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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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11/46

母の名

「お前の母セレーネは、この王国に残った最後の竜葬師だった」

 父の言葉を、私はすぐには理解できなかった。


 最後の竜葬師。


 幼い頃、母から聞いた昔話の中にだけ存在していた人々。


 死んだ竜の名を呼び、残された思いを記し、その魂を土地へ還す者。


 王国の歴史書では、迷信にすがった古い時代の聖職者として、わずかに触れられるだけの存在。


 それが母だった。


 私の髪を結い、眠れない夜には本を読んでくれた母。


 能力を使った後、味が分からなくなった私へ、何も尋ねず温かい乳を差し出してくれた母。


「最後の、というのは」


 声が震えないように、ゆっくり尋ねる。


「お母様より後に、竜葬師はいなかったという意味ですか」


「公に名乗った者はいない」


 父は古びた紙を机へ置いた。


 翼を閉じた竜の印。


 よく見ると、その翼の内側には、細かな文字が輪のように刻まれている。


「では、私は何なのですか」


 父の肩が揺れた。


「私は死者の声を聞きます。母から、弔いについて教わった記憶もあります」


「お前は竜葬師ではない」


 父は繰り返した。


「儀式を継いでいない。名を受けてもいない」


「名を受ける?」


「竜葬師は、ただ声を聞ける者を指す言葉ではない」


 父は紙の印へ目を落とした。


「死者の声を聞き、その証言を記録し、生者と死者の間に区切りを作る。その責任を引き受ける者だけが、竜葬師を名乗った」


「では、お母様はその責任を引き受けていたのですね」


「ああ」


「いつからですか」


「私と出会う前からだ」


「どこで?」


「辺境を巡っていた」


「グレイヴ領にも?」


 父は答えなかった。


 その沈黙だけで、否定ではないと分かった。


「アルフォンス様やノクスのことを、お母様は知っていたのですか」


「時期が違う」


 父は低い声で答えた。


「セレーネが主に活動していたのは、ノクスがアルフォンス・グレイヴを選ぶより前だ」


「ですが、黒竜の谷については知っていた」


「……知っていた」


「聖竜院についても?」


 父の顔が強張る。


 私はそれを見逃さなかった。


「お母様は、聖竜院を調べていたのですね」


「今は関係のない話だ」


「関係があります」


「リーゼロッテ」


「母が竜葬師で、聖竜院について何かを知っていた。それをお父様は隠していた」


 声が少しずつ強くなる。


「その聖竜院が、今、ミラかもしれない竜の記録を隠しています。関係がないはずがありません」


「まだミラの骨と決まったわけではない」


「分かっています」


 私はすぐに答えた。


「だから調べています。死者の声だけで決めつけないために」


「ならば、母親の過去まで結びつけるな」


「結びつけているのではありません。尋ねているのです」


 父が口を閉ざす。


「なぜ、今まで何も教えてくださらなかったのですか」


「必要がなかった」


「私が同じ力を持っていても?」


「だからこそだ」


 父の声が硬くなる。


「力が現れた時点で、お前を竜葬師から遠ざけると決めた」


「誰が決めたのですか」


「私だ」


「私の人生を、お父様一人で?」


「お前はまだ子どもだった」


「今は十九歳です」


「年齢の問題ではない」


「では、何の問題ですか」


 父は答えない。


 私は黒い手袋をはめた両手を膝の上で握った。


 素手で触れなければ、声は聞こえない。


 幼い頃から父に何度も言われた。


 手袋を外すな。


 死者の話をするな。


 聞こえた声を忘れなさい。


 それはすべて、私の力を世間から隠すためだと思っていた。


 父は私を守ろうとしている。


 そう信じようとしてきた。


 けれど、本当は。


 私が母と同じ道を選ばないよう、何も知らないままにしていただけなのではないか。


「お母様は、私に教えようとしていました」


 父の顔が上がる。


「弔いの意味も、力の使い方も」


「断片的な話だけだ」


「それでも、教えてくれました」


「幼いお前が怖がらないように、昔話として聞かせただけだ」


「なぜ、お父様に母の気持ちが分かるのですか」


 言った瞬間、父の顔が傷ついたように歪んだ。


 けれど、言葉を戻すことはできなかった。


「生きている者の心は、私には読めません」


 私は続ける。


「お母様が何を考えていたのかも、今となっては分かりません。ですが、お父様にもすべて分かっていたわけではないはずです」


「夫婦だった」


「夫婦なら、すべて分かるのですか」


 父の唇が固く結ばれる。


「お母様が私に何を望んでいたか、お父様が代わりに決められるのですか」


「セレーネは、お前に同じ道を歩ませたいとは思っていなかった」


「本人から聞いたのですか」


「ああ」


 即答だった。


 私は息を止めた。


「母が、そう言ったのですか」


「お前には普通に生きてほしいと」


「普通とは何ですか」


「死者の声に追われず、誰かの遺品へ触れるたびに苦しまず、婚約者から気味悪がられることもない人生だ」


