第73話:静寂を破る咆哮と、猫の「窃盗」作戦
街道を進むにつれ、荒野の風は心なしか湿り気を帯び、赤茶けた大地には点々と背の低い棘だらけの植物が姿を現し始めました。しかし、そんな周囲の環境の変化など、ノアの関心の外にあります。彼の黄金色の瞳は、依然として数メートル先でガタゴトと不規則に揺れる馬車の荷台、その木箱の中に封印された「黄金のササミ」に、全神経を注ぎ込んでいました。
「おい、アルマ。我は今、この絶望的な『お預け状態』を打破する、極めて高次な真理に基づいた名案を思いついたぞ。今すぐ、いや、一秒の猶予もなく実行に移すべきだ」
「……嫌な予感しかしないんだけど。一応、一応だけ聞いてあげるから言ってみて。どうせロクなことじゃないんでしょ」
アルマが半目になり、歩調を緩めずに促すと、ノアはフードから身を乗り出しました。彼はアルマの耳元で、まるで失われた禁呪の詠唱でも伝授するかのような、異様に厳粛で重厚なトーンで囁き始めました。
「まず、貴様が偽の魔力暴走を起こせ。派手な閃光と爆音を伴うやつだ。周囲の護衛どもが『何事だ!?』と混乱に陥り、視線が貴様に釘付けになった隙に、我は『影渡り』の如き俊敏さで荷台へ侵入する。そして、最も脂の乗った部位、あるいは木箱ごと、我の胃壁という名の特異点へ隔離するのだ。どうだ、これ以上ない完璧な真理の探究だろう?」
「ただの窃盗でしょ! しかも私を盛大な囮にする共犯者にしないでよ! 護衛についてる私たちが木箱を奪ってどうすんの!」
アルマの即座のツッコミに、ノアは「これだから凡人は目先の倫理に囚われて本質を見失う……」と、心底がっかりした様子で深く溜息をつきました。その尊大な態度は、自分が盗みを提案していることを完全に棚に上げています。
「アルマさんの言う通りですわ、ノア様! わたくしたちは今、気高く誇り高い『護衛』という神聖な任務に就いておりますのよ? そんなコソ泥のような真似をしたら、わたくしの高貴なる血筋と家柄に一生消えない泥を塗ることになりますわ!」
アリスが隣で胸を張り、毅然とした態度で抗議しました。しかし、その高潔な宣言の直後、アリスの薄い腹筋のあたりから「ぐぅぅ〜……るるぅ」という、情けなくも非常に主張の激しい音が響き渡りました。
「……アリス、今のはどこの国の高貴なファンファーレかしら? 随分とお腹の虫が威勢よく鳴いているみたいだけど」
「なっ、キャスカさん!? これは、その、違いますわ! 空底の捕食者との戦いで乱れた魔力が、わたくしの体内で共鳴し、活発な循環を起こしているだけでして……決して空腹などでは……!」
「いいじゃない、別に。正直に言いなさいよ。私もさっきからお腹と背中がくっつきそうなんだから。でもねノア、あんたの作戦は万に一つも採用されないわよ。そもそも、あんたがさっきから『ササミ、ササミ』って、呪いの呪文みたいにうるさいせいで、周りの護衛の人たちの視線が刺さるように痛いのよ」
キャスカが剣の柄をカチャカチャと鳴らしながら、顎で前方を示しました。そこには槍使いのリタと、残された数人の護衛たちがいました。彼らは時折、信じられないものを見るような、あるいは「こいつらに任せて本当に大丈夫なのか」という不安と困惑の入り混じった目で、アルマたちを振り返っています。
「おい、小娘たち……。あんまり騒ぐんじゃないよ。この先は切り立った岩場が入り組んでいて、飢えた魔物が伏せていることが多いんだ。口を動かす暇があるなら、杖でも構えて周囲の魔力反応に集中しな」
リタの鋭く冷徹な忠告に、一行の空気がわずかに引き締まりました。それまで黙々と歩いていたジャムが、ふと足を止め、震える手で杖を地面に突き立てました。
「……くる。……何か、……くる」
ジャムの言葉が風に消えるか消えないか、その瞬間でした。
「グオォォォォォォン!!」
街道の左右にある巨大な岩陰、死角となっていた場所から、砂塵を巻き上げて赤茶けた体毛を持つ魔物が飛び出してきました。荒野の捕食者『岩噛みの大狼』が三頭。その牙は岩石をも砕くと言われ、飢えに狂った瞳を馬車へと向けています。
「出たわね! 全員、迎撃態勢! ゼノスさんは馬車の中に隠れて!」
キャスカが鋭い叫びと共に鉄の剣を抜き放ち、迷いなく前線へと躍り出ました。アリスも先ほどまでの赤面をかなぐり捨て、即座に障壁の呪文を紡ぎ始めます。緊迫した空気が戦場を支配する中、アルマも精神を集中させ、杖を構えました。
しかし。その肩の上でノアだけは、全く別の、あまりにも場違いな方向に闘志を燃やし、その瞳を爛々と輝かせていたのです。
「ふむ、天の助け、あるいは真理の導きか! 魔物の襲撃という絶好の混乱! これこそ我にササミを喰らえという天啓に他ならん! アルマ、今こそ我を放て! あの木箱の封印を我が爪で物理的に解体して——」
「行かせないよ! ノアは私のフードの中にいろ! 『浮遊の泡』、最大展開!」
「ぎにゃぁぁ!? 離せ、離せアルマ! 邪魔をするな! 我を物理法則の檻で縛るなぁぁ! ササミが……我のササミという名の真理が、あそこで泣いているのが聞こえんのかぁぁ!」
襲いかかる大狼の咆哮、アリスの放つ障壁の炸裂音、キャスカの剣戟の音。それらすべての喧騒をかき消すように、愛猫(?)の「食への異常な執念」を力技で封じ込められた、アルマの悲鳴に近い絶叫が、荒野の空へと虚しく響き渡るのでした。
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