ラストダンスは私に
ディミトリは長椅子に腰を下ろして大きな息を吐いた。
窓の外からは喧しい音楽と歓声が聞こえてくる。
冬至の夜祭りは明け方まで続くのが常だったが、彼は夜半前に自室に引き上げた。首領がいつまでも宴席に居座っていては下が窮屈だろうという気遣いと、あとは単純に飲み過ぎたからだった。もともと酒に強い方ではない。
残してきたイザベルが少し心配だったが、今さら彼女に妙な真似を仕掛ける男はいないだろう。あの少女は砦に馴染み、今や優秀な帳簿担当である。手下どもの見る目は完全に変わっていた。
弾けるような笑顔と紅潮した頬と潤んで揺れる瞳と――ついさっきまで腕の中にいたイザベルを思い返す。姿形だけでなく表情も仕草も、彼女は彼のかつての恋人に生き写しだった。
本当に自分の娘だったらなら、まだ気が楽だったろうに――ディミトリはだらしなく両脚を投げ出した姿勢で、小さく笑った。
そんなふうに感じてしまうこと自体が情けない。自分の一部はまだあのどうしようもない若造のままなのだと思い知る。
控えめなノックの音がした。
オルガが様子を見に来たのだと思い、ディミトリが返事をすると、姿を現したのは今まさに彼の脳裏を埋めていた少女だった。
「お酒、だいぶ飲んでたみたいだから」
イザベルは水差しとカップを盆に載せていた。ディミトリは驚いたが、ハーブを浮かべた冷たい水はありがたかった。
続けざまに二杯も飲み干すディミトリを眺めながら、イザベルは長椅子の端に座った。踊って汗を掻いたからか、ドレスの胸元を留める組紐が解かれている。細い首筋に栗色の後れ毛が纏わりついていた。
「……若い頃のお母さん、どんなだった?」
イザベルはぎこちない笑みを浮かべて、そう尋ねた。
ディミトリは戸惑う。『月下香亭』での日々を彼女自身が語っていないのならば、自分が話すべきではないと思った。それで、一言だけに止めた。
「きれいだったよ、とても」
「今のあたしに似てた?」
イザベルはディミトリに身を寄り添わせた。彼女と同じ顔で彼を見詰め、彼女と同じ声で囁く。
ディミトリは眉を顰めて、座る位置をずらした。
「おまえ酔ってるのか?」
「かもしれない。だから言っちゃうわ。ディミトリ、あたし家に帰りたくないの。ここに置いてもらえないかしら」
そして、ディミトリが返事をする前にとんでもないことを口走る。
「もちろんただの居候でいるつもりはないわ。あたしを……お母さんの身代わりにしていいから」
酒精の影響など微塵も感じさせない、澄んだ瞳がディミトリを射た。熱を帯びた頬は細かく震えていて、その緊張が彼女の本気を伝えてきた。
背伸びした子供の戯れ言として往すことはできた。冗談で返して曖昧に終わらせることも、きつく叱って追い返すことも。
しかしイザベルのひたむきさが、ディミトリに大人の振る舞いを諦めさせた。
「なぜ帰りたくないんだ?」
「お父さんはお母さんを買った。お母さんは打算であなたを捨てた。そんなふうに思えてしまうから。あたしの家族は歪だったのかもしれない。あたしがあなたの元に戻れば、帳尻が合う気がするの」
彼が逃げないと分かったのか、イザベルはその手でディミトリの頬に触れ、強い髭に隠れた傷痕をなぞった。
少女からは、花の香りがした。
一瞬、遠い昔の夜の記憶が煌びやかに甦って、ディミトリは彼女を押しのけた。酔っているのは自分の方であり、今の理性には自信がなかったのだ。
「悪い冗談はやめろ」
「どうしてあたしじゃ駄目なの? そっくりなんでしょう?」
「イザベル、おまえは母親には似てないよ」
ディミトリははっきりと告げた。
「姿形は確かに生き写しだ。だがおまえは甘ったれで、向こう見ずで、考えなしで、世間知らずで……彼女とは全然違う」
自分でも自覚しているらしい欠点を次々に指摘されて、イザベルはムッとしたようだった。その表情は普段のイザベルのもので、ディミトリは安堵した。目の前にいるのは過去の恋人ではない――正気が戻ってきた。
「おまけに大胆で、負けん気が強くて、素直で、他人の想いに敏感で、義理堅い。おまえの美徳は何もかも、愛されて育った証拠だ」
「愛されて……?」