 父の声が震える。


「能力を隠し、伯爵令嬢として生き、家庭を持つ。セレーネは、それを望んでいた」


「だから、セドリック様との婚約を?」


 父は視線を逸らした。


 胸の奥に、嫌な冷たさが広がる。


「ローレン公爵家なら、私の力を隠せると思ったのですか」


「公爵家の後ろ盾があれば、誰も軽々しくお前を異端者とは呼べない」


「公爵家は、私の力を知っていたのですね」


 父は答えなかった。


「お父様」


「婚約を結んだ時点では、先代公爵夫妻にのみ伝えた」


「セドリック様は?」


「幼い子どもへ話すことではなかった」


「では、現在のローレン公爵は?」


「知っている」


 胸の奥で、何かが崩れた。


 ローレン公爵は知っていた。


 私が死者の声を聞くことも。


 母が竜葬師だったことも。


 それでも息子との婚約を十一年間続けた。


 セドリック様が私の力を恐れていると分かっていても。


「婚約は、私を守るためだったのですか」


「ああ」


「本当に、それだけですか」


 父が私を見る。


「どういう意味だ」


「ローレン公爵家は、竜骨魔石事業に関わっています」


 先日の会議で見た公爵の顔を思い出す。


 竜骨利用は国を支えている。


 確かめない方がよいこともある。


 彼はそう言った。


「竜葬師の娘を、手元へ置いておきたかった可能性はありませんか」


「何を言っている」


「私が何を聞いたか、外へ漏らさないために」


「違う」


 父の返事は早かった。


 けれど、その声には確信ではなく、拒絶があった。


「違うと言い切れるのですか」


「ローレン公爵は、婚約当時にそのような意図を示さなかった」


「示すはずがありません」


「リーゼロッテ」


「お父様は、あの家を信じたのですね」


「お前を守るために、最も安全な道を選んだ」


「その道の先で、私は大勢の前で捨てられました」


 言葉が落ちた瞬間、部屋が静まり返った。


 父の顔から血の気が引く。


 私自身も、胸を突かれたように痛んだ。


 婚約解消について、父を責めるつもりはなかった。


 セドリック様が何を言うかまで、父に予測できるはずがない。


 それでも、長い間押し込めていたものが口から出た。


「申し訳ありません」


 反射的に謝る。


 父は目を閉じた。


「謝るな」


「ですが」


「今の言葉は、私が聞かなければならない」


 父は机へ手をつき、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。


「お前を守るつもりだった」


「分かっています」


「いや。分かっていない」


 父は首を横に振った。


「私自身も、分かっていなかった」


 雨音が窓を打つ。


「セレーネを失った後、私は一つのことしか考えられなかった」


 父の指が、古い紙の端に触れる。


「お前まで失わないことだ」


「お母様は、竜葬師だったから亡くなったのですか」


 尋ねると、父の指が止まった。


「病気だと聞いていました」


「病気だった」


「ただの病気ではなかったのですね」


「……今は話せない」


「また、そうやって隠すのですか」


「隠したいのではない」


「では、話してください」


「話せない」


 父の声は、今までで最も弱かった。


「なぜですか」


「口にすれば、お前は必ず母と同じ場所へ行く」


「どこへ?」


「聖竜院だ」


 短い答えだった。


 心臓が大きく鳴る。


「お母様は、聖竜院で何を見たのですか」


「言えない」


「何をされたのですか」


「違う」


「では、何が――」


「それ以上聞くな!」


 父が再び声を荒らげた。


 机の上の燭台が震える。


 すぐに父は、自分の声に驚いたように口を閉じた。


「……すまない」


 額を押さえ、深く息を吐く。


「今の私は、正しく話せない」


「正しい言葉でなくても構いません」


「私が話せば、お前は母を正しいと思う」


「お母様は間違っていたのですか」


「そうではない」


「ならば」


「正しかったから死んだわけでもない!」


 父の声が、悲鳴のように響いた。


 私は何も言えなくなった。


「正しい者が必ず救われるわけではない」


 父は俯いたまま言う。


「声を上げれば、誰かが聞いてくれるとも限らない。証拠を集めれば、悪事が止まるとも限らない」


 握られた拳が震えている。


「セレーネは、死者の声を聞いた。生きている者の証言も集めた。何冊も記録を残した」


「記録があるのですか」


 父は答えなかった。


 けれど、私はその沈黙の意味を知った。


「どこにありますか」


「渡さない」


「なぜですか」


「お前が読むからだ」


「当たり前です」


「そして、続きをしようとする」


「真実が途中で止められているなら――」


「それが母と同じだと言っている!」


 父は顔を上げた。


 目が赤くなっている。


「セレーネも、自分がやらなければならないと言った。誰かが聞かなければならないと。自分にしかできないのだからと」


 その言葉は、私自身の声のようだった。


「止めても聞かなかった」


「お母様には、お母様の意思があったのでしょう」


「ああ」


 父は苦しそうにうなずいた。


「あった。だから私は、最後まで止められなかった」


