第75話:救世主の権利と、非情なる「お預け」
街道に立ち込めていた砂埃がゆっくりと沈み、三頭の大狼は完全に物言わぬ肉塊へと変わっていた。
本来なら、九死に一生を得た商人と護衛たちが手を取り合い、互いの無事を喜び合う場面だろう。
だが、今のこの場を支配しているのは、感動的な余韻などではない。一匹の黒猫が放つ、凄まじいまでの「食への執念」だった。
「おい、ゼノス。聞こえぬふりは許さんぞ。先ほど、我がその身を挺して貴様の積み荷を守り抜いた。それは紛れもない事実。そして真理には相応の対価が必要だ。今すぐその木箱の封印を解き、黄金のササミという名の聖遺物を我の前に献上しろ。今すぐだ!」
ノアがアルマのフードから身を乗り出し、馬車の中から恐る恐る出てきたゼノスに向かって、鋭い催促の声を浴びせた。
その目は、もはや魔物を威嚇していた時よりも数段鋭く、飢えた捕食者そのものだ。
「あ、いや……確かに黒猫様のおかげで命拾いしました。ですが、これは王都の最高級貴族への献上品なんです! 途中で封を開けたことがバレれば、私の首が飛ぶどころか、商会そのものが潰されてしまう!」
ゼノスは宝石のついた指を震わせながら、必死に弁明した。
彼にとって、ノアは大恩人であると同時に、積み荷を脅かす最大の「天災」に見えているようだった。
「フン、首の一つや二つ、真理の探求に比べれば些末な問題だ。貴様の首が飛んでも、我の胃壁にササミが届けば世界の均衡は保たれる。さあ、早くしろ! 我の忍耐は、既に干からびた魔力溜まりのように限界なのだぞ!」
「ノア、いい加減にしなさいって! ゼノスさんが困ってるじゃない!」
アルマがノアの脇の下に手を入れ、強引に引き剥がそうとするが、ノアは空中で四肢をジタバタとさせて抵抗する。
「離せ、アルマ! これは救世主としての正当な権利行使だ! 貴様もあの大狼の牙に木箱が砕かれ、ササミが土に汚れるところを見たいのか!? 我がそれを防いだのだ! その防衛費として、端っこの細い部分を数本要求して何が悪い!」
「防衛費が高すぎるんだよ! 大体、あんたさっきまで私の影に隠れて『窃盗作戦』とか言ってたじゃない! どの口が救世主なんて言ってるのよ!」
アルマとノアの低次元な争いを横目に、槍使いのリタは槍を杖代わりに突き立て、深い、深い溜息をついた。
「……ねえ、キャスカ。あんたたち、本当にあの空の王を墜とした一団なのかい? なんだか、見てるこっちの魔力まで吸い取られそうな気分だよ」
「……リタさん、同情するわ。この猫、普段はもっと賢明な……ふりをしてるんだけど、こと『美味しいもの』が絡むと、真理もクソもなくなってただの食欲の化け物になるのよ。……アリス、あんたも何とか言いなさいよ」
話を振られたアリスは、杖を握りしめたまま、じっと馬車の荷台を見つめていた。
その瞳には、ノアほど露骨ではないにせよ、隠しきれない期待の色が浮かんでいる。
「……わたくしも、ノア様の暴挙は止めるべきだと思いますわ。ですが、ゼノス様。これほど激しい戦闘の後ですもの。護衛の士気を高めるための『試食』という名目であれば、王都の貴族様も寛大な心で許してくださるのではないでしょうか……?」
「アリス、あんたもか!」
キャスカの絶叫が荒野に響いた。
アリスもまた、高貴な血筋という皮を一枚被っているだけで、その中身は空底の捕食者戦で使い果たしたカロリーを求めて、限界を迎えていた。
「……ササミ。一本くらいなら、……バレない」
普段は控えめなジャムまでもが、杖を構え直しながらボソリと援護射撃を放つ。
「ちょっと! みんなしてノアの味方しないでよ! 私が一人で常識を守ってるみたいじゃない!」
「フン、多数決という名の民主的真理は示された。さあゼノス、観念しろ。今ここで我にササミを供じるか、あるいは我という真理の権化が、貴様の馬車を物理的に『解体・鑑定』するのを眺めるか。……選べ、二つに一つだ!」
ノアが勝ち誇ったように尻尾をピンと立て、ゼノスを追い詰める。
「ひ、ひぃぃ……! わかりました、わかりましたよ! 封は開けられませんが、サンプルとして別に保管していた、保存用の端材……。これなら差し上げますから!」
ゼノスが泣きそうな顔で、懐から小さな小袋を取り出した。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
「……ほう。見せてみろ」
ノアの動きが止まり、声が極めて冷徹な、しかし情熱を秘めたものに変わった。
ゼノスが震える手で袋を開けると、そこから放たれたのは、数種類の香草とスパイスが肉の脂と絡み合い、極限まで濃縮された、暴力的なまでに食欲をそそる香りだった。
「……ッ! これだ。この鼻腔を突き抜けるスパイシーな重圧。そして、その奥に潜む鶏肉の純粋なる甘み。アルマ、これは間違いなく『黄金の真理』だ」
ノアは音もなくゼノスの手元へ着地し、捧げられた端材を、まるで国宝を扱うかのような手つきで受け取った。
「……あ。わたくしたちの分は……?」
アリスが控えめに、しかし鋭く問いかける。
「わ、分かっております! 皆様、今日はこの先の岩陰で野営にしましょう。私が秘蔵のワインと、この端材を使ったスープを振る舞いますから!」
ゼノスの提案に、それまで殺気立っていた一同の空気が、一気に緩和された。
「……よし、野営の準備だ。キャスカ、薪を集めてこい。アルマ、火を熾せ。我はこれより、この真理の一片と精神的な対話を行う……」
ノアは端材を大切そうに前脚で抱え、早くも自分の世界に入り込んでいた。
魔物の襲撃という危機を脱した一行だったが、結局のところ、この旅を動かしているのは正義でも名誉でもなく、一匹の猫が渇望する「美味」という名の、あまりにも重厚な真理だった。
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