新しい仕事
イザベルは難しい顔をして大量の木札と帳簿を照らし合わせていた。
木札の方は今年の秋口から冬にかけて『黒の山脈』を行き来した密輸品の荷札で、帳簿はその記録だった。取引の安全を担保する対価に、デュノールの一味は利益の三割を得ている。貨幣で支払われたものと物納されたものがあって、イザベルはその収益を計算しているのだった。
居館の中に専用の一室を確保し、部屋の真ん中に机を据えて、彼女は今朝からずっとこの作業に没頭していた。
「あ、また数字が違う。このナントカ商会ってとこ、だいぶちょろまかしてるわよ。まったく杜撰なんだから……」
「お頭以外、帳簿の分かる奴がここにいねえんだからしゃあねえよ。お頭は忙しいし、こういうのは普段、王都の拠点でやってる」
数字の上に勢いよく線を引いていくイザベルを、トリスは苦笑いで眺めている。
トリスの額には赤黒い傷がついていた。まだ生乾きのそれは、十日前の王軍との衝突で斬られた傷だ。彼はなぜが嬉しそうにしょっちゅうそれを触っていて、イザベルは少々気味悪く思っていた。
(かっこいいと思ってるのかしら。男の人の美意識って、変)
イザベルは溜息をついて、再び数字に向き直った。目下のところ、これが彼女に課せられた仕事である。
備蓄食料の残量調査を四日で完了しただけでなく、仕入量と照らし合わせて消費量を調べ、来年の買い出し時における適正値まで弾き出したイザベルは、ディミトリを大変驚かせ、そして喜ばせた。
「算術は得意なの」
彼女は胸を張った。
作付面積の測量や収穫量の集計、租税の算定から人員配置の効率性まで、計算の知識と正確さは広い葡萄畑を運営するのに必須の技能だった。イザベルも幼い頃から父にみっちりと仕込まれていた。
それなら、と命じられたのが、冬籠もりの間なおざなりになっている帳簿の精査だ。資金と物資の流れを全部開示することになるが、ディミトリは気にしていないようだった。
「あー、トリス兄ちゃん、見つけた!」
ノックもなしにドアが開いて、子供の甲高い声が入ってきた。ジャックが率いる村の悪ガキたちである。
「また仕事さぼってイザベル姉ちゃんといちゃついてんのかよ、すけべ!」
「うるせえ、手伝ってんだよ。ガキはあっち行ってろ」
「うちの父ちゃんが呼んでる。西の客間の窓枠修理しろって」
働け働け、と他の子供たちが同調する。トリスが面倒臭そうにしているので、イザベルはその背中を叩いた。
城門は火薬による爆破で崩れ、城壁内部の家屋はことごとく焼けた。勝利と引き換えに、砦は悲惨な有様だ。
すぐに再建するのは難しく、この冬は村の住人全員が居館で生活することになった。最初からこの事態は想定されており、抜け道を通って退避する前に、焼けては困るものは居館に運び込んでいた。
所帯持ちの手下と女房、子供が移り住んでくると、居館はずいぶん賑やかになった。
使っていなかった部屋はあちこち傷んでおり、男たちは修理に忙しそうだ。廊下では子供が走り回っていて、叱りつけるおかみさんたちの声が時々聞こえた。
「屋敷がこんなに賑やかになるのは初めて。楽しいわ」
トリスと入れ替わりに、オルガが入ってきた。追加の書類を抱えている。
その右手首から包帯が取れたのはつい昨日だ。マルセルの剣を受け止めた際にひどく挫いてしまい、しばらくは服を着替えるのも大変そうだった。
(もうちょっと労ってあげればいいのに)
危険を顧みず女たちを護ったオルガを、ディミトリはその場で労ったものの、その後はまったく平常どおりである。首領の連れ合いとして当然の勤めだと思っているのだろうか。イザベルは甚だ不満だった。
とはいえ、怪我人はオルガだけではなかった。命に関わる重傷を負った者こそいなかったが、湖畔での戦闘に加わった男たちは皆どこかしら負傷していた。ディミトリからして、パスカルに斬りつけられた脇腹の傷がまだ癒えていないのである。
(みんな怪我に慣れすぎなのよ。死にさえしなければいいとでも思ってるのかしら。あの傭兵たちも同じだけど)
オルガが持ってきたのは、まさにその傭兵団に支払った手形の写しだった。
『鉄の蠍』との間には、報酬の支払いに関して一悶着あった。
ディミトリが契約の無効を主張したのである。
