第83話:宿屋の安らぎと、毛玉の矜持
ゼノスに案内された宿は、バールの街の中でも一際重厚な石造りの建物だった。
「ゼノス商会の行きつけです。ここならプライバシーも魔法的な遮蔽も完璧ですよ」という商人の言葉通り、案内された大部屋は、長旅で神経を尖らせていた一行にとって最高の隠れ家だった。
部屋に入り、アルマが空間拡張型・特製背負い袋を床に下ろすと、その振動でフードからノアが転がり出た。
「おい、アルマ。今のは重力定数の計算ミスか、あるいは我に対する物理的な反逆か? 我が中で『循環の種』とあやとりを楽しんでいた最中に、宇宙がひっくり返ったかと思ったぞ」
「ごめんって。流石にこの距離を歩くと、膝にくるんだよ。あやとりなんて器用なことしてたなら、自分の足で着地してよ」
アルマが膝をさすりながら言い返すと、ノアは前脚で顔を拭いながら、これ以上ないほど傲慢な仕草でベッドの枕元を占領した。
「フン。我のような高次存在が地を這うのは、地脈の乱れを直接観測する必要がある時のみだ。このような石畳の街中で、我の肉球を無駄に消耗させるなど、魔導の歴史に対する冒涜に他ならん。それより見ろ、アリス。貴様のその顔……砂埃で、もはや『貴族』ではなく『土塊の精霊』のようではないか」
「なんですって……! ノア様、失礼にも程がありますわよ!」
アリスが鏡の前で悲鳴を上げた。
確かに、荒野の砂風は容赦なく彼女の肌を叩き、自慢の金髪も少しゴワついている。
「早く、一刻も早くお湯を! わたくしの魔導回路が、美意識の欠如という名のバグでショートしそうですわ!」
「アリス、落ち着いて。ジャム、アリスを連れて先にお風呂に行ってきなよ。私はこの『種』の調子を見ておくから」
アルマが促すと、ジャムは無言で頷き、アリスの袖を引いて浴室へと向かった。
部屋に残ったのは、ベッドを占領する黒猫と、装備を解くキャスカ、そして机に『循環の種』を置いたアルマだけだった。
「……ふぅ。キャスカ、怪我はない?」
「大丈夫。ただ、あの『水底の蛇』を斬った時の衝撃で、少し手首が痺れてるくらいかな。それよりアルマ、あの猫……あ、寝た」
キャスカが指差す先では、先ほどまで毒舌を吐いていたノアが、枕に顔を埋めて「すー……すー……」と、驚くほど無防備な寝息を立てていた。
「(……。……。……。……魔力の……循環が……真理の……もふもふ……)」
寝言すらも尊大な語彙で埋め尽くされている。
「……生意気なこと言ってるけど、やっぱり疲れてたんだね。あの日、学園を飛び出してから、ノアはずっと私の魔力を安定させるために、袋の中で調整を続けてくれてたから」
アルマがそっとノアの背中に触れると、彼は寝ぼけて「……触るな……。……今、……宇宙の……端っこを……掃除して……」と、尻尾をパタパタと動かした。
「ふふ、宇宙の端っこを掃除中だって。やっぱりこの猫、最高に面白いわね」
キャスカが笑い、ようやく部屋に穏やかな空気が流れた。
窓の外にはバールの夜景が広がり、遠くの城壁が松明の光で縁取られている。
学園という温室を捨て、不確かな未来へと踏み出した「調査団」。
彼女たちを繋いでいるのは、崇高な使命感だけではない。
こうした、どこか噛み合わない、けれど愛おしい日常の断片こそが、枯渇しゆく世界を歩むための最強の魔法なのかもしれなかった。
「……明日からも、よろしくね、ノア」
アルマは小声で囁き、静かに脈動する『循環の種』の光を見つめた。
新たな地での休息が、彼女たちの絆をより深く、そして愉快に結び直そうとしていた。




