交渉成立
その場にいる全員が、一瞬我が目を疑った。
「ジャック!」
叫んだのはバティストだった。兵士に捕らわれているのは彼の長男だ。イザベルと松脂採りを競ったガキ大将でもある。
「動くな! さもなくば子供の首を刎ねる!」
兵士は威嚇し、手にした剣をジャックの喉元に押し当てた。バティストとギヨームが即座に剣を抜いたが、それ以上踏み込めない。
盛り土に隠した地下道の出口から、仲間の兵士たちが次々と姿を現した。
全身煤塗れで、表情は疲労と緊張で黒ずんでいる。焦げ臭い臭いが鼻を突き、イザベルは彼らが火攻めから逃げてきたのだと察した。
(いや……ディミトリたちに何かあったのかもしれない)
不吉な想像ばかりが脳裏に浮かぶ。
兵士の数はゆうに十人を超えた。最後に出てきたのは、外套に襟飾りをつけた口髭の男だった。イザベルはそいつに見覚えがあった。街道で、ディミトリたちから銀貨を受け取っていた隊長だ。
隊長――マルセルはゆっくりと周囲を見回して、ニヤリと笑った。焼け焦げた軍服と相まって、地獄の亡者のような不気味さだ。
「見つけたぞ、ケダモノの眷属め。こいつらを餌に、熊を狩ってやる」
女たちは我が子をぎゅっと胸に庇った。人質になったジャックは首を仰け反らせて、父ちゃん母ちゃん、とべそをかいている。
「泣くんじゃないよ、ジャック。デュノールの男だろ。しゃんとしな!」
ナタリーが厳しく言ったのは、泣き喚いた弾みで喉が切り裂かれることを恐れたからだろう。彼女の手は関節が白くなるほど握り締められていた。バティストがぎりっと歯噛みをする。
マルセルの指示で、二人の兵士がバティストとギヨームから武器を取り上げた。兵士たちはそのまま松林の中を進んで、拘束されている傭兵たちの縄を切り始めた。
「ふん、南の蠍が聞いて呆れる。高い前金を取っておいて、何だそのザマは」
「面目ねえ」
やっぱり殺しときゃよかったんだ、とギヨームが毒づくのを聞きながら、イザベルは自分の真後ろに立つオルガを意識した。
(オルガさんは弓を持っている。あたしの陰から、何とかあの兵士を撃てないかしら)
一縷の望みを抱き、そっと体を傾けて様子を窺う。
オルガは――蒼白になっていた。
手にした弓と矢が触れ合い、カタカタを音を立てている。彼女の全身が震え、呼吸が速く浅くなっているのをイザベルは感じた。灰青色の瞳が映すのは、禍々しい軍服の集団――かつて彼女を蹂躙した男たちの同族だ。
イザベルは幼い少女のように怯えるオルガに向き直り、その体を抱き締めるしかなかった。
「大丈夫よ、オルガさん、あたしがついてる」
「イザベル……」
「今からでも任務を遂行しろ。バンドール家の娘を……」
「あたしよ!」
マルセルが傭兵たちに命じるのを遮って、イザベルは大声で言った。
オルガがハッと顔を上げ、バティストが目配せでやめろと伝える。だがイザベルは毅然と一歩踏み出した。
「イザベルはあたし。あなたたちが探している、バンドール家の娘よ。どこへでも連れて行きなさい。そのかわりその子は解放して。ここの人たちに手を出さないと約束して」
「その条件を飲む必要が、我々にあると思うかね? この状況で?」
マルセルは彼女の申し出を一笑に付した。
「熊との繋がりを知る証人はすべて消す。例外はない」
悔しさより先に、イザベルは恐ろしくなった。自身の安否ではなく、この場にいる砦の住人たちに危害が及ぶことに対してだ。
(どうしよう……どうやって交渉すれば……)
焦るイザベルの肩を、背後から丸太のような腕が引き寄せた。ヴォルカンだ。
反対の手で折れた槌鉾を握り直し、やけにのんびりとした声で尋ねる。
「隊長さん、その証人とやらにはこの子も含まれるのかい?」
「だったらどうした。貴様らには関係なかろう?」
「関係大ありだよ。俺たちが受けた仕事は、誘拐された令嬢の奪還だぜ。口封じをするなんざ聞いてねえ。これはほら、あれだ、えーと……」
「事実の不告知」
タネルが引き取った。負傷した左手を慣らすように回しながら、
「それと不渡りの可能性。その様子じゃ、あんたら本隊は負けたんだろ。残りの報酬払えるのか?」
「黙れ! 報酬は三倍払ってやる。その娘を拘束しろ!」
「断る。あんたの個人的な不祥事の尻拭いでデュノールを敵に回すなんて、割に合わない。みんな、帰るぞ」