「おまえたちを雇うと口走った小娘はただの居候で、俺の代理人としては不適格だ」
「王軍の撃退には、俺たち、そうとう貢献したと思うけどね。仲間を救ってもらった恩人に、ディミトリ・デュノールともあろう男がこの程度の金額を出し渋るのか?」
そう煽るタネルが提示したのは、相場の倍近い金額である。ディミトリは冷ややかに見返して、
「王軍との契約を破棄した時点で、おまえたちも排除対象になっていた。どのみち、兵どもと戦う以外の選択肢はなかったはずだ。俺たちと共闘したのはついでだったくせに、こんな法外な対価をせびるとは呆れた了見だ」
と、しごく筋の通った反論をした。
払え、払わない、の押し問答が続き、結局傭兵の方が折れた。当初ふっかけた額を三分の一ほどに減らして譲歩したのである。争いになったら無傷では済まない相手と思い知っていたからこその妥協だった。
期待よりずっと少ない枚数の金貨を受け取った後、ヴォルカンは悪態を吐いた。
「次に敵に回ったら徹底的に潰してやるぞ! どケチな熊公め! 忘れねえからな」
「こちらも忘れない。おまえたちがパスカルに提供した武器で仲間が死んだこと、トリスを唆して娘を攫おうとしたこと――俺たちは決して忘れない」
ディミトリは静かに、ぞっとするほど穏やかに答えた。
傭兵たちが黙り込んだのを見計らい、ついでのように言う。
「報酬とは別に、これは俺からの心付けだ。王都で受け取れ。フィルマンが話をつける」
おもむろに差し出したのは、目玉が飛び出るような金額の手形だった。正規の報酬と足すと、最初の提示額のちょうど倍になった。
ただし、手形はフィルマンの署名がないと換金できない条件つきだ。
それで、傭兵団は王都までフィルマンを送る羽目になった。彼らはまんまと熊の術中に嵌められたことを知った。
そして王都に帰るフィルマンには、さらに南――イザベルの故郷に宛てた新たな手紙が託されたのだった。
砦を出て行く際、傭兵たちはしみじみと気の毒そうな目でトリスを見た。
「おまえ、あの旦那の下でよく働いてるよな。戻ってくるならいつでも歓迎するぜ」
「嬉しいけど、俺はここが気に入ってんだ」
握手はしなかった。だが彼らの間にあった蟠りは片づいたようで、南の蠍たちは淡々と去って行った。
「バンドール家から、おまえの捜索願が出ている。これは朗報だと思う」
傭兵たちを見送った後、ディミトリはイザベルにそう言った。意味を図りかねていると、続けて説明された。
「捜索願を出したのは母親だろう。母子ともども伯母に家を追い出されて、水車小屋で暮らしていたと言っていたな。そんな状況で、家名を名乗って憲兵に依頼を出せるはずがない。何らかの形で、彼女は自分の地位を回復できているはずだ」
彼自身の希望が混じった推測だとイザベルは感じたが、的は射ていた。
母親と弟妹たちが救われる――何よりもイザベルが望んでいたことだ。彼女が家を出たのもまさにそのためだった。母の汚点かもしれない自分が消えることで、みんな元の生活に戻れるはずだと。
これで安心して帰れるな、と優しく言われ、イザベルは複雑な気持ちになった。
ディミトリの本意を知り、自らの出生に拘わる誤解が解けて、イザベルの気がかりは払拭されたはずだった。もう後は、任せられた仕事をこなしながら雪解けを待つだけだ。
イザベルの胸の中には、しかし、どうにも気持ちの悪い澱が残った。
(お母さんの過去を知ってしまって、あたしは前と同じ気持ちで家に帰れるだろうか)
行く末に対する恐れよりもっと手触りの悪い、苛立ちに似たものを、結局はずっと抱えている。それは棘を持っているようで、彼女を意地悪く内側からつつくのだった。
「イザベル、聞いてる?」
オルガの声で我に返った。帳簿の上で頬杖をついたイザベルを、彼女は不安げに見ている。
「あ、ごめんなさい、ぼうっとしてた」
「明後日のお祭のことよ。私のお古で悪いけど、あなたに似合いそうなドレスを見繕っておいたから、後で選んでと言ったの」
イザベルがぱっと笑顔になる。ドレスに身を包むなんて、父が生きていた頃以来のことだ。
「ありがとう! 寸法を直すの、今からで間に合うかな?」
「徹夜してでも仕上げるのよ」
二人は仲の良い姉妹のように笑い合った。




