守るという名の檻
その夜、私は自室の机に向かったまま、何も書けずにいた。
白い紙の上には、日付だけが残っている。
アルフォンス様から依頼された、黒竜ノクスの弔い。
辺境へ行くかどうかを決めるため、確認しなければならないことを書き出すつもりだった。
遺骨の保存状態。
欠けている部位。
過去に行われた儀式。
ノクスが使っていた鞍。
能力を使った後に備える治療師。
考えるべきことは、いくらでもある。
けれど、頭に浮かぶのは父の言葉ばかりだった。
――この子に、私の続きを背負わせてはいけない。
母はそう言ったという。
それは、私に竜葬師になるなという意味だったのだろうか。
死者の声を聞くな。
竜を弔うな。
聖竜院へ近づくな。
何も知らないまま、伯爵令嬢として生きろ。
母は、本当にそこまで望んでいたのだろうか。
分からない。
亡くなった母へ、今さら問いかけることはできない。
仮に母の遺品へ触れたとしても、答えを尋ねることはできない。
聞こえるのは、母が最期に残した短い思いだけだ。
私が知りたいことへ、都合よく答えてくれるわけではない。
だからこそ、生きている父へ尋ねなければならなかった。
父が何を知り。
何を恐れ。
何を隠したのか。
そのすべてを聞いた上で、私は自分で選びたい。
紙の上へ、ゆっくりと文字を書く。
――私は、辺境へ行きたいのか。
書いた直後、手が止まった。
行くべきか、ではない。
行かなければならないか、でもない。
私が、どうしたいのか。
そんなことを自分へ尋ねたのは、いつ以来だろう。
私はノクスを弔いたい。
ミラの声が何を意味するのか確かめたい。
アルフォンス様が六年間抱えてきたものを、彼一人の中へ残したくない。
それは義務なのだろうか。
死者のためか。
アルフォンス様のためか。
それとも、私自身が知りたいからなのか。
答えは一つではなかった。
どれも本当なのだと思う。
だから私は、新しい一行を書き加えた。
――私は、自分で確かめたい。
その文字を見た時、廊下から足音が聞こえた。
扉の前で止まる。
控えめなノック。
「リーゼロッテ。起きているか」
父の声だった。
「はい」
扉を開けると、父は何も持たずに立っていた。
上着も着替えていない。
昼間の応接室で話した時と同じ服装だった。
「少し話せるか」
「どうぞ」
父を室内へ招く。
侍女へ飲み物を頼もうとしたが、父は首を横に振った。
「長くはかからない」
そう言って、椅子には座らなかった。
机の上の紙へ視線を落とす。
「辺境へ行く準備か」
「まだ、行くとは決めていません」
「では、何を書いている」
「決めるために必要なことです」
父は紙へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「見せる必要はありません」
「隠しているわけではありません」
私は紙を裏返さなかった。
父は最後に書いた一行を読んだはずだ。
――私は、自分で確かめたい。
「昼間のことを謝りに来た」
父が言った。
「声を荒らげたことだ」
「そのことでしたら、私も言い過ぎました」
「お前に謝らせるために来たのではない」
第六話の馬車でも聞いた言葉だった。
父は私に謝らせたいわけではない。
それでも、私が謝らずにいると、何を言えばよいか分からなくなる。
「では、何をお話しに?」
「辺境へ行くことは認められない」
謝罪の直後に、同じ結論を告げられる。
胸の奥が静かに冷えた。
「理由は、先ほど伺いました」
「ならば、理解できるだろう」
「理解と同意は別です」
父の眉が動いた。
「ノクスの弔いには危険がある」
「はい」
「お前には経験がない」
「はい」
「力を使えば、また体を壊すかもしれない」
「分かっています」
「ならば、なぜ行こうとする」
「行くかどうかを決めるために、調べているところです」
「行かないと決めればよい」
「それは決めることではありません」
父の表情が険しくなる。
「選択肢を一つにされて、従うだけです」
「危険な選択肢を取り除くことが、なぜ悪い」
「誰にとって危険かを、お父様だけで決めているからです」
「死ぬかもしれないのだぞ」
「王都にいても、人は死にます」
「詭弁だ」
「では、どこまでなら生きることを許されるのですか」
父が息を止めた。
「手袋を外さず、死者の声を口にせず、聖竜院を疑わず、公爵家へ嫁ぐ。それがお父様の望む安全な人生だったのでしょうか」
「お前が穏やかに暮らせる人生だ」
「私は穏やかでしたか」
十一年間の婚約。
能力を知られることへの恐怖。
セドリック様の前で、死者の話をしないよう言葉を選び続けた日々。
