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熊の巣穴

 十五日目の夕刻、彼らはようやく目的地に辿り着いた。


(すっごい所……)


 イザベルはそそり立つ石壁を見上げて口を開けた。 

 城塞――それが彼女の抱いた印象だった。

 迫り出した崖を土台に高い石の城壁が組まれている。古い砦の跡地だろう。積み石は苔むして風化し、崩れている箇所も目につくが、それでも近寄りがたい威圧感があった。

 アルボレダの国境線が固まる二百年前まで、この地では北方の蛮族と激しい交戦が繰り返されていた。『黒の山脈』には今でもその時代の名残が多く残されているらしい。


 城壁沿いに細い坂道を進み、正面らしき場所へ辿り着く。かつては蛮族の侵攻を跳ね返していたであろう城門はすでになく、壁の切れ目はそのまま彼らを中に迎え入れた。

 まるで旅の終わりを待っていたように、灰色の空はちらちらと白いものを零し始めた。


 戦乱の時代の面影を残していたのは外壁だけで、壁の内側には意外な眺めが広がっていた。

 当時の棟や塔はほとんど取り払われ、かわりに十軒ほどの木造の家屋が建てられている。切妻屋根の建物は民家らしく、煙突からは夕餉の煙が上っていた。家の外では、日常着の男女が薪を割ったり干した野菜を取り込んだり、冬支度に忙しげだ。


「ここが俺らの家だよ」

 

トリスが明るく言った。その口ぶりには長い旅路を終えた安堵と、少しの誇らしさが入り混じっている。


(小さな村みたい)


 イザベルは興味深く辺りを見回した。忙しない人々を尻目に、山羊や鶏などの家畜がのんびりと歩いている。

 ディミトリを先頭に彼らが進んでいくと、住人たちはみんな頭を下げて見送った。待ち侘びたよ、小麦の蓄えが心配だったんだ、などと声をかける者もいる。小さい子供たちもいて、歓声を上げて馬車の後をついてきた。


「あんた! おかえり!」


 そんな中、エプロン姿の女たちが何人か駆け寄ってきた。帰還した隊の中に夫を持つ女房たちらしい。男たちが照れ臭げに笑う。


「道中、ちゃあんとお頭のお役に立ってたんだろうね?」

「酒ばっかりかっ食らって迷惑をかけてたんじゃないの?」

「ああもう、靴をそんなにボロボロにしちまって……」


 口々に話す女たちに、手下たちはみんな圧倒されている。


「うるせえよ、まだ仕事が残ってんだ。家で待ってろ」


 バティストがまとめて言い返した。だが嬉しそうだ。ディミトリの表情も心なしか緩んでいる。

 おかみさんたちはイザベルに気づいて何か言いたげだったか、顔を見合わせて口をつぐんだ。

 

 あまりにも牧歌的な光景に、イザベルは少々面食らった。故郷の村でも毎日見ていたようなやり取りだ。こんな状況でさえなければ長閑(のどか)だと思えたかもしれない。


 崖側の城壁沿いにある居館の前で、一行は馬を降りた。

 この屋敷はもともと砦の一部だったらしく、古めかしい石造りである。手下たちは手際よく荷馬車を回し馬を連れていく。倉庫も厩もひと続きの屋根の下に併設されているのだ。


(ここが熊の巣穴ってわけね)


 陰鬱な館の外観にイザベルは息を飲む。南部の開放的な家屋の雰囲気とは何もかも違っていた。

 けれど今さら逃げられるはずもなかったので、大人しくディミトリの後について行った。バティストとトリスもそれに続く。

 玄関扉が階段を上った高い位置にあるのは、雪が積もるからだろうと想像できた。扉を入ると、狭いホールになっていた。屋内に入るにはもう一枚扉を潜る造りになっている。

 内扉は向こうから開かれた。


「おかえりなさい」


 室内の暖かな空気とともに姿を現したのは、一人の女だった。

 すらりとした長身や長い手足から、イザベルは異国の神話に登場する牝鹿を連想した。薄い色の金髪を緩く纏め、黒いスカートと首元の詰まった緑色の上着を着ている。年は二十代半ばといったところか。彫りの深い顔立ちは少し厳しく見えるほど美しいが、口元に浮かんだ笑みは優しかった。