「善い両親が、おまえを善い人間にした。始まりはどうあれ、そんな家族が歪であるはずがない。おまえ自身が答えなんだよ」
荒れた大きな掌がイザベルの頭を撫でた。イザベルは神妙に項垂れている。
ディミトリは、イザベルを通して自分が愛した女の幸福を見ていた。善き伴侶と手を取り、周囲の人間に恵まれ、厄介な親族がいても日常の一部に飲み込んで、我が子に惜しみなく愛情を注げるような――あの頃の彼女が心から欲し、彼には与えることができなかった幸せだ。
その事実は彼を安心させ、少しだけ寂しい気持ちにもさせた。
「家に帰りなさい、イザベル。俺は、俺から見た事実しか語れない。彼女は昔愛した女だ。昔愛して、傷つけて、それでも命を救ってくれた恩人だ。おまえはその娘――それ以上でも以下でもない。それに何より……」
彼はふと目を逸らした。そうしなければ口に出せない言葉だった。
「今の俺には大事な女がいる」
オルガだ、と彼はごく淡々と言った。
イザベルの唇の端に、年頃の少女らしい、純粋な残酷さが浮かんだ。
「それって同情じゃないの? 不幸な境遇の彼女をかわいそうに思って、傍に置いてるだけ。施しと何が違うの?」
「最初は確かにそうだった。だが、俺には施せるものなど何もない。今はむしろ彼女から与えられている」
「オルガさんを愛しているの?」
「ああ」
すると、イザベルはいきなり長椅子から立ち上がった。なぜか勝ち誇ったように、
「……だってさ。言質取ったわよ!」
と、振り返った。
部屋の戸口にはオルガが立っていた。
ディミトリが驚きの声を上げる前に、彼女はすごい勢いで駆け寄ってきた。
「本当? 今言ったことは本当ね?」
普段は穏やかで取り乱すことの少ないオルガが、頬を真っ赤にし、目には涙さえ浮かべている。
ディミトリは呆気に取られ、そしてようやく女二人の悪質な企みに気づいた。
「おまえたち……」
「ごめんなさい! 試すようなことして……でも私、ずっと不安で。あなたが昔の恋人を忘れられないんじゃないかって……その人の所に行ってしまうんじゃないかって。私はこんな体だし、いつ捨てられても仕方がないから……」
倚子の前に膝をつき、オルガははらはらと落涙した。ディミトリは責める気持ちが失せて、彼女の金色の髪を撫でた。
「何でおまえはそうやって自分を卑下するんだ?」
「だって、あなた何も言ってくれないじゃない! 私いつも、自分があなたの何なのか分からなかったの。ここにいていいのかどうかさえ……愛されてるなんて思わなかった」
「言わなければ分からなかったのか?」
「分からないわよ!」
「……すまなかった、オルガ、俺は」
「続きはあたしが出てってからにしてくれない?」
イザベルが大きな声で割って入った。彼女は服の胸元をいそいそと直し、
「だから言ったでしょ、直接訊けばいいじゃないって。じゃあ後はごゆっくり」
と、颯爽と部屋を出て行く。
扉の向こうに消える直前に、悪戯っぽいウィンクがディミトリに投げられた。
隣に座ったオルガが、ディミトリの顔を自分の方に向ける。北の海の色をした瞳は艶めかしく彼を映していた。
「言って、ディミトリ、私をどれだけ愛しているか」
「朝までかかるぞ」
本当の冬至は過ぎたが、夜はまだ長い。時間は十分にあった。
部屋を出たイザベルは、扉に凭れてふうと息をついた。
生まれて初めての色仕掛けという奴に、まだ胸がドキドキしていた。
ディミトリが撥ねつけると確信していたからこそ打てた芝居だ。とはいえ、万一おかしな展開になったら、
(密輸王の愛人二号になるのも面白いかも)
などと不埒なことを考えていたのは、オルガには永遠の秘密だ。
不器用な大人二人への節介は、イザベル自身にも変化をもたらした。
(あたし自身が両親の幸せの証拠……)
イザベルはそっと胸に手を当てる。ディミトリの言葉がそこから深く染み渡り、不安や迷いを嘘のように溶かした。
(家に帰ろう。そしてお母さんと話をしよう)
ようやく、本当にようやく決意した彼女は、ドレスの裾を持ち上げて廊下を駆け出した。
外からは人々の笑い声が聞こえてくる。今はただ、この長い夜を心ゆくまで楽しむのだ。




