第47話:琥珀色のティータイムと、動き出す影
「……おい、小娘。断言するが、この学園の平和な午後は、極めて質の高い『罠』だ。……我の鋭敏な髭が、微風に乗って漂うわずかな『砂の匂い』……それも、かつて砂漠の最深部で嗅いだ、あの古びた魔力の残滓を捉えたぞ。……これは、平穏という名の器が、再び未知の真理によって満たされようとしている兆候だ」
王立魔法アカデミー、中庭のテラス席。
砂漠での過酷な任務を終え、数週間の時が流れていた。
アルマは、エレーヌ先輩から譲り受けた琥珀色のハーブティーを楽しみながら、分厚い魔導書と向き合っている。その肩の上では、ササミ禁止令をようやく解除されたノアが、満足げに喉を鳴らしながら、自慢の漆黒の毛並みを丁寧に整えていた。
カラスのクロウとの騒がしい追いかけっこも今日はなく、中庭には穏やかな時間が流れている……はずだった。
「……砂の匂い? ――もう、ノア。考えすぎだよ。……ここは王都のど真ん中なんだよ? 砂漠なんて、魔導列車で何日もかかる場所じゃない」
「(……甘い。……甘すぎるぞ、アルマ。……貴様のその、平和ボケした脳髄こそが最大の隙だ。……。……いいか、思い出せ。……我らが砂漠から持ち帰った『循環の種』。……あれは単なる魔導具ではない。……数千年の時を越えて、世界を再定義するための『鍵』なのだ。……。……あやつが動けば、必ず何かが、この学園へと引き寄せられる)」
ノアは金色の瞳を細め、誰もいない時計塔の影を見つめた。
そこには、陽炎のように揺らめく、不自然な空気の歪みがあった。
「(……ほら、見ろ。……。……。……誰か、来るぞ。……。……それも、この学園の教師どもとは、根本的に魔力の『密度』が違う存在だ)」
ノアの言葉が終わるか終わらないかのうちに、テラスの入り口から、一人の老人がゆっくりと歩み寄ってきた。
白髪をきっちりと整え、豪奢な刺繍が施された灰色のローブを纏ったその男は、一見すると隠居した貴族のように見えるが、その足取りには一切の迷いがなく、一歩歩くごとに周囲の魔力が、彼を避けるようにして波立っていた。
「……お初にお目に掛かる、ベルンさん。……そして、特級検体と呼ばれている……黒き賢者殿」
老人は、アルマの前で足を止め、深々と頭を下げた。
「……えっ、あ、はい。……ベルンですが、……あなたは?」
アルマは、椅子から立ち上がり、思わず杖を握りしめた。
目の前の老人が放つ圧迫感。それは、エドワード先輩やエレーヌ先輩から感じる「実力」とは次元の違う、歴史そのものが服を着て歩いているような、圧倒的な重みだった。
「……私は、魔導院の調査官、ゼノンと申す。……。……君たちが砂漠から持ち帰った『種』について、学園長とは別の視点から、いくつか確認させていただきたいことがあってね」
ゼノンの瞳が、アルマの肩に乗るノアへと向けられた。
その瞬間、ノアの毛が逆立ち、喉の奥から「ウゥッ」という低い唸り声が漏れた。
「(……。……。……魔導院だと? ――フン、あの古臭い知識の墓場に住まう、化石どもの使いか。……。……おい、ゼノン。……。……我らが砂漠で何を見たか、何を得たか。……それは貴様らのような、机の上で魔力を数えるだけの連中が知る必要のない真理だ)」
「……。……。……相変わらず、口の悪いお方だ。……伝説の魔導王、その欠片を宿す猫殿」
ゼノンは薄く微笑み、懐から一枚の、琥珀色の魔導羊皮紙を取り出した。
「……学園長には許可を得ている。……。……ベルンさん。……君たちのパーティに、魔導院からの『再調査勧告』が出された。……。……君たちが持ち帰ったあの種は、学園の地下で……予期せぬ『共鳴』を始めている。……このままでは、王立アカデミーそのものが、砂漠の最深部と同じ『吸魔の領域』に上書きされる恐れがあるのだ」
「……何ですって!? ――そんな、せっかくみんなで守ったのに……!」
アルマの顔から血の気が引いた。
砂漠での死闘。仲間たちと手を取り合って、ようやく掴み取った平和。
それが今、自分たちが持ち帰った「救い」の手によって、崩れようとしているというのか。
「(……フン。……。……循環とは、死と再生の繰り返しだ。……古いものが壊れなければ、新しい真理は芽吹かん。……。……だが、……ゼノン。……。……貴様ら魔導院が、その『再生』を自らの手で管理しようというのなら、話は別だ)」
ノアはアルマの肩から机の上に飛び降り、ゼノンの前に立ちはだかった。
黒猫の小さな体が、一瞬だけ、巨大な影を背後に背負ったかのように大きく見えた。
「(……アルマ、杖を構えろ。……。……。……日常は終わった。……。……これより、我らは『内なる敵』……すなわち、この学園に潜む古い理との戦いに身を投じることになるぞ)」
「……ノア……。……。……わかった。……私、もう逃げないって決めたから」
アルマは、震える手で杖を握り、黄金色の魔力を薄く纏わせた。
テラスを吹き抜ける風が、不意に冷たく、砂の匂いを帯びていく。
砂漠から持ち帰った小さな種。それが、学園という箱庭の中で、どのような「芽」を出すのか。
見習い魔法使いたちの第4章。
それは、平穏な日常の裏側に潜む「魔導の深淵」へと、彼女たちを引きずり込んでいく。
「……良い目だ、ベルンさん。……。……では、地下の『循環の間』でお待ちしているよ。……。……君たちのシャボン玉が、魔導院の重圧にどこまで耐えられるか……見極めさせてもらおう」
ゼノンの姿が、陽炎のようにかき消えた。
残されたのは、冷めたハーブティーと、不気味に静まり返った学園の中庭だけだった。
「(……おい、小娘。……。……。……今夜の夕食は、最高級のササミを二倍にしろ。……。……。……真理と戦うには、……それなりの『備蓄』が必要だからな)」
「(……ノア、かっこいいこと言った後に、すぐ食べ物の話しないでよ!!)」




