春の使者
篝火の前に戻ってきたイザベルは、冬至祭の様相が変化していることに気づいた。
男たちの姿はなく、女たちは一方向を見上げている。
「何が始まったの?」
「ちょうどいいところに来た! 見ててごらん。男たちの馬鹿さ加減が分かるよ」
蒸留酒で真っ赤になったナタリーがイザベルの肩を抱き寄せ、皆の視線の先を指さす。
居館二階のバルコニーで男たちが犇めいているのが見えた。狭いから外に出ているのは数人で、他は室内に押し込まれているようだ。
楽師たちも二階にいるのか、音楽は消えていた。かわりに、馬番のイヴァルが太鼓を叩いていた。タン、タン、タン――一定のリズムで、まるで何かを煽るように。
手摺りの脇に立つバティストが手を上げると、一人目が行動に出た。いきなり手摺りを乗り越えて、そのまま空中に身を躍らせたのである。
イザベルが悲鳴を上げて顔を覆ったのは、そいつが素っ裸だったからだ。
人の背丈ほどある雪山に尻から突っ込み、すぐに絶叫が響き渡った。
「いっでえええっ! 下の方固ぇじゃねえか!」
女たちがゲラゲラ笑い、二階にいる男たちからは拍手が湧いた。
イザベルは真っ青になった。雪下ろしや雪かきで溜まった雪は自重で押し固められ、すぐに氷と同じになる。そんな中に身を投げるなんて正気の沙汰ではない。
「大丈夫だよ。あの雪、昼間のうちに真ん中の所を砕いて掻き混ぜて柔らかくしてある。人ひとりぶんくらいの幅だけどね」
ナタリーの説明を聞いても、イザベルは釈然としなかった。その狭い安全圏を狙って飛び降りる度胸試しなのは分かったが――。
(なぜ全裸に?)
次の男が手摺りに立った。イザベルはもう呆れてしまって、目を瞑ることも忘れた。
「ルイーズ、愛してるよ! 今年はもひとりガキこさえるぜ!」
「受けて立つわよ、あんたぁ!」
女房が地上から手を振って、亭主が飛び降りるのを見届けた。
ある者は何かくだらないことを叫んで、ある者は空中でおかしなポーズをきめて、男たちが次々と雪山に突っ込んでいく。
落ちる場所を間違えれば大怪我だし、きれいに嵌まっても凍った細かい雪で皮膚を引っ掻かれる。先に飛んだ男と女たちが協力して雪から引っ張りだし、上着を被せ酒を飲ませた。包帯を巻いた怪我人までもが挑戦するのを見て、イザベルは心の底から叫んだ。
「ばっっかじゃないの!」
「だから馬鹿だって言ったろ? 毎年の恒例なんだよ。あ、ほら次」
振り仰ぐと、手摺りの上にはトリスが立っていた。
ほとんど裸だが、辛うじて下履き一枚は身に着けていたので、イザベルはホッとした。後で聞いたところによると、バティストが情けをかけて着衣を許したのだという。
「イザベル! 好きだぁっ!」
トリスは空に向かって声を張り上げた。
あちこちから口笛が飛び、歓声が上がる。衆人環視での告白に、イザベルは恥ずかしさで卒倒しそうになった。
(最初からやり直せとは言ったけど……今じゃない。今じゃないわ!)
