日のあたる場所へ
彼女は今日も丘の上に立って街道を眺めていた。
眼下に広がる葡萄畑では、整然と植えられた葡萄の木々が今年の新芽をつけ始めている。農夫たちが肥料を撒きながら畝の間を歩いていた。
暖かな春の西風が、彼女のエプロンと栗色の髪を揺らした。彼女もまた農作業の途中であったが、一日に三十分だけ、こうやって北の方角を見渡すのが習慣になっていた。
二週間ほど前、北に住む旧い知り合いから手紙が届いた。
預かっている彼女の娘を返しに行くという内容だった。それからというもの、毎日彼女はこの丘の上から、街道を南下する旅人の姿を探している。
昨年の秋に娘が姿を消した時、彼女はなり振り構わず探し回った。そして質の悪い人攫いに連れて行かれたのだと知り、気が狂わんばかりに憤った。そういう娘たちがどんな目に遭わされるか、彼女は身をもって知っている。
同じく娘を攫われた親たちとともに街道を警備する王軍に訴え出たが、捜索は遅々として進まなかった。
一ヶ月ほど経った後、人攫いの一団が捕まったことで、行方不明の娘たちは親元へ帰ってきた。しかし、彼女の娘だけが戻らなかった。他の娘に訊くと、恐ろしげな男に買い取られてしまったのだという。
彼女は今度こそ絶望に泣き崩れた。他の子供がいなければ、本当に首を吊っていたかもしれない。
だから最初は、北から届いた一通目の手紙を信じられなかった。
それは彼女の昔の恋人からで、彼女の娘を保護していると書かれていたのだ。手紙を届けた使者に彼女が詰め寄ると、自分の主人がどんな人間で、彼女の娘がどれほど丁重に扱われているか、使者は懇切丁寧に説明した。
不安は消えなかった――が、信じて待つしかなかった。
騒動の中で、彼女と子供たちが家を追われた事実が村中の知るところとなった。
それは結果として幸運だった。彼女を慕う小作人たちは集団で義姉に抗議し、仕事の放棄も辞さない構えを見せたのだ。頑迷な義姉もついに折れて、彼女らは地主の妻子としての身分と生活を取り戻すことができた。
最初は事務的だった王軍が急に親身になったのも、彼女が家名を明らかにしたからだ。
もう何も心配することはない。早く帰っておいで、イザベル――彼女は神に祈りながら、春の訪れを一日千秋の思いで待ち続けた。
日が傾き始め、足元の影が長く伸びてきて、彼女は小さく息をついた。そろそろ家に帰って夕餉の支度をしなければならない。
諦めて帰ろうとした時、畑の中を緩く蛇行する街道に新たな騎影が見えた。
数は五つ――そのうちのいちばん小さな影に目を留めて、彼女は声を上げた。
芽吹いた葡萄の畑が連なる丘陵地は、イザベルが馴染んだ風景だった。南部特有の湿度を含んだ西風を頬に受け、帰ってきたと実感する。
喜びのあまり馬を駆るかと思いきや、彼女は神妙な顔で手綱を握り、ディミトリの後ろをぼとぼとついてきている。
「どうした。家に帰れるのが嬉しくないのか?」
「そうじゃないけど……あたし勝手に家を出たりしたから、お母さんきっとすごく心配したわ。何て謝ったら……」
「娘が無事に帰るだけで、親にとっては十分だ」
ディミトリは横顔で薄く微笑んだ。髭がないだけでずいぶん若く見える。涼しげな美男子といった風情で、母は面食いだったのかもしれないとイザベルはちらりと考えた。
(昔の恋人に再会するっていうのに、緊張しないのかしら)
まさか自分を置いて逃げるつもりか――そう、疑った時。
遠くでイザベルの名を呼ぶ声がした。とても懐かしい声で。
イザベルは顔を上げ、行く手の丘に小さな人影を見た。スカートの裾をたくし上げ、懸命に走り降りてくる女性が誰か、離れた場所からでもすぐに分かった。
「お母さん……!」
イザベルは馬から飛び降りて、一直線に坂道を駆け上った。
心配をかけた罪悪感も、北の生活への名残惜しさも、すべて吹き飛んでいた。ただただ母親が恋しくて、再会が嬉しくて、イザベルは全力で走った。
雪道で鍛えられた脚は強く地面を蹴り、風のように彼女を運んだ。躓くことも息が切れることもなかった。
丘の麓で、母娘は抱き合った。
「お母さん! お母さん……ごめんなさい! ごめんなさい!」
「イザベル! 私のイザベル! ああ神様……!」
母はイザベルを掻き抱いて頬擦りをし、纏め髪が解けるほどの勢いで頭を撫でた。イザベルも母の胸で声を上げて泣いた。
しばらく実体を確かめるように抱き締めた後、母は娘の肩や腕を摩った。
「よく無事で……どこも、どこにも怪我はない?」
「平気よ。冬の間この方にとてもよくしてもらったの」
イザベルが振り返るより先に、母の視線はすでにそちらを向いていた。
「……アンヌ」
馬を引いたディミトリは、穏やかな声で彼女の名を呼んだ。
