第64話:無重力格闘と、真理の錨
「おい、小娘。断言するが、この先の高度における重力の仕事ぶりは、完全に『職務放棄』の域に達しておるぞ。我の髭が、大地を掴むという本能的な安心感をドブに捨て、空飛ぶ綿毛のごとく無責任に浮かれ散らかす空気の不条理を捉えた。これは、地を這う生命の矜持を忘れ、天界への不法侵入を試みようとする不遜な空間の兆候だ!」
ぽよん村での短い休息(とカボチャの煮付け)を終え、一行はいよいよ風鳴りの高地の深部へと足を踏み入れました。
標高が上がるにつれ、上昇魔力はその密度を増し、今や「少し跳ねる」どころではありません。
一歩歩くたびに、まるで深海を泳いでいるかのような、あるいは夢の中で宙を舞っているかのような、ふわふわとした頼りない感覚が全身を包みます。
「……うわわわ! キャスカ、助けて!
杖を振った勢いで、自分の体がバク転しちゃうよ!」
アルマが悲鳴を上げました。
彼女が杖を一振りしてシャボン玉を出そうとするたび、その微かな反動で体が空中で回転してしまい、上下の感覚を失ってしまうのです。
「アルマ、動かないで! 私だって今、自分の剣を重石にして、なんとか岩にしがみついてるんだから!」
キャスカは愛剣を岩の裂け目に深く突き刺し、それにぶら下がるようにして固定されていました。
剣士にとって、足場が不安定というのは致命的です。
踏ん張りがきかないため、いつもの鋭い一閃を放つことができません。
「あ、あの……! 皆さん、見てください!
空の向こうから、何か『フワフワした巨大なもの』が迫ってきますわ!」
ジャムが空を指差しました。
そこには、雲の一部が意志を持ったかのような、巨大な綿菓子のような姿をした怪物が、風に乗って猛スピードでこちらへ滑空してきていました。
「(フン。……。……。……左様。
あれこそがこの高地の魔力を乱し、重力を食らい尽くして太り太った澱みの化身。
『空底の翼』の眷属、……『浮遊する大食漢』だ。
あやつらは大気の振動を吸収し、周囲の重さを完全にゼロに書き換えることで、獲物を空の彼方へ放逐するのを愉しみとする、極めて悪趣味な存在なのだ)」
ノアはアルマのフードの中に潜り込み、顔だけを出して不敵に笑いました。
ノアの丸い体も、この低重力下ではさらに膨らんでいるように見えます。
「(おい、小娘。……。
このままでは、貴様らは戦う前に『宇宙への旅人』にされてしまうぞ。
真理とは常に、地に足をつけてこそ光り輝くもの。
今こそ、ケットルが施したあの『巨大背負い袋』の真価を発揮する時だ!)」
「ケットル先輩の袋を……? でもノア、あれはもうジャムさんが背負ってるよ!」
「(足りん! 全員の重さを一つに繋ぎ、この浮ついた空間に『絶対的な質量』を刻み込むのだ。
アルマ、貴様の多層シャボンで全員を一つの鎖として連結しろ。
そして、そのシャボンの内側に、我という名の重厚なる真理を転写する!)」
アルマはノアの指示通り、必死に体勢を整えながら杖を掲げました。
「膨らめ、七色の多層シャボン・アンカー!!
みんなを繋いで、地面に留めて!!」
アルマが放ったシャボン玉は、細長い鎖のような形となって、キャスカ、アリス、ジャム、そしてアルマ自身の腰を繋ぎ合わせました。
さらにノアがそのシャボンの膜に「重力固定」の術式を上書きすると、ふわふわと浮いていた一行の体に、ずしりと重い「存在感」が戻ってきました。
「……あ、足が地面に着いた!
これなら踏ん張れるわ!」
キャスカが岩から手を放し、剣を正しく構え直しました。
そこへ、巨大なクラウド・ホッパーが突進してきます。
「(――いけ、キャスカ!
真理の重みを知らぬ空虚な怪物に、大地の痛みを教えてやれ!)」
「――了解!! ――大地を砕く、重厚なる一撃を受けなさい!!」
ドォォォォォォン!!
重力を取り戻したキャスカの一閃が、ふわふわの怪物の中心を貫きました。
音もなく迫っていた怪物は、自分の質量をはるかに上回る「真理の衝撃」に耐えきれず、まるで風船が弾けるように四散して霧の中へと消えていきました。
「……ふぅ。……。
なんとかなったけど、これ、一歩進むたびにシャボンで地面に固定しなきゃいけないから、すごく疲れちゃうね」
アルマが汗を拭いながら、自分の重みを確認するように地面をトントンと踏みました。
「(フン。……。
当然だ。……真理を保つには、それ相応のエネルギー(ササミ)が必要なのだ。
おい、アルマ。……。
この『重力アンカー』を維持するための魔力消費は、我の空腹度と密接にリンクしておる。
今すぐ、袋の四段目にある『重厚なる熟成燻製肉』を献上しろ。
そうでなければ、次の突風で貴様らを気球のように空へ放流してやるぞ!)」
「……ええっ!? 結局、脅迫じゃない!
でも、分かったよ。ノアがいないと、私たちみんな宇宙に行っちゃうもんね……」
アルマは溜息をつきながら、再び浮かび上がろうとする袋の紐を締め直し、最高級の肉をノアに捧げました。
風鳴りの高地の深部は、まだ始まったばかり。
重力を失った世界で、一行は「自分たちの重み」を確かめるように、一歩一歩、慎重に、そして賑やかに、空に近い場所へと進んでいくのでした。
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