氷の裁定
雪の上を俊敏に移動するトリスの戦法は、王軍兵を大いに混乱させた。
彼は一本の剣で兵士の長剣を引っかけ、懐に飛び込んで、もう一本の剣で喉元を切り裂く。湾曲した二本の剣は盾にも鉈にもなり、動体視力と反射神経に優れたトリスはそれらを見事に使いこなしていた。
「くっそ、団長が目をかけたはずだな」
同じ二刀流のタネルがいまいましげに認めたほどである。
数での不利は変わらなかったが、彼らは徐々に王軍兵を押し返しつつあった。その間に女たちは子供を連れて森の中に逃げ込み、木立に紛れながら砦へ戻っている。
矢の尽きたオルガは、イザベルを連れて松木の木の陰に身を隠した。
「ごめんなさい、逃げそびれた」
「いいわ、今から一緒に……」
オルガはふと言葉を止めた。頭を巡らせ、
「森の中から誰か来るわ。人と……馬が、大勢」
と硬い声で呟く。イザベルは緊張した。蹄が雪を踏みしめる音が、彼女の耳にも聞こえてきたからである。
森の奥からやって来たのは、見慣れぬ風体の騎馬隊だった。十騎はいる。王軍兵とは異なり、剣や槍など統一感のない武器を携えていた。そして人相が悪い。
(傭兵団の別動隊だ)
イザベルの心臓が縮み上がった。砦を襲撃していたはずなのに、見切りをつけて離脱してきたのだろうか。
「どうなってんだ、こりゃ!? ここで落ち合う約束じゃ……」
先頭の男が口を開けた。湖畔まで距離が離れているので、戦闘中のヴォルカンたちはまだ気づいていない。イザベルの方が彼らに近い場所にいる。
(自分たちの仲間が王軍と戦ってるって分かるかしら)
イザベルは唾を飲み込んだ。
湖畔は混戦模様だ。あの人数に勘違いして襲われたら、トリスたちはひとたまりもない。彼女はじっとしていられなかった。
何とか状況を伝えて味方についてもらおうと、勢いよく飛び出した時――オルガがその胴を抱えて押し倒した。
二人揃って雪の上に転がった真上を、鈍く光る金属が薙いでゆく。
「熊の情婦めが!」
血と煤で汚れたマルセルは、歯を剥き出しにして罵倒した。
王軍兵が劣勢になるにつれて、後方にいた彼は戦闘を避けて森の中に下がってきたのだろう。狂気じみた憤怒の形相に、イザベルはぞっとした。
(あたしを殺せば何とかなるって、まだそう思ってるの!?)
体勢を立て直せない二人へ、二撃目が振り下ろされる。
オルガは片膝をつき、イチイの弓を水平に掲げて受け止めた。押し寄せるマルセルの体重を、弓の強靭なしなりと、雪に埋まった膝の踏ん張りで辛うじて支える。
「オルガさん!」
「行って! 早く!」
オルガは恐ろしい力に耐えながら叱咤した。鋼鉄の刃が木肌に深く食い込み、ミシミシと不穏な悲鳴を上げた。弓が折れるのが先か、オルガの腕力が尽きるのが先か。
遠くで、イザベル、オルガ、と男たちが叫ぶのが聞こえた。トリスの声も混じっていたが、遠すぎる。間に合わない。
「死ね……!」
マルセルが呪いをかけるように呻いて、一気に押し切ろうとした。
その体がいきなり真横に吹っ飛んだ。
マルセルはイザベルたちが隠れていた松の木にぶつかり、側頭部をしたたか打ちつけた。
彼を蹴り飛ばしたのは、ディミトリ・デュノールだった。
マルセルが部下の一部を率いて脱出したと分かった時、トリスは湖畔に残しておくべきだったとディミトリは後悔した。傭兵たちの扱いに慣れているし、救援に向かうまで盾として踏ん張れるはずだった。
敵の殲滅方法を――砦が燃える様を、若いトリスにもしっかりと見せておこうと考えたのが仇になってしまった。
地下道を追跡し始めたトリスは、ディミトリや他の手下を追い抜いて暗い道をどんどん走った。普段ならゲンコツを落として叱りつけるところだが、その無遠慮さと体力が今回は頼もしかった。
それで彼に遅れること五分、息を切らせつつ出口に辿り着いたのだった。オルガに斬りかかっているマルセルを見た瞬間、ディミトリの腹は決まった。
何が起きたかまだ理解の追いつかないイザベルとオルガを、彼はごく平静に見やった。
「……見事だ、オルガ。よく皆を護ってくれた」