二十年ぶりに対面した彼の元恋人は、ごく質素な野良着姿で籠を背負っていた。ひとつに結った髪は風に乱れ、化粧っ気のない顔は健康的に日焼けしている。煌びやかな温室に咲く花の面影は、そこにはない。
だが、ディミトリは眩しげに目を細めた。彼女は歳月をその肌や輪郭に刻み、堂々とした円熟美を纏っていた。今や彼女は頼もしい妻であり逞しい母であり、自分の人生を生きる一人の女だった。
「ジュスト」
ディミトリをそう呼んだ母もまた、彼に対して同じ思いを抱いたようだった。眼前の男はもはや、身勝手と勇気を履き違えた、若さだけが取柄の愚か者ではなかった。
「変わらないな、君は何も」
「あなたもね」
けれど、彼らはそう言って、しばらく見詰め合った。
母に肩を抱かれたまま、イザベルは不安になった。十七歳の少女には二人の感情がさっぱり分からない。万一、焼け木杭に火が点いたらどうしようと、そればかり考えていた。
数秒か、数分か――イザベルにとっては長い長い時間の後、母は、ありがとうとだけ言った。彼を欺くようにして嫁いだことを詫びもしなかったし、彼の境遇を尋ねもしなかった。
ディミトリは、ああと応えた。こちらも、過去の礼や謝罪は口にしなかった。
たったそれだけで、彼らの二十年にはけりがついたようだった。
「達者でな、イザベル」
彼は踵を返し、先で待っている手下の元へ戻って行く。
イザベルは母の顔を振り仰いだ。母はひどく安堵した表情で彼の背中を見送っていた。恋人の生存を確認できたことに対してなのか、今度こそ本当に彼と別れられたことに対してなのか、それは分からなかったけれど――。
イザベルは母の手を離れて、ディミトリを追いかけた。
「待って、ディミトリ!」
振り向く彼に、イザベルはぶつかるように抱きついた。
「また会えるわよね。今年の秋も葡萄酒を買いに来てくれるんでしょ?」
「どうかな……もうここに来る理由はなくなった」
「そんなこと言わないで!」
ディミトリはイザベルの頭を撫でた。子供扱いしたその仕草に抗って、イザベルは挑むように彼を見上げる。
「あたし、ここでお父さんの葡萄を守っていくわ。でも絶対にまた北へ行く。今度はあの山の向こうが見たい」
口に出して、イザベルは初めて自分の望みに気づいた。
ずっとここで生きていくのだと思っていた。生まれ育った大好きな村で、優しい家族と隣人たちに囲まれて、いつまでも平穏に――それ以外の人生など考えたこともなかった。
けれど今、彼女は自らの内にふつふつと煮え滾る熱を感じる。トリスへの恋心も、オルガとの友情も、根元にあるのは同じ気持ちだった。
居心地のいい鳥の巣を離れて、先へ先へ続いている世界を見たい。
イザベルは、自分の輪郭がようやく鮮明になるのを感じた。
興奮と期待で榛色の瞳を輝かせる彼女を、ディミトリは押し留めた。
「まだ早い――少しだけな」
最後まで小娘扱いだ。髯のなくなった頬にキスをしたのは、ささやかな意趣返しだった。
イザベルは母と並んで、街道を遠ざかっていくディミトリたちを見送った。
今はまだ、故郷に帰り着けた喜びが大きい。母を助けて働き、失われた時間を取り戻したいと思う。
だが日が経つにつれ、自分の中であの熱が増してくることは分かっていた。そして、一度翼を広げてしまった自分が、もうこの小さな巣の中で大人しくしていられないことも。
(お父さんの言ってた通りだ)
強い葡萄の枝は、どんな木に継がれても、どんな土に植えられても、根を張り、外へ外へと伸びてゆく。自分の中にも、あの泥臭く逞しかった父の血が確かに流れているのだと実感していた。母が望み守ってきた平凡な幸せ、それを自らかなぐり捨てようとする自分は親不孝者だろうか。
胸元で揺れる狼の牙に触れると、不思議と迷いは消えた。
手を伸ばせば届く場所に、まだ見ぬ広い世界と、愛しい人がいるのだ。
「イザベル、大きくなったわね」
母はほんの少し寂しげに言って、娘の肩を抱き寄せた。我が子が持ち帰った遠い場所の匂いを感じ取っているようだった。
「お母さん、あなたに話さなくちゃいけないことがあるわ」
「あたしもよ。お母さんに話したいことがたくさんある」
イザベルは御守りをしっかりと握り締めた。
今なら娘として、恋を知った女性として、母の歩んできた過去に耳を傾け、心から理解できる気がした。そして自分が北の地で経験したこと、出会った愛すべき人々のことを胸を張って伝えられるはずだ。
「針葉樹の森で、待雪草を見たわ」
厳しい冬の終わりと、新しい春の始まりを告げる花。
暖かな西風がイザベルの頬を撫で、優しく通り抜けていった。
終章へ続く
次回、エピローグで完結です。




