春立つ日
忘れ得ぬあの冬から、二度同じ季節が巡り、去っていった。
イザベルの生活は大きく変わった。母や小作人たちとともに泥に塗れて葡萄畑を手入れし、亡き父が遺した農園の経営をしっかりと手伝うようになった。金銭管理や人の采配の分野では今や母親以上であり、伯母からの嫌味にも毅然と言い返せる自信が身についた。
一方で、北の地との繋がりも途絶えてはいなかった。秋になっても姿を見せなくなったディミトリに代わり、彼女のもとには、季節ごとに密輸団の使者を介して一通の手紙が届けられていた。送り主はトリスだ。
手紙には彼の近況が簡潔に、でも楽しげに記されていた。
ディミトリから次々と難儀な仕事を振られていること、期待に応えようと奮闘していること、その実績が徐々に認められて一味の若手筆頭の地位を得たこと、そして『北の狼』と呼ばれるようになったこと――。
(嘘くさい)
トリスの性格を知っているイザベルは話半分で受け止めていたが、手紙を読む度、胸の奥が熱くなった。愛おしさと、再会への期待のためだ。彼女からの返事は訪れる使者に預けることしかできず、もどかしさに焦れる日々が続いた。
三年――トリスはあの時、そう言っていた。
だが、約束の期限まであと一年を残したところで、イザベルの我慢は限界を迎えていた。縁談を断り続け、おかしな性癖があるのではないかと噂されるのも心外だった。
(決めた)
北へ行く、と告げたイザベルに、母は呆れつつも路銀を援助し、どこか嬉しそうにその背を押してくれたのだった。
浅い春の冷気が残る、早春の朝だった。
イザベルは男物の頑丈な乗馬服に身を包み、農園でいちばん体力のある馬に跨がって、村の入口にある坂を下っていた。栗色の髪をひとつに束ね、胸元にはあの狼の牙の御守りをしっかりと吊している。
目指すは雪解けが進む北の森だ。
もちろん女ひとりで長旅をするほど無謀ではなく、この先の町で従者を雇うつもりだった。
風はまだ冷たいが、芽吹きの匂いが混ざっていた。手綱を取る手に力を込め、街道へと足を踏み出そうとした――その時である。
地響きのような馬蹄の音が、街道の先から聞こえてきた。
長閑な村には似つかわしくないその音に、イザベルは眉を顰めて目を凝らした。
朝靄の向こうから、五、六頭の騎馬が一列になって疾走してくる。その先頭を走る男の姿を見て、イザベルは息を飲んだ。
青毛の馬に跨がり、肩から羽織っているのは荒々しい灰狼の毛皮。腰の後ろで揺れる双剣と、風に流れる黒髪。あれは――。
「トリス!?」
思わず声が漏れた。
なぜ彼がここにいるのか。一団は徐々に速度を落とし、混乱するイザベルの目の前でピタリと立ち止まった。
先頭の男が鮮やかに馬から飛び降りる。体躯はずいぶん逞しくなったが、確かにトリスだ。
久方ぶりに見るその顔は以前よりも引き締まり、潜り抜けてきた幾多の修羅場を想像させた。けれど、額に残る傷と青みがかった瞳の色は、あの冬の朝と少しも変わっていなかった。
「……どこへ行く気だ、イザベル」
開口一番、トリスは呆れたように言った。その声は記憶よりもずっと低く、心地よく響く。
「どこって……あなたに会いに行こうとしてたのよ!」
イザベルも馬から降り、堂々と言い返した。
「まだ二年しか経ってないだろ」
「三年も待てないって言ったでしょ」
「相変わらずすぎる」
トリスは額を押さえて大きな溜息をついた。
後ろに控えていた若い部下たちが、あれが噂の、とか、確かに可愛い、とか、でも兄貴がやられてるぞ、とか囁き合っているのに気づき、黙ってろと一喝する。彼らが一瞬で口をつぐむのを見て、イザベルは彼が本当に『狼』と呼ばれる存在になったのだと実感した。
トリスは再びイザベルに向き直ると、ふっと口元を緩めた。その子供っぽい笑みに、イザベルは緊張が解けるのを感じた。
「まったく……一年も前倒しで約束を果たして、褒めてもらえると思ったのにな。入れ違いになるところだった。俺、お頭の命令でこっちに派遣されてきたんだ」
「え……?」
「デュノールはさらに縄張りを広げた。今度、本格的に南の国々との取引きを始める。国境付近に拠点を作ることになって、そこを仕切るのが、この俺」
誇らしげなトリスの言葉に、イザベルは胸がいっぱいになった。彼もまたイザベルに会いたい一心で、二年間を駆け抜けてきたのが分かったのだ。
「南との貿易は、関所を通して真面目にやる。他の商人が取り扱えない北の商品を流して実績を作って、最終的には北での商売を公に認めさせるのが目的さ。だから、イザベルとも堂々と会える」
「ああもう! 心配して損した!」
我慢できなくなったイザベルは、彼の胸へと飛び込んだ。
トリスは苦笑しつつ、しっかりとイザベルの体を受け止めた。しなやかで力強い腕が彼女の腰を抱き寄せる。狼の毛皮からは、懐かしい北の森と冬の匂いがした。
「ますますきれいになったな、イザベル。俺なんかには勿体ねえくらい」
「トリスは……顔に傷、増えたんじゃない? ほらここと、ここも……」
「体にも増えたぜ。後でゆっくり確認しなよ」
「馬鹿っ」
ぽかりと殴ってくる拳を避けて、トリスはイザベルの頬を優しく撫でた。その胸元で揺れる白い牙に気づき、
「……大切にしてくれてたんだな」
「あたしの宝物だもの」
イザベルが照れくさそうに見上げると、トリスもちょっと赤くなって、それから彼女と唇を重ねた。
長い口づけの後、トリスは恭しい仕草でイザベルを自分の馬へと誘った。イザベルが連れてきた馬は、部下の一人が手綱を取る。
「まずはイザベルの故郷を見せてくれ。君の生まれ育った場所を知りたいんだ」
「もちろんよ。母もあなたに会いたがってるわ」
イザベルを自分の前に乗せ、後ろから包み込むように手綱を握ると、トリスは彼女の耳元で囁いた。
「その後は……俺の隣を走ってもらう。長い旅になるけど、準備はいいか?」
それは、これからの人生をともに歩もうという誘いに他ならなかった。
イザベルは溢れ出そうになる涙を堪え、とびきりの笑顔で答えた。
「望むところよ。あなたこそ、置いていかれないように気合いを入れなさいよ」
トリスは一瞬目を見開き、それから腹の底から楽しげに笑った。
「やっぱり、逞しいお嬢様だ」
早春の柔らかな風が吹き抜け、村へと戻る二人の髪を揺らした。遠く北の地では、きっと今頃、白く可憐な花が咲き乱れているはずだ。
イザベルは、手綱を握るトリスの手に自分の手を重ねた。
新しい旅が、今、ここから始まる。
「ペルス・ネージュの咲く頃に~売られた令嬢と銀嶺の守護者~」完
この物語が、皆様の記憶に残りますように。
2026年8月15日 橘 塔子




