母の名
「お前の母セレーネは、この王国に残った最後の竜葬師だった」
父の言葉を、私はすぐには理解できなかった。
最後の竜葬師。
幼い頃、母から聞いた昔話の中にだけ存在していた人々。
死んだ竜の名を呼び、残された思いを記し、その魂を土地へ還す者。
王国の歴史書では、迷信にすがった古い時代の聖職者として、わずかに触れられるだけの存在。
それが母だった。
私の髪を結い、眠れない夜には本を読んでくれた母。
能力を使った後、味が分からなくなった私へ、何も尋ねず温かい乳を差し出してくれた母。
「最後の、というのは」
声が震えないように、ゆっくり尋ねる。
「お母様より後に、竜葬師はいなかったという意味ですか」
「公に名乗った者はいない」
父は古びた紙を机へ置いた。
翼を閉じた竜の印。
よく見ると、その翼の内側には、細かな文字が輪のように刻まれている。
「では、私は何なのですか」
父の肩が揺れた。
「私は死者の声を聞きます。母から、弔いについて教わった記憶もあります」
「お前は竜葬師ではない」
父は繰り返した。
「儀式を継いでいない。名を受けてもいない」
「名を受ける?」
「竜葬師は、ただ声を聞ける者を指す言葉ではない」
父は紙の印へ目を落とした。
「死者の声を聞き、その証言を記録し、生者と死者の間に区切りを作る。その責任を引き受ける者だけが、竜葬師を名乗った」
「では、お母様はその責任を引き受けていたのですね」
「ああ」
「いつからですか」
「私と出会う前からだ」
「どこで?」
「辺境を巡っていた」
「グレイヴ領にも?」
父は答えなかった。
その沈黙だけで、否定ではないと分かった。
「アルフォンス様やノクスのことを、お母様は知っていたのですか」
「時期が違う」
父は低い声で答えた。
「セレーネが主に活動していたのは、ノクスがアルフォンス・グレイヴを選ぶより前だ」
「ですが、黒竜の谷については知っていた」
「……知っていた」
「聖竜院についても?」
父の顔が強張る。
私はそれを見逃さなかった。
「お母様は、聖竜院を調べていたのですね」
「今は関係のない話だ」
「関係があります」
「リーゼロッテ」
「母が竜葬師で、聖竜院について何かを知っていた。それをお父様は隠していた」
声が少しずつ強くなる。
「その聖竜院が、今、ミラかもしれない竜の記録を隠しています。関係がないはずがありません」
「まだミラの骨と決まったわけではない」
「分かっています」
私はすぐに答えた。
「だから調べています。死者の声だけで決めつけないために」
「ならば、母親の過去まで結びつけるな」
「結びつけているのではありません。尋ねているのです」
父が口を閉ざす。
「なぜ、今まで何も教えてくださらなかったのですか」
「必要がなかった」
「私が同じ力を持っていても?」
「だからこそだ」
父の声が硬くなる。
「力が現れた時点で、お前を竜葬師から遠ざけると決めた」
「誰が決めたのですか」
「私だ」
「私の人生を、お父様一人で?」
「お前はまだ子どもだった」
「今は十九歳です」
「年齢の問題ではない」
「では、何の問題ですか」
父は答えない。
私は黒い手袋をはめた両手を膝の上で握った。
素手で触れなければ、声は聞こえない。
幼い頃から父に何度も言われた。
手袋を外すな。
死者の話をするな。
聞こえた声を忘れなさい。
それはすべて、私の力を世間から隠すためだと思っていた。
父は私を守ろうとしている。
そう信じようとしてきた。
けれど、本当は。
私が母と同じ道を選ばないよう、何も知らないままにしていただけなのではないか。
「お母様は、私に教えようとしていました」
父の顔が上がる。
「弔いの意味も、力の使い方も」
「断片的な話だけだ」
「それでも、教えてくれました」
「幼いお前が怖がらないように、昔話として聞かせただけだ」
「なぜ、お父様に母の気持ちが分かるのですか」
言った瞬間、父の顔が傷ついたように歪んだ。
けれど、言葉を戻すことはできなかった。
「生きている者の心は、私には読めません」
私は続ける。
「お母様が何を考えていたのかも、今となっては分かりません。ですが、お父様にもすべて分かっていたわけではないはずです」
「夫婦だった」
「夫婦なら、すべて分かるのですか」
父の唇が固く結ばれる。
「お母様が私に何を望んでいたか、お父様が代わりに決められるのですか」
「セレーネは、お前に同じ道を歩ませたいとは思っていなかった」
「本人から聞いたのですか」
「ああ」
即答だった。
私は息を止めた。
「母が、そう言ったのですか」
「お前には普通に生きてほしいと」
「普通とは何ですか」
「死者の声に追われず、誰かの遺品へ触れるたびに苦しまず、婚約者から気味悪がられることもない人生だ」
父の声が震える。
「能力を隠し、伯爵令嬢として生き、家庭を持つ。セレーネは、それを望んでいた」
