忍び寄るもの
砦の広場は地獄と化していた。
家々から噴き出したタールとアルコールの炎は、雪すら燃料に変えて燃え盛っている。兵士たちは炎に飲まれ、あるいは馬の蹄に蹴り飛ばされて、次々と数を減らしていく。もはや軍隊としての統率などどこにもなかった。
マルセルは早々に馬を捨て、身を低くして黒煙の下を這っていた。周囲を観察し、奥の居館にまでは火が回っていないことを確認した。
「こっちだ!」
首領の居処である石積みの屋敷は、木造の家々から離れた場所にあり、火矢が届いていない。意図的に火災から守られているようだった。
マルセルに続いて十数人の兵士たちが雪泥を蹴った。彼らは熱風に背を焼かれながら、玄関への階段を駆け上る。重厚な正面扉に鍵は掛かっておらず、飛び込むように足を踏み入れた。
女子供が隠れていれば人質にできると考えたが、屋内に人の気配はなかった。兵士たちは咳き込みつつも素早く周囲を見回し、一階の探索を始める。
マルセルは足元に目をやった。玄関ホールの床には、湿った泥の足跡がいくつも残っている。その足跡は廊下の奥からここを通り、玄関を出て行ったようだ。
彼は足跡を逆に辿り、アーチ型の扉の前に至った。
「食糧庫のようです。足跡は地下へ続いています」
先行した兵士の報告どおり、扉の先は穀類や芋類の袋が積まれた倉庫で、さらに地下へ続く階段があった。足跡はそこから来ている。
マルセルはようやく合点がいった。ディミトリたちは、王軍に見つからぬようここから非戦闘員たちを外に逃がし、再び戻ってきたのだ。
「どこかに抜け道があるはずだ。探せ!」
それはすぐに見つかった。並んだ酒樽が脇に寄せられていて、床の中央に木の扉がある。
マルセルは壁にかかったランタンを手に取った。腰の剣を据え直し、大きく息を吐く。
「デュノールの手下は、今、ほぼ全員がこの砦に集まっている。この先にいるのは奴らの弱点だ。我らを虚仮にした代償をたっぷりと払わせてやる!」
己を鼓舞するように宣言し、暗い地下貯蔵庫への階段を下りていった。
「今回はおまえの手柄だ」
城壁の上で煙を避けながら、ディミトリはフィルマンに言った。
王都で情報収集にあたっていた男は、慣れぬ気候に鼻を赤くしている。彼が監査団派遣の報を伝えたからこそ、傭兵たちが雇い主を明かす前に、ディミトリはある程度の確信をもって対策を講じられた。
警備隊の駐屯する砦を偵察し、戦支度の気配を察知すると、雪山の移動を物ともしないルタ族と話をつけた。同時に、抜け道を使って砦から女子供を逃がした。食糧庫から繋がる地下道は、先代の首領がこの砦に入った時からあったという。万一に備えて補修をしておいた脱出路が役に立った。
圧倒的な戦力を持つ王軍を相手にするには、こちらも相応の犠牲を払わなければならない。昨日、彼は自らの苛烈な選択を住人たちに説明したが、異を唱える者はいなかった。
熱風と黒煙が、兵士たちの悲鳴を巻き取りながら噴き上がる。ディミトリはあくまで平静に、だが少し疲れたように、自分の庭が燃えるのを眺めていた。
「……そろそろ出してやれ」
しばらくして、ディミトリは手下どもに命じた。一小隊を全滅させてしまえば王軍本隊からの報復を招くことになる。それは避けたかった。
その後すぐに、城壁は外側から解放された。城門は爆破で封じたので、城壁にもともとあった穴を打ち壊し、通路を確保してやったのである。
生き残った兵士たちは這々の体でそこから逃げ出して、外で待ち構えていたデュノール勢とルタ族に包囲された。
ルタ族の首領が、城壁の上にいるディミトリに向かってしきりに何かを叫んでいる。ひどく訛っていて聞き取りづらいが、警備隊の最後尾の数騎が壁の中に入らず逃げた、と言っているようだ。他の兵士たちとは違う風体だった、と。
傭兵たちだろうとディミトリは察した。イザベルを攫いにきたのとは別動の『鉄の蠍』は王軍に同行していた。しかし砦に入る前に異変を察知して、離脱したのだ。
仲間と合流するために湖の方へ行かれると面倒だった。ディミトリはすぐに追撃の指示をしようとしたが、その前に、
「お頭、隊長のおっさんがいません」
兵士たちから武器を取り上げていたトリスが報告した。彼らの顔はみな煤で真っ黒になっていたが、あの特徴的な口髭の隊長を見逃すはずがない。
