第67話:重力の帰還と、空腹の咆哮
「……っ、アルマ! 前よ、前! ――山が、山が迫ってるわよ!」
キャスカの悲鳴にも似た怒声が、静まり返ったはずの空に響き渡りました。
『空底の捕食者』を雲海の底へと叩き落とした代償は、あまりにも大きなものでした。
トドメの『ヘビー・シャボン・メテオ』を放つために魔力を使い果たし、さらに核となる「魔導鉄の重し」が一時的に機能を停止したことで、アルマたちのホウキは制御を失った木の葉のように、夕闇の迫る荒野へと急降下を始めていたのです。
「わ、わかってる……! でも、舵が……石みたいに重くて……っ!」
アルマは感覚の消えかけた両手で、激しく震えるホウキの柄を必死に抑え込みました。
眼下に迫るのは、赤茶けた岩肌が牙のように突き出した、名もなき渓谷の群れ。
これまで旅路で通り過ぎてきたどの街の灯も見えず、そこにあるのはただ、命を拒絶するような荒野の静寂だけでした。
「(……。……。……。小娘、慌てるな。……。この程度の揺れ、我の髭に付いた露を払うほどの事でもない。……。いいか、アルマ。……。空を飛ぼうとするな。……。今はただ、この世界に満ちる『引力』という名の真理に、その身を委ねればよいのだ)」
ノアはアルマのフードの中で、風に煽られて耳をペタンと倒しながらも、金色の瞳を鋭く光らせていました。
そのお腹からは、先ほどの激戦で魔力を使い果たした反動か、それとも極限の空腹ゆえか、もはや『空底の捕食者』の鳴き声よりも不気味な重低音が響き続けています。
「(……。……。ほら、そこだ。……。右の気流の『淀み』を見つけろ。……。そこに、……貴様の薄っぺらなシャボンを数層、……薄く切り分けた肉のように重ねて滑り込ませるのだ)」
「……肉……。……。……あ、……あそこね!」
アルマはノアの導きに従い、杖の先から放たれた極薄のシャボンを、乱気流の隙間へと放り込みました。
かつてノアに叩き込まれた「干し肉を完璧な厚さで切り分ける」イメージ。
それが今、空中での姿勢制御という形で、彼女たちの命を繋ぎ止めていました。
パチン、と小さな音がした瞬間、暴れていたホウキの機首が、吸い込まれるように一定の角度で固定されます。
「……っ、止まった!? ――キャスカ、姿勢を維持して!」
「言われなくても! ――お肉切り分け・安定の構え!!」
キャスカが、魔力を使い果たした腕でアルマの腰をがっしりと抱き寄せ、重心を一点に固定しました。
急激な墜落から、滑るような降下へ。
夕陽の残光が消えゆく空を、一筋の虹色の光を引いて、ホウキは谷底の平坦な岩棚へと滑り込んでいきました。
ズザザザザァァッ!!
激しい砂煙と共に、ホウキが岩肌を削りながらようやく停止します。
静寂が訪れた荒野に、アルマたちの荒い呼吸だけが響きました。
「……はぁ。……はぁ。……死ぬかと、……思った……」
「……。……。わたくし……、世界がまだ回っておりますの……。……あ、お星様が、……あんなに近くに……」
アリスがふらふらとホウキから転げ落ち、そのまま岩の上に大の字になりました。
ジャムも真っ青な顔で、折れそうになった杖を抱きしめたまま震えています。
「(……。……。……。ふむ。……。……。……。及第点だ。……。……。墜落死という名の不名誉なデザートは、どうやら回避できたようだな)」
ノアが満足げに喉を鳴らし、ひょいとアルマの肩に飛び乗りました。
「(……。……。だが、アルマ。……。……。分かっておるな? ――この絶望的な空域からの生還、……そして空の王を屠ったその戦果。……。これに見合うだけの『供物』が、我が胃壁には必要なのだ)」
「……。……。わかってるよ、ノア。……。今夜は、……どこまでも豪華にしようね」
アルマは苦笑しながら、ケットル先輩から授かった『特製・巨大背負い袋』へと手を伸ばしました。
その中には、オード村で詰め込んだ、熟成されたチーズや燻製肉が、主の牙を待ちわびて眠っています。
人里離れた荒野の片隅。
小さな焚き火が爆ぜる音と、生意気な猫の「早くしろ」という催促。
勝利の喜びよりも先に訪れた強烈な空腹を抱え、彼女たちの「サバイバル」という名の新たな冒険が、今、静かに幕を開けようとしていました。
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