「だから、セドリック様との婚約を?」
父は視線を逸らした。
胸の奥に、嫌な冷たさが広がる。
「ローレン公爵家なら、私の力を隠せると思ったのですか」
「公爵家の後ろ盾があれば、誰も軽々しくお前を異端者とは呼べない」
「公爵家は、私の力を知っていたのですね」
父は答えなかった。
「お父様」
「婚約を結んだ時点では、先代公爵夫妻にのみ伝えた」
「セドリック様は?」
「幼い子どもへ話すことではなかった」
「では、現在のローレン公爵は?」
「知っている」
胸の奥で、何かが崩れた。
ローレン公爵は知っていた。
私が死者の声を聞くことも。
母が竜葬師だったことも。
それでも息子との婚約を十一年間続けた。
セドリック様が私の力を恐れていると分かっていても。
「婚約は、私を守るためだったのですか」
「ああ」
「本当に、それだけですか」
父が私を見る。
「どういう意味だ」
「ローレン公爵家は、竜骨魔石事業に関わっています」
先日の会議で見た公爵の顔を思い出す。
竜骨利用は国を支えている。
確かめない方がよいこともある。
彼はそう言った。
「竜葬師の娘を、手元へ置いておきたかった可能性はありませんか」
「何を言っている」
「私が何を聞いたか、外へ漏らさないために」
「違う」
父の返事は早かった。
けれど、その声には確信ではなく、拒絶があった。
「違うと言い切れるのですか」
「ローレン公爵は、婚約当時にそのような意図を示さなかった」
「示すはずがありません」
「リーゼロッテ」
「お父様は、あの家を信じたのですね」
「お前を守るために、最も安全な道を選んだ」
「その道の先で、私は大勢の前で捨てられました」
言葉が落ちた瞬間、部屋が静まり返った。
父の顔から血の気が引く。
私自身も、胸を突かれたように痛んだ。
婚約解消について、父を責めるつもりはなかった。
セドリック様が何を言うかまで、父に予測できるはずがない。
それでも、長い間押し込めていたものが口から出た。
「申し訳ありません」
反射的に謝る。
父は目を閉じた。
「謝るな」
「ですが」
「今の言葉は、私が聞かなければならない」
父は机へ手をつき、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
「お前を守るつもりだった」
「分かっています」
「いや。分かっていない」
父は首を横に振った。
「私自身も、分かっていなかった」
雨音が窓を打つ。
「セレーネを失った後、私は一つのことしか考えられなかった」
父の指が、古い紙の端に触れる。
「お前まで失わないことだ」
「お母様は、竜葬師だったから亡くなったのですか」
尋ねると、父の指が止まった。
「病気だと聞いていました」
「病気だった」
「ただの病気ではなかったのですね」
「……今は話せない」
「また、そうやって隠すのですか」
「隠したいのではない」
「では、話してください」
「話せない」
父の声は、今までで最も弱かった。
「なぜですか」
「口にすれば、お前は必ず母と同じ場所へ行く」
「どこへ?」
「聖竜院だ」
短い答えだった。
心臓が大きく鳴る。
「お母様は、聖竜院で何を見たのですか」
「言えない」
「何をされたのですか」
「違う」
「では、何が――」
「それ以上聞くな!」
父が再び声を荒らげた。
机の上の燭台が震える。
すぐに父は、自分の声に驚いたように口を閉じた。
「……すまない」
額を押さえ、深く息を吐く。
「今の私は、正しく話せない」
「正しい言葉でなくても構いません」
「私が話せば、お前は母を正しいと思う」
「お母様は間違っていたのですか」
「そうではない」
「ならば」
「正しかったから死んだわけでもない!」
父の声が、悲鳴のように響いた。
私は何も言えなくなった。
「正しい者が必ず救われるわけではない」
父は俯いたまま言う。
「声を上げれば、誰かが聞いてくれるとも限らない。証拠を集めれば、悪事が止まるとも限らない」
握られた拳が震えている。
「セレーネは、死者の声を聞いた。生きている者の証言も集めた。何冊も記録を残した」
「記録があるのですか」
父は答えなかった。
けれど、私はその沈黙の意味を知った。
「どこにありますか」
「渡さない」
「なぜですか」
「お前が読むからだ」
「当たり前です」
「そして、続きをしようとする」
「真実が途中で止められているなら――」
「それが母と同じだと言っている!」
父は顔を上げた。
目が赤くなっている。
「セレーネも、自分がやらなければならないと言った。誰かが聞かなければならないと。自分にしかできないのだからと」
その言葉は、私自身の声のようだった。
「止めても聞かなかった」
「お母様には、お母様の意思があったのでしょう」
「ああ」
父は苦しそうにうなずいた。
「あった。だから私は、最後まで止められなかった」
