第78話:赤土の回廊と、不吉な予感
目の前に広がる『赤土の回廊』は、その名の通り、両側から迫り来る赤茶けた岩壁が、まるで巨大な蛇の体内を歩いているかのような圧迫感を一行に与えていた。
空は切り取られたように細く、地面には風に削られた細かな砂が溜まって、一歩踏み出すごとに足首まで埋もれるほどだ。
「……ねえ、リタさん。ここ、すごく嫌な感じがするんだけど。風の音が、なんだか誰かの啜り泣きみたいに聞こえない?」
アルマが杖を握り直し、左右の岩壁を不安げに見上げた。彼女の魔力感知が、回廊の奥から漂ってくる「澱み」のようなものを敏感に捉えていた。
「ああ、ここは古くから魔物の巣窟として有名でね。特にこの視界の悪さと、音が反響する構造が厄介なんだ。……おい、ゼノス! 馬車を止めるんじゃないよ、一定の速度で走り抜けな!」
リタが槍を構え直し、護衛たちに鋭い指示を飛ばした。
だが、そんな張り詰めた緊張感をも無視して、アルマのフードからは平然とした声が響く。
「フン。澱みだの啜り泣きだの、小娘は感傷的すぎていかんな。この空気の重さは、単に換気が悪いだけのことだ。それよりもアルマ、貴様は気づかんのか? この岩壁の隙間から、微かに、しかし確実に『死した水底の腐臭』が漂ってきていることを」
「死した水底? ……何それ、不吉なこと言わないでよ」
「案ずるな、小娘。死した水底とは、すなわち『干物』の可能性を示唆しておるのだ。この乾燥した気候、そして適度な塩気を含む岩肌。もしこの奥に、岩塩で締められた魚類の真理が眠っておるとすれば、それはそれで興味深い」
「……この状況でまだ食べ物の話ができるなんて、ある意味尊敬するわ」
キャスカが鉄の剣を抜き、反射的に周囲を警戒しながら呆れたように言った。
キャスカの足取りは、砂に足を取られながらも力強い。昨夜のスープで得たエネルギーが、彼女の筋肉に僅かな余裕を与えていた。
「アリス、障壁の準備は?」
「……いつでも、……いつでも行けますわ。ですが、わたくし、先ほどから足元の砂に靴を汚されて、非常に不愉快ですの。この回廊を抜けたら、ゼノス様には最高級の靴磨きセットも用意していただきますわよ」
アリスは不満を漏らしながらも、杖の先に淡い光を灯し、全方位への警戒を怠らなかった。
ジャムは目を閉じ、杖をアンテナのように動かしながら、回廊の奥の「音」を聞いている。
「……くる。……。……。……昨日の狼より、……ずっと、……重い音」
ジャムの呟きに、一行の空気が一気に凍りついた。
ガタガタと音を立てて進む馬車の車輪の音が、岩壁に反響して不気味に増幅される。
その時。
上方の岩棚から、何かが「降ってきた」。
ドスン、という、肉塊が落ちたとは思えないほどの重低音が響き、砂煙が舞う。
現れたのは、赤土の色に同化した、巨大な鱗を持つ多頭の蛇――『水底の蛇』の、地上種とされる亜種だった。
三つの首がそれぞれ別々の獲物を狙うように鎌首をもたげ、その口からは黄色い毒霧が漏れ出している。
「出たわね! 馬車を死守して!」
キャスカが叫び、真っ先に一頭の首に向かって踏み込んだ。
リタも槍をしならせ、ゼノスの乗る御者台を庇うように位置取る。
「(ほう……。多頭か。効率の悪い進化を選んだものだ。だが、あの首の付け根……。あそこは最も運動量が多く、肉質が引き締まっておるはず。アルマ、あの部位を焼きすぎるなよ。真理の弾力を損なうのは万死に値するぞ)」
「戦う前から調理法を指定するなーーっ!」
アルマの絶叫と共に、赤土の回廊に魔法の火花が散った。
絶体絶命の窮地。だが、このパーティを突き動かしているのは、もはや正義感よりも、戦いの後に約束された「美味」への渇望だったのかもしれない。
アルマは杖を掲げ、昨日よりも遥かに速い速度で呪文を紡ぎ始めた。
ノアの食欲がもたらすプレッシャーは、今や彼女たちの潜在能力を無理やり引き出す、最強のバフ(強化魔法)と化していた。