内側で死体を検分していたロジェも、
「こっちにも姿がありませんぜ。消炭になっちまったかな……」
と、首を傾げる。
ディミトリは焼け跡に視線を巡らせた。家々が燃え尽きる中、木造群から離れた石積みの居館だけが無傷で残っている。全員が越冬するための砦の心臓部だ。そして地下には――。
「トリス! ついて来い!」
右腕を自称する若者を大声で呼んで、ディミトリは足早に階段へ向かった。
森の向こうに立ち上る煙に気づいて、イザベルは水差しを抱えたまま立ち止まった。
デュノールの砦が燃える煙だ。作戦どおりと分かってはいても、胸を埋める不安は消せなかった。
「おーいお嬢ちゃん、早く水飲ませてくれや」
背後からダミ声が飛んだ。振り向いた先で、松の木の根元に傭兵たちが縛りつけられていた。
大男のヴォルカンは雪の上に足を投げ出し、爪先で木のカップをつついている。
「偉そうに言わないで」
イザベルは息をついて彼らに近づき、カップに水を注いでから、髯に覆われた口元に持っていってやった。うまそうに飲み干すヴォルカンを、木の反対側に縛られたタネルが急かす。
「自分ばかり飲むなよ。こっちにもよこせ」
俺も俺もと、別の木に縛られた残りの三人が催促する。デュノール勢との戦闘で指を失ったり矢傷を負った者もいるが、呆れるほど頑丈だ。ついさっきまで、イザベルは彼らの手当を手伝っていた。
「そんな奴らほっといて、あなたも火に当たりなさい、イザベル」
焚火にかけた鍋を掻き回しているオルガは、イザベルを気遣った。焚火の傍にはナタリーやマルタをはじめとする村の女たちもいた。子供たちはその周りで遊んでいる。
イザベルたちが身を寄せているのは、凍結した湖の畔に広がる松林の中だった。以前に松脂採集をした場所である。
捕らわれたふりをしたイザベルは、トリスとともに森の道をやって来たが、他の者は皆――湖の上で待ち伏せていたディミトリたちも含めて、砦から続く地下道を通ってここまで来たという。地下倉庫で見つけたあの床の扉の先が古い抜け道になっていたのだ。地上なら四十分ほどかかる距離を、地下なら三十分弱で来られる。
木タールを作る盛り土のひとつが出入口になっていて、松林の中には狩猟小屋に見せかけた倉庫があった。万一の脱出に備え、食糧や燃料、防寒具の一部を備蓄している。
仕入伝票と使用量と在庫の計算が合わないわけだと、イザベルは納得した。こんな場所に隠していたとは。
とはいえ、大人数が寝泊まりできる場所はない。砦から避難してきた総勢十五名ほどの女と子供たちは、天幕を張って極寒の野営に備えている。
ディミトリたちは砦で王軍を迎え撃つためにまた地下道を戻っていった。警護に残されたのはバティストとギヨームの二人だけである。
「名家のご令嬢と聞いたが、とんだ不良娘だったな。家に帰りたくないのかい?」
ヴォルカンはクシャミをひとつして、イザベルに声をかけた。まんまと一杯食わされた恨みはあろうが、本当に不思議に思っているようだった。
イザベルは傭兵たちに水を飲ませながら、
「……言ったでしょ。あたしは自分の足で帰る」
「鈍いな、ヴォルカン、見てて分からなかったのか? このお嬢さん、トリスとデキてるんだよ。まったく、おっさんと若造を同時にたらし込むとは、可愛い顔して大したアバズレだ」
毒づいたのはタネルだ。トリスに斬られた左腕は、ナタリーによってやや雑に縫合されている。
イザベルは眉を吊り上げ、ヴォルカンは小さく口笛を吹いた。
イザベルが言い返すより先に、鈍い輝きがタネルの鼻先に突きつけられた。
彼の眼前で弓を引き絞っているのはオルガである。彼女は冬の女神さながらの冷ややかさで無礼な傭兵を見据えた。
「もう一言でも私の家族を侮辱したら、その達者な口をもうひとつ作るわよ、蠍さん」
脅しではない本物の殺意を受けて、タネルは不機嫌そうに口をつぐんだ。ヴォルカンは肩を震わせて笑いを堪えている。
「オルガさん、家族って……」
「ディミトリと、もちろんあなたもよ」
「大好き!」
イザベルは顔を輝かせて、オルガに抱きついた。
そのくらいにしとけ、と渋面のバティストが割って入った時――甲高い悲鳴が響いた。
タール窯の盛り土の向こうで、黒い軍服の王軍兵が子供を脇に抱えていた。