タネルが吐き捨て、傭兵たちは白けた顔で踵を返した。契約違反だけでなく、証拠隠滅の片棒を担がされたことが、傭兵の矜持を傷つけたらしい。
ヴォルカンもあっさりとイザベルを解放し、仲間とともに引き揚げていく。
その退路を王軍兵が遮った。マルセルにとっては、彼らもまた生きては返せぬ証人なのだ。
すかさず、イザベルが叫んだ。
「待って! あなたたち、王軍との契約は終わったのよね?」
ヴォルカンが振り返り、むさ苦しい髭面を綻ばせた。まるでこれから彼女が口にする言葉を待っていたようだった。
「だったら、ディミトリ・デュノールが雇います。あたしたちを守ってくれたら、相応の見返りを保証するわ!」
「交渉成立だ――雑だがな」
タネルが溜息とともに答えた。
「裏切者どもめ……!」
マルセルが地団駄を踏まんばかりに憤る。その動揺は部下たちにも伝わり、ジャックの喉元に剣を当てていた兵士が、イザベルへ視線を泳がせた。
その肩を、一本の矢が射貫いた。
声を上げてよろめいた兵士の腕を擦り抜け、ジャックは一目散にナタリーの元へ走った。
バティストが兵士と息子との間に割り込む。間髪入れずギヨームが地面の剣を拾って投げ、受け取ったバティストは兵士と斬り結んだ。
イザベルは息を飲んで、美しい射手を見詰めた。
矢を放ったままの姿勢のオルガは、まだわずかに震えている。だが、もう怯えてはいなかった。血の気の戻った唇が、イザベルに微笑みかける。首領の妻は、頼もしい守護者として自分の足で立っている。
「殺せ!」
マルセルが絶叫し、静まり返っていた湖畔は、一瞬にして凄惨な戦場へと変貌した。
『鉄の蠍』の傭兵たちが味方についたとはいえ、彼らは五人。しかも負傷している。デュノール側はバティストとギヨームの二人で、弓が使えるオルガも大の男と至近距離で戦う腕力はない。
対して王軍兵はマルセルを除いて十五人。
「取り囲め! 一網打尽にしてくれる!」
バティストとギヨーム、そして傭兵たちが兵士と激しく刃を交える。
だが、相手は死に物狂いの正規兵だ。じりじりと包囲の輪が狭まっていく。
「どうするんだい、デュノールの二番手さんよ。女子供を地下道に逃がすか?」
「そっちは伏兵がいるかもしれない。森の中だ」
バティストとヴォルカンが力尽くで兵士を押し切る。戦斧と槌鉾が雪を血で染め、包囲網の一角が崩れた。
「早く! こっちよ! ばらばらに逃げて!」
イザベルは声を張り上げ、子供を抱きかかえた女たちを誘導した。金属音と怒号と血臭と――旅の途中、山賊たちを撃退した時と同じく酸鼻極まりない状況なのに、恐怖を感じる余裕がなかった。
オルガもまた立ち止まって矢を放ち、追っ手を牽制している。敵方に弓兵がいないのは幸運だった。
「イザベル、あなたも早く逃げなさい」
「あたしは身軽よ。最後でいい」
「行くのよ! あなたに何かあったらディミトリが悲しむ。故郷のお母様も」
優しい眼差しは、少し寂しげで、でも嘆きの色はなかった。
意地を張ることはできず、イザベルは森の奥へと走り出した。
子供のひとりが凍った雪に足を取られて転んだ。赤ん坊を抱えた母親が引き返す前に、イザベルが駆け寄る。手を貸して立ち上がらせた彼女の上に、黒い影かかかった。
剣を振りかざした兵士の目を、イザベルは見た。血走った白目を覆っているのは、殺意よりも恐怖だった。相手が幼子であろうと武器を持たぬ少女であろうと、躊躇する理性はない。
イザベルは子供を胸に庇い、本能的に身を丸めた。
生温かいものが頬に飛んだ。
顔を上げると、イザベルの目の前で兵士の体が大きく傾いでいた。首筋と肩の間、防具の隙間がぱっくりと割れ、噴水のように血が噴き出している。
「イザベル! 無事か!?」
死体を押しのけてイザベルの手を差し伸べたのは、トリスだった。右手には湾曲した剣を握っている。
イザベルはあまりのことに言葉を失った。
「ど、どうして……」
「あいつら追っかけて地下道を走ってきたんだ。怪我はねえか?」
イザベルが肯くと、トリスはくるりと背を向けて敵の真ん中に突っ込んでいった。
「持ちこたえろ! すぐにお頭も来る!」
そのまま味方のタネルに斬りかかり、ギヨームに首根っこを掴まれている。
よく状況を見ろ馬鹿たれ、と怒鳴られているのを見て、こんな時にもかかわらず、イザベルは笑ってしまった。