手袋の下で指が冷えていても、何もなかったように微笑んだ時間。
「不幸ではなかったはずだ」
父の答えは弱かった。
「不幸ではありませんでした」
私は認めた。
すべてが苦痛だったわけではない。
セドリック様と笑ったこともある。
公爵家で親切にされたこともある。
伯爵令嬢としての暮らしに、何一つ喜びがなかったわけではない。
「ですが、幸せだったかどうかを、お父様が決めることはできません」
「なら、お前は不幸だったと言うのか」
「分かりません」
正直に答える。
「私は、自分が何を感じているのか考えないようにしてきましたから」
父の顔が曇った。
「お前は昔から、何も言わなかった」
「言わない方が、お父様が安心すると思っていました」
「私はそのようなことを――」
「能力を使った後に頭が痛くても、大丈夫だと言いました。味が分からなくても、食事はおいしいと言いました。死者の声が怖くても、何も聞こえなかったふりをしました」
父が何か言おうとする。
けれど、私は止まらなかった。
「悲しいと言えば、お父様は私から何かを遠ざけようとしました」
「お前を苦しめるものから守ろうとした」
「私がなぜ悲しいのかを聞く前に?」
父の唇が閉じる。
「声が怖いと言えば、手袋を外すなと言われました」
「それで聞こえなくなる」
「聞こえなくなれば、怖くなくなると思ったのですか」
「少なくとも、傷つくことはない」
「聞こえた声を誰にも話せず、一人で覚えていることは、傷つくことではないのですか」
父は答えなかった。
私はずっと、父が死者の声を嫌っていると思っていた。
けれど今なら分かる。
父は声を嫌っていたのではない。
声を聞いた私が、母と同じ場所へ進むことを恐れていた。
「お父様が私を愛してくださっていることは、分かっています」
そう言うと、父の目が揺れた。
「疑ったことはありません」
「ならば」
「ですが、愛していることと、正しいことは同じではありません」
父の顔から表情が消えた。
「守るために黙らせることを、私は守るとは呼びません」
部屋の中が静まり返る。
窓の外では雨が止み、屋根から落ちる雫だけが、一定の間隔で音を立てていた。
「私が聞いたことを話せば危険だから、黙れ」
一つずつ、父がしてきたことを言葉にする。
「母の過去を知れば同じ道を選ぶから、教えない」
「それは――」
「辺境へ行けば傷つくかもしれないから、許さない」
私は父を見た。
「お父様が守っているのは、今の私ですか」
「当然だ」
「それとも、私を失うかもしれないお父様自身ですか」
父の顔が歪んだ。
言い過ぎたと思った。
けれど、謝らなかった。
これは父を傷つけるための言葉ではない。
父自身にも見てほしいことだった。
「両方だ」
長い沈黙の後、父は答えた。
その正直さに、胸が痛む。
「私は、お前を失いたくない」
「はい」
「それの何が悪い」
「悪くありません」
「なら、なぜ」
「私も、自分を失いたくありません」
父が私を見る。
「お父様の望む安全な娘として生き続けて、自分が何を望むのか分からなくなることが怖いのです」
死者の声は聞こえる。
けれど、自分の声は聞いてこなかった。
誰かが困っている。
誰かが悲しんでいる。
誰かが真実を求めている。
その声へ応えることばかり考え、自分がどうしたいかを後回しにしてきた。
父が作った檻の中にいたからだけではない。
私自身も、そこにいることを選んでいた。
檻の中なら、決めなくて済むから。
苦しくても、父のためだと言えたから。
「私は、お父様の反対を無視したいわけではありません」
「結果は同じだ」
「違います」
「私が認めないと言っても、行くのだろう」
「お父様の話を聞いた上で、それでも必要だと思えば行きます」
「それを無視と言う」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「お父様の言葉を聞くことと、従うことは別です」
それは、死者の声にも同じことが言える。
聞こえたからといって、その願いへ従うわけではない。
証言として受け取り、考え、自分で決める。
「お父様のお気持ちも、私にとって大切な証言です」
「証言?」
「お母様を失った方の証言です」
父の目が大きく開かれる。
「私は、お父様の恐怖を間違いだとは思いません」
妻を失った。
娘まで失うかもしれない。
その恐怖は本物だ。
「ですが、その恐怖だけで私の未来を決めることはできません」
「お前は、私にどうしろと言う」
父の声には怒りよりも、疲れがあった。
「危険だと分かっていて見送れと?」