「長旅お疲れ様でした。到着が遅れて心配したわ」

「留守中何事もなかったか?」

「ハンスが調理場でボヤを出したくらいよ。壁がちょっと焦げただけだから叱らないであげてね。あら、この可愛らしいお嬢さんは?」


 女はイザベルに目をとめた。綺麗な灰青色の瞳である。

 ディミトリは素っ気なく、


「ここに住まわせる。世話をしてやってくれ」


 とだけ言い残して扉の向こうへ去った。手間をかけて連れ帰ったとは思えぬほど淡泊な態度だった。


「エカーヴの宿でお頭が保護したんスよ。あっ、誰にも妙なことはさせてないんで」


 トリスがよく分からない言い訳をしたのは、ディミトリの言葉足らずを補足するつもりだったのかもしれない。何も状況は分からないだろうに、女は気分を害したふうもなく微笑んだ。


「そう、あなたが守ってくれたのね、トリス」

「は、はい!」

「ご苦労様。ここからは私に任せて。バティスト、荷下ろしの指示をしてちょうだい」


 屋敷の奥から部下らしき男たちが出てくる。バティストは彼らを連れて倉庫の方へ向かった。トリスの襟首を掴むのも忘れなかった。


「……オルガさんは優しい人だから安心しな。ゆっくり休んで」


 引き摺られて行く前に、トリスはイザベルにそう囁いた。

 イザベルが所在なく突っ立っていると、女は彼女の背に手を添えた。 


「いらっしゃい。まずは体を温めましょう」


 男所帯で長旅をしてきたイザベルは、その手の柔らかさにほっとした。




 オルガと名乗ったその女は、怜悧な外見に拘わらず非常に朗らかだった。


「気の利かない男どもばかりで不自由したでしょう」


 柔らかな口調には変わったアクセントが聞き取れた。この地方の訛りなのか、どこか他の国のもののなか、イザベルには判断がつきかねた。

 事情はいっさい尋ねず、オルガはイザベルを屋敷の奥へ案内する。廊下は天井が低く、窓が小さいので薄暗い。イザベルは牢獄にいるような閉塞感を覚えたが、空気はとても暖かく、旅装束のままでは汗ばむほどだった。


 連れて行かれた浴室で、イザベルはさらなる衝撃と命の危険を感じることになる。


「ちょっと熱いけどさっぱりするわよ」


 長旅で汚れた衣服を脱がされ、そんな善意に満ちた言葉とともに押し込められたのは、浴槽も湯もない板張りの浴室。かわりに高温の蒸気が満ちていた。


(蒸し殺される!)


 出してと叫んで叩いた引き戸は、オルガに押さえられている。


「大人しく座ってなさい。十分経ったら出してあげるから」


 イザベルはべそを掻きながら膝を抱える羽目になった。

 初めて経験する類いの暑さだった。すぐに体中から汗が噴き出し、勢いよく血が巡り始めるのを感じた。

 十分後に戸が開いた時、汗と涙で視界がぼやけ、自分が蒸しパンになった気がした。

 オルガは苦笑して、ふらふらの少女を隣の部屋に連れて行く。そこはごく普通の浴室で、狭い木桶の浴槽が置かれていた。

 張られた(ぬる)い湯にイザベルを浸からせて、オルガは両袖を捲った。栗色の髪を濯ぎながら、


「体がぽかぽかするでしょう。この辺でお風呂と言ったらあの蒸し風呂なの」

「も、もう二度と嫌」

「慣れれば気持ちいいわよ」


 オルガは海綿を湯に浸し、イザベルを眺めて、きれいねと呟いた。

 イザベルは気恥ずかしくなって、海綿を奪い取るように受け取った。さすがに体を洗ってもらうのはためらわれた。 


「オルガ……さん、あたし、何のためにここに連れて来られたんでしょう?」

「さあそれは……ディミトリに訊いてみたら?」


 オルガの口調に含みはなかった。あの男のすることに疑念を抱いてはいないらしい。

 イザベルは少し落胆して視線を伏せる。すると、手桶で湯を掛けてくれるオルガの上腕に不自然な変色があるのに気づいた。

 皮膚全体が縮んで強張っているような――傷痕に見えた。

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