第74話:狼の牙と、猫の爪
「グガァッ!」
先頭の大狼が、岩を砕くような勢いでキャスカへと躍りかかりました。キャスカはそれを紙一重でかわすと、鉄の剣でその厚い毛皮を切り裂きます。しかし、大狼は怯むどころか、その瞳を血走らせてさらに距離を詰めてきました。
「ちょっと、こいつら本気で馬車を狙ってるわよ! リタさん、左をお願い!」
「言われなくても分かってるよ! ――おらぁッ!」
リタの放つ鋭い槍の一撃が大狼の側腹部を貫きますが、残る二頭が回り込むようにして馬車の荷台、すなわちノアの「聖域」へと迫ります。
「ふむ、不届きな。……アルマ、見ろ。あの薄汚い獣どもが、我が真理の木箱をその牙で汚そうとしておる。これは万死に値する冒涜だ。もはや慈悲など不要。今すぐ我を解放し、あの狼どもを『ササミへの供物』に変えさせよ!」
アルマの肩の上で、ノアが全身の毛を逆立てて咆哮(のような高い鳴き声)を上げました。
「ノア、いいから大人しくしてて! アリス、馬車を囲んで!」
「承知いたしましたわ! ――『プリズム・シェル』、展開!」
アリスが杖を掲げると、馬車を包み込むように虹色の六角形が組み合わさった魔力障壁が出現しました。大狼の一頭がその壁に激突し、バチィッという火花と共に弾き飛ばされます。
「……ジャム、援護!」
「……うん。……『泥濘の沼』」
ジャムが杖を地面に突くと、大狼の足元が突如として底なしの泥沼へと変貌しました。動きを封じられた大狼に、リタの槍とキャスカの剣が容赦なく叩き込まれます。
「やった、一頭仕留めたわ!」
キャスカが声を上げたその時、最後の一頭が死角から馬車の屋根へと跳躍しました。その巨体が、ゼノスの隠れる幌を食い破ろうとした、その瞬間――。
「ええい、鬱陶しい! 我の鼻腔を、獣の悪臭で汚すでないわ!」
アルマの拘束をすり抜けたノアが、影のような速さでフードから飛び出しました。空中を蹴るようにして馬車の屋根へ到達した黒猫は、大狼の鼻先へと音速の「猫パンチ」……いや、魔力を纏わせた鋭い爪の一閃を浴びせました。
「ぎゃうんっ!?」
岩をも噛み砕く大狼が、たかだか数キロの猫の一撃で、まるで大砲の弾丸のように吹き飛ばされ、街道の岩肌へとめり込みました。
「……え、……今、何が起きたの?」
槍を構えたまま固まるリタ。キャスカも、剣を振り下ろそうとした姿勢のまま呆然と屋根の上の黒猫を見上げます。
「(フン。……真理を乱す羽虫を一掃したまでだ。……。おい、商人ゼノス! 隠れていないで出てこい。……今、我は貴様の命、そして何よりその『黄金のササミ』を、滅びの運命から救い出したのだ。……この戦果が何を意味するか、その曇った眼鏡の奥の瞳で理解できぬとは言わせんぞ)」
ノアが屋根の上で、夕陽……ではなく逆光を浴びながら、悠然と尻尾を振りました。
「あ、ああ……。助かった、助かったよ黒猫様……。いや、魔法使いのお嬢さん方!」
震えながら幌から顔を出したゼノスに対し、ノアはさらに身を乗り出し、鋭い爪を一本だけ立てて、荷台の木箱を指差しました。
「(理解が早くて助かる。……。ならば今すぐ、その救世主への正当な報酬として、木箱の封印を一部、物理的に破棄せよ。……。今なら特別に、最も香ばしい末端部位のみで許してやらんこともない)」
「ノアぁ! 戦闘が終わった瞬間に強請りに移行しないでよ!」
アルマが駆け寄り、屋根の上のノアを強引に回収して再びフードへと押し込みました。
「離せ! 離せアルマ! 鉄火場の後のササミこそが、この世で最も洗練された真理だと、古の魔導書にも記されておるのだ! 我は権利を行使しておるだけだ!」
「そんな魔導書ないから! ……リタさん、お怪我はありませんか?」
アルマが引き攣った笑顔で問いかけると、リタは槍を収めながら、信じられないものを見る目でノアを見つめました。
「……ああ、怪我はない。……。ないが、……あの猫、今、大狼を素手で飛ばしたのかい? ……あんたたち、本当に何者なんだ……?」
「……。……。……ただの、お腹を空かせた旅人です……」
ジャムが遠い目をしながら呟きました。
魔物の脅威は去りましたが、一行に漂う脱力感と、ノアの止まらないササミコール。
彼女たちの護衛任務は、まだ始まったばかりでした。
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