「危険だと教えてください」
「教えた」
「まだ足りません」
「セレーネのことをすべて話せというのか」
「話せることを話してください」
「そして、母と同じ道を選ぶ?」
「選ぶかもしれません」
父の肩が震える。
「選ばないかもしれません」
「そんな保証のない言葉を信じろと?」
「私を信じてください」
「セレーネも、自分を信じろと言った」
また、母と重ねられる。
以前なら、それ以上何も言えなかった。
父の痛みを増やしたくなかったから。
けれど今日は、一歩も引きたくなかった。
「私はお母様ではありません」
はっきり言う。
「同じ力を持っていても、同じ選択をするとは限りません」
「同じ言葉を使っている」
「言葉が同じなら、結末も同じになるのですか」
父は答えない。
「お母様は一人で行ったのですか」
問いかけると、父の顔が強張った。
「聖竜院の調査も。竜を弔うことも。誰にも頼らず、自分だけで背負ったのですか」
「……そうではない」
「では、何が起きたのですか」
「今は話せない」
「またですか」
「リーゼロッテ」
「話せないまま、ただ従えと言うのですか」
「お前が生きるためだ」
「何も知らず、何も選ばないことだけが、生きることではありません」
父は両手を強く握った。
「知れば、戻れなくなる」
「知らないままでも、もう戻れません」
夜会で婚約を解消された。
ミラの声を聞いた。
記録が書き換えられていた。
アルフォンス様から、ノクスの弔いを頼まれた。
母が竜葬師だったと知った。
今さら、何も知らなかった頃の私には戻れない。
「ならば、せめて王都にいろ」
父が言う。
「辺境へ行かず、ここで調査を続ければいい」
「ノクスの遺骨は辺境にあります」
「資料だけで判断できる」
「遺骨の状態は、実際に見なければ分かりません」
「他の者に確認させろ」
「誰にですか」
「聖職者でも、治療師でも」
「これまで失敗した方々に?」
「ならば、グレイヴ辺境伯に報告させればいい」
「アルフォンス様は、竜葬師ではありません」
「お前も正式には違う」
その言葉が胸へ刺さる。
名を受けていない。
儀式を継いでいない。
私は竜葬師ではない。
「だから、学びたいのです」
「許さない」
「お父様」
「母の書物は渡さない。辺境へも行かせない」
「私を屋敷へ閉じ込めますか」
父の表情が止まった。
「必要ならば」
低い声だった。
本気なのだ。
父は私を守るためなら、外へ出さないことも選ぶ。
かつて母にできなかったことを、私へするつもりなのだ。
「それで私が安全なら、構わないのですか」
「生きていれば、いつか分かる」
「何をですか」
「私が正しかったことを」
胸の奥にあった最後の柔らかい部分が、静かに固まった。
「お父様」
私は椅子から立ち上がった。
「守ることと、閉じ込めることは違います」
「今はそう思っていても――」
「檻の中で生きている者が、その檻に感謝する日を待つのですか」
父が一歩後ろへ下がった。
「私は、お父様から逃げたいわけではありません」
声が震えそうになる。
それでも、続ける。
「お父様を捨てたいわけでも、家を捨てたいわけでもありません」
「ならば、ここにいろ」
「ここにいることを、私自身が選べるようにしてください」
父は何も言わない。
「扉を閉めたまま、外は危険だから出るなと言われても、それは選択ではありません」
「外には、本当に危険がある」
「知っています」
「知らない」
「だから教えてください」
同じ場所を何度も回っている。
父は、危険だから話せないと言う。
私は、危険を知るために話してほしいと言う。
どちらも相手を失いたくない。
それなのに、話せば話すほど遠ざかっていく。
「お父様が今すぐすべてを話せないことは、分かりました」
私は言った。
「ですが、何も教えずに従わせることには、もう応じられません」
「では、どうする」
「明日、アルフォンス様から届く資料を読みます」
「その後は」
「自分で決めます」
「辺境へ行くと決めたら?」
「準備をします」
「許さないと言っている」
「私は許可を求めていません」
第十一話でも口にした言葉だった。
今度は、父の顔を見ながら言った。
「ですが、お父様の協力は求めています」
「協力?」
「竜葬の記録を見せてください。母のことを教えてください。危険だと知っているなら、何が危険なのか説明してください」
「それでお前を送り出せと?」
「私が戻ってこられるようにしてください」
父の目が揺れた。
「お父様が恐れているのは、私が母と同じ場所へ行くことではありません」
ゆっくり言葉にする。