オルガは、はい、と答えて雪の中に座り込んだ。その手には無残にへし折れた弓が握られている。緊張の解けた頬に涙が一筋流れ落ち、イザベルが肩を抱いて寄り添った。
手下たちを仲間の加勢に向かわせてから、ディミトリは近づいてきた傭兵団に向けて宣言した。
「諸君らの雇い主は敗退した。無駄な争いからは手を引け!」
それから、木の根元で呻いているマルセルに大股で近づく。いつもと変わらぬ振る舞いから、煮え滾る氷のような冷たい怒りが漏れ出ている。
「わ……分かった、私の負けだ。もうおまえの仲間には手出しをせん。だから……」
卑屈に身を屈めるマルセルに、ディミトリは剣を抜かなかった。そして言葉もかけなかった。
彼は手袋を脱ぎ捨てると、マルセルの胸倉を掴み上げ、無言でその腹部に鉄拳を叩き込んだ。
防具のない無防備な鳩尾への殴打は、骨どころか内臓まで揺るがす。激痛に絶叫する暇も与えず、木の幹に押しつけて二発、三発――意識を刈り取る顔面への打擲とは違い、ただ確実に抵抗の力を奪うための苛烈な打撃だ。胃液と血の混ざった泡が口から溢れ、マルセルの体が泥人形のように動かなくなるまで、拳は止まらなかった。
木の根元にずるずると沈み込んだマルセルの襟首を、ディミトリは無造作に掴んだ。その拳は紫に変色して血が滲んでいたが、気にする様子もない。
そのままマルセルの上半身を引っ張って、湖畔に向かって体を引き摺っていく。
戦闘中の兵士たちに動揺が走る。無残な指揮官の姿を見せつけるように、ディミトリは彼らのど真ん中を突っ切った。隊長を救出しようとする者もいたが、デュノール勢が抜け目なく妨害する。
ディミトリは悠々と歩を進めて、湖の上に降りた。
「バティスト、来い!」
短く命じられてバティストが離脱した。トリスが慌てて援護に入る。
岸から離れると、氷は徐々に薄くなる。表面は凍っていても凍結が脆い場所を、ディミトリは知り尽くしていた。
彼が指示する一点に、バティストの戦斧が叩き込まれる。氷にひびが入った。何度か分厚い刃が振り下ろされる度、氷はバキバキと音を立てて割れ、ついに黒い水面が覗いた。
湖水の飛沫が顔にかかり、朦朧としていたマルセルが我に返った。
「な、何を……」
「春までそこで眠っているがいい」
ディミトリは興味もなさげに言い捨てて、氷の割れ目にマルセルを頭から突っ込んだ。
「やめっ……ぶはっ……やめろ……」
もがく体を押さえつけ、強引に水中へ押し込む。腰まで飲み込まれるとあとは簡単だった。尻を蹴飛ばして、彼の全身が湖に吸い込まれるのを見届けた。
マルセルは必死に浮き上がろうとするが、割れ目は狭く、氷に邪魔されて顔が出せない。足元の氷が下からどんどんと叩かれるのを、ディミトリは冷酷に聞いていた。蒼白な顔が氷を透かして見えていたが、白い泡とともにすぐに沈んで消えた。
ディミトリはひとつ息をついて、大音声で告げた。
「マルセル小隊長殿は、警邏中に不運にも湖の割れ目に落ちて凍死した。デュノールとの交誼は彼の独断――速やかに基地に戻り、しかるべき筋にそう報告しろ!」
首領の声は、冷たい血煙に染まった大気を震わせた。
今まさに兵士に斬り込もうとしていたトリスは、直前で刃を止め、相手を肘で突いた。あちこち傷だらけで興奮状態だったが、首領の言葉の意味を理解する程度の理性は残っていた。
生き残った王軍兵が剣を捨てる音と、手下たちの歓声が同時に響いた。
息を飲んで氷上の処刑を眺めていたイザベルは、視線を巡らせ、トリスの姿を探した。
大の字に寝転んだ彼を見つけて、やられたのだと思った。
「トリス! トリス!」
風を巻いて駆け寄ったら、彼はむくりと身を起こした。単に、疲労で腰が抜けたらしい。
勢いをそのままに、イザベルはトリスに抱きついた。彼女を受け止めたトリスは、再び雪の上に倒れてしまう。
「ち、血がこんなに……傷が……」
「ほとんど返り血。向こう傷は男の勲章だぜ」
トリスは深い切り傷のついた額をなぞって笑った。イザベルはようやく笑顔になる。
しばらく無言で見詰め合って、ぼそりと呟いたのはイザベルの方だった。
「……キスしないの?」
「火事場泥棒みたいな真似はよくねえ」
実に格好をつけた言い草に、イザベルは頬を膨らませた。