「それを後悔しているのですか」
「毎日だ」
迷いのない返事だった。
「もっと強く止めればよかったと思った。閉じ込めてでも行かせなければよかったと」
「お母様の意思を奪ってでも?」
「生きていてくれるなら、それでよかった」
父の答えに、胸が締めつけられた。
それほど母を愛していたのだろう。
失った痛みが、今も父の中で終わっていない。
けれど。
「お母様は、それを望んだでしょうか」
「分からない」
父は初めて、そう言った。
「もう尋ねられない」
私なら聞けるかもしれない。
母の強い思いが残る遺品があれば。
けれど、そのことを口にするのが怖かった。
母の声。
他の誰よりも聞きたい。
それと同時に、聞くことを考えただけで指先が冷える。
もし、母が父を恨んでいたら。
私を置いていったことを後悔していたら。
何も聞こえなかったら。
「だから、お前には同じ道を歩ませない」
父は言った。
「母の記録は渡さない。竜葬師の儀式も教えない。辺境へ行くことも認めない」
「私はもう子どもではありません」
「私にとっては娘だ」
「娘なら、選ぶ権利を奪ってよいのですか」
「死ぬと分かっている道を、黙って見送れというのか」
「まだ死ぬと決まったわけではありません」
「セレーネもそう言った」
同じ言葉。
母と同じ。
父は私を見るたびに、母の最期を思い出しているのだろうか。
「お父様は」
私はゆっくり立ち上がった。
「私を見ていますか」
父の表情が止まる。
「何を――」
「お母様ではなく、私を見てくださっていますか」
父は答えられなかった。
その沈黙が、何よりも痛かった。
「私はお母様と同じ力を持っています」
声が震えた。
「同じように、死者の声を聞きます。同じ言葉を口にすることもあるのでしょう」
けれど。
「私は、セレーネ・アルヴァではありません」
「分かっている」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「お父様は、私が何を選ぶかを見る前に、母と同じ結末になると決めています」
「それは――」
「私が辺境へ行くと言えば、母と同じ。死者の声を聞けば、母と同じ。聖竜院を調べれば、母と同じ」
一歩、父から離れる。
「では、私は何をすれば、私として見てもらえるのですか」
父は何も言わなかった。
味方だと言ってほしかった時と同じ。
私の問いに、父は答えられない。
「今日は、失礼いたします」
「リーゼロッテ」
「明日、またお話しします」
「話しても、私の考えは変わらない」
扉へ向かっていた足を止める。
「私もです」
振り返らずに答えた。
「ノクスの記録を読みます。辺境へ行くかどうかは、その後で私が決めます」
「認めない」
「許可を求めているのではありません」
言い切ると、背後で父が息を呑んだ。
今まで、父へそのような言葉を使ったことはなかった。
けれど、もう戻すことはできない。
「私は、お父様を苦しませたいわけではありません」
扉へ手をかける。
「お母様と同じことを繰り返したいわけでもありません」
「ならば、なぜ」
「何が同じで、何が違うのかを知るためです」
知らなければ、選ぶことさえできない。
「お母様のことを教えてください」
私は最後にもう一度頼んだ。
「竜葬師セレーネではなく、私の母が何を考え、何を選び、何を恐れていたのか」
父は俯いた。
「今は、話せない」
「分かりました」
私は扉を開けた。
「ですが、話せるようになるまで、私が何も選ばずに待つことはできません」
廊下へ出る。
扉を閉じる直前、父の声が聞こえた。
「リーゼロッテ」
振り返る。
父は古びた紙を胸元へ押し当てていた。
「セレーネは」
その先を言うまでに、長い時間がかかった。
「お前に力が現れた日、泣いていた」
初めて聞く話だった。
「悲しかったからですか」
「分からない」
父は首を横に振る。
「喜んでいるようにも見えた。恐れているようにも見えた」
生きている者の心は読めない。
夫だった父にも、母の涙の意味は分からなかった。
「ただ、何度もお前の名を呼んでいた」
父の声が掠れる。
「リーゼロッテ。リーゼロッテ、と」
私は扉の取っ手を握ったまま、動けなかった。
「そして、私に言った」
父は目を閉じる。
「この子に、私の続きを背負わせてはいけない、と」
胸の奥が強く痛んだ。
父が隠してきた理由は、父だけの願いではなかった。
母も、私が竜葬師になることを望まなかったのかもしれない。
けれど、それでも。
母の続きを背負わないことと。
母が隠されたままにした声を、聞かないことは。
本当に同じなのだろうか。
答えは出なかった。
私は扉を閉じ、一人で廊下を歩き始めた。
手袋の下で、指先がかすかに冷えている。
能力を使ったわけではない。
それでも。
どこか遠い場所から、まだ聞いたことのない母の声が、私の名を呼んでいるような気がした。




