第72話:黄金のササミと、鼻先のお預け
商人ゼノスの馬車隊に加わったアルマたちは、ゆっくりと回る車輪の音を聞きながら、街道を進んでいました。
しかし、その空気は「護衛」という緊迫感からは程遠い、どこか噛み合わない喧騒に包まれていました。
「ぬぅぅぅ……。耐え難い。耐え難いぞアルマ! この木箱の隙間から漏れ出る香気。これはただのササミではない。南方の果実の木で燻され、極北の岩塩で清められた、選ばれし鶏の魂だ!」
ノアがアルマの肩の上で、獲物を狙う猛獣のような姿勢で身を乗り出しています。
その鼻先は、馬車の荷台に厳重に積まれた木箱へと、磁石に吸い寄せられるように向けられていました。
「ちょっと、ノア! 恥ずかしいから身を乗り出さないで! 護衛なんだから、ちゃんと前を見ててよ!」
「黙れ、アルマ。前など見て何になる。真理は常に『後ろ(荷台)』にあるのだ。おい、商人! その木箱の封印を解け。我という高次存在が、直々に毒見をしてやらんこともないぞ!」
「ノア、無理を言わないの! ゼノスさん、すみません、この子がちょっと食い意地が張っていて……」
アルマが慌ててノアの胴体を掴んで引き戻そうとしますが、ノアは四肢を突っ張って必死に抵抗します。
それを見た商人ゼノスは、派手な指輪をはめた手で髭を撫でながら高笑いしました。
「っはっは! 元気のいい猫だ。だがお嬢さん、あれは王都の貴族へ納める最高級品でね。街に着くまでは指一本……いや、肉球一つ触れさせるわけにはいかないのだよ」
「聞いた? ノア。街に着くまでお預けだって。そもそも護衛の報酬なんだから、今食べちゃったら意味ないじゃない」
「愚かな。未来の約束された美味よりも、今そこにある一欠片の真理。それが魔導を志す者の基本ではないか。おい、キャスカ! 貴様のその鉄の棒は、木箱をこじ開けるためにあるのではないのか!?」
「何言ってるのよ、この駄猫! 私の剣をバール代わりに使おうとしないで! そもそも、あんたさっきから私を足場にして荷台に飛び移ろうとしたでしょ!」
キャスカが歩きながら怒鳴り声を上げると、ノアは「チッ」とこれ見よがしに舌打ちをしました。
「どいつもこいつも融通の利かぬ連中だ。おい、アリス。貴様の得意な『光の屈折』で、あの木箱を透明化してみせろ。そうすれば、我が音もなく侵入し、痕跡を残さず真理を回収できる」
「そんなことに魔力を使わせないでくださいまし! 大体、ノア様。わたくし、先ほどからノア様のよだれが肩にかかって、シルクのローブが台無しですわ!」
アリスが顔を真っ赤にしてローブを拭う横で、ジャムがボソリと呟きました。
「……ノア。あんまり騒ぐと、ササミ……没収されるかも」
その一言に、ノアは彫像のように硬直しました。
「……ジャムよ。貴様、今なんと言った。没収だと? 我からササミを奪うことは、夜空から星を奪い、海から水を奪うに等しい大罪だぞ。……よかろう、一旦の休戦だ。我が沈黙することで、ササミという真理が守られるのであればな」
「最初からそうしててよ! ほら、リタさんたちが呆れて見てるじゃない!」
アルマが指差す先では、女槍使いのリタが、眉間を押さえて深い溜息をついていました。
空の王を墜とした英雄的な魔法使い一行を期待していた彼女にとって、目の前の光景は「食欲の権化である猫と、それに振り回される少女たち」という、ひどく緊張感に欠ける集団にしか見えなかったのです。
「……本当に、こいつらで大丈夫なのかい、旦那?」
リタの正当すぎる疑問を背に受けながら、馬車はガタゴトと揺れ続けます。
ノアはアルマのフードに深く潜り込み、念仏のように「黄金のササミ……真理のササミ……」と小声で唱え始めました。
新たな旅の幕開けは、勇壮なファンファーレではなく、一匹の猫の胃袋が奏でる重低音と共に進んでいくのでした。
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