葡萄の木
旅路は平穏かつ順調だった。
イザベルの体力に合わせて、比較的ゆっくりとした旅になった。途中で盗賊に出食わすこともなく、雪解けの森を南下していく。彼女の生まれ故郷まで一ヶ月以上かかる予定だった。
往路と同じく、途中までは野宿が続いた。今回はイザベルも男たちに混じって頼もしく働いた。火起こしや調理は慣れたもので、たまには小さな獲物を射止めることもあった。
時折、首に吊るした狼の牙に手を当て、山向こうにいるトリスを思った。
(もう仕事は片づいたのかな。無茶して怪我をしていないといいけれど)
あの調子のいい軽口が聞けないのが無性に寂しい。自分で思うよりずっと彼が好きなのだと痛感した。
溜息をつくイザベルにディミトリも気づいているはずだったか、何も言わなかった。
二週間後、毛皮の外套が不要になった頃、一行はエカーヴの町に入った。
雑然とした町並みは相変わらずだが、春が来たからか材木商人の姿が増えて、以前よりも賑やかに見えた。イザベルにとってはあまり良い思い出のない場所である。
しかし、ここで彼女は予想外の知らせを聞く。
「え? あの宿潰れたの?」
町にはディミトリの手下がいて、宿泊していた彼らを訪ねてきた。この地域の近況報告の中で、自分が囚われていた売春宿が店を閉めたと知り、イザベルは驚いた。
何でも、あちこちで若い娘を拐かしていた人攫いの一団がお縄になり、そこから仕入れていた店も芋蔓式に憲兵の手入れを受けたのだという。
「王軍が真面目に仕事を始めたか。俺たちは商売がやりにくくなる」
ディミトリは他人事のように嘯くが、人攫いどもが捕まるきっかけを作ったのは彼自身だとイザベルには分かっていた。自分の居所を吐かせた後で王軍に突き出したのだろう。
宿屋の主人が取り調べを受けたから、自分が北の熊の元にいるという情報が王軍に知れたのだ。イザベルはようやく納得した。ともに売られた村の娘たちも無事故郷に帰されたと聞き、ホッとした。
エカーヴを出てさらに二週間――ついにイザベルの村が近づいてきた。
明日は故郷に到着するという夜、ディミトリはイザベルを自分の天幕に呼んだ。
「改めて謝罪させてくれ。何も説明せずにおまえを連れ去り、怖い思いをさせた。俺たちの揉め事に巻き込んで、命の危険に晒した。本当にすまなかった」
深々と頭を下げる密輸団の首領を前に、イザベルは大きく首を振った。
「やめてください! 助けてもらったうえに面倒まで見てもらって、感謝しています。怖い目にも遭ったけど、今こうして無事に生きていられるのはあなたのおかげよ」
絨毯の上に座ったイザベルは、ディミトリと視線を合わせた。母の昔の恋人に対する複雑な思いは消え、今は遠い親戚に巡り会ったような気持ちになっている。
「それに、あなたとお母さんの話が聞けてよかった。帰ったらきちんと話をしてみます」
すると、ディミトリはふと目を逸らした。蒸留酒入りの熱いハーブ茶を一口飲んで、
「まだひとつ、おまえに話していないことがある。一度だけ、俺はおまえの父親に会ったことがあるんだ」
と、イザベルにも同じ茶を勧めた。
数年前、やはり冬籠もり前の仕入れでイザベルの村を訪れた時のことだったという。
葡萄酒を買い付けるディミトリに、父の方から挨拶をしてきたのだ。毎年うちの葡萄酒をたくさん買ってくれると聞いた。ありがとう、と。
一目でカタギではないと知れる風体のディミトリに、父はまったく気負いなく話しかけた。
貴族の血筋に連なる名家の当主であるはずの彼は、どこにでもいる農夫に見えた。汚れた野良着姿で、日焼けした額の汗を拭っている。
こんな格好ですまないな。小作人たちと一緒に水路の補修をしていたところだ。今年は雨が少なくてね――他愛ない世間話をする父を、ディミトリは不思議な思いで見詰めた。
自分が命懸けで愛した女を、金で買った男。貴族擬きの田舎の地主。
