第65話:ふらふらホウキと、卒業生の重い贈り物
「おい、小娘。断言するが、ここから先の高度はもはや『地面』という概念そのものが職務を放棄しておるぞ。
我の髭が、空気の密度さえも上昇魔力に魂を売った、あまりにも節操のない空間の乱れを捉えた。
これは、地に足をつけて威厳を保つべき我という高貴な存在を、そこらの綿毛と同列に扱う不敬極まる世界の兆候だ!」
ノアがアルマのフードの中から、不機嫌そうに髭を揺らして警告を発した。
風鳴りの高地の最上層。そこはもはや「歩く」という行為が成立しない、完全なる無重力に近い領域だった。
周囲には、大地から引き剥がされた巨大な岩や、根こそぎ浮かび上がった巨木が、まるでスローモーションのダンスを踊るように空中に漂っている。
アルマたちは、かろうじてシャボンの鎖で繋ぎ止めた岩場にしがみついていたが、その岩場さえも時折、上昇気流に煽られて「ふわっ」と浮き上がる始末だった。
「……ねえ、ノア。もう限界だよ。
岩を飛び移るたびに、上下が分からなくなって目が回りそう。
こうなったら……もう、これを使うしかないかな?」
アルマが意を決したように、背負っていた古びたホウキを手に取った。
それは彼女が魔法学校の倉庫で見つけてきた、お世辞にも立派とは言えない代物だ。
「アルマ、正気なの!? あんたのホウキ捌き、前回の実技演習で校舎の煙突に突っ込んで以来、一歩も進歩してないじゃない!」
キャスカが、岩の裂け目に剣を突き立てて体を固定しながら叫んだ。
彼女の指摘はもっともだった。
アルマはシャボン玉の魔法に関しては天賦の才を持っているが、こと「飛行」に関しては壊滅的な才能のなさを発揮していた。
「(フン。……確かに。
あの時の煙突掃除の惨状は、我の記憶にも深く刻まれておる。
だがキャスカよ、他に手があるか?
このまま岩にしがみついていても、我らは空の彼方へ流される『保存食』になるのを待つだけだぞ)」
ノアの皮肉混じりの言葉に、キャスカは苦々しく顔を歪めた。
その横で、アリスが冷静に魔法の構築を解析し始める。
「アルマ、やるなら今よ。魔力の流れが一時的に安定しているわ。
……でも、今のあなたの飛行能力じゃ、上昇気流に負けて空の果てまで一直線ね。
そこで、これを使うのよ。ケットル先輩が去り際に渡してくれた、あの『重石』を」
「あ、そっか! ケットル先輩、こういう時のためにこれを……!」
アルマは、村の入り口で見送ってくれた卒業生の先輩、ケットルから託された小さな革袋を取り出した。
ケットルは職人の街へと旅立つ前に、「あんたたちは危なっかしいからねぇ」と笑いながら、見た目以上にずっしりと重い「魔導鉄のインゴット」をいくつか持たせてくれたのだ。
滅多に会えない憧れの先輩。
職人としての腕を磨くために別の道を歩む彼女の贈り物が、今、一行の命綱になろうとしていた。
「膨らめ、多層シャボン・バラスト!
ホウキに重しを付けて、ふらふらしないように安定させて!!」
アルマが杖を振ると、七色のシャボン玉がケットル先輩の鉄塊を包み込み、ホウキの柄の先端と後方にバランスよく連結された。
さらにノアがその膜に「真理の定着」を施すことで、ホウキには物理法則を無視した「重心」が生まれる。
「……よし! いくよ、みんな!
キャスカ、私の腰にしっかり掴まってて! ジャムさんも、アリスも離れないでね!」
「ちょっと、アルマ! そんなに強くアクセルを……ひゃあああああ!!」
アルマがホウキに跨がり、魔力を込めた瞬間。
一行を乗せたホウキは、まるで酔っ払った小鳥のように、右へ左へと激しく蛇行しながら空へと飛び出した。
「(おい小娘! 右だ! いや左だ!
おのれ、我の三半規管が真理の崩壊を告げておる!
もっと優雅に飛ばぬか、この下手くそめ!)」
「言われなくても頑張ってるよぉぉぉ!
でも、重力がなさすぎて、ちょっとハンドルを切るだけで一回転しちゃうんだもん!」
アルマの叫びと共に、ホウキは空中で見事な(意図しない)宙返りを披露した。
逆さまになったジャムが悲鳴を上げ、アリスは必死に光の文字を空中に描いて進行方向を指示する。
しかし、ケットル先輩の「重し」の効果は絶大だった。
激しく蛇行し、時折逆さまになりながらも、ホウキは強い上昇気流に押し流されることなく、確実に浮遊神殿へと向かって突き進んでいく。
「(……。……。……。……。……。
フン。……泥臭い飛び方だが、目標は捉えたぞ。
おいアルマ、正面だ! 雲を割って、何かが現れるぞ!)」
ノアの声が鋭くなった。
前方の分厚い雲海が激しく渦巻き、そこから巨大な、半透明の翼を広げた影が姿を現した。
それは、この高地を支配し、周囲の重力を吸い取って空に穴を開けようとしている澱みの王。
『空底の捕食者』。
「……っ、見えた!
あいつを倒して、この不安定な空を終わらせるんだから!」
アルマはふらつくホウキの柄を、両手でぎゅっと握り締めた。
ケットル先輩のくれた重み。仲間の信頼。そしてノアの(小言まじりの)導き。
それらすべてを乗せて、最弱パーティの凸凹な飛行は、いよいよ決戦の地へと突入しようとしていた。
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