三日月と風花
緩慢な冬の歩みは、ようやくアルボレダの森を去り、山の向こうへ帰ろうとしていた。
帳簿の検算を終えたイザベルは、暇を見つけては見込みのありそうな奴らに算術を教えた。また彼女の方も、オルガからは弓を、おかみさん連中に刺繍や郷土料理を教わった。男どもの狩りに同行して、乗馬も上達した。
ここに残していくものよりも、ここから持ち帰るもの方がずっと多い気がした。そして、帰郷の日を心待ちにしていたはずなのに、ディミトリたちが南へ向けた長旅の段取りを話し始めると、イザベルは寂しい気持ちになるのだった。
当初、旅にはオルガも同行する予定になっていた。エカーヴ以南へ足を運んだことのない彼女は非常に楽しみにしており、イザベルも同性の同行者を心強く思っていたのだが、直前になって見送られた。
オルガの妊娠が明らかになったのである。
「おめでとう!」
「ありがとう。絶対に無理だと思ってたのに……イザベルのおかげよ」
飛び上がって喜ぶイザベルに、オルガは恥ずかしそうに囁いた。イザベルがオルガの部屋に居座ってしまったせいで、オルガはこの冬ずっとディミトリと同じベッドで眠っていたのである。そのおかげ、という意味が分かって、イザベルは赤面した。
それでもオルガは一緒に行きたがったのだが、当然ながらディミトリが許さなかった。大事な時期に無理をしてもしものことがあったらどうすると、いつになく厳しく彼女の浅慮を咎めた。
しかし、すっかりしょげてしまった彼女を見て言い過ぎたと反省したのか、
「子が産まれたら、三人でどこへでも一緒に行こう。もう留守を守れとは言わないから」
と優しく宥めた。
森に積もった雪が解け、凍った地面が顔を出した頃、偵察に出た男たちが街道の安全を確認した。
一緒には行けない、と告げられて、イザベルは小さく息を飲んだ。
トリスは目を逸らさず、じっとイザベルを見詰めている。その落ち着きがイザベルを戸惑わせる。当然、南への旅に加わると思っていたのだ。
「山向こうに行くんだ。ルタ族……王軍兵が攻めてきた時に加勢してくれた奴らな、商取引のことで別の部族と揉めてるらしくて、仲裁をしてくれと頼まれた。どっちもデュノールのお得意様さ」
イザベルの頭に自分の鼓動が響いた。
薄暗い廊下には誰もいないが、遠くから男たちの笑い声が聞こえてくる。ちょうど夕食の時間で、今夜は酒も振る舞われているから余計に喧しい。
「ディミトリの命令?」
「違う。お頭はあんたを送って行けと言った。俺の方から北へ遣ってくれと頼んだんだ」
「どうして……」
「交渉事の勉強がしてえんだ。それに実力行使が必要かもしれねえし、俺の腕が役に立つと思う。いつまでもお頭に甘えてちゃ駄目なんだ。どんな形にせよ。自分の手できちんと仕事をやり遂げたい」
俯いてしまったイザベルの前で、トリスは気まずげに頭を掻いた。
「俺さ、ずっと気づかないフリしてた……自分が何物かってことに。デュノールの一味として悪事を山ほど働いてきたし、王軍兵まで殺っちまったから露見すればお尋ね者だ」
「あれはトリスのせいじゃない。あなたはあたしたちを護ろうと……」
イザベルの反論を、トリスは押しとどめた。理由はどうあれ、彼の手は確かに汚れすぎている。
「かと言って、この世界で威張れるほどの大物じゃない……ただの使いっ走りのチンピラさ。今の俺が一緒にいたら、イザベルやイザベルの家族を日陰に追いやるだけだ。でも、あんたにこんな血腥い世界で暮らしてくれなんて、口が裂けても言えねえ。あんたには日当たりのいい場所で、胸を張って生きていてほしい」
トリスは少し笑って、それからその目つきを鋭くした。
「王国が公にデュノールを罰せないのは何でだと思う? 俺たちが山向こうからのモノとカネの出入りを握ることで、結果的に蛮族を押し止めているからだ。これは北に根を張ったデュノールだからこそで、王都の貴族や官吏にはできねえ芸当だ。お頭はこの強みを材料に国王との取引きすら考えてる」
「それは……分かるけど……どうして今その話を?」
「ここで実力をつけてのし上がれば、俺は境を飛び越えられると思うんだ。逃げるのも諦めるのも嫌だ。誰にも文句を言わせない立場になって、堂々とイザベルに会いに行く」
冬至祭の時、自分とのことを「何とかする」と宣言したトリスの、それが答えらしかった。
あまりにも遠回りで、時間と労力がかかり、上手くいくかどうかも怪しい結論だ。裏世界の彼らの身分が保証される日が本当に来るのだろうか。
