血と首飾り
(あの男にやられたの……?)
オルガの腕に残る傷跡を見て、湯の中にいるにも拘わらず、イザベルの背中を冷たいものが走った。
しかしそれを尋ねることはどうしてもできなくて、
「オルガさんはあの人の奥さんなの?」
と訊くと、オルガはふっと息をついた。
「どうかしら。一緒に暮らしてはいるけれど」
「もしかして、よそから連れて来られたの? あ、あたしもあの人の愛人か何かにさせられるのかな。すごく……怖い……」
自分の両肩を抱き締めるイザベルに、オルガは優しい眼差しを向けた。夫同然の男が連れてきた娘に対し、嫉妬も憎しみも感じてはいないようだった。
「あの人が何を考えているのか私にも分からないけれど、彼はあなたをひどく扱った?」
イザベルが首を振るのを待ち、
「ディミトリはね、容赦のない男よ。やる時は勿体をつけずに最初からやる。今まで何もしなかったのなら、これからもあなたに危害を加えるつもりはないのだと思うわ」
イザベルは森の中での戦闘を思い出した。
襲ってきた盗賊団をディミトリは躊躇なく返り討ちにし、あまつさえ追撃して拠点ごと焼き払った。オルガの言う通り、決断を先延ばしする男ではないのだろう。
(だったらますます分からない。赤の他人の田舎娘を大枚はたいて買い取って、手も出さずに本拠地に連れ帰る価値なんてある?)
「さ、もう出ましょう。髪をよく拭いてね」
黙り込んだイザベルの体を、オルガは乾いた浴布で覆った。
イザベルに宛がわれたのは小さな個室だった。やはり窓は小さかったが、暖炉で燃える炎が暖かく揺れていた。家具や調度は繊細で、素っ気ない石壁を隠すように花模様のタペストリーが飾られている。ベッドの傍には鏡台もあった。
「私の部屋なの。客間の準備が調うまで好きに使って。私はディミトリの部屋に行くから」
オルガは気前よく言って、テーブルの上に料理を並べた。
熱々のスープに、こんがりと焼かれた肉、丸いパン。干した果物も添えられていた。香ばしい匂いにイザベルの腹が鳴る。
「皆は食堂で食べているけれど、酔っ払いに絡まれるの嫌でしょ。あなたはここで」
「皆って……このお屋敷には何人くらいが住んでるんですか?」
「あの人と私と、荒くれ男が二十人ほど。所帯持ちは外に家を建てているわ。熊というより狼の群れみたいね」
オルガはおどけた調子で答えた。もちろんそれがディミトリ・デュノールの全勢力ではないはずだ。ここで冬を過ごすのは側近中の側近、精鋭部隊なのだろうとイザベルにも想像がついた。
もりもりと食が進むイザベルを見守りつつ、オルガはのんびりと話し始めた。
「でも群の中の毛色は様々よ。ディミトリの手下には流れ者が多いわ。王軍からの脱走兵、傭兵崩れ、後ろ暗い事情で故郷を追われた奴ら……それから、鉱夫」
「鉱夫?」
「金鉱の労働者たちよ。『黒の山脈』で金が採れていた頃は、国中からかき集められていたの。でも何年も前に閉鉱になったでしょ。行き場を失ったそいつらを。ディミトリはごっそり抱え込んだってわけ。で、急速に勢力を拡大させた」
(仕事がなくなったのなら家に帰ればいいのに、どうしてこんなヤバそうな連中の仲間になるのかしら)
かつて『黒の山脈』で金を掘っていた男たちは、そのほとんどが罪人であり、鉱山は受刑場であったこと、釈放されたとて帰る場所などなかったこと、ゆえに新たな居場所で罪に手を染めるのも厭わないこと――南部生まれの少女にはそんな事情など斟酌できなかった。
「あの人も……トリスも流れ者なの?」
イザベルは皿に残った肉汁をパンで拭いながらそう訊いた。オルガは笑みを深くする。
「あの子が気になる?」
「そ、そうじゃないけど、あいつ若いのに強かったし、お頭の右腕だなんて言ってたし、どういう人なんだろうって」
「あはは、右腕は言い過ぎね」