強欲で悪趣味な権力者を想像していたが、実際の彼は純朴で善良な、土の臭いがする男だった。
北の方からいらっしゃったのかい、と尋ねられ、ディミトリはそうだと答えた。貿易商だという返答に、父は何か察するところはあったのかもしれないが、表情には出さなかった。
あなたの所の葡萄酒は本当に美味い、とディミトリが率直に賞賛すると、父は照れ臭げに笑った。
「高祖父の代から品種改良を続けて、やっと満足のいく実が収穫できるようになった。私は葡萄のことしか分からないが、妻を……ああ、妻はよその土地から嫁いで来たんだが、彼女を後悔させないように励むだけだよ。どんな時でも愚痴ひとつ零さず笑っている、まったく見上げた女なんだ。強い葡萄の枝は、どんな木に継がれても立派に育つものだね」
惚気とも思えるその言葉は、深い情愛と静かな覚悟に満ちていた。
それを聞いたディミトリは、愛した女に自分がしてやれることはもう何もないと悟ったのだった。
「おまえの父親は俺よりずっと強い男だった。彼女が愛するに相応しい相手だ」
「お父さんは優しくてあったかい人だった。本当は最初から分かってたの。父と母は、愛し合った、ごく普通の夫婦だったわ」
涙ぐんで笑うイザベルに、ディミトリは優しく言った。
「人の想いは変わる。それは不誠実と同義ではない。安心して帰るといい」
「変わる……かしら、あの人も?」
笑顔はそのまま、イザベルはカップのハーブ茶に目を落とした。胸元で牙の御守りが揺れている。その意味を知ってか、ディミトリは顔を顰める。その表情は少しわざとらしかった。
「その……好きなのか? トリスタンが」
「……はい」
「あのお調子者とどんな約束をしたかは知らんが、自分の望みを意識する余裕もなく必死に生き抜いてきた奴だ。そんな奴が初めて誰かを想ったのなら……五年や十年では変わるまい。しつこいぞ、あいつは」
褒めているのか貶しているのかよく分からない言い草に、イザベルは噴き出した。そして。一応は認めてもらえた気がして嬉しくなった。
(ディミトリが睨みを利かしていれば、トリスが他の女に目移りする心配はないわね)
そんな打算も働いた。
ディミトリは茶を飲み干し、イザベルに自分の天幕に戻るよう促した。
「明日の夕方には家に着ける。もう寝なさい」
「ねえ、最後にひとつだけお願いがあるの。もう謝らなくていいから、叶えてくれない?」
すっかり狡猾になった少女は、大人びた表情でディミトリに身を擦り寄せた。
次の朝、天幕から出てきた首領を見て、手下どもはいっせいに口を開けた。
彼の顔を半ば以上覆っていた強い髭はきれいさっぱり剃り落とされ、肩まで伸びた蓬髪も短く整えられていたのである。ぶは、と噴き出す男たちを、ディミトリは凶悪な表情で睨みつけた。
続けてイザベルも姿を現して、手桶と剃刀を手にケラケラと笑った。
「似合うわよ、お頭」
「十五年ぶりに剃った。風邪を引きそうだ」
ディミトリは剃刀で赤くなった頬を不機嫌そうに撫でた。
王都から南の地方では、広範囲に顔を隠す髯はあまり一般的ではない。お母さんが驚くかもしれないし、あなただと分からないわ――イザベルにそう説得されて渋々応じたのだった。
空気に晒された彼の素顔は非常に品良く整っていて、刀傷さえなければ大店の主人といっても通りそうだった。灰色だった髪まで金色の光沢を帯びて見える。
粗暴な男社会の中で、確かにこの容姿では舐められるかもしれない、とイザベルは納得して、それからふと訊いてみた。
「ずっと気になってたんだけど、ディミトリって年はいくつなの?」
「おまえの母親の二つ上だ」
「ってことは……ええっ、まだ四十前!? うっそ、あたしてっきり五十過ぎてるのかと……」
我慢の限界を迎えた手下どもが腹を抱えて笑い出す。ディミトリは足早に水場の方へ立ち去ってしまったので、イザベルは慌てて後を追った。
すっかり臍を曲げてしまった大の男を宥めるのに、それから一時間ほど要したのである。