とはいえ、イザベルに他の答えは見つからなかった。ただ、故郷に着くまで続くと思っていたトリスとの時間がもうすぐ終わってしまうと分かり、悲しくなった。
「イザベル……泣くなよ。俺は本気で言ってる」
「どのくらい待てばいいの?」
三年、という返答に、イザベルは鼻を啜り上げた。涙を拭いて、
「長すぎよ! 知らないみたいだけど、あたしはこれでも良家のお嬢様なのよ。帰ったらきっと山ほど縁談が来るわ。それ全部断って、三年も待ってろっていうの?」
「待っててほしい――でも無理強いはできねえ。俺よりいい男に出会っちまったら、そん時は好きにしなよ」
「かっこつけないで! 馬鹿!」
イザベルは声を張り上げて、それからトリスの胸を殴った。二度、三度拳を打ちつけるうちに、腕を捕らえられ、抱き締められた。
「ごめん、言い直す。他の奴のものになるな。俺が絶対に迎えに行く。約束だ」
「本当ね?」
トリスは肯く。その額に残る傷跡が、彼は臆病者ではないと告げている。彼の言葉に嘘がないことは分かっていた。だからこそ、意志を貫こうとするあまり、すぐに死んでしまうのでなはいかと恐ろしかった。
俺たちはそういう世界で生きている――トリス自身がそう言っていたではないか。
イザベルは両手でトリスの頬に触れ、呼吸を確かめるように顔を寄せた。唇が触れ合うと、そこにある確かな体温で少しだけ安心した。
その約束信じさせて、と、イザベルはトリスの目を見ながら囁いた。
翌朝二人は、三階のバルコニーで並んで夜明けを見た。
東の空の底を紫に染め、雲を赤く燃やし。雪の森を白く輝かせながら太陽が昇る。その様は、イザベルの人生で最も美しく、悲しい夜明けの風景だった。
トリスがイザベルのうなじに口づけて、そこに細い革紐を結んだ。イザベルは胸元を見下ろし、そこで白い三日月が揺れているのに気づく。
「狼の牙の御守……俺が仕留めた奴だ」
「いいの? これ……エンゾの形見みたいなものだって言ってたじゃない」
「あんたに持っててほしい。今の俺にはこんなもんしか渡せねえけど、約束の証だ」
イザベルはひんやりとした鋭い骨を握り締めた。胸は張り裂けそうだったけれど、不思議と力が湧いてくる気がした。
肩を抱くトリスの胸に凭れ、ようやく笑顔になれた。
「待ってるだけなんて嫌。あなたたちの事情なんて知らない。会いたくなったらあたしの方から行ってやるわ」
「……そうだな、イザベルならやりそうだ」
「大物を目指すのはいいけど、いつあたしに押しかけられてもいいように身辺きれいにしてなさいよ」
顔を見合わせて、声を上げて笑った二日後――トリスはバティスト率いる数人の男たちに混じり、北へ向かった。
イザベルの出立の日、砦の住人のほとんどが居館の前に集まった。
前夜の送別会の馬鹿騒ぎのせいで、みんな睡眠不足の顔をしている。それでも、ひと冬をともに過ごした少女を見送ろうとやって来たのだ。
イザベルは短いチュニックにズボンを穿いた格好で、借りた馬を引いてきた。肩に羽織ったマントは彼女が初めて仕留めたウサギを使ったもので、首に巻いているのは女房連中が刺した刺繍入りの襟巻きだった。背にはオルガに貰った弓と矢筒を背負っている。
同行するのはディミトリと、手下が三人ほど。イザベルを故郷の村に送った後、南方の拠点を巡って仕事を済ませてくるという。春から秋にかけては、国中を転々としているのが彼らの常だった。
「気をつけてね。元気で……」
声を詰まらせるオルガに、イザベルは抱きついた。素性も境遇も生きる世界も違う二人の女は、今では掛け替えのない親友だ。
「オルガさんも元気な赤ちゃんを産んでね。あたし、いつか必ず会いに来るから……!」
二人は泣きながら固く抱擁した。集まったむさ苦しい男どもまでもらい泣きを始めたものだから、最終的にディミトリが引き離さざるを得なかった。
イザベルは必死で涙と鼻水を拭って、無理やりに笑顔を作った。縁のできた人たちには笑った顔を覚えていてほしかった。
ディミトリが馬頭を巡らすと、部下もそれに続く。
イザベルは名残惜しさを断ち切り、彼らの後を追った。何度も何度も振り返りながら。
城門跡を抜けて森に出ると、針葉樹の枝から雪が滑り落ちる音が聞こえた。
風に乗って、時折白いものが舞う。真っ青な早春の空を背景に、それは降りしきる花弁のように美しかった。旅立ちへの祝福だと、イザベルは信じた。
やって来た時には想像もつかなかった心持ちで、彼女は北の地を後にしたのだった。