「それを後悔しているのですか」


「毎日だ」


 迷いのない返事だった。


「もっと強く止めればよかったと思った。閉じ込めてでも行かせなければよかったと」


「お母様の意思を奪ってでも?」


「生きていてくれるなら、それでよかった」


 父の答えに、胸が締めつけられた。


 それほど母を愛していたのだろう。


 失った痛みが、今も父の中で終わっていない。


 けれど。


「お母様は、それを望んだでしょうか」


「分からない」


 父は初めて、そう言った。


「もう尋ねられない」


 私なら聞けるかもしれない。


 母の強い思いが残る遺品があれば。


 けれど、そのことを口にするのが怖かった。


 母の声。


 他の誰よりも聞きたい。


 それと同時に、聞くことを考えただけで指先が冷える。


 もし、母が父を恨んでいたら。


 私を置いていったことを後悔していたら。


 何も聞こえなかったら。


「だから、お前には同じ道を歩ませない」


 父は言った。


「母の記録は渡さない。竜葬師の儀式も教えない。辺境へ行くことも認めない」


「私はもう子どもではありません」


「私にとっては娘だ」


「娘なら、選ぶ権利を奪ってよいのですか」


「死ぬと分かっている道を、黙って見送れというのか」


「まだ死ぬと決まったわけではありません」


「セレーネもそう言った」


 同じ言葉。


 母と同じ。


 父は私を見るたびに、母の最期を思い出しているのだろうか。


「お父様は」


 私はゆっくり立ち上がった。


「私を見ていますか」


 父の表情が止まる。


「何を――」


「お母様ではなく、私を見てくださっていますか」


 父は答えられなかった。


 その沈黙が、何よりも痛かった。


「私はお母様と同じ力を持っています」


 声が震えた。


「同じように、死者の声を聞きます。同じ言葉を口にすることもあるのでしょう」


 けれど。


「私は、セレーネ・アルヴァではありません」


「分かっている」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「お父様は、私が何を選ぶかを見る前に、母と同じ結末になると決めています」


「それは――」


「私が辺境へ行くと言えば、母と同じ。死者の声を聞けば、母と同じ。聖竜院を調べれば、母と同じ」


 一歩、父から離れる。


「では、私は何をすれば、私として見てもらえるのですか」


 父は何も言わなかった。


 味方だと言ってほしかった時と同じ。


 私の問いに、父は答えられない。


「今日は、失礼いたします」


「リーゼロッテ」


「明日、またお話しします」


「話しても、私の考えは変わらない」


 扉へ向かっていた足を止める。


「私もです」


 振り返らずに答えた。


「ノクスの記録を読みます。辺境へ行くかどうかは、その後で私が決めます」


「認めない」


「許可を求めているのではありません」


 言い切ると、背後で父が息を呑んだ。


 今まで、父へそのような言葉を使ったことはなかった。


 けれど、もう戻すことはできない。


「私は、お父様を苦しませたいわけではありません」


 扉へ手をかける。


「お母様と同じことを繰り返したいわけでもありません」


「ならば、なぜ」


「何が同じで、何が違うのかを知るためです」


 知らなければ、選ぶことさえできない。


「お母様のことを教えてください」


 私は最後にもう一度頼んだ。


「竜葬師セレーネではなく、私の母が何を考え、何を選び、何を恐れていたのか」


 父は俯いた。


「今は、話せない」


「分かりました」


 私は扉を開けた。


「ですが、話せるようになるまで、私が何も選ばずに待つことはできません」


 廊下へ出る。


 扉を閉じる直前、父の声が聞こえた。


「リーゼロッテ」


 振り返る。


 父は古びた紙を胸元へ押し当てていた。


「セレーネは」


 その先を言うまでに、長い時間がかかった。


「お前に力が現れた日、泣いていた」


 初めて聞く話だった。


「悲しかったからですか」


「分からない」


 父は首を横に振る。


「喜んでいるようにも見えた。恐れているようにも見えた」


 生きている者の心は読めない。


 夫だった父にも、母の涙の意味は分からなかった。


「ただ、何度もお前の名を呼んでいた」


 父の声が掠れる。


「リーゼロッテ。リーゼロッテ、と」


 私は扉の取っ手を握ったまま、動けなかった。


「そして、私に言った」


 父は目を閉じる。


「この子に、私の続きを背負わせてはいけない、と」


 胸の奥が強く痛んだ。


 父が隠してきた理由は、父だけの願いではなかった。


 母も、私が竜葬師になることを望まなかったのかもしれない。


 けれど、それでも。


 母の続きを背負わないことと。


 母が隠されたままにした声を、聞かないことは。


 本当に同じなのだろうか。


 答えは出なかった。


 私は扉を閉じ、一人で廊下を歩き始めた。


 手袋の下で、指先がかすかに冷えている。


 能力を使ったわけではない。


 それでも。


 どこか遠い場所から、まだ聞いたことのない母の声が、私の名を呼んでいるような気がした。

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