「母と同じように、戻ってこないことなのでしょう」
父の唇が震えた。
否定はなかった。
「ならば、閉じ込めるのではなく、戻る方法を一緒に考えてください」
「そんな方法があると、なぜ言える」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「ですが、母の時と同じことを繰り返したくないのは、私も同じです」
死者のために、自分を使い切る。
誰にも頼らず、すべてを背負う。
それが母の選んだ道だったのなら。
私は、同じ道を選ばない方法を探したい。
「私は弔いのために死にたいわけではありません」
父が顔を上げた。
「生きて帰りたいと思っています」
今の私が言えるのは、そこまでだった。
死者の声を捨てるとは言えない。
危険へ近づかないとも約束できない。
けれど、死んでも構わないとは思っていない。
父は長い間、何も言わなかった。
怒りも。
反対も。
許可も。
ただ、娘を初めて見るような目で、私を見ていた。
「もう遅い」
やがて父が呟いた。
「何がですか」
「お前を、何も知らない娘のまま守るには」
父の目に、諦めにも似たものが浮かぶ。
「遅すぎた」
「お父様」
「だが、今すぐには渡せない」
「何を?」
父は答えず、扉へ向かった。
「今夜は休みなさい」
「また話を終わらせるのですか」
「違う」
扉の前で足を止める。
「私にも、決める時間をくれ」
初めて聞く言葉だった。
父が私へ待てと命じるのではない。
父自身が考える時間を求めている。
「どのくらいですか」
「明日の朝まで」
「分かりました」
私はうなずいた。
「それまでは待ちます」
「それから先は?」
「待つとは約束できません」
父は苦しそうに目を細めた。
けれど、怒らなかった。
「そうか」
扉を開ける。
「リーゼロッテ」
「はい」
「私は、お前を信じていないわけではない」
「分かっています」
「いや」
父は首を横に振る。
「信じることが、怖いのだ」
任せれば、また失うかもしれない。
選ばせれば、自分から危険へ進むかもしれない。
父にとって信頼とは、手を離すことなのだ。
「私も怖いです」
そう答えると、父が振り返った。
「辺境へ行くことも。ノクスの声を聞くことも。お母様のことを知ることも」
「それでも進むのか」
「怖くないから進むのではありません」
私は机の上の紙を見る。
――私は、自分で確かめたい。
「怖いまま、決めたいのです」
父はその言葉を聞き、しばらく立ち尽くしていた。
やがて何も言わず、部屋を出ていった。
◇
翌朝。
私はいつもより早く目を覚ました。
眠れたのかどうか、自分でも分からない。
窓の外はまだ薄暗く、使用人たちが動き始める前の屋敷は静まり返っていた。
机の上には、昨夜書いた紙がある。
私はその下へ、新しい一行を加えた。
――一人で背負わない方法を探す。
書き終えた時、扉が叩かれた。
「お嬢様」
執事の声だった。
「旦那様が、地下の保管室へお越しになるようにと」
「地下の?」
「奥様のお品を保管している部屋です」
胸が大きく鳴った。
父が何を決めたのかは、まだ分からない。
辺境へ行くことを認めるつもりはないかもしれない。
母の過去をすべて話してくれるわけでもないだろう。
それでも、父は閉ざしていた部屋の扉を開けようとしている。
「すぐに参ります」
私は黒い手袋を確かめ、部屋を出た。
地下へ続く階段の前で、父が待っていた。
顔色は悪く、昨夜は一睡もしていないように見える。
その手には、古い銀色の鍵が握られていた。
「お父様」
「先に言っておく」
父は地下の扉を見たまま言った。
「中にある物へ、素手で触れることは許さない」
「見せてくださるのですか」
「見るだけだ」
父の声は、まだ硬かった。
けれど昨日までの「何も教えない」とは違う。
「約束します。勝手には触れません」
「勝手に、ではない。私が許可しても、今日は触れるな」
「分かりました」
父は本当に理解しているのか確かめるように、私を見る。
「母の声が残っている可能性がある」
その言葉だけで、指先が冷えた。
能力は発動していない。
手袋も着けている。
それでも、胸の奥が震えた。
「触れません」
もう一度答える。
父はようやく鍵を差し込んだ。
重い音を立て、錠が外れる。
扉の向こうには、細い階段が闇の中へ続いていた。
「この先に」
父が掠れた声で言う。
「セレーネが遺した記録がある」
私は息を呑んだ。
「竜の名と、死者の声と、生き残った者の証言を記した帳面だ」
父は扉を開きながら、最後にその名を口にした。
「竜葬師の、弔い帳だ」




