第52話:澱みの怪物と、重圧の猫パンチ
「……おい、小娘。断言するが、この村に漂う空気は、腐った卵と古びた魔力が絶妙にブレンドされた、最悪の『不浄のスープ』だ。……我の鋭敏な髭が、広場から放たれる『真理を拒絶する粘着質な悪意』を捉えたぞ。……これは、世界の胃袋が消化不良を起こし、吐き出された老廃物が、今まさに我らの行進を阻もうとしている兆候だ!」
オード村の入り口を抜けた瞬間、一行を襲ったのは、呼吸すら躊躇われるほどに重く、湿った魔力の圧力だった。
かつて村人たちの笑い声が響いていたであろう広場は、今やどす黒い霧に包まれ、建物の影からはズズリ、ズズリと、肉を引きずるような不気味な音が響いている。
「……うう、鼻が曲がりそう。……。……これ全部、魔力が淀んで固まったものなの?」
アルマは鼻をつまみながら、杖を震える手で構えた。
霧の向こうから現れたのは、もはや生き物とは呼べない、不定形の泥の塊。
人や家畜の形を模しながらも、その中心には澱んだ魔力の核が赤黒く光っている、魔力の怪物『ディストーション(歪み)』だった。
「(……。……。……左様。……。……循環を失い、行き場をなくした魔力が、負の感情を吸い込んで物質化した成れの果てだ。……。……。……。……。……まともに触れれば、貴様らの繊細な魔力回路も一瞬で詰まるぞ。……。……。……。……。……おい、小娘! ――怯えるな! ――今こそ、あの地下で掴んだ『循環』の真理を、この醜悪なゴミ溜めに叩き込んでやるのだ!)」
ノアはアルマの肩の上で、自慢の漆黒の毛を針のように逆立てた。
金色の瞳には、美しくあるべき世界の理を汚されたことへの、深い憤怒が宿っている。
「……わかってる! ――みんな、いくよ! ――キャスカ!」
「……ええ! ――こんなドロドロ、私の剣で真っ二つにしてやるわ! ――『烈風の一太刀』!」
キャスカが叫びと共に踏み込み、鋭い斬撃を放つ。
しかし、風の刃は泥の怪物を切り裂くものの、切り口から溢れ出した黒い液体が、即座に傷口を塞いでしまった。
それどころか、キャスカの剣に絡みついた『澱み』が、彼女の活力を吸い取ろうと蠢き始める。
「……っ、剣が重い!? ――魔力が吸い取られて……!」
「……。……。……。……。……慌てないで、キャスカさん! ――ジャム、アリス! ――魔力の供給を絶たせないで! ――いくよ、ノア!! ――膨らめ、浄化の多層シャボン!!」
アルマが杖を一閃させると、七色の光を放つ無数のシャボン玉が放たれた。
それはただの泡ではない。
内部に『循環の種』の琥珀色の光を宿し、外部の汚染を跳ね返しながら、周囲の魔力を「正常な流れ」へと強制的に戻そうとする、アルマたちの新しい魔法だ。
「(……。……。……。……。……フン。……。……。……。……。……。……仕上げは我だ! ――小娘、我をあの中心の核へと放り込め! ――世界の不浄ごと、我が質量の真理で圧殺してくれるわ!!)」
「……ええい、もう! ――いけぇぇ、ノアァァ!!」
アルマが、ノアを包み込んだ最大のシャボン玉を、全力の旋風魔法で射出した。
高速回転しながら飛んでいく黒い弾丸。
泥の怪物がその巨大な腕を振り上げた瞬間、シャボン玉がその顔面に激突した。
「(――真理の重みを知れぇぇぇ! ――超圧縮・猫パンチ・ヘヴィーウェイトッ!!)」
ドォォォォォォォン!!
ノアの(ササミとツナで培われた)圧倒的な質量が、シャボン玉の弾力によって一点に集中され、泥の怪物の核を粉砕した。
爆散する黒い霧。
だが、その霧が周囲に飛び散る前に、アルマのシャボン玉がすべての不浄を内側に閉じ込め、琥珀色の光で瞬時に浄化していく。
「……はぁ、はぁ……。……やった……?」
アルマが息を切らしながら周囲を見渡すと、広場を覆っていた黒い霧が、わずかに薄くなっていた。
泥の怪物だったものは、ただの乾いた土へと還り、風に舞って消えていく。
「(……。……。……。……。……。……。……。……。……。……。……。……フン。……。……。……。……。……当然の結果だ。……。……。……。……。……だが、……喜ぶのはまだ早い。……。……。……。……。……。……おい、アルマ。……。……。……。……。……。……見ろ。……。……。……。……。……。……。……あの角の建物の地下……。……。……。……我が守れと命じた『チーズ貯蔵庫』の扉に、……。……。……。……。……。……。……。……。……。……。……まだ、しぶとい澱みが絡みついているではないか! ――一刻も早く、我が聖域を解放しろ! ――真理のチーズが、絶望に染まる前にだ!)」
「(……ノア!! ――やっぱり最後はそこなんだね!!)」
アルマの突っ込みと共に、キャスカたちは苦笑いしながらも、再び武器を構えた。
村の浄化はまだ始まったばかり。
けれど、彼女たちの七色の光は、死にゆく村の片隅で、確かに新しい「循環」の火を灯し始めていたのである。