しかしトリスの真剣な眼差しが落とされると、その場から逃げ出すことができなくなった。酒に酔ってのおふざけではなく、真面目に想いを伝えようとしているのが分かったのだ。
「最初に会った時にかわいいと思った! 旅の間に気になり始めて、ここに来てから完全に惚れた! あんたみたいに優しくて賢くて勇敢な女の子は他にいない!」
女たちからきゃあと悲鳴に近い声が湧いた。イザベルは顔に全身の血が集まる気がした。
「心から愛してる、イザベル。お頭はやめて俺にしとけ!」
最後にそう叫び、トリスは水に飛び込むような姿勢で手摺りから身を躍らせた。
ずぼ、と頭から雪に嵌まる。飛ぶと同時に駆け出したイザベルは雪山を登ろうとしたが、下で待っていた男たちがじたばたする両脚を引っ張り出した。
「寒い寒い寒い」
救出されたトリスは、身を縮こまらせながら滑り降りてきた。案の定、全身に細かい擦過傷を負っている。イザベルはマントを脱いで彼の肩にかけた。
「上着はどこ? あたし取ってくるわ」
焦るイザベルの腕を掴んで、トリスは正面から向き合った。無駄なく引き締まった体には古傷が目立つ。彼の歩んできた人生の険しさを改めて思い知り、イザベルはいろいろな意味で鼓動が速まった。
「返事は? イザベル、俺の恋人になってくれる?」
「あ、あたしは春になったら家に帰るのよ」
「分かってる。でもそれは俺があんたを諦める理由にはならない」
何とかする、とトリスは言った。
保証も具体性もない言葉だが、嘘もなかった。傷だらけの腕も、ひび割れた唇も、青みがかった黒い瞳も、何の虚飾もなくイザベルの前に晒されている。
これまで多くの縁を失い、諦めてきたトリスが、今は真っ直ぐに自分を欲してくれている。不器用ながら未来を掴もうとしている――それが痛いほど分かったから、イザベルの方も気持ちを正直に口にした。
「……あたしもあなたが好き」
「ああ神様! ありがとう!」
初めて聞く神への感謝の言葉とともに、イザベルはぎゅっと抱き締められた。直接触れた彼の体は冷え切っていたが、耳元に響く鼓動はイザベルと同じくらい速かった。
お熱いねえとか、尻に敷かれそうだとか、お頭に知れたら目玉をくり抜かれるぞ、とか祝福とやっかみとからかいの言葉が次々に投げられる。トリスは気にする様子もなく、むしろ自慢げにイザベルを抱き上げてぐるぐると回った。
「ねえ服着て! お願いだから」
首にしがみついたイザベルが必死に言うと、トリスは彼女をそっと下ろして、地面に落ちたマントを彼女の両肩に羽織らせた。
ついでのように唇にキスをされて、イザベルは瞬きをした。
「ちょっ……目を閉じる暇がなかったじゃない」
「そう? じゃもう一回」
トリスはにっこりして再び顔を寄せようとしたが、すぐに鼻をひくひくさせた。勢いよく横を向いた彼は、盛大にくしゃみをした。
翌朝、目を覚ましたディミトリは、隣で眠るオルガの肩に口づけて、彼女を起こさないようにベッドを出た。
手下どもは夜明け近くまで騒いでいたことだろう。火の始末は心配していないが、やはり少し気になって様子を見にいくことにした。
一階まで階段を降りると、玄関ホールから続く廊下のあちこちに男たちが転がっていた。
ある者は酒瓶を抱き締め、ある者はこの寒いのに半裸で、大鼾をかいている。さすがに屋外で寝ている者はいなさそうだったが、昨晩の乱痴気騒ぎが想像できて、ディミトリは呆れた。
女たちは子供を連れて部屋に引っ込んだのか、冷たい床の上で酔い潰れているのは男だけだった。おい起きろ、と蹴飛ばしながら進んでいき――ディミトリは玄関ホールで愕然と立ち止まった。
一枚の毛布に包まり、身を寄せ合って寝息を立てているのは、トリスとイザベルだった。
イザベルはトリスに手を引かれて森の中を歩いていた。
透明な朝日が木立の間から振り注ぎ、雪が眩しく輝いている。外套を通して感じる空気は冷たいが、体が締めつけられるような厳しさは薄れていた。心なしか、風が優しい。
「足下、気をつけて。もう少しだから」
トリスは慣れた足取りで積もった雪の中を進む。この辺は狩り場で、イザベルも何度か連れて来てもらった場所だ。見せたいものがあるんだ、と今朝急に誘われた。
盛大に告白し合った冬至祭の夜から、三ヶ月近くが過ぎている。夜通し踊って飲んで酔い潰れて、ディミトリから大目玉を食らったのも今ではいい思い出だ。
「あん時はマジで殺されるかと思った。お頭が熊って呼ばれてる意味がよく分かったよ。おっかなかった」
と、トリスはいまだに怯えているが、イザベルはひどい二日酔いで、説教されたこと自体あまり覚えていなかった。
以来、二人の関係性はさほど変わっていない。仕事の合間にお喋りをして、時たま連れ立って冬の森を散策して、二人っきりになるとキスをした。
ディミトリは内心穏やかではないだろうが、トリスにイザベルの部屋には入るなとだけ厳命して、あとは黙認していた。
「ほら、ここだよ」
足を止めた場所で、イザベルは目を見張った。
樅の根元の雪を押し上げ、白い花が群生している。細い茎の先に滴のような花弁をつけた小さな花は、古いハンカチの刺繍と同じだ。
「待雪花……」
「ほんと言うと、お頭に言われたんだ。昨日、狩りのお供でこの辺歩いててさ、花が咲いてんの見つけて、イザベルを連れてきてやれって」
トリスは少し寂しげに言った。
「もうすぐ春だな」
「うん」
母親の思い出の花は、想像していたよりずっと清楚で慎ましく、それでいて生命力に溢れていた。
イザベルがここを去る日が近づいたと告げる、春からの使者でもあった。




