第77話:黄金の残り香と、重い足取り
翌朝。荒野を包んでいた冷たい夜気は、地平線から顔を出した太陽によってじりじりと熱を帯び始めていた。
野営地の跡には、昨夜の祝宴を物語る空になった鍋が転がっている。
「……あぁ。……終わってしまった。わたくしの魂を浄化した、あの黄金の時間が……」
アリスが岩に寄りかかり、遠い目で空を見つめていた。その手には、昨夜スープを飲んだ木皿がまだ握りしめられている。もはや未練を通り越して、一種の燃え尽き症候群のようだった。
「アリス、いつまでも皿を抱えてないの。さっさと片付けて出発するわよ」
キャスカが鉄の剣を腰に差し直し、呆れたように声をかけた。だが、そう言うキャスカ自身も、どことなく足取りが重い。昨夜の美味を知ってしまった肉体は、質素な朝食の干し肉を「ただの燃料」としてしか認識しなくなっていた。
「(……おい、アルマ。……。……。今朝のスープは何だ。……。……。昨夜のあの神聖なる雫に比べ、今朝のこれは、……泥水に藁を浸したような無味乾燥な代物ではないか。……。……。我の舌が、真理を忘却せんと激しい拒絶反応を起こしておるぞ)」
ノアがアルマのフードの中から、呪詛のように低い声で呟いた。
「贅沢言わないでよ。あれはゼノスさんが特別に出してくれた端材だったんでしょ。毎食あんなの食べてたら、私たち今頃ここから一歩も動けなくなってるよ」
アルマが巨大な背負い袋の紐を締め直しながら、ため息混じりに返した。アルマ自身も、胃袋の奥に残るスパイスの余韻が、目の前の単調な街道をより長く、険しいものに感じさせていた。
「(……。……。……。不当だ。……。……。この世界はあまりにも不条理に満ちておる。……。……。すぐ目の前の荷台には、……あの端材の本体、……数万倍の濃度を秘めた真理が眠っておるというのに。……。……。なぜ我らは、……ただの護衛という名の傍観者でいなければならんのだ)」
「……ノア。……。……。あの箱、……見ちゃダメ。……。……。見ると、……心が折れる」
ジャムが杖を突きながら、悟りを開いたような表情でノアをたしなめた。
一行が再び歩き始めると、馬車の御者台に座るゼノスが、髭を整えながら機嫌良さそうに振り返った。昨夜、自慢の端材で護衛たちの心を掴んだことで、彼は自分の安全がより強固になったと確信しているようだった。
「さあ、お嬢さん方! 今日もしっかり頼みますよ。この先、蛇のように入り組んだ『赤土の回廊』を抜ければ、ようやく中継都市の門が見えてくるはずだ。そこへ着けば、私の商会からさらなる美味を取り寄せて、盛大な打ち上げといこうじゃありませんか!」
「……美味。……。……。……お肉、……もっと?」
ジャムの瞳に、僅かな光が戻った。
「(……ほう。……。……。ゼノスよ。……。……。貴様の言葉に偽りはないな? ……。……。もし門を潜った瞬間に、……我が鼻を『安物の安酒と乾き物』の臭いが掠めてみろ。……。……。その時こそ、……この馬車を真理の炎で浄化し、……王都の貴族もろともササミを劫火の供物にしてやるからな)」
ノアがフードから顔を出し、ゼノスをギロリと睨みつけた。
「ひ、ひぃっ……! 分かってます、分かってますよ! 私は嘘はつきません!」
ゼノスが慌てて前を向き、馬の手綱を引いた。
槍使いのリタは、そのやり取りを横で見ながら、呆れ果てたように吐き捨てた。
「……ったく。あの黒猫、本当に猫の姿をした何か別の化け物なんじゃないのかい。……なあ、アルマ。あんたも苦労するね」
「……ええ。……。……。もう慣れましたけど、……時々、……自分が何を目指して旅をしてるのか分からなくなります」
アルマは乾いた笑いを漏らしながら、再び重い足取りで赤茶けた大地を踏み出した。
背負い袋の中にあるホウキは、主が空を飛ぶ魔力を温存するために、今はただの重荷として沈んでいる。
彼女たちの前には、不気味な静寂を湛えた『赤土の回廊』が口を開けていた。
食欲という名の執念を燃料に、一行は新たな困難が待ち受ける未知の領域へと、ゆっくりと歩みを進めていく。
だが、アルマたちの耳には、ノアが小声で唱え続ける「ササミの祝詞」が、不吉な予言のように響き続けていた。