オルガは喉を上げて笑った。鈴を振るような耳心地のよい笑い声だった。
「でもあの人に目を掛けられているのは本当よ。そのうちトリス本人に身の上話を訊いてみたら?」
興味がない――わけではなかった。普段の軽薄な言動と、イザベルの浅慮を叱りつけた時の迫力、そしてあの手慣れた殺人の腕。一人の人物像に纏めるのが難しく、いったいどんな育ち方をしたんだろうと気にはなっていた。
しかし変な誤解をされるのは本意ではない。イザベルは口ごもった。
「さ、これも。気分が良くなるわよ」
勧められたのは蜂蜜色の飲み物だった。甘く、少し不思議な香りがする。
食事の後、イザベルは暖かいベッドに潜り込んで、あっという間に眠りに落ちた。故郷の村を出てから実に半月ぶりの、深い眠りだった。
「あの子はどうしてる?」
部屋に入ると開口一番そう訊かれて、オルガは笑いを堪えた。
「ぐっすり眠ってるわ。薬酒が効いたみたい。一ヶ月ぶりに帰ってきて、他の女を気に掛けるなんてあんまりね」
からかい混じりの非難を受けて、ディミトリは手元の書面に目を落とした。例の蒸し風呂で旅の垢を落とした彼は、寛いだ部屋着に着替えて、文机の前で帳簿に目を通している。
女の悋気になど無関心な風情だが、オルガにはそれが気まずさを隠す仮面だと分かっている。そして、いきなり連れ帰った素性の分からぬ娘を受け入れ、文句も愚痴も言わない彼女に負い目を感じていることも。
オルガはディミトリの邪魔をしないように後ろを通り抜けた。
イザベルに私室を明け渡した彼女は、客間を準備するまでこの部屋に寝泊まりすることになる。夫婦同然の関係ではあったが、ディミトリはあまり私的空間に他人を入れることを好まず、これまで寝室は別だった。
二人で寝るのに十分なベッドに腰掛けようとしたオルガは、ふと、枕の上で煌めくものに気づいた。
首飾りだ。三連の金の鎖に繊細な細工の台座が吊され、青い宝石が飾られている。
「土産だ」
ディミトリは机に向かったまま告げる。
オルガは自分の瞳と同じ色をしたその宝石を胸に当て、ありがとうと笑った。それから上着の襟元を留めた紐を解き、ディミトリの背中にそっと寄り添った。
「ね……着けて」
蠱惑的な抑揚の声に応えて、ディミトリは振り向く。金色の鎖は彼女の白い肌によく映えた。
首の後ろで留め金を繋げた彼の指は、そのままオルガの胸元を開いていく。最初はゆっくりとしていた仕草が、徐々に性急になった。
男の飢えを感じて、オルガは自分から腰帯を解く。肌着ごとするりと滑った衣服は彼女の足下に蟠った。
「灯り、消して」
「いや、よく見せてくれ」
無意識に隠そうとするオルガの腕を捕らえ、ディミトリは一ヶ月ぶりに触れる愛人の体を舐めるように見詰めた。熱っぽい視線に晒された彼女の肌は奇妙な特徴を備えている。
「相変わらず悪趣味ね。こんな汚いものを見たがるだなんて」
荒れた指先がなぞる皮膚は、変色して縮んでいた。
オルガの首筋と両肩、背中から脇腹、鳩尾の辺りまで、それは広がっている。皺だらけの羊皮紙を貼り付けたような無残な有様は、重い火傷の痕だ。
さらに自嘲の言葉を呟こうとしたオルガの唇を、ディミトリは吐息ごと吸い取った。オルガも彼の首に腕を巻きつける。胸元で揺れる宝飾品の重さが官能を煽った。
それと、男から漂う臭いが――洗っても落ちることのない、血の臭いが。ああ、また誰かを殺してきたのね。
「これはあなたのものだという証拠よ……でも……」
オルガは彼の首筋に顔を埋め、毒を呷るようにその臭いを深く吸い込んだ。
この男が奪ってきた命の数だけ、自分は生かされている。その罪の深さを噛み締めると同時に、オルガは、別室で眠るイザベルの白く清らかな肌を思い出す。
「あの子はこんな目に遭わせないであげて」
細い声は敬虔な祈りのようだった。
次章へ続く




