る。


「ノクスの弔いにも、必要なのでしょうか」


「何がだ」


「ノクスの声だけではなく、アルフォンス様の証言が」


 父の顔が曇る。


「辺境へ行くことを認めたわけではない」


「分かっています」


 すぐに答えた。


「ただ、帳面から読み取れることを申し上げただけです」


「……そうか」


 父はそれ以上反対しなかった。


 私は頁をめくり続ける。


 途中から、筆跡が変わった。


 整っているが、柔らかな文字。


 母の筆跡だった。


 日常の手紙で見たものと同じ。


 けれど、ここに書かれた言葉は、私の知る母よりも厳しかった。


 ――聞く前に、可能な限り生者の証言を集めること。


 ――遺品の思いは有限であり、好奇心で触れてはならない。


 ――触れる者の体調を記録し、次の接触まで十分な期間を置くこと。


 ――強い思いへ一人で触れないこと。


 最後の一文で、私は手を止めた。


「お母様は、一人で触れないよう書いています」


「ああ」


「それでも、自分は一人で調査したのですか」


 父は答えなかった。


「お父様」


「すべてが一人だったわけではない」


「では、誰が一緒に?」


「今は話せない」


 また同じ答え。


 胸に苛立ちが浮かんだ。


 けれど、父は何も見せないと言っていた昨日までとは違う。


 少なくとも、弔い帳をここまで開いている。


「分かりました」


 私は一度、問いを引いた。


「ですが、いずれ教えてください」


「ああ」


 小さな返事だった。


 約束と呼べるほど強い言葉ではない。


 それでも、拒絶ではなかった。


 母の記録を読み進める。


 辺境の村。


 枯れた泉。


 赤竜が使っていた首輪。


 病で亡くなった竜騎士の手紙。


 竜だけではなく、人間の遺品についても書かれている。


「竜葬師なのに、人間も弔っていたのですね」


「セレーネは、竜と関わった死者だけだと言っていた」


 竜に殺された者。


 竜を守って亡くなった者。


 竜骨を運んでいた者。


 竜骨魔石の事故で亡くなった者。


 人間と竜の間に残された死者の声。


 そのすべてを記録していた。


 母が何を調べていたのか、少しずつ形が見えてくる。


 頁の隅に、何度も同じ印が現れた。


 翼を広げた白い竜。


 その胸に、太陽を模した円。


「これは、聖竜院の古い紋章ですか」


 父の表情が固まる。


「ああ」


「何度も記されています」


「当時から、竜の遺骨を管理していたからだ」


「管理だけですか」


「リーゼロッテ」


「聞いているだけです」


 母の記録では、聖竜院の名が出るたび、文章が慎重になっていた。


 竜骨の回収。


 加工許可。


 輸送。


 治療院への提供。


 自然死した竜の遺骨を、人々のために使う。


 書かれている内容だけを見れば、現在の聖竜院の説明と大きくは違わない。


 けれど、母は欄外に何度も疑問を書き残していた。


 ――回収時の立会人なし。


 ――死因の記録なし。


 ――発見場所と加工場所の距離が不自然。


 ――同じ番号が二度使用されている。


 夜会の竜骨と同じだった。


 番号。


 日付。


 記録の矛盾。


 母も、同じものを追っていた。


「お母様は、私たちより前に気づいていた」


 呟くと、父が帳面を閉じようとした。


「今日はここまでだ」


「待ってください」


「約束は、見るだけだった」


「まだ触れていません」


「だからこそだ」


 父は帳面へ手を伸ばす。


「これ以上読めば、お前は止まらなくなる」


「お父様は、また私の代わりに決めるのですか」


 父の手が止まった。


「昨夜、私が申し上げたことを忘れたのですか」


「忘れてはいない」


「では、読ませてください」


「聖竜院に関する頁は危険だ」


「読むだけでも?」


「知っている者がいると分かれば、それだけで狙われる」


「誰にですか」


「分からない」


「分からないから隠すのですか」


「セレーネは、この記録を残したために――」


 父は途中で言葉を切った。


「残したために、何ですか」


「今は言えない」


 私は帳面を抱く手へ力を込めた。


 手袋越しでも、表紙の角が掌へ当たる。


「お父様」


「今日はここまでだ」


 父の声は、再び硬くなっていた。


 私は反発しかけた。


 けれど、母の記録にあった一文を思い出す。


 ――強い思いへ一人で触れないこと。


 弔い帳を読むこと自体に、能力の危険はない。


 それでも、私は自分が冷静ではなくなり始めていることに気づいた。


 頁をめくる指が速くなっている。


 母と同じものを見つけた。


 母の続きを追える。


 その思いだけで、父の恐怖も、自分の体調も、すべて後回しにしようとしている。


「分かりました」


 私は手を止めた。


 父が驚いたように私を見る。


「今日は、ここまでにします」


「本当に?」


「私が止めると決めました」


 父に止められたからではない。


 自分で、ここまでと決める。


 それは小さな違いだった。


 けれど、私には大切なことだった。


「ただし、この帳面は部屋へ持ち帰ります」


「認められない」


「読む時は、お父様か侍女に立ち会ってもらいます」


「そういう問題ではない」


「地下へ閉じ込めたままでは、必要なことを学べません」


「複製を作らせる」


「時間がかかります」


「なら待て」


「ノクスは六年待っています」


「その六年を、お前が背負うな」


 父の声が強くなる。


 私は一度、息を整えた。


「では、妥協します」


「何だ」


「今日は帳面をここへ戻します」


 父の表情が少し緩む。


「明日から、毎日決まった時間に読ませてください」


「私が立ち会う」


「構いません」


「手袋は外さない」


「はい」


「帳面を持ち出さない」


「今のところは」


「今のところ?」


「すべて読んだ後、改めて相談します」


 父は苦い顔をした。


 けれど、拒絶はしなかった。


「分かった」


 私は帳面を箱へ戻そうとした。


 その時、途中の頁がわずかに浮いていることに気づいた。


 綴じ糸が緩んでいるのだろうか。


 帳面を傾けると、数枚の頁の端が不自然に揃っていた。


「お父様」


「どうした」


「ここを見てください」


 母の記録が始まった後半部分。


 聖竜院の紋章が何度も現れる辺りだ。


 頁を慎重に開く。


 前の頁には、北部の竜骨保管施設について書かれていた。


 次の頁には、別の村で行われた弔いの記録。


 日付が三か月ほど飛んでいる。


 その間の紙は、根元から切り取られていた。


 一枚ではない。


 少なくとも、十枚以上。


「これは」


 父の顔から血の気が引いた。


「お父様が切り取ったのですか」


「違う」


 即答だった。


「では、お母様が?」


「分からない」


「最後に帳面を開いた時には?」


「気づかなかった」


 父が帳面を受け取り、切り口を確かめる。


 古い傷ではない。


 紙の色は周囲と同じように変色しているが、刃物で丁寧に切られている。


「切り取られた頁には、何が書かれていたのですか」


「知らない」


「本当に?」


「セレーネは、すべてを私に見せていたわけではない」


 父の声が震える。


「亡くなる前、この帳面へ触れるなと言われた」


「なぜですか」


「記録を守るためだと思っていた」


「誰から?」


 父は答えられなかった。


 切り取られた直前の頁へ目を戻す。


 最後の一行は、途中で終わっていた。


 ――聖竜院北部管理局の地下にて、名を失った竜骨と、


 その先がない。


 次の頁ごと、切り取られている。


「名を失った竜骨と、何を見つけたのでしょう」


 私が呟くと、父が帳面を閉じた。


「今日は終わりだ」


「ですが」


「この欠落を確認する必要がある」


「私も確認します」


「リーゼロッテ」


「これは母の記録です」


「だから危険なのだ」


「だからこそ、一人で隠さないでください」


 父は帳面を胸へ抱えた。


 渡すまいとする姿にも。


 失うまいとする姿にも見えた。


「お父様」


 私は一歩だけ近づく。


「一人で背負わない方法を探すと、私は決めました」


 今朝、紙へ書いた言葉。


「それは私だけの話ではありません」


 父の目が揺れる。


「お父様も、一人で抱えないでください」


「私は」


「お母様の死も。切り取られた記録も。私が同じ道を歩くかもしれないという恐怖も」


 父は何も答えない。


「私にすべてを背負わせないでください。ですが、何も持たせないままにも、しないでください」


 長い沈黙の後。


 父は弔い帳を箱へ戻さなかった。


 代わりに、両腕で抱えたまま、保管室の出口へ向かう。


「どちらへ?」


「書斎だ」


「持ち出してよいのですか」


「この部屋が安全とは限らなくなった」


 切り取られた頁。


 父が知らない間に、何者かがここへ入った可能性がある。


 あるいは、母自身が切り取り、別の場所へ隠したのかもしれない。


「屋敷の出入りの記録を調べる」


 父が言った。


「この部屋の鍵を持っていた者も」


「私も手伝います」


「お前は――」


 反対しかけた父が、言葉を止める。


 私を閉じ込めない。


 一人で抱えない。


 そのどちらも、父にとっては簡単ではないのだろう。


「書斎で、帳面の残った頁を確認する」


 父は言い直した。


「手袋を外さないこと。それから、必ず私が立ち会う」


「はい」


「辺境伯にも、この件を知らせる」


「アルフォンス様へ?」


「聖竜院北部管理局は、ミラの記録とも関係している」


 父は苦しそうに顔を歪めた。


「もう、アルヴァ家だけの問題ではない」


 それは、父が初めて他人の助けを求めると決めた瞬間だった。


 私はうなずく。


「分かりました」


 保管室を出る前に、もう一度だけ黒い長箱を見た。


 母の髪飾り。


 母の筆。


 母が残した衣装。


 どれも、素手で触れれば声が聞こえる可能性がある。


 けれど、私が最も触れたいのは、父の腕に抱かれた弔い帳だった。


 その表紙には、母の指が何度も触れている。


 亡くなる直前まで、文字を書き続けていた。


 きっと強い思いが残っている。


 私の名を呼ぶ声かもしれない。


 知らない誰かを助けようとする声かもしれない。


 あるいは。


 何も聞こえないかもしれない。


 手袋を外せば、確かめられる。


 私は右手を持ち上げた。


 手袋の留め具へ指をかける。


 けれど。


 外すことができなかった。


 夜会の竜骨へは、迷わず手を伸ばせた。


 見知らぬ死者の遺品にも、必要なら触れてきた。


 それなのに。


 母の声が残っているかもしれない帳面を前にすると、指が動かなかった。


「リーゼロッテ?」


 父が振り返る。


 私は手袋から手を離した。


「何でもありません」


 いつもの言葉が口から出そうになる。


 大丈夫です。


 けれど、私はそれを飲み込んだ。


「……怖いのです」


 代わりに、初めて本当のことを言った。


 父は何も言わなかった。


 ただ、弔い帳を抱える腕へ少しだけ力を込めた。


 母の声を聞くことが。


 聞こえないことが。


 どちらも、怖かった。


 そして帳面の中では。


 切り取られた母の言葉だけが、今も沈黙していた